祭り囃子はすぐそこに
8月13日。
大通りを行き交う人の数がいつもより多い。
バスの便数が知らずに増えている。
普段とは違う賑わいが遠くから聞こえてくる。
薄茜色に染まる雲に引き寄せられるように、人々は決まって同じ方向へと歩いていた。手に持っているのは小さな鞄、または屋台で買った食べ物、あるいは恋人の手。
そんな、平時には味わえない高揚感が場に満ちる。
それは期待だ。これから行われるイベントと、そのイベントを綺麗な思い出にしたいという自分への期待。だからきっと、ここに居る誰も彼もが笑顔を浮かべていた。
遠くから聞こえるのは太鼓の音。
一定規則で奏でられるその音頭は、催眠術か何かのように思考を単純化させていき、やがて聴く者は祭りというトロイメロイに誘われる。
これはまだ予兆。物語で言えば序章。
人々が屋台で買っているのは前菜。交わす言葉は前口上。
多くの感情が入り交ざり、高まり、最高の瞬間に向けて場の空気を完成させていく。やがて来るメインディッシュに心を躍らせ、楽しい今を忘れられるほどの眩しい未来に目を輝かせために。
そうして、夏特有の空気を名一杯に吸い込んで。
少し濃い焼きそばの味に舌鼓を打ちながら。
その場を行き交う全員が意識せずとも予感する。
──ああ、花火大会が始まる。
★★★
「ちょっと待ってよ内美、そんなに早く歩けないって!」
「格好つけて下駄なんて履いてくるからだろうが。慣れない靴だと歩きにくいと事前に気づきやがれ」
「だって相花さんも浴衣で来るって言うから、私が手を抜くわけにもいかないし……」
歩くペースを落としてくれた内美の後を追いながらも、念のためにもう一度だけ着付けなどをチェックする。青を基調としたベーシックな浴衣。朝顔の模様が入っているが、彩度の低い色つけしかされていないので目立つということは無いはずだ。THE・無難。まあ、冒険し過ぎるのはちょっぴり怖いお年頃に丁度良い塩梅だろう。
「腰紐も緩みなし。うん、問題なさそうかな」
「まだ花火始まってすらいないのに大丈夫かよ……」
「内美はいつも通りの半袖短パンスタイルだね」
「あたしは夏のスペシャリストだからな。全ての夏を楽しむために最も合理的な服装を選んでいるに過ぎない」
そう言うと夏のスペシャリスト(自称)は私に近づいて来て、ともすればその場に屈み込んだ。何やらポケットから薄い布のようなものを取り出す。
「無地のガーゼだ。これを足の指の付け根に貼っといたら『下駄紐が痛くて歩けなくなるー』とかいう最悪の事態は予防出来るだろ」
「なんて賢い子やぁ」
「喧嘩売ってんのか同い年?」
ぐりぐり、と未知のツボを押されてしまったので無言で反省。
ともかく確かに歩きやすくはなったかもしれない。さすがはスペシャリスト、これなら心置きなく今日の花火大会を楽しめそうだ。
「でも何でそんなの用意してるの?」
「……まあ、友達だからな。これくらいの準備はしておくさ」
恥ずかしげもなく内美はそんなことを言ってみせた。
おかげでこちらが少し照れてしまう。思い返せば、確かに私はよく内美に助けられているかもしれない。それ以上に迷惑もかけられているから曖昧にしていたけど、ここらでお礼くらいはしておくべきか。
「今日は綿菓子買ってあげるよ」
「なんかスゲー子供扱いされてるみたいでヤダ」
素早くそっぽを向くと、再び内美は前に歩き始めてしまった。
いつもの駅前やデパートではない。
花火大会を開催するに辺り、多くの露天が並ぶ川沿いの道。
まだ暗くなる時間帯には早すぎるが、夜を先取りするかのように赤提灯には明かりが点いていた。こういう所でも必死に働いている人は居るようで、道端ではお店のパンフレットと団扇をセットで配っている人が汗を流している。
「何か飲み物とか買わないか?」
内美が指差した先には、『ジュース』と大きく書かれたテントが展開されていた。氷水の中に多種多様な飲み物が乱雑に投入されてある様は、酷暑で脳の麻痺している人々の心を射止める。
「私は普通にお茶かなぁ」
「あたしはオレンジジュース! あ、あとこの『かき氷』も買います。シロップは苺で」
店員さんはバイトなのか、まだ私と年が近そうな女性二人組が切り盛りしていた。一人が氷水の中から飲み物を取りだし、それをタオルで拭いている間に、もう一人が会計を終わらせる。見事に息の合ったコンビネーション。
バイト、かあ。
高校を卒業したら、大学に入って、そうしたら私もバイトをしているのだろうか。考えたこともなかったけれど、こうして同い年くらいの人と楽しく仕事が出来るのであればアリなのかもしれない。
そう。例えば、内美とか。
あとはまあ、相花さんとか──。
「っ」
……相花さんと一緒に、夫婦のようなコンビネーション経営?
