初対面の再会
★★★
「行ってきまーす」
靴を履き、鞄を肩に提げ、重い扉に手を掛ける。
何度も経験した慣れた手つき。それも今は懐かしく感じる。
二ヶ月もなかった夏休みは、昨日を最後に幕を閉じた。
想いを馳せれば不思議なことに、あの鮮烈な花火大会でさえ、今となってはただの『思い出』として風化しようとしている。
まあ、それも悪いことばかりではないけれど。
おかげで何だかんだと変わらずに、私は今日もいつも通りの日々を送れているのだから。
外に出ると、まだ残暑の漂う空気が全身を包んだ。
見上げれば、空の青さは少し薄らいだかもしれない。
それでも、まだ青い。
試しに両手の人差し指と親指で小窓を作り、風景を切り取ってみた。
「うーん、ありきたりかなぁ」
これでも一応、私は写真部に所属している。
と言っても、活動は基本的にソロが主流。年に数回、コンクールなどの関係で写真を持ち寄ることはあるけれど、それ以外で部員同士の交流はゼロに近い。詰まるところ、内申点を稼ぎたい帰宅部が『とりあえず』で群がっている烏合の衆なのだ。
私だって、特に今まで写真に熱を入れてきたわけではない。
カメラもスマホのアプリを使っているくらいの体たらく。写真を撮る人を馬鹿にするわけではないが、私なんぞが本気を出したところで人の心を揺さぶれるような風景を映し出せるとも思えない。
そんな私でも、やはり写真部に居る限りは逃げられない場面というのもあるわけで。
具体的には、今月末に行われる『文化祭』に提出する用の写真が必要なのだ。
テーマとかは特にない。
要は提出すれば何でもオッケーなのだろうが、それでもせっかく撮るなら工夫くらいは凝らしてみたい。あんまり勉強とかはしたくないけど、過去のコンクールで入賞した写真くらいは見てみようかな……。
そんな風にぼんやりとした目つきで歩いていると、背後から敵性反応が一つ。
「よーっス広沢! 新学期だからと言って夏休みボケしてんじゃねーぞ!」
バシン、と背中を叩いてきたのは小柄なクラスメイト。
いつもは私の方が早く学校に着くのだが、モタモタしている間に追い着かれてしまったらしい。ジンジンと痛む背中の恨みを晴らすべく、内美へとスマホを向ける。
「はいパシャリ」
「おうわっ!? 何だよ急に」
「うーん、やっぱり思ったように映えないなー。被写体の問題かなこれ」
「まず間違いなく撮影者の技量だろうよ」
ぐい、と足を踏まれてしまうが体重が軽いせいかあんまり痛くない。
そこは少し悔しかった。
今度は塀の上で寝ていた三毛猫にピントを合わせる。パシャリ。
横断歩道。標識。落ち葉。ポスター。手当たり次第に撮ってみるけど、どうもつまらない絵面になってしまう。
こうして見ると、スマホのアプリとはいえ、私がいかに写真を撮り慣れていないかが分かる。アルバムのフォルダを開いたところで、そこには数枚の画像しか入っていない。しかもそのほとんどが何の変哲もない食べ物で占められているときた。
怠慢と無気力で構成された写真部の中でも、私の実力は下から数えた方が早いだろう。
「そういえば、広沢って何で写真部に入ったんだ?」
「中学の時から写真部だったからね」
「それは知ってるけどさ。その割りにはまったく写真に熱意があるようには見えねーし、我が校は帰宅部が禁止されてるわけでもないだろー? わざわざ写真部を選んでるのには理由でもあるのかなって」
「……別に、部活に入ってた方が内申点が上がるからってだけだよ」
まあそれは、半分は本当で、半分は嘘。
実際のところ私にもよく分かっていないのだ。
だって、この趣味は『こちらの世界』に生きていた私特有のものなのだから。
ここに居る『元の世界』の私は、カメラなんぞには1ミリたりとも興味はない。
それでもそれは、『こちらの世界』に生きていた私との数少ない相違点だから。個性だから。
守ってあげたいと、思ってしまうのだ。
カシャカシャと辺りにあるものを撮り続ける。
四角四面の写真は、まあそれはそれで私らしいと思えた。
「はいパシャリ」
「むぅ、あたしを撮ったからには家の神棚にでも飾って拝み続けろ」
「仏壇ならあるけど……」
「それはただの遺影になっちまうだろ!」
言い合っている間にも校舎が近づく。
