彼女はシャッターを押さない
まるで秋に降る長雨のように、静かな視線が注がれる。
注目の的、というのはこういう状態を言うのだろう。
けれどそんな些細な視線を忘れさせるほどに強烈な眼差しが一つ。
熱も伝わりそうな程の至近で、柊木と名乗った少女が目を輝かせる。
「あっ、えーと」
言い淀む私の表情を見て何かを察してしまったのか、期待に満ちた表情が徐々に不安の色に塗り替えられていく。急転直下。女心と秋の空。
さながら捨てられた子犬のように、柊木さんは私を見上げて呟いた。
「……もしかして、忘れちゃったかしら?」
頼むから、そんな顔をしないで欲しい。
知らないものは知らないし、きっと私の記憶野を隈なく探ってもアナタに関する情報は1ビットたりとも出てこないだろう。
だってそれは、たぶん『この世界』に生きていた私との思い出なのだから。
同一人物であったとしても、完全なる同質ではない。
だから、柊木さんの求めている広沢千尋は、決して私ではないのだ。
そんなのは分かっている。
素直に事情を説明するのだって一つの手段なのかもしれない。
だけど嘘を吐き慣れたこの口から咄嗟に出てきたのは、やはりペラペラの御為ごかしであった。
「──もちろん覚えてるよ。最後に会ったのってどれくらい前だっけ?」
曇っていた眼が、一瞬にして花開く。
パァッという笑顔を向けられるのは、正直悪い気分ではなかった。
「小学6年生の時だから、ええと、もう5年くらい前かしら? そう考えると結構長い時間よね。でも何ていうか、広沢さんはあんまり昔と変わってなくて安心したわ」
まあ、確かに成長期において5年という期間は大きいだろう。
現に先程から私の体に唯一接触している、柊木さんの両のバストはそれはもう立派に育っていらっしゃ──まさか昔とあまり変わっていないってそういう意味ではないよな???
「これでも少しは大きくなっているわけでね」
「……? よく分からないけど、とにかく覚えていてくれて嬉しいわ! 転勤族の父親に初めて感謝したくなったくらい!」
一体、かつての私は彼女とどういった関係だったのだろう。
ただの知り合い、というわけでもなさそうだけど……。
「あっ、そうだそうだ! 実はこれをずっと返そうと思っていたんだよね」
色々と急展開で忘れかけていたが、私にとってはこっちが本題。
ポケットの中から落とし物である生徒手帳を取りだし、手渡す。
「うわー、初日から無くしてどうしようかと困ってたのよ! 広沢さんが拾ってくれていたの?」
「うん。道端に落ちてたから、とりあえず中に書いてあるクラスを確認して持って来た」
「へぇ、中を確認し、て──」
ばっ、と。
脱兎の如く跳ねた柊さんが手帳を両手で抱き締めつつも私から遠ざかる。
顔を赤らめ、瞳を潤ませ、口をパクパクとさせているが、それがどういった感情なのかは読み取れない。そして、突然の事態に困惑を隠せないでいる私に対して、ただ一つの質問が向けられた。
「中にある、写真って、見た?」
写真、といえばあの海の写真でまず間違いないだろう。
普通に綺麗な写真で、私も思わず感嘆の声を漏らしたのだから覚えている。相花さんも褒めていたし、客観的に見てもそこまで恥ずかしがる理由はないように思う。
彼女が何をそんなに過剰反応しているのかは分からないが、それでも求められている返事は何となく理解できた。
「あー、そんなのあったの? 名前とクラスだけ見てすぐ閉じたから気づかなかったよ」
平然と、淀みもなく偽りの言葉を吐く。
我がことながら、ここまでのアドリブ力が備わっていたことには驚かされた。
私の言葉を疑うこともなく、柊木さんは全身の力を抜いて邪気のない笑顔を浮かべる。
「そ、それなら良かった」
「そんなに他人に見られたくないものなら、持って来ない方が良いんじゃない?」
「いや別にそういうわけではないけど、広沢さんだけには見られたくないというか、モニョモニョ」
「?」
後半部分がよく聞き取れなかったので首を傾げたところ、教室の扉が大きく音を立てて開いた。
