お互い本名を名乗るのはやめましょう
本格的にエリーゼ捜しを開始した初日。
なぜか、同じ孤児院にルーカスがパンを寄付しに来ました。
なんで!?
ルーカスは推しだけど、今はできるだけ関わりたくない。
何かの拍子で私がワトフォード公爵家の関係者だとバレたらまずいからだ。
この孤児院にエリーゼはいなかったし、絵本も渡したし、このまましれっと帰っちゃおうかな!?
小声でビトに「行きましょう」と伝えるなり、コソコソとルーカスに背を向けて歩き出す。
子どもたちがパンに気を取られててよかった! と思ったのも束の間、ザザザッと草の上を走る足音が聞こえて、誰かにグッと肩を掴まれた。
えっ?
「……すみません! 名前を呼べなかったので……!」
振り返ると、どこか焦った様子のルーカスが急に頭を下げてきた。
私の肩を掴んだことに対して謝罪しているらしい。
推しが私に謝ってる!?
そんな!!
あなたなら、肩でも腕でも頭でも掴んでくれていいんだよ!?
……じゃなくて! なんで私を追いかけてきたの?
「い、いえ」
「あの、もしよろしかったら一緒に昼食でもどうですか?」
「えっ?」
昼食? あれ? 私、食事に誘われてる?
あまりにもスマートにサラッと言われたものだから、一瞬何を言われているのかわからなかった。
軽いナンパと同じセリフでも、言う人によってここまで違うのかと驚いてしまう。
さすがルーカス!
……なんて感心してる場合じゃない! 一緒に食事だなんて、身バレの危険性高すぎる!
いくら推しの誘いでも、ここはハッキリ断って……。
「……ダメ、ですか?」
「もちろん行きます!」
ハッ!!!
捨てられた子犬のような顔をした推しを見た瞬間、口が勝手に承諾してしまっていた。
推しに悲しい顔はさせねえ──そんな男気溢れる感情が湧き出た気がする。
気がついたときには、私はオシャレなお店でルーカスと向かい合って座っていた。
しまったぁ!!!
何やってんの、私!!!
周りを見渡すと、少し離れた席にルーカスと一緒にいた男性とビトが2人で座ってこちらを見ているのが目に入った。
なかなかカオスな光景である。
やばい! なんでこんな状況になってるのか覚えてない!
恐るべし推しのパワー!!
とりあえず、今私はルーカスと2人きり(かろうじて)状態になっているということだ。
できるだけ関わりたくないと思っていたはずなのに、どうしてこんなことに。
「ここはチョコレートケーキが絶品なんです。お好きですか?」
「は、はい」
「よかった。ではそちらも頼みますね」
え? 今から私、推しの前でケーキを食べるの?
何これ? コラボカフェ?
1人ご機嫌なルーカスは、ニコニコ笑顔で店員さんに注文している。
ルーカスと一緒にいた男性が、死んだ魚のような目で見ていることには気づいていないようだ。
……あぶない、あぶない。
推し活について考えてる場合じゃないわ。
目の前の神々しいルーカスだけ見てるとついつい我を忘れてしまうが、あのカオス空間に目を向けると一瞬で冷静になれる。
注文を終えたルーカスは、店員がいなくなったあと申し訳なさそうに話を切り出した。
「突然お誘いしてすみませんでした。えっと……なんてお呼びすれば……」
「!」
そうだよね。
こんな状態でお互い名前を知らないなんておかしいよね!?
この流れでは、さすがに名前を教え合わないといけないだろう。
ルーカスは私が家名を隠したがっていたことを知っているから、家名までは聞かれないかもしれない。
でも、間違いなく自分の名前は名乗ってくるだろう。
この距離なら、よほど地獄耳じゃない限り会話は聞こえないと思うけど……それでも万が一を考えて、ビトのいる場所でルーカスに名乗られるのは困る!
私はテーブルに手をついて体を前のめりにし、ルーカスに顔を近づけた。
少しでもビトに聞かれる可能性を下げるため、口元に手を当てて小声で話しかける。
「あの。申し訳ないのですが、お互い名前を明かすのはなし……にしませんか?」
「お互いに? ……もちろん大丈夫ですが、こちらも名乗らないほうがいいのですか?」
「ええ。できれば……ですが」
「……何か理由がありそうですね」
私に合わせて小声で話してくれているルーカスは、チラッとビトに視線を送った。
この場でコソコソと話していることで、ルーカスの名前をビトに知られたくない! と思っている私の本音を察したようだ。
すごい……!
少し天然でど真面目なところもあるけど、できる男ね、ルーカス!
ビトにルーカスの名前を知られたら困る理由として、それっぽい嘘をつく。
「その……私の父が心配性でして、もし男性と会っていることが知られたら大変なのです。もしものことを考えて、私もあなたの名前を知らないほうがいいかなって」
「なるほど。わかりました。では、お互いニックネームで呼び合うのはいかがですか?」
「ニックネーム、ですか?」
「はい。俺のことはルカって呼んでください」
「!」
推しのニックネームいただきました〜〜!! ……じゃなくて!
「えっと、では私のことは……フェリシーとお呼びください」
まったく違う名前にしようか悩んだものの、結局そのまま本名を伝えた。
ワトフォード家の娘の名前はエリーゼだし、フェリシーという名前を言っても何も問題はないからだ。
……というのは建前で、本音はただ推しに私の名前を呼んでほしかっただけである。
「わかりました。フェリシー嬢」
「…………」
ニコニコした笑顔のまま普通を装っているけれど、体の中では全細胞が暴れ回っている。
推しが至近距離で微笑みながら名前を呼んでくるのだ。
こんなことがあっていいのか。
あああああ!! 名前を!! 呼ばれちゃった!!!
今の声を録音して毎朝のアラームに設定したい!!
そんなオタク心を爆発させながらも、頭の中には1つの疑問が浮かんでいた。
っていうか、なんでルーカスは私を誘ったの?