いくら自由な校風を売りにしているからといって、さすがに堂々とスマホを出しているのは気が引ける。最後に何か良い被写体はないかとキョロキョロしていると、道路の脇道から姿を現した少女と目が合った。
同じ制服。同じ鞄。似たような背丈。
茶色気味の髪は長く、肩甲骨の辺りまでウェーブしていた。
見知らぬ顔だが、気に留めるほどのことではない。
そもそもここは通学路で主要道。同級生だって見渡す限りチラホラと歩いている。
だから。
私がその少女を意識したのは、その挙動の不審さからだった。
「あっ、え、っと、~~~~!!!!」
ウェーブ少女がダッ、と駆け出す。
遅刻しそうで急いでいる……ってことはないよなぁ。明らかに私の顔を見てから走り出した雰囲気がある。だとしても、それはそれで意味が分からない。
「何だあれ、知り合いか?」
「いや……、見たことないはずだけどな-」
「本当かよ。その割には尋常じゃない走り方だったぞ」
「んー? 人違いだと思いたいけど、知らないところで知らない人に嫌われてたとか泣けるし」
「いやぁ、あれは嫌っているってより……まあいいか。そう気にすんなよ。もしかしたら広沢のファンなのかもしれねぇぜ?」
それなら逃げる必要は無い気がするが……。
いやそもそも私のファンって何だ。
こんなどこにでも居るような女子高生にそんなものが居てたまるか。
「あら、浮かない顔をしてどうしたのかしら?」
重い空気を断ち切るように、冷たくて綺麗な声が空気に透き通る。
校門から少し離れた所で、ポニーテールの黒髪美少女がこちらに視線を投げていた。
「……相花さんにはファンとか居そうだよね」
「二学期の初日からどんな悩みを抱えているのかしら???」
「おー、モーニング相花だ! いつも昼以降にしか現れないのに珍しい」
「確かにそう言われてみれば」
「この貴重な光景こそシャッターに収めるべきでは?」
「確かにそう言われてみれば!!」
テッテレー。
恥ずかしがって顔の前に手をかざす相花さんの写真が撮れた。
目元だけ隠れてるせいか、どことなくアダルティな雰囲気が漂っている気もするが……、げふん。とりあえず神棚買っておこうか。
ささっと写真をお気に入りに登録してスマホをしまう。
「というか、何で相花はこんな所で突っ立ってんだー? 早く教室に入ってヒエヒエ冷房ライフを楽しめば良いのに」
「それもそうだけど、せっかく朝から来たのだしね」
「?」
相花さんは、少し困ったような瞳で私の顔を見た。
何だろう。何か相花さんと約束でもしていたっけ……?
いや、私がそんな大切なことを忘れるはずがないはずだ。
悩んでいる間も、相花さんはチラチラと視線を投げ続けてきた。
「さすがの私でもアイコンタクトじゃ分からないよ」
「そ、そうね。いやまあ、ただ単純にせっかく学校に行くなら広沢さんと一緒に登校してみようと思っただけなのだけど……」
「え?」
「やっぱり迷惑だったかしら? ご、ごめんなさい。まだそういうところの距離感とか、よく分からなくて」
照れるというよりは、申し訳なさそうな表情をする相花さん。
いやいやいやいやいや。
朝からそのサプライズは胃もたれ起こしますよ?
まったく、彼女はもう少し自分の発言に責任をもって貰いたい。
おかげでこちとら、
「ぜ、全然大丈夫だよ! そそそれより早く行こ! そろそろチャイム鳴っちゃうよ!」
「まだあと10分もあるぞ落ち着け」
冷静さとか情緒とかが吹き飛んでしまったではないか。
毎日こんなのが続くとなれば、それは天国か地獄か。
相花さんが居るのであれば、どちらにも永住したい気持ちはあるけれど。
「やっぱり困らせてしまったかしら?」
「いやいや、あいつは喜んでんだよ。ほーら耳まで真っ赤になって」
「うっさい内美! これは赤外線の屈折率とかの問題だから!!」
無理のある言い訳を残して一人で前に進む。
何だろう。この、嬉しいのに恥ずかしい妙なムズムズ感は!
とにかく血流が正常値を取り戻すまでは相花さんの顔はまともに見ない方が良いだろう。
そう思い、自然と目線を前に投げた時、道端に何かが落ちているのを発見した。
「これは……」
手で拾い上げ、軽く汚れをとる。
謎のオーパーツ、というわけではない。
我が校の生徒であれば全員が所持している普通の生徒手帳であった。
妙に真新しい感じはするけど、もしかして一年生の物かな?