ああ、よく見ればもう授業の始まる時間だ。
「とりあえず席に戻ることにするわ。また話しましょう」
小さく手を振り、嵐のような少女が私から離れる。
これからもずっと同じ教室に居るのだし、こんなことで手を振るのもどうかと思ったけど、一応私も真似して手を振った。やけに嬉しそうなその去り際の横顔が、網膜に焼き付く。
「何だったんだ、あれ?」
前の席で、内美が訝しむように尋ねてきた。
一連の流れをずっと静観していたのだろう。
「私にも分からない」
総括。
もうそう言うしかないのであった。
★★★
結局それ以来、柊木さんから私へのアプローチというものはなかった。淡々と過ごす日々に起伏はなく、それはそれで心地の良い時間でもあった。
窓で切り取られた空では雲が流れ、太陽が動く。
風の強くなってきた頃、ついに最後のチャイムが響き渡った。
友達と集まる者。部活へと駆け込む者。補習に連れ出される者。
それぞれの放課後を横目に、さて私も帰ろうかと荷物を持った時であった。
にゅっ、と。それはもう羊羹のように滑らかな挙動で私の顔を覗き込む影があった。
「柊木さん……? どうしたの?」
「これから部活とか行くの? 良ければウチも一緒に行きたいんだけど」
「いや今日は普通にこのまま帰るつもりだよ」
「えっ、もしかして帰宅部なの?」
「うーん。一応は写真部に入ってるけど、基本的に個人活動だから集まることがないだけだよ」
「へぇ、やっぱり写真部なのね!」
何が琴線だったのか、柊木さんは燦々と照り輝く太陽のような眼差しでこちらを見つめてきた。このままでは目が潰れてしまいそうだったので、咄嗟に視線を外す。
やっぱり……というのはどういう意味だろう。
まあ元々私は中学のときには既に写真部であったのだし、何かしらの形で伝わっていたとしても不思議ではない。とにかく、その辺りの思い出話などが始まってしまう前に話題を逸らすことにした。
「そういう柊木さんは何か部活に入らないの? あ、写真部とか興味あったりするの?」
個人的にオススメとかはしないが、生徒手帳の中に写真を入れているくらいには興味があるはずだ。だからといって、特に写真の話題で盛り上げれるほど私はその分野に詳しくないので、これを機にカメラガールとして親睦を深めていく青春ストーリーは期待できないだろうけれど。
うーむ。と唸った後、柊木さんはやや照れくさそうに口を開いた。
「ウチとしては、軽音部とか、入ってみようかなーって」
「へー、歌とか好きなの?」
「……うん。子どもの時は小さな合唱団とかに所属してたんだけど、最近は楽器とかにも興味が出てきたから、良いかもなーって感じでさ。やっぱり似合わないかしら?」
「そんなことないよ。応援してる」
私の言葉がそんなに嬉しかったのか、柊木さんはすぐに鞄の中から入部用の紙を取りだし、そこに嬉々として名前を記入していった。
「なら職員室に行ってくるからちょっと待っててね!」
「え、あぁちょっと!」
返事をする間もなく行ってしまった。
遅れて帰りの支度を終えた内美が私の肩にポンと手を置く。
「自分の撒いた種だ。あたしは先に帰らせてもらうぜ」
「ジュース一本」
「アイス二個」
「……くそ、手持ちの小銭だと足りない!」
「ならまた明日なー」
ひらひらと手を振りながら、我が友は本当に先に帰ってしまった。
チクタクと秒針の音を聞くこと数分。駆け足の音と共に柊木さんが教室へと舞い戻ってきた。
「おまたせ! 明日から体験入部させて貰うことになったわ!」
「それはなにより」
「だから今日は一緒に帰りましょう? 待ってもらったお礼にアイスでも奢るわ!」
おぉ、なんと。
この相手を慈しむ精神を内美にも見習わせてやりたい。
鞄を肩に提げ、私たちは二人一緒に教室を出て行く。
今日出会ったばかりだというのに、まるで昔馴染みのような距離感。なんとも不思議な気分だ。朝家を出たときには、まさか転校生と一緒に下校することになるとは夢にも思わなかった。
彼女は私のことをどう思っているんだろう。
