彼女の2つ目の人生。
神というのは、いつだってはた迷惑な苦難を人に与える。
家に雷が落ち、棲家が無くなり、家族が亡くなった父親が「おお、神よ」と嘆き、祈るその姿を見て献身を確認するのは、果たして神といえるのだろうか。
日本人は神への期待や願望、「こうであってほしい」という欲求が強いように思う。
無知は無垢と変わらず、小賢しさは罪であり法である。
老婆の名前は栄 笑実といった。
いや、もう老婆とは言えないだろう。彼女は生まれ変わっていた。
異世界のスラム街、その隅の隅。ボロの布小屋で産声を上げていた。
彼女は産まれた当初、わけもわからず泣き、熱病を発症しても放置される絶望にわななき、生き残った後も不審を抱きながら成長した。
親も頼れず、近隣住人はいつこっちを食ってやろうかとギラギラした目で見てくる。
表通りに行けば汚いもの扱いされ、石を投げられ、こちらが優しくするとつけ上がり、罠を仕掛けられる。
いつ搾取してやろうか、まるで人の皮を被った猛獣の檻にでもいるようだった。
しかし彼女は前世の記憶により、平凡なスラム街の子ども達よりも賢かった。
文字は読めなくても暗算が出来たし、言葉は拙くても危機察知能力には優れていた。
それに人に迷惑をかけないということが自然に出来ていた。
とはいえスラム街では犯罪は生きる事と同義だ。彼女も手を汚さずにはいられなかった。
スリになる器用さは持っていなかったが、人の家を漁るこそ泥のようなことは何度もした。
彼女は前世から引き継いだ歌という武器を持っていた。
大人になってからは殆ど進んで聴くことをしなくなった音楽も、まさかこんな形で活用できるとは思いもよらない。
子どもの頃に覚えた歌は摩耗し、劣化し、繋ぎ合わせてもちぐはぐな歌詞になってしまい歪な音譜となる。
それでもなんとかこちらの世界の言葉に直して歌えば足を止める人がいた。
それを命綱にして歌っていると、最初は騒音くらいに思われていた彼女もだんだんと受け入れられるようになった。
愛の讃歌を歌えば愛情深い人と見られたし、希望を歌えば未来に夢見る若者に見られる。人生を歌えば共感を生んだし、故郷を懐かしむ歌を歌えば涙を流す人もいた。
それぞれがそれぞれに、彼女の歌を楽しみ、施しを投げて次の瞬間には無関係を装う。忘れていく。
それでいいと彼女は汚れた小銭を広い、渡されたパンを咀嚼し、裏に帰る。
道端で大人に金を奪われ、男の子に食料を奪われ、何もなくして布小屋に帰れば親に罵倒され。
そんな生活を続けていれば何年もせずに歌のストックも付きてマンネリを呼び、飽きられて稼ぐ手段をなくした。
ちょうどそんな折、祝福の儀が神殿で行われると宣告され、貧しきも富めるも子どもたちが一様に集められて向かうこととなった。
金持ちの子どもは彼女たちを同じ人間だと認識していないようだった。
同じ顔があり、手足があり、胴体があるのにも関わらず憐れみとか、同情とか、そういった感情を見受けられなかった。
ただただ、汚い、近付くな、視界に入るなと臭いものに蓋をするように避けてゆく。
そういった機微に疎い子が彼等に近付くと手酷い暴力を受けた。誰もがその蛮行を見ている筈なのに暴力を諌める事も、守る事もしなかった。
あの子どもはここでは死なない事を皆知っていた。どんなに幼くても殺すことはイケナイことだと本能に刻まれるように、教わっている。
だから誰もが彼らを受容し、1つの景色として通りすぎていく。彼女も勿論それに倣った。
洗礼が終われば彼は受けた暴力の代償として暗く汚く臭いスラム内で衰弱して死ぬだろう。
それはスラムの日常であり、常識なのだから。
この世界はファンタジー映画のような不思議がそこかしこに点在していた。
