16
リッドウェイが異変に気づいたのは一分程前のことだった。
突然と空気が変わり、屋敷の裏庭に妙な緊張感が漂う。
しかし、同時にこれはウールの気配ではないと分かっていた。彼女ならばとっくの昔に出てきている。それも逃げも隠れもせず、真正面から堂々と。その性格故、彼女がこんな裏から来るとは到底思えない。導き出される答えはただ一つ。情報にあった彼女の仲間だろう。
だがリッドウェイはどうしてもそれがひっかかる。何度も思っていることではあるが、あのウールが誰かに物事を託すとは到底思えないのだ。それは、彼女と組んでいた一年間が物語っている。
やるなと言うことを平気でやってしまい、厄介事や揉め事を起こしまくっていた。そのくせ、こちらが手を出すとかなり機嫌が悪くなる。何度か彼女の相手を間違えて倒してしまい、かなりどつかれた記憶すらあるのだ。まぁ、何とか牛乳の樽二個分で許しては貰えたが……。
結論を言うと、彼女は自分のやることを誰かがやってしまうことがかなり嫌いなのだ。
そんな彼女に事を任される人物。それは相当彼女に信頼されており、実力があると考えた方がよさそうだ。気を引き締めなければやられるかもしれない。
などと思いながら……リッドウェイは物陰にコソコソ隠れながら周りの様子を伺っていた。
息を殺し、気配を殺し、自分が存在していることを殺す。その場の一部になりきることによって、相手に悟られないようにする。正直、傍から見れば格好は悪い。ベルセルクのように堂々と待ち受けるのではなく、奇襲をするかの如く身を潜めるその姿はあまり褒められたものではない。
しかし、これが普通。通常の人間が誰も彼もがベルセルクのように強いわけではない。己の力で何でも破壊できるような力など持ち合わせていないのだ。
姑息だろうが、闇討ちだろうが関係ない。
確実に相手を倒すことだけを考える。その末の行動がこれだ。
リッドウェイは動かない。いや、動けないと言った方がより明確だ。相手が全く姿を見せない。この異様なまでの空気からしているのは分かっている。だが、向こうも馬鹿ではないようだ。警戒しているのか、中々その姿を現そうとはしない。
警戒心からの行動だとするのなら、本当に用心深い奴だ……などと考えているのは馬鹿だと思い知らされた。
何故なら。
「やぁ、こんばんわ。いい月だね。キミも月見かい?」
瞬間。
シュゥィィイイインッ!! と空気が震えた。それはリッドウェイが張り巡らせてあった無数の鋼糸が高速で移動した音だった。
リッドウェイは相手の正体を見ていない。しかし、その攻撃に躊躇や迷いはなかった。
リッドウェイは気配を消すことに長けている。その気になれば、ベルセルクにだって気づかれなくなるようにだってできる。
そんな彼の背後にいつの間にか立っていた人物。
只者ではないのは確かであり、この状況下では敵意を向けても何の問題もなかった。
鉄をも切り裂くことのできる糸は、しかして何も切り裂くことはできなかった。
リッドウェイが振り向いた時にはすでにそこには誰もいなかった。
「ひどいなぁ。突然声を掛けたのは失礼だったかもしれないけれど、いきなり攻撃してくるのはどうかと思うよ?」
振り向いたリッドウェイの背後から再び声がした。
リッドウェイは今度こそ攻撃せず、ゆっくりと後ろを見る。
そこにいたのは、一人の青年――ジャックだった。
「……あっしは自分の背後を不意に取る人間は誰であろうと殺すと決めているんですよ」
「それは随分な決め事だね。彼女の話だとキミはそんなに荒事が好きではないと聞いていたけど?」
「そりゃまぁダンナやウルと比べれてあっしは戦闘はあまり好まないタイプですからねぇ。力もあの二人と比べて相当弱い。けれど……そんなあっしでも気配を殺すことは誰にも負けない自信がありやす。その根拠として本気であっしが気配を消した時、今まで気づいた人間は誰一人としていなかった」
けれど、とリッドウェイは続ける。
「あんたはそれを見破った。あっしが本気で気配を殺し、存在を消していたにも関わらず……あんたはあっしに気づいた所か、あっしに気づかれないまま背後を取った。こんなことは初めてです」
「それは光栄だね」
「できればあっしはあんたとは戦いたくないんでやすが」
リッドウェイはベルセルクと違って戦闘狂ではない。
戦いではなく、情報を集めること。それが彼のスタンスであり、仕事だ。そもそもにしてこういったことはベルセルクの仕事なのだ。リッドウェイも戦えることには戦えるが、正直戦いたくないというのが本音。
目の前にいる敵は強敵なのは間違いない。しかし問答無用で攻撃してくるわけではなく、話は通じる相手らしい。ならば、無理に戦う必要などない。
リッドウェイの申し出にジャックは唸る。
「う~ん……その願いは是非とも叶えてあげたいのだけれど、こっちは彼女にキミの相手をするように頼まれているんだよ。女性の頼みはなるべく断らないことを信条にしていてね」
なんだとのキザな心情は、とリッドウェイは自分では言えないことをコロッと言ってしまうジャックにある意味すごいと思ってしまった。
「とは言っても、キミ自身に戦う理由がなければこちらも何かと気まずい。そんなわけで、キミに戦う理由を与えよう」
戦う理由を与える……それは一体どういうことだろうか?