横目でその顔を見る。真っ直ぐと前を向くその表情はとにかく楽しそうで、変に茶化す気にもなれなかった。
こういう時、どういう話題が適切なのだろう。
目隠しの中、手探りで関係性を築くこの感覚は、何度やっても慣れそうにない。
「そうだ広沢さん、これからちょっとカラオケ寄って行かない?」
「お金ないし、今日は止めておくよ。それにカラオケってあんまり行ったことないんだよね」
「そっか。そういえば広沢さんって普段は何して遊んでるの?」
返答に困る質問の筆頭が襲いかかってきた。
そんなに高尚な趣味など持ち合わせていないし、特に日々を意味無くダラダラ過ごしていると答えるのも何だか躊躇われる。動画見て、お菓子食べて、勉強して、たまに漫画やアニメを見ているだけで一日というのは終わるのだ。まじで、本当に。
だけど、無駄に見栄を張りたくなるのが高校生というわけで。
「一応、友達と色んなところに遊びに行ったりするかな。夏休みも内美や相花さんと一緒にショッピングに出かけたり花火大会を観に行ったりしたしね」
「へぇ、内美さんって同じクラスの人だよね? 相花さんっていうのは?」
「別クラスの友達だよ。といっても、最近まではあまり学校にも顔を出さないような人だったんだけどね。最近仲良くなって、一緒に遊ぶようになったんだ」
「……ふーん」
気づけば校門を出ていた。
家の方向は同じであったのか、特に何事もなく和やかに歩き続ける。
「そういえば、最近はどんな写真を撮ってるの?」
学校からも離れて、周りから生徒の影が薄れて頃。
高くなり始めた空を見上げながら、突然そんな話をしてきた。
「そんなには撮ってないよ。ああ、でも今朝は色々と撮ったかな」
「そうなんだ。良ければ見せてくれない?」
「いやあ、本当に素人に毛が生えたような写真だから恥ずかしいんだけどなー」
しかし私の写真に興味を抱いてくれることには、妙な嬉しさがあった。
断る理由も特にないし、スマホを丁寧に手渡しする。
「本当に通学路を自分なりに撮ってみただけだから面白くはないよ? ああでも、仔猫の写真はなかなか上手く撮れたんじゃないかな?」
「なるほどなるほど。これがその相花さんって人?」
「…………っ」
向けられた画面には、今朝撮りたてホヤホヤのモーニング相花さん※ちょっとアダルティ(お気に入り登録マーク表示済み)が映し出されていた!
この写真の存在を忘れてしまうとか正気か私!?
「こ、こここれは、色々と勘違いというやつでしてね! まあ撮り間違いというか不慮の事故というか!」
「どしたの? 別に友達の写真くらい普通じゃない?」
そう言われてしまえば、返せる言葉が見つからなかった。
とりあえずスマホは没収。
まだ全部見てないのに……と言いたげな顔であったが関係ない。これ以上変な墓穴を掘ってしまう可能性は排除しなければならないのだ。
「個人的には標識の写真が好きだったわ。青みがかった影から夏を感じられるようで」
「そ、そう? まあ狙って撮れたわけではないけど、そう言われると嬉しいかな」
「ちょうど今は空が綺麗だし、撮ってみたらどう?」
傾き始めた陽射しと、鱗雲の群生。
確かに、これはこれで味のある風景ではあった。電線が少なくなるポイントまで歩き、空に向けてスマホをかざす。
そこで。
「あれ、よく見たら内美から何かメッセージ来てるな」
SNSには、なにやら楽しげな画像が送られて来ていた。
『いえーい、駅前でバッタリ出くわした相花とラブラブデート中。一緒に帰ってやれなくて悪いな!』
写真の奥では、恥ずかしそうにパフェを頬張る相花さんが映っていた。
こんな緩みきった表情、未だかつて見たことない。
ぜ、ぜひとも生で見たかった……。何だこの、何とも言えない心のモヤモヤギスギスは。憎悪か。憎悪なのか。くそ内美め、今度会ったら洗いざらい何があったか話してもらうからな!
…………この写真は有り難く頂くけれど。
「どうしたの? 急に棒立ちになって」
「柊木さん」
「うん?」
「カラオケに行こう」
全ての鬱憤をぶち撒けるべく、私は方針転換を決めたのであった。




