夜の空へと
怒りに任せ、ただひたすらに足を前へ運んでいた。けれど、荒れた感情の波も、長くは続かない。沸騰していた頭は次第に冷え、冷静さと共に、否応なしに自己嫌悪が押し寄せてくる。
――あんな、理不尽な怒り方をしてしまった。
思い返すたび胸が痛む。クラフティは、怯える私を外へ連れ出してくれた。彼女の提案で訪れた図書館で、有力な情報を手に入れられたのも事実だ。それなのに、些細な態度ひとつに苛立ち、感情を爆発させ、一方的に縁を切るような言葉を吐いてしまった。
……きっと、呆れられたに違いない。
今から謝りに行こうかな。でも、あれだけ勝手なことを言っておきながら、今さらなんて……。それでも、後悔の念は歩みを止めない。
――仲直りしたい。
その想いだけが、静かに、しかし確かに胸を満たしていた。あんな扱いを受けたのに。あの人を怖がっている自分が、まだ心のどこかにいるのに。それでも、クラフティを嫌いになれない。怖いと感じることはある。けれど、それ以上に思い出す。頭を優しく撫でてくれたこと。食事を与えてくれたこと。ほんの時折、影のように怖さが顔を出すだけで、本当は、優しい人なんだ。
謝りに行きたい。
ゆるやかに沈んでゆく夕日が、街をやわらかく橙色に染め上げている。目に映る景色すべてが、金属のような乾いた音をたてながら、静かに夜へと変わろうとしていた。雑踏のざわめき、人々の足音――そんな喧騒を全身に浴びながら、私はただ前へ進む。
――そして。
ふいに、目の前の光景が思考を引き裂いた。
人通りの激しい道端に、小さな子供がひとり、蹲っていた。擦り切れた、薄汚れた服。膝を抱え、顔を伏せ、沈む陽の光をそのやせ細った小さな身体に浴びながら、まるで地面に溶けてしまいそうなほど小さく縮こまっている。迷子だろうか。あるいは別の事情なのか。わからない。ただ、その小さな体が助けを求めていることだけは、誰の目にも明らかだった。数えきれないほどの足音が、子供のすぐ傍を無情に通り過ぎてゆく。
誰一人、立ち止まる者はいない。まるで、そこに誰も存在しないかのように。
どうして。なんで、誰も助けようとしないんだろう。
胸の奥が、きゅうと締めつけられる。気がつけば、私は駆け出していた。
「大丈夫?どうしたの?」
しゃがみ込み、子供と視線の高さを合わせ、震える小さな肩に、そっと言葉を落とす。すると子供は弱々しく顔を上げた。その顔には、幼いはずの面影を打ち消すような深い絶望が張りついていた。虚ろな瞳がこちらを鋭く射抜く。まるで何かにすべてを奪われた者のように、子供らしさがそこには微塵もなかった。いったい、この子に何があったのか。知りたい。助けたい。そう願う気持ちが、私の喉奥から自然と言葉をこぼれさせた。
「何か困ってるの?なんでも言って。力になるから」
笑顔を浮かべて、できるだけ明るい声で語りかけた。けれど、子供の表情は一切動かない。黒く沈んだ瞳だけが、凍てつくような冷たさをもって私を見つめ返す。息を呑んだその瞬間、子供がゆっくりと手のひらをこちらに差し出した。
「……お金、ちょうだい」
たった一言だった。だが、その言葉は不意に放たれた刃のように、私の胸を刺した。予想外すぎて言葉が詰まる。私は今、財布を持っていない。仮に持っていても、お金を渡すことが正しいとは思えない。
「ご、ごめんね。それはできないの……でも、他のことなら、なにか……」
「うそつき」
私の言葉を途中で断ち切るように、子供はぽつりと呟いた。だがその声音には、明らかな憎しみが混じっていた。言葉を失う。思考が止まる。
「力になるって言ったじゃん」
その一言には、計り知れない怒りと悲しみが込められていた。睨みつけるような眼差しの奥には、私に対してではない、世界そのものに対する呪詛のような憎悪が渦巻いている。私はただ、その黒い炎に焼かれるような気持ちで立ち尽くしていた。
次の瞬間、子供は突然立ち上がると、踵を返し、路地の奥へと駆けていった。
「待って…!」
反射的に叫び、私は後を追った。なぜ追いかけるのか、自分でもよくわからなかった。ただ、あんな目をしたまま放っておきたくなかった。子供が背負っているものを見捨てることが、どうしてもできなかった。
細く暗い路地はゴミだらけで、悪臭が鼻をつく。夕暮れのわずかな光すら、建物の影に阻まれて差し込まない。足元が見えにくく、突如現れた廃棄物に躓いて、私は派手に地面に叩きつけられた。
「い、いた……っ」
泥水とゴミで服が汚れ、膝に擦り傷が滲む。それでも立ち上がり、子供の小さな背中を追って走った。
遠ざかっていく背中。その前方には、路地の終わりを示すように曲がり角があり、そこだけが橙色の光を漏らしていた。子供が角を曲がる。私もそれを追って、角に手をかけた、その時――
「うあああああああ!!」
金切り声のような、子供の叫び。ぞっとするほど悲鳴だった。足が止まる。声はもう聞こえない。静寂のなか、角の向こうに、不自然に伸びる影が地面に落ちている。陽が落ちかけているのだろう、建物の壁に沿って細長く変形するその影は、人ではない。人に似て非なる“何か”の形。
息を詰め、私は一歩、また一歩と、慎重に足を踏み出す。角の向こうにある、名状しがたい「それ」の正体を確かめるために。
ゆっくり。ゆっくりと角を曲がる。
そこにいたのは――子供の内臓を、臓腑を、両手でむさぼり食っている、人型の魔物だった。
それを目にした刹那、空に残っていたわずかな陽光が沈みきり、世界は闇へと沈んだ。