両手で周りに糸を張り巡らせた状態のまま、リッドウェイはジャックに尋ねる。
「何を……」
「『鬼蜘蛛』」
その言葉を訊いた瞬間、リッドウェイは自分の目が限界まで見開いていることに気づくことができなかった。
「……どこでその名を?」
「これでも大陸中を回っていてね。噂話をよく聞くんだ。確かこれはかなり東のところにあった国で訊いた名前なんだが……」
ジャックの言葉は続かなかった。
その瞬間、リッドウェイの糸がジャックに襲いかかったためである。
使い方によっては鋼鉄をも切り裂くことのできる糸。それが敵意をむき出しにして、ジャックに襲いかかるのだが、しかしジャックはそれを笑を零しながら悠々と避ける。
風が切れる音がしたと同時に、ジャックの頬から血が流れ出る。どうやら掠ったようだ。
「……今のは完全に避けたつもりだったんだけど、甘かったみたいだね」
「あんた、名前は?」
「ボクかい? ん~……ジャック、とだけ言っておこうか」
「んじゃあ、ジャックさん。前言を撤回させてもらいやす。あんたはここで殺しとかなくちゃいけなくなった」
リッドウェイの雰囲気がまるで変わっていた。
そこにいたのは、いつものフザけた男ではない。獲物を狩るためならば犠牲を厭わない、まさしく狩人の眼をした一人の『殺し屋』がそこにはいた。
「……どうやら、変な刺激を与えすぎちゃったみたいだね。戦ってもらうために挑発したのはいいけれど……これはこれでやりずらそうだ」
けれど、とジャックは続ける。
「それくらいの殺気でないと、こっちも本気でいけないからね」
それっきり、彼らの会話は一切なかった。
後の話ではあるが、彼らの戦闘が行われた屋敷の裏口付近はあらゆるモノが木っ端微塵に破壊されていたという。
*
正面玄関ではベルセルクが謎の黒服達と抗争、そしてリッドウェイはジャックと戦っている最中、シナンは一人ギルバートの護衛にあたっていた。
正直な所を言うと今すぐにでも彼らの元に行って戦いたいと思っている。だが、自分にはギルバートを護るという大事な仕事があるため、それは無理な話だ。それに、今すぐに行きたいという気持ちは本当なのだがベルセルクには今は会いたくないという気持ちがあるのも本音だ。
その原因は、自分が言った一言。
あの一言の後、シナンはベルセルクと会っていない。というか、会わないようにしていた。あんな事を言ったのだ。言った直後は何も言われなかったが、ベルセルクが怒っていないわけがない。
いや待てよ、とシナンは自分に言い聞かせる。そもそもにして自分にあんな事を口にさせたのはベルセルクが一人で戦うと言いだしたのが原因なのだ。確かにシナンはベルセルクより弱い。それはシナン自身がよく分かっている。今まで強敵と戦ってきた時だって、自分一人で解決できたことなど一度もなかった。そこにはいつもベルセルクがいた。頼りになる師匠がいた。この人とならどんな相手だろうと負けはしないと思っていたのだ。
だが、そのベルセルクが一人で戦うと言いだした。
元々集団戦を好むタイプではないことは分かっていた。一人で戦場に赴き、戦いを楽しむ。一般人からしてみれば非常識この上ないことではあるが、それが彼なりの行動原理というものだった。
そこから考えてみれば、彼の行動はいつもの通りだ。いつも通りのはずなのだが……何故だがシナンの心中は穏やかではなかった。
いつもと違ったことと言えば、それは相手がベルセルクの知り合いということ。
あの美しい殺人鬼、ウール。
彼女の存在が、シナンの心をかき乱しているのは間違いがない。けれど、それが何故なのかというのはシナン自身にも分からなかった。
自分の師匠の元相棒が殺人鬼だったことはショックだった。けれど、それは昔の話であり、ベルセルク自身がそういった人間だった、というわけではない。彼は態度が悪く、口も悪く、戦いを好む男だがそれがイコール殺しを楽しむ人間ではないはずだ。それは、今日まで一緒に旅をしてきたシナンが抱く、直感だ。
ならば、このモヤモヤ感は一体全体何なのか?