それはかなり、惹かれるものがあるというか。甘美な誘惑というか。
って、いかんいかん。友達で変な妄想するとか変態か私は。
「はーいお待たせしましたー」
差し出された麦茶を見て、ハッと我に返る。
「ど、どうも。ってうわ!」
ツルッと。
慌てて受け取ろうとして手が滑り、麦茶は宙に高く投げ飛ばされた。数回転を記録したのち、つい先程まで氷でキンキンに冷やされたドリンクは内美の頭に落下。良い音が鳴る。
「冷た痛い!」
流れるように。
その衝撃で内美は自分の手にしていたかき氷に己の顔面を埋めるはめとなる。
何と言うか、もう見ていられなかった。
「……おぉーい広沢。これはどういった了見だぁ?」
「い、いやぁ。こう暑いと冷たいものが恋しくなるかなぁっていう、ほら、気遣いだよ」
「ほほぅ? なるほど。そりゃあ確かに美しい友情だな」
「でしょ? あと鼻から氷出てるよ」
「……」
男らしい所作を伴って指で鼻についていた氷を拭うと、内美は残ったかき氷を右手で鷲掴みにしてみせた。
「……あれ?」
「お前の親切、確かに身に染みたぜ。でもそれはそうと、親切はきっちりお返しすべきだよなぁ?」
「待って内美! まだ話し合う余地はある!」
なかった。
すばしっこい動きで背後に回った小柄な少女は、私の衿をグイッと引っ張り背中に氷を流し入れた。
「うひょあ!?」
「よし、これで互いに涼しくなったな。しかもストロベリーの匂い付きだ。芳醇な香りに吸い寄せられた男共を乱獲してモテモテ女にお前はなれ!」
「カブトムシくらいしか寄って来ないよぉ」
浴衣なのが災いし、上手く氷を取り出すことが出来ない。
このまま溶けるのを待つのが吉なのだろうか……。
そんな風に項垂れていると、くすくすという笑い声が聞こえてきた。
例のバイトガール二人だった。
「ごめんなさい。ちょっと面白くて。かき氷のお代わりくらい無料であげるわよ?」
「……どうもすみません。ところで二人は友達なんですか?」
「ええ。大学で出会って意気投合してね。一緒にバイトに応募したらまさかの二人合格。そのままの流れで今に至るってわけ」
「腐れ縁というよりは保護者って感じですけどね。この子、課題もレポートもギリギリになっても出さないので放っておけないんです」
「ちょっ! そんなこと今言う必要なくない!?」
そう罵り合いながらも、淀みなく代わりのかき氷が差し出された。
さすがのコンビネーションである。
私もいつかは、こんな風に相花さんと気軽に話し合ったり出来る関係を築けるのだろうか?
