押し入れを開けて
外に出て、ようやく時間の経過を実感する。
風の温度も下がり、辺りからは夜の雰囲気が広がりつつあった。
「思った以上にカラオケで熱中しちゃったよ」
空を仰げば、薄らと一番星が輝く。
もう夜だからそろそろ若者は家に帰れー、とでも言いたげな表情だ。
「広沢さんって歌上手なのね。びっくりしちゃった」
「い、いやぁ、柊木さんに言われると照れるというか、立つ瀬がないというか」
実際、軽音楽部を目指すだけあって音楽が好きなのだろう。
歌の上手さというのは私にはよく分からないが、歌っている彼女はとても楽しそうであった。この分なら、一気にレギュラー入りするのも夢ではないのかもしれない。
「とりあえず。今日のところは帰ろうか柊木さん」
「うん。あ、ウチのことは呼び捨てで良いよ」
「そう? なら柊木さ──、柊木も私のことは呼び捨てで大丈夫だよ?」
「え、ええ!?」
同じ条件を突き付けただけのはずだが、えらく動揺されてしまった。
あまりそういうのに慣れていないのか? いやでも自分から言い出したことだしなー。
そう悩んでいる間にも、似合わぬ顔で口をパクパクさせる柊木。
7回目の開口を経て、ようやくその口から声が漏れ出る。
「じゃ、じゃあ………………ひ、広沢」
「おや下の名前でも良いんですよ?」
「なぁっ!?」
思わずからかってしまったけど、少し悪いことをしたかもしれない。
もう夕陽も沈んだ後だというのに柊木の顔は紅葉のように赤く染まっていた。
「ぐぬぬぬぬぬぬぬ」
「あー、ごめんごめん。別に無理してまで呼ばなくても良いんだけど」
「なら、ちひロンで」
下の名前を飛び越えてニックネーム!?
いや別に私は構わないのだけれど、羞恥心のハードルが歪んでない? 心のハードル違法建築されてない?
「……ところで、ちひロンは家どっちの方角?」
「あー、私は西街方面だから、そろそろ曲がるけど」
「そっか。今日はありがと。まさかちひロンと一緒に下校できるなんて夢のようだよ」
「そんな大げさな……」
「ううん。結局、今まで一緒に遊べたことなんてなかったしね」
「……」
意外な一言だった。
彼女の口振りから、『この世界』の私と柊木は結構仲の良い友達なのかと思っていたが、そういうわけでもないのか? ただのクラスメイトか、はたまた家が近所だっただけか。
しかし、その程度の関係性でここまで懐かれるだろうか。どう見ても並々ならぬ親近感を私に抱いているように見るのだが、うーん、ますます事実を話しづらくなってしまった。
「今度は一緒に写真でも撮りに行かない?」
「どしたの急に。やっぱり写真に興味あるの?」
「え、あー、うん。まあね。こう見えてウチは多趣味なのよ」
「といってもなー、何か撮りたいものがあるわけでもないし。この辺りで有名なスポットって言ったら、やっぱり山の上にある展望台かなぁ?」
「なら今週末そこに行きましょ!」
「んー、そうだね」
言葉で合わせてみたけれど、内心はノリ気ではない。
なんだってこの暑い時期にせっせと山を登らなきゃならないのか。まあ、こんな口約束なんて大体は有耶無耶になるものだ。今でこそ謎に興奮している柊木も、家に帰ってシャワーでも浴びれば冷静になるだろう。放っておいても雲散霧消するはずだ。
「絶対に約束だからね!」
あれ、なんだか断れない雰囲気になってきてないか、これ?
