不誠実。
彼女はそれから酒場で歌い手として働き始めた。街角で歌う彼女の存在を奇跡的に知っている客がいたらしい。幸運なことに彼女の歌は評判を集めた。
一方で、それを面白くないと思う人間もいた。ある時、帰路につく彼女を拐って犯し殺そうとする人間が現れた。また幸運なことに彼女は酒場の顧客に見付かり、助けて貰うことが出来た。
酒場に連れ戻されて、それを知った店主は店から物を盗まない事を条件に、酒場の床の上で寝かせてくれると約束してくれた。
残飯を食い漁っていれば出費が出ることがなく、また酒場故に井戸が近くにあり、彼女は今世で最も身綺麗にすることが出来た。
身綺麗になればチップを渡そうとする人間が出てくる。全て懐に入れても良かったが、身の安全の為にチップの半分を酒場の店主に払い、もう半分を貯めて服を買った。
ボロの服からまともな服に変われば、また彼女を見る目が変わる。彼女は自分が酒場の看板娘に変わったことを感じた。
歌にはスキルが役に立った。
『再現』は前世で歌った事があるものを全て当時と同じように歌わせてくれた。
それは勿論こちらの言語ではない。その為彼女は翻訳をしながら生活した。
一度完璧にこちらの言語で歌いきれば、その後からは意識しなくても間違わずに通して、同じように歌いきることが出来た。
なんて便利なスキルだろう。彼女は本当の意味で自らのスキルに感謝した。
彼女にとっての歌い手という仕事は特に熱中するものではなかった。
収入は安定しないし、相変わらず床で寝ているし、店主は彼女を「床で寝ているのだから」と清掃を強要し、便利に使っていた。
それでも雨風が凌げて、貞操の危機が少なく、食事の不安が無いことが救いだった。
いつかは辞めるもの。腰掛けのつもりで仕事をしていた。
そんな彼女を熱い目で見つめる人間が出てくるのも当然だった。
変化はある日突然訪れた。
「俺の女になるだろ?」
むさ苦しい店主が床で寝ている彼女の腕を拘束し、体を暴いたのだ。
とんでもない裏切りだった。
店主はこのまま彼女が便利に使われる事を求めたのだ。
幼い彼女の膣を蹂躙し、血塗れに引き裂き、体に恐怖を埋め込み、性処理に使うことで彼女を思うがままにしようとした。
彼女は自分が店主の手によって自尊心や矜持を貶められていくのを感じた。これが女を失うことかと魂の欠落のような物を感じ、恐怖した。
このままではダメになる。その日の内に酒場から逃げ出したのは後にも先にも彼女にとって人生で最もよい判断だった。
内臓の鈍痛を抱えながら向かった場所は薬師の店だった。そこには怪しい、偏屈な老婆が住んでいて、薬を商っている。
小銭を握りしめて扉を開けば、むわっとした異臭が彼女の鼻を突いた。
「金は持ってるんだろうね?」
老女の一言目がそれである。きっと彼女の手持ちでは足りないのがわかったのだろう。多少身目が整っても、スラム出身の独特の雰囲気は消えはしない。
彼女は必死に訴えた。兎に角直ぐに痛み止めが欲しいこと、出血を止める薬が欲しいこと、今は手持ちが足りないが必ず返す事を伝え、破瓜の痛みに熱を出して倒れた。
目が覚めたときには老女の家の中だった。
「捨てても良かったけどね、家の前で死なれたら迷惑なんだ。」
老女は彼女に薬を与え、粥を与えてくれた。思ってもみなかった老女の優しい対応に、いっぱいいっぱいだった彼女の心は暖かさを求めるように涙を流した。
この世はなんと生きづらいのだろうか。
体が治ると、今度は彼女は住み込みで働かせて貰えないかと老女にねだった。
迷惑な事は承知していた。鬱陶しいだろう事も。老女を自分が利用しようとしている事もわかっていた。
それでもこの機会を逃す手は無かった。彼女は老女に多大な借りがあり、そして店主が自分の事を忘れるまでの時間が欲しかった。
交渉は決裂に決裂していたが、スキルの事を話すとアッサリと承諾された。
老女はプロの薬師であり、中途半端を嫌った。
また、老女には弟子が居らず、また必要としてこなかったが自身の老化に体と収入が着いてこなかったようだった。
『再現』とは、なんと都合勝手の良いスキルだろうか。
一度完成品を作り上げれば、あとは同じものを量産することが出来る。