試しにイメージを重ねてみる。
『ねえねえ相川さん、明日提出のレポートってもうやった?』
『そういえばまだだわ。広沢さん、ちょっと今夜手伝ってくれるかしら』
『もー。私を便利な女だと思ってない? まあ心配だから手伝うけどさ』
『あっ、そういえばバイトのシフトってどうなったのか知ってる? まだ確認してなくて次の出勤日が分からないのよね』
『まったくもう、相花さんは私が居ないと本当に駄目だなー』
『いつも感謝してるわよお母さん』
『誰がお母さんか!』
あははうふふほわんほわんほわん。
……やっぱり似合わないな。
たぶん私達は、ああいう関係とは無縁の生き物なのだ。憧れはするけど、そこで終わり。きっと、もっと単純でつまらない関係性へと収束していくのだろう。
それは少し、寂しさもあるけれど嬉しくもある。
私達にしか築けない関係性というのも、オンリーワンのような特別感があって愛おしい。
「そろそろ集合場所に行こうぜ。相花が来てるかも」
スマホの電源を入れて時間を確認する。
17時56分。約束まではあと5分もない。
「そうだね」
そう言い、私は飲み物の屋台にペコリとお辞儀をしてから背を向けた。
『憧れ』を見つめ続けて、目を痛めてしまわないように。
待ち合わせ場所は土手の近くにあるコンビニの前。
いつもは閑散としているそこも、今は避暑地として活用されていた。
「パッと見た感じ、まだ来てなさそうだな」
「まあ花火までは時間あるし、気長に待っていようか」
そう口にするも、誰よりも彼女に早く会いたがっているのは私だろう。
良い加減、こんな風に自分を騙すのにも飽きてきたように思う。
だから、心の片隅で、小さな本音を漏らそう。
──相花さん、どんな浴衣を着てくるかなぁ。
答えが分かるのは何分後か。
それまでの時間を退屈に感じるくらいには、私はもう引き返せなくなっていた。
☆☆☆
陽が地平線に溶けていく。
紫から濃い青へとグラデーションを造る空の様子は晴れ。
そんな夏の夕刻を、履き慣れない下駄を鳴らしてひた走る。
本部から支給されたのは、紫をベースにして蝶の模様で彩った典型的な浴衣であった。もっとも、上前の布地に取り付けられた小型のボタンを押すだけで着脱可能という未来のハイテク着衣ではあるのだが。
「思った以上に時間がないわね」
それと言うのも、合星さんが報告書類にコーヒーを零すという大失態をしでかしたからだ。……なんて悪態をついても事態は改善しないし、それについては既に『苦さ200倍コーヒーの刑』で罰は与えている。未来由来の技術はこんな場面でも役に立つらしい。
ともあれ普通に走っているだけでは遅刻してしまう。
しかし下駄(性能は以前のスニーカーには劣るが、加速機能つきの特別性!)の機能を解放して微妙に速度を上げていけば、恐らくギリギリで間に合うだろう。もう今さらコンプライアンスなどいちいち守っていられるか。
そんな『一回やったら何度やっても同じ』理論は自らの身を滅ぼす。
分かっていても、ここだけは譲れなかった。例えその結果として社内風紀が乱れ、犯罪が増加し、悪がはびこり、世界がディストピアに成り果てようとも。
ここで広沢さんとの約束を破る方が、絶対的に心苦しい。
「よし、見えたわね」
目的地のコンビニはすぐそこに。
遠目であるが広沢さんと内美さんらしき影も目に入った。
紆余曲折あったけれど、なんとか無事イベントに参加することが出来そうだ。
──そう思った矢先のことだった。
ヴーヴー、と。
通信が入る。個人用のスマホではない。社内連絡用の小型デバイスだ。
「……」
最初、それを無視しようとも思った。
けれどそれでは、たぶんその『連絡』がずっと脳裏に引っかかったままで、広沢さんと心の底から祭りを楽しむことが出来ないだろう。それはとても勿体ない。勿体ないの、だが……。
ひどく矛盾していた。
その『連絡』をとれば、十中八九でもう今日の予定がキャンセルされると分かっていたのに。ずっと楽しみにしていた花火大会には、もう参加できなくなると理解していたのに。
「……何かしら?」
袖口に隠していた通信デバイスを耳元にあてる。
返ってきた言葉は、単純明快。
『新たな生命反応が出現しました』
ギリッと歯を食いしばる。
その音が向こうにまで聞こえていたのか、続く言葉にはやや同情の色が込められていた。
『素早く終わらせれば花火大会には間に合うかもしれませんよ』
「あなた一人でどうにかならないかしら?」
『それで満足できるなら』
「……」
もし万が一、それで失敗して。
生き残った『生命』が広沢さんや、広沢さんの大切な人を傷つけてしまったら。
私はもう、何があっても広沢さんに顔向け出来ないだろう。
今を最悪とするのか。今より最悪な未来にするのか。
救いの無い二択。
けれど答えは最初から決まりきっていた。
「分かったわ、すぐに行く」
後ろ髪を引かれながらも。
目前に広がる祭り囃子から背を向け、再び夜の闇へ。
まるでそこが私の居場所だと、大いなる存在が手引きでもしているかのようだった。