ともかく歩き続ければ分かれ道は自然と近づく。
最後に一言だけ、見知らぬ昔馴染みはポツリと呟いた。
「またさ、あの『いつもの場所』にも行きたいよね」
「……だね」
素っ気のない返事をする。
それをそう汲み取ったのかは知らないが、手を振りながら離れていく彼女の表情はどこか切なげであった。やはり、悪いことをしただろうか。ずっとずっと私のことを覚えていてくれたのに、私の方は彼女のことを覚えていない。いいや、知ってすらいない。
何が彼女を喜ばせるのか。
何が彼女を傷つけるのか。
今はもう、何も分からない。
「柊木」
無意識に、その小さくなっていく背中に声をかけていた。
ああ、きっとこれは博打に近い。もしかしたら彼女の心をさらに深く抉るだけになるかもしれない。もう彼女が好きだった『昔の私』を演じることは出来ないのに。彼女が本当に一緒に帰りたかったのは私ではないのに。
それでも。それでもさ。
「明日からはひらりんって呼んで良いかな?」
振り返った柊木の表情が固まる。
やがて全てを理解したのか、体全体を使って首肯するかのような大げさな動きをしてみせた。
軽く手を振り、再度の別れを終える。
うん。『今の私』と柊木の関係は、ここから新たに始めていこう。下手に過去に囚われず、少しずつ、一歩ずつ。
「そういえば、あだ名なんて初めてつけるな、私」
意外なタイミングで初のトロフィーを獲得してしまった。
まあ、あれだけ嬉しそうな顔をされてしまえば、悪い気分にはなれないけれど。
★★★
その夜、私は自室の押し入れを開けることにした。
「うわー、かなり埃被っちゃってるなー」
無理もない。
何だかんだ私がこの世界に来て数年、ほとんど開けたことがないのだから。
「なんだか他人のプライバシーを覗くようで気が引けてたけど、まあ結局は自分の物だし良いよね」
出てくるのは子供用の玩具、本、あとは小さなアルバムだろうか。
ガサゴソと掘り返し、めぼしい物を片っ端から取り出していく。
「うわっ、この玩具ってこっちの世界にもあるんだ」
過剰なほどのフリルドレスに包まれた人形を抱える。
背中にあるボタンを押すとケタケタと笑い始めた。いや、やっぱ怖いよこれ。夜に何もしてないのに笑い始めた時なんか素直に泣いたからね私。
片付けや大掃除あるある、とでも言おうか。
油断すれば思い出に浸って主旨から外れかけてしまう。
ともかく、この中に柊木さんとの思い出とか、何か残っていれば良いのだけれど。
一番有力な手がかりといえば、やはりアルバムか。
ペラペラとページをめくり、中に挟まっている写真を一枚一枚目を通す。
「どれも私の成長記録って感じで、あんま役に立たなそーかな」
っていうか、この世界の私って京都まで旅行したことあるの!?
元の世界だと厄介な魔獣が暴れ回ってるせいで治安が最悪だったもんなー。そっかー、でもあそこ綺麗な建物もいっぱいあるんだよなー。一回くらい私も行ってみたいなー。
などと自分に嫉妬するという希有な体験をしつつもページを進めるが、有力な情報は見つからなかった。というより9割が私単体の写真ばかりで、柊木さんどころか交友関係すら分からない。分かったのは過剰な家族愛くらいだ。
というか、そういえば、これ全部家族が撮った写真ってことだよね。
「写真部だった私は何をしてるんだ……?」
真面目な私がまさか昔から幽霊部員だったとかいうことはないだろうが……。
「ちょっと、こんなに散らかしてどうしたの?」
乙女のプライバシー侵害など無視して母が乱入してきた。
怒られるかとも思ったが、辺りに広がる懐かしき品々の方に興味が映ってしまったらしい。
「うわー懐かしいわねこの写真。京都に行った時のじゃない」
「う、うん。あれは楽しかったなー」
「アンタが清水寺から落ちた時はどうなることかと思ったわよー」
どうなったんだ私!? 気になるけど、そんな強烈な体験を忘れたというのも不自然か。
一通り目を通したのか、母はアルバムを閉じて適当に放り投げてきた。
「さ、そろそろご飯にするわよ」
「ところでさ、私が撮った写真ってどこにあるか分かる?」
「はぁ? あんた記憶喪失にでもなったの?」
意外なものを見るような眼差し。
そんなに変なことを言ったつもりはなかったが、その疑問は次の一言で晴れることになる。
「何年か前に、アンタが全部捨てたんじゃない」
パタン、と扉が閉まる。
それ以上の説明の言葉は、何一つなかった。
「え、えー……」
ひとまず散らかった荷物を片付け、押し入れを閉める。
窓から見える夜空を仰ぎつつ、溜息と共にようやく全ての感情を呑み込んだ。
「鬱でも患ってたのか? 私……」