例えば、大人たちは手から水を出したり、火を熾したり、風を吹かせたりする。道具にも不思議なものがあるらしく、まるで別世界の話のように感じていた。
長い説法を聞くところによると、この祝福はその能力を神が与えてくれる偉大な恵みの儀式なのだとか。
富裕層の子どもたちは緊張でピリピリとし、貧困層は期待で目を光らせた。
ここで良い能力を与えられればスラムから抜け出せると期待しているのだろう。
彼女も、ふぅん、と期待してはいないように振る舞っていたが、目は何かを懇願するように翳っていた。
順番は富裕層からだ。長い待ち時間の後に漸く貧困層へと移っていく。
神殿側も貧困層をいつまでもいさせたくないからだろう、一ヶ所に纏められて祝福を盾に、静かにしているよう指令され、何もない部屋に大人数が詰められた。
トイレも申告すれば借りられるし、不自由ではあるが一応の納得を見せて皆素直に従っている。
それでも子ども故にヒソヒソとするのは止められなくて、どんな能力を授かるかで大いに盛り上がっていた。
祝福は作業の色が濃いように思えた。
時刻は夕方。日が斜陽に神殿を赤く色付かせている。
祝福を与える神官は鮨詰めされた部屋の扉の外に立ち、10人ずつ出てこいと命令して連れていく。
女の子や気の弱い子はそれだけで嫌な想像を掻き立てられるのか数人が震え、しかし殆どは俺が先だとでもばかりに喧嘩になりながら扉から出ていく。
必然、スラムでも力のある集団の子どもは先に抜けるし、個人で力の強い者も抜けていく。残るのは彼女と同じような弱者であり、病気を発症している子どもであった。
彼女はそんな彼ら彼女らを横目に最後にはならないよう弱者の中でもとりわけ元気なグループに紛れた。病気を移されたらたまらない。
美しいステンドグラスから光が入り込んだ聖堂の神像の前に10人が跪かせられて手を組み、頭を下げるよう言い渡されてその通りにし、司祭がなにやらありがたいお言葉を唱えると驚くことに体に熱が灯り、それが祝福の完了となった。
司祭から見て左手から一人一人にスキルという名の才能を教えられる。
彼女に神から与えられたものは『再現』。
並んでいる他人は『掃除』『裁縫』『収集』といった職業的に分かりやすいものだった為、これは少し特殊なスキルであると察した。
だからといって就職に便利かというとそうでもない。再現とはつまり模倣である。模倣といえば美術品を連想するものだ。
職業的にわかりやすいものでは無いぶん、余計に難易度が上がる。
神殿を追い出されてトボトボと裏路地に向かって歩けば、大通りに面していた神殿なのだから仕方がないことなのに人々が嫌そうな顔で見てくる。
それでも普段より寛容なのは、今日に限ってはいちいち石を投げるのも億劫だからだろう。それに富裕層や安定した家庭の子どもたちが親に連れられて歩いていた。食事の帰り途中なのか、彼らは満腹だ、幸せだというように腹を擦っていた。
1日を神殿で過ごした彼女は、腹が空いたという肉体の訴えを無視した。
スラムには入り口なんて殊勝なものはない。建物の隙間を潜り抜ければそこが入り口で、出口だ。
みな、ひっそりと出入りし、または消えていく。各々が好き放題にし、秩序がない。
それが数少ないスラムの良いところであるのだが、今日に限っては子どもたちは一度、ある場所に行かねばならなかった。
「おう、ゴミ。テメェのスキルは?」
「再現。」
「なんだそりゃ、使えねぇ。オイ、愚図。オメェと一緒にいた奴らのスキル覚えてっか。」
「掃除、裁縫、収集。あとは忘れた。」
そう言うと、直前に報告に来ていたのだろう彼等を思い出したのか、もういいぞ、と手を振られたので彼女は汚れた路地の中でも比較的綺麗なその場所を後にした。