薬剤というのは繊細な作業であり、薬の原料ですら効能は一定ではない。なのに顧客は一定の効能を求めるのだ。
スキルが補助し、効能を一定に保つことが彼女に求められた薬師の姿だった。
それからというもの、彼女は薬師として生きることを決めた。
常にローブを羽織り、顔を隠し、老女の弟子として老女の生活を支えた。
安定収入。これに前世から続く彼女の価値観は取り憑かれていた。
目標が決まればあとは水を得た魚のように努力を惜しまなかった。
朝早くから調合を始め、老女の食事を作り、商いを手伝いながら勉強し、また調合する。
給金は出なかった。しかしそんな事は気にならなかった。今は技術の習得期間である。貴重な経験は金に優ると知っていた。
文句を言わない彼女に老女は興味を示した。今までお互いを利用することしか考えてなかった彼女達は初めてその日、コミュニケーションを取った。
老女の名前はアリアといった。しわくちゃな老女から出たその美しい名前に彼女は一瞬自分の聞き間違えかと思った。
気分を悪くした老女にお前の名は、と尋ねられると彼女はゴミ、と名乗った。スラムでは多くはないが一般的な名前である。
更に気分を害した老女は「スラムのガキに何か教えたところで何もわかるわけがない。」と言って教育を急にやめた。
彼女は信じられない心地で老女の背中を見送りそうになったが、ここは恥も外聞も捨て去るところだと察して老女を羽交い締めする要領ですがりついた。痛かったようで後から杖で強く打擲された。骨折したが老女の作ったポーションで治り、理不尽にも出世払いとされた。
老女の代替案として、新しい名前を付けろとのことだった。
特に思い付かなかったので前世から引っ張って「エイミー」と名乗る事にした。エミという名前ではどうにもこちらの言語で喋りづらかったので。
エイミーという名の弟子になった彼女はこれまでより更に老女に尽くした。
恩義などの殊勝なものではなく、たった一つの間違いで捨てられる可能性があることを理解したからだった。
彼女は勤勉だった。不都合な事は先に開示し、文字が読めないと老女に訴え、良く学んだ。
また、出会った頃の状態が酒場の店主の仕業だということも先手を打って伝えた。とても嫌な顔をされたが仕方がない。理解が得られたため、表に出るときは徹底して顔を隠して声を変えるようにした。
小さい彼女もすくすくと育ち、代わりに老女はみるみる年老いて縮んでいった。
背が同じになる頃、老女はこんな事を言った。
「アタシが死んだら店は好きにしていいから墓を作れ。」
母親を埋めた時を思いだし、老女の言わんとする事を察した。
誰だってあんな場所に埋まるのは嫌だ。老女も知っているのだ、共同墓地の中身を。
彼女は静かに頷いて、また薬を調合した。
老女が死んだ。
冬の朝目覚めたら冷たくなった老女が布団に横たわっていた。
あの内臓の腐ったような異臭をいつからか老女は放つようにになっていた。
それが死期と呼ばれるものなのだと彼女は気付いていたが、毎日を何事もなく過ごしていたらいつの間にか気にならなくなっていた。
冷たい体はまるで蝋のようだ。
彼女は深く深く、恩人に頭を下げたのだった。
墓地の管理人に金を渡すと、一枚の紙を渡してきた。
それは土地の権利書で、ひと一人ぶんのサイズの土地が、それなりの値段で買える権利書だった。
これを金と共に提出し、領主の許諾を得てようやく墓地が手に入れられるらしかった。
そんな事を初めて知った彼女は泡を食って店中から金を集めて書類を提出した。
しかし待てど暮らせど許諾の返事は返ってこない。
寒い冬といえど、時間がたてば老女の遺体は肉汁が滲み出し、静脈が浮き、臭いを悪化させ、虫を湧かせた。
いつでも移動出来るよう、大判の布で巻いた老女の顔を彼女は見ることが出来なかった。
とうとう耐えられなくなって彼女は結局老女を共同墓地に埋めた。
母親の時と同様、またはそれ以上にその事実は彼女を苛んだ。
老女には誠実でありたかった彼女の心は汚濁に満ち溢れ、他者の尊厳を踏み躙った絶望はおよそ彼女1人では耐えられないものだった。
墓地の権利書の受諾が取れたのは、翌年の夏だった。