氷の女王
「行ってきます」
「…行ってらっしゃい」
美しいクラフティの後ろ姿を見送る。もう何度目かわからない。結局、あれから外には一度も出ていない。何度も出ようとしたが、心がブレーキをかける。最後に外の空気を浴びたのは何日前かわからない。
こんなことしてちゃダメなのに…
そう思いながらも、もう習慣となってしまった皿洗いを黙々とこなす。水の流れる音と食器が食器とぶつかり合う音。硬くて甲高い音が部屋に響く。
その音が耳に入るたび、どうしても思い出してしまう。
あの日のこと。クラフティに辱められ、折檻された夜。あれからあのようなことは一度もなかった。余計なことを言うのはやめた。彼女の加虐心を刺激してしまうかもしれないから。
あの日、本当に怖かった。暗くて、痛くて、苦しかった。
でも、クラフティは笑ってた。
どうしてあんなことをしておいて笑えるんだろう。全く理解が出来ない。私は、人を苦しめようとする人は嫌いだ。そういう人は…一番嫌い…。
嫌いだけど…
クラフティだけは…何されても嫌いになれないような気がする…。
皿洗いを終えて奥の部屋に戻り、ゴミが散乱している床に寝転がった。
―――――――――――――
「ただいま」
ランプに火を灯していると何度も聞いた声が耳に入った。暗い光が小さな窓から差し込み、日中の活気はなく、しんと静まり返っている。
「いい子にしてた?」
「うん…」
「よしよし、えらいね?」
そう言って私の頭を撫でる。これも何度目かわからない。
「ご飯作るからちょっと待っててね」
そう言い、例によって彼女は調理場に向かった。彼女は絶対に私に料理をさせない。 一度、夕食を作って待っていたことがあった。でも、いい結果で終われなかった。
「うん、美味しいね」
一口食べた彼女は不気味なほど抑揚のない声で言った。
「作ってくれてありがとう。嬉しいよ」
「でも、次からは作らなくてもいいからね」
全く面白くなさそうな顔と、先ほどと変わらない声調。形容しがたい恐怖なようなものを感じ、それから一度も食事の用意をしていない。
クラフティの言うことを黙ってきいていれば、暴力は振るわれない。笑ってくれる。普通に会話をしてくれる。頭を撫でてくれる。
彼女に逆らわなければ良いことがあるんだ。
そうこうしていると、彼女が食事を持ってきた。いつも通りのスープとパンだ。毎日これを食べている。
二人で向かい合って食事を摂る。
「おいしい?」
首を傾げて優しく尋ねるクラフティ。
「うん、とってもおいしい」
若干俯いて答える。憂鬱な気分が拭えない。あの一件以来、私は食事がある種のトラウマになっていた。喉に何かが通るたび、あの夜を思い出す。
味があんまりわからない。せっかく作ってくれたのだし、ちゃんと残さず食べるが、美味しいとかはよくわからない。
彼女に気づかれないように目を動かして視線だけを上げてみると、今しがたの優しさはどこへやら、氷のような冷たい目で、黙って私を見つめていた。これもいつものことだ。彼女は、話している最中はよく笑いかけてくれるが、特段会話がないときはこの顔になる。
まるで全てを見透かしているような、冷ややかで、澄み切ってて、暗い視線を、容赦なく私に浴びせる。自分自身でも気づけない心の奥底を睨むような、そんな目を。
ほんとに…なに考えてるのかわからない…。
「そういえばメアリってさ」
突然、口を開くクラフティ。何事かと慌てて顔を上げると、にっこりと優しい笑顔で私を見ていた。
「なんでこの街に来たの?」
今まで訊かれてこなかった質問。でも、驚きはしなかった。その内訊かれるだろうと思っていたから。そして、自分から話そうとは思えなかった問いでもある。
巻き込みたくないから。
でも、こうなったら話すしかないのかな。なにか適当な嘘吐いた方が
「言っとくけど」
「もし嘘ついたら」
そう言って犬のように四つん這いになり、私との距離を急激に詰めた。
「この前のより、もっとひどいことするから」
顔と顔が触れあいそうな位置。さっきまでの笑顔は消え失せ、また無情な態度を私に見せる。まるで心の中を読まれているかのような重圧。私は目の前の女王に服従せざるを得なかった。
結局全て話した。村のことも、魔王のことも。でも、ここまでの道中のことは話さなかった。
「なるほどねえ…情報収集ねえ」
顎に手を当てて納得しているような表情を見せる。
「うん…でも、全然外出てないし…どうしようかなって思って…」
情けない話である。怖くて怖くて、外の世界が怖くて、未だに中に引きこもったままだ。魔王を倒して村の皆を助けるって決めたのに、私はあれから何も成長できてない。
「図書館とか行けばいいんじゃない?」
「図書館…?」
「うん!本いっぱいあるから、魔王のことが書かれてる本もあると思うよ!」
図書館…。村にはなかった。たくさん本がある建物。
確かに…そこなら何かあるに違いない。
暗闇を照らす一筋の光。
「そうだ…!図書館行こう!」
「うん!そうだよね!」
さっきまで脅されていたことも忘れて心が飛び跳ねる。
でも…
突如巻き起こる感情の急降下。とあることを思い出して、シナシナと体から力が抜けた。
「え、どうしたの?」
クラフティが慌てたように訊いてくる。私は答えたくなかった。こんな情けなくて、不甲斐ないこと。でも、ここまで話したのなら全て話そうとも思い、口を開いた。
「外…怖い…」
未だに外界への恐怖は拭えないでいた。また何かあったら。次は本当に助からないかもしれない。
でも…そんなこと言ってられない…。
私は勇者だから。
明日は何があっても絶対に
「一緒に行く?」
「え?」
「私、明日学校休みだから。一緒にお外出る?」
明日…学校休み…。クラフティが……着いて来てくれる…。
「…お願いします…」