スラムにもボス的なものはおり、今の男は下っぱだが多少の字が書けるのでスラム内でもインテリ扱いされている悪党だった。
ここでは最も悪な者が秩序を作る場所だ。今のボスは前代のボスを殺して座に座っている。
美しい女はボスの性欲処理に徴集され、屈強な男は部下になるよう教育され、目ぼしいスキル持ちは働いてボスに金を貢がなければいけない。
老いも若きも一様にボスに搾取され、還元はなく、暴力に怯えて暮らしている。
逃げ出す者もいる。しかしここから逃げてどこに行くのか、彼女にはわからなかった。
表には彼等を受け入れる場所はない。働き口も、無学な者が雇われるほど簡単なものではない。
街の周りには外壁が聳えており、苦労して脱出してもその先は魔獣というよくわからない獣が跋扈しているという。
それらは毒を持ち、人を喰らい、最悪、魔法を使うものもいるらしい。
山火事が起これば冒険者と呼ばれる戦闘集団が消火しに行くとも聞いた。頭を疑うが、何故冒険者という名称なのに冒険をしないのだろうか。これではフリーランスの傭兵や自衛隊ではなかろうか。
兎角、貧困に世間は厳しいということだった。
布小屋に帰れば親がスキルを聞いてきた。正直に答えるとまた激昂して腕を振り回すのだからたまらない。
父親はいない。母親は所謂立ちんぼで、娼館の近くで金の無い男を相手する娼婦だった。若い頃は娼館で雇われていたらしいが、年を取って捨てられたのだという。
スラムの人間の扱いなどそんなものだ。都合の良いときだけ搾取し、絞り滓となってから捨てる。
彼女はこれでも母親を尊敬していた。彼女にはそんな人生は生きられない。体を、女を酷使してまでも生きたい、死にたくないと思えるだけの精神構造がわからなかったからだ。
どんなに罵倒して暴力を振るっても、食事だけは与えてくるこの女の事が、彼女は理解できなく、そして嫌いになりきれなかった。
そんな母親でも死ぬときは死ぬ。
彼女の体が女児から少女になりかけの頃だった。
その日は暑い夏の朝で、夜が就労時間の彼女の母親は帰ってくることがなかった。
仕方なしに探しに行けば、彼女の母親は一糸纏わぬ姿で首を折られて死んでいた。
死んでいても穴はある。それでも良いという汚い男たちが寄り集まって母親を汚していた。
彼女はそれが終わるのを物陰で待ち、太陽が真上に来る頃解放された母親を見て泣いた。
これが貴女の人生なのかと、こんな無惨で惨めな終わりが貴女の終わりなのかと泣いた。
泣いても現実は変わらない。男たちの臭い液だらけの母親を急いで墓地に連れていかねばならない。
夏の暑さは直ぐに死体を腐らせる。既に獣臭や汚物に混じって内臓が腐った臭いもしていた。
死体は薄めた聖水をコップ一杯ほど顔にかけられて埋葬された。
死体は魔物になる。見たことはないがそう信じられているらしく、どんなに低階層の人間にも墓地は解放されている。
墓地の管理人は水をかけた後は自分でやれ、と言った。
彼女は、ありがとうございました、と礼を言ってから母親を引きずって共同墓地の一角に立て掛けてあったスコップを使って穴を掘った。
運悪く最近亡くなったのだろう遺体のある場所を掘ってしまったらしく、ガリ、と音をさせて土を掘り起こせば腐った肉も一緒に付いてきて人体だったものの中にうぞうぞとした虫が住み着いているのを見て吐いた。
とんでもない危避感だ。彼女は今からここに自分を産み出した母親を捨てる。こうなるとわかっていて捨てる。
まざまざと見せられる現実と、重圧に彼女の心はいっそ壊れてしまえたらというほどの圧力をかけられた。
みんなやっていることだ。
それは一つの呪文だった。
彼女はその日、母親をゴミに捨てた。