追い着いてきた後方の二人が私が手にしていた物を覗き込む。
「落とし物か? あー、さっきの慌てて走って行ったやつじゃね?」
「とりあえず名前を確認して職員室に届けた方が良いかもしれないわね」
「だよね。えーっと、名前の欄は──」
一応、こんなものでも個人情報の塊ではある。
定期券とか買う生徒なら、なおさら無くすと困ってしまうだろう。
そんな親切心からパラパラとページをめくっていると、一枚の写真が挟まっていることに気づいた。
「わー、綺麗な海」
「夕陽……ではなく朝焼けのようね。それにしても上手く撮れているものだわ。青い光と雲の薄暗さが素晴らしいコントラストを演出しているわね」
「私もこれくらい撮れたらなー……」
しかし何でこんなものが手帳の中にあるのだろう。
考えても答えは出ないし、きっと大切なものには違いがないはずだ。そっと元に戻して、名前の欄だけを確認する。
「柊木彩加……。やっぱり聞いたこともない名前だね」
「クラスの欄とかは記入してあるか?」
「うん。まあ、それはあるんだけど──」
そこに書かれていた数字を見て、内美は一瞬だけ眉をひそめた。
どうやら頭の良い親友は、私の言いたかったことを瞬時に見抜いたようだ。
堂々と偉そうに腕組みをしたまま、内美が結論を述べる。
「なるほど、つまりこれは」
★★★
「ウチ、転校生の柊木彩加って言います! これから数ヶ月だけど皆さん仲良くして下さい!」
そういうわけなのだった。
新学期の定番といえば定番。クラスのニューフェイス。
肩甲骨の辺りまで伸ばされたウェーブがかった髪を揺らしながら、その可愛らしい頭部がペコリとお辞儀をする。
自然と拍手が鳴った。紛れて私も手を叩く。
「えー、なら柊さんの席は、一番後ろの角にあたるけど良いかな? もし見えにくいようだったら随時言ってください」
「全然大丈夫。問題ないわ!」
随分と元気があるなあ。
慎ましやかな胸を張りながら堂々と歩くその姿に、誰もが視線を釘付けにされていた。
「おー、なんか朝見た時とキャラが違くねぇか?」
先生には聞こえないよう、前の席から内美が呟く。
それは確かに同感だ。なんというか、もうちょっと人見知りでシャイな性格なのかと思っていた。もしそうでないのであれば……え、やっぱり私って何か逃げられるようなことしたっけ??
席は少し遠く離れてしまったけれど問題はない。
どうせ話しかけるとしても休憩時間なのだし、その時に改めて生徒手帳を返し、ついでによく分からない誤解も解いておこう。
そんな軽い気持ちで思考を切り替え、朝のHRへと意識を戻す。
甘かった。
ああそうだ。これは私が甘かった。
そりゃあ新学期早々の転校生なんて話題にならない方がおかしい。いつの時代も新参者には洗礼が与えられるのか、柊さんは無数の生徒に囲まれて質問攻めの刑を受けていた。
割って入るのは、些か厳しそうだ。
これは敗戦濃厚と決め打ちし、握り締めた生徒手帳を宙に泳がす。そのまま羽ばたいて主の元まで戻って行くとかメルヘンな展開はない。いや魔法使いがメルヘンを否定するのもおかしな話かもしれなけれど。
ともかくタイミングというのはいつだって重要だ。
今回は運が悪かったと諦め、素直に次の授業の支度でもしておこう。
と、自分の机に再び視線を移そうとした刹那であった。
人と人の隙間を縫うように、柊木さんと視線が交差する。
途端。
ガタン! と大きな音を立てて椅子から離れた彼女は、周りに居る人物には脇目も振らずに私の方へと近づいて来た。
ズカズカズカ。
躊躇なくその足音がこちらに迫る。
「あっ、え、え?」
思わず後ずさるも、教室という箱庭では逃げ場もなし。
気づけば壁際まで追い込まれてしまい、もう為す術もなく初対面の転校生に至近まで迫ることを許してしまった。
いや、確かに話しかけたかったのは本当だけど、この並々ならぬ雰囲気は一体何だ!?
自然とクラスメイトの意識が私達二人に集中するのが肌で理解できた。
それもそうだろう。この距離感は、誰がどう見ても異常だ。
それなのに。
それなのに、その転校生は私以外の生徒など気にもせず。
まるで世界には私と自分の二人きりだと本気で信じているように、真っ直ぐに、そして恥ずかしげもなく。
温かな両手が、私の頬を包み込んだ。
「広沢千尋さん、よね?」
「そ、そうだけど……? 何で私の名前……」
ドクン、と。明確な思考をするより先に心臓が跳ねる。
嫌な予感、というほど分かりやすいものではないけれど。
ああ、でもこれは、もしかして──。
「久しぶり。ウチのこと、ちゃんと覚えてる?」
事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだ。
伏線もなく、脈絡もなく、因果もなく、こんな日は唐突に訪れる。
必死で誤魔化してきたのに。言葉を濁して建前を守ってきたのに。
その努力を嘲笑うかのごとく、こうもあっさりと。
今の私が、最も恐れていた事態。
知らない過去が、襲いかかってきた。