「……どうかしたのか?」
「へ?」
ギルバートの突然の質問にシナンは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
ギルバートは今、高級そうな机に向かって何やら書類を片付けていた。自分の命が狙われているというのに仕事を続けるとはある意味凄まじい。
「先程から落ち着きがないようだが……」
「い、いえ。別に何でもありませんよ」
両腕を振りながら誤魔化そうとするシナンだったが、ギルバートには完全に見抜かれていた。
「心配か?」
「べ、別に師匠の心配なんかしてませんよ。あんな我侭な人心配した所で意味はありませんから」
「誰もお前の師匠のこととは言っていないが?」
「……、」
言われてシナンはムスっとした表情でギルバートを見た。人の揚げ足を取るだなんて意地悪な人だ。
ムクれたシナンを見て、ギルバートは微笑した。
「すまない。少し休憩がてら人をからかってみたくなってな」
「ギルバートさん。他人から人が悪いとか言われません?」
「いいや。あまり言われたことはないな。何せ、性格的にも人間的にも捻じ曲がった奴が執事をしているからな。俺など奴の足元にも及ばない」
それはそうか、とシナンは心の中で納得する。
ギルバートは窓越しに夜空を見上げてた。その姿に何故かシナンは寂しさのようなものを感じた。まるで、いるはずの人間がここにいない。そんな雰囲気を醸し出していた。
それが誰なのかは、言わずともシナンには分かっていた。
「……心配ですか、レイクさんのこと」
言うと、ギルバートは振り向かないまま問いに答える。
「あれはそう容易く死ぬような男ではない。俺が心配しているとすれば、別のことだな」
「アリシアちゃんのことですね」
ああ、と言いながらギルバートは頷いた。
「あれにはいつか真実を打ち明けるつもりだった。それが俺の責任であり、役目だと思っていたからな。故にあれに嫌われる覚悟もしていた。殺される覚悟だってしていた。それ相応のことを俺はやったんだからな」
だが、とギルバートは続ける。
「いざとなってみれば俺はあれを責め立ててしまった。あれには何の罪も責任もないというのに。罰を受けるのはこちらだというのに、俺は……あれを泣かせてしまった。最低だろう? 妹を泣かせるなんて兄失格だ」
「ギルバートさん……」
「あの時だってそうだ。あれが屋敷から飛び出した時、レイクではなく俺が行くべきだった。兄として、唯一残っている肉親として、追いかけるべきだった。レイクはそれを分かっていて俺に問いただしたというのに、当の俺はそれを拒んだ」
シナンは思い出していた。レイクはギルバートに 「適任だとしても、今回の場合はアナタがやるべきことなのではないでしょうかねぇ?」と言っていた。しかし、ギルバートはそれを拒否した。
それは何故か。
その答えはギルバート自身がすぐさま口にした。
「怖かったんだ、俺は。あれに敵意の目で見られることを。殺意の篭った瞳で見られることを。馬鹿馬鹿しい話だ。いつもいつもあれからは悪口を聞かされているのにな。あれに許さないと言われた瞬間、俺の体は動くことができなくなった。そこにはいつもとは違う、確かな『嫌悪』があった」
なんとはなしに出てくる悪気ではなく、確固たる憎しみや恨みから生まれる嫌悪。
あの瞬間、ギルバートとアリシアの間には大きな溝ができてしまったのだ。
シナンはそのことに口を出せない。手も足も出せない。何かはしたいとは思う。できれば修復したい。けれど、それはできない。ベルセルクが言っていた通り、これは彼らの問題であり、どうこうできるのは彼らだけだ。自分のような者が中途半端に間に入っても迷惑になるだけ。
シナンは嫌になっていた。ギルバートやアリシアにではない。この状況下で何もできない自分自身にだ。
「今後どうなるのか、俺には全く予想ができない。どうすればいいのかすら分からない。恐らくあれも同じだろう。何をどうすればいいのか分からないから俺と顔を合わせようとしていない」
「……、」
「本当に……これからどうしたらいいんだろうな」
その問いに、やはりシナンは答えられない。
自分にはその資格はなく、また言葉も見つからない。
気休めなど、今は無用。そんなモノを言ったところで解決できるわけがない。ベルセルクならこう言うだろう。無駄な気なんて使うな、と。そんなものを使ったところで相手をもっと追い詰めるだけだ、と。悔しいが現状はその通りだ。故にシナンは何も言わない。
しばしの沈黙。だが、それは破られることとなる。
第三者の言葉によって。
「んじゃあ、オマエが死ぬっていうのはどうだ?」
瞬間、壁が吹き飛んだ。
その周辺に飾られてあった絵画や陶芸品が宙を舞い、そして床に叩きつけられる。高級品が壊れていく中、しかしシナンやギルバートにとってはそんなことどうでも良かった。
シナンは困惑していた。どうしてこの人物がここにいるのか。どうやって来たのか。
しかし、シナンの疑問は一切晴れることなく、その悪魔は口を開く。
「よう、宣告通りに殺しに来たぜ、クソッタレな貴族さんよ」