ナイトコール
それはまさに、青天の霹靂だった。
夜も更けて宿題を終わらし、電気を消すのも面倒臭がってベットでゴロゴロしていた、まさにその時。
ヴーヴー、と。
スマホの画面が切り替わり、通話ボタンがポップされる。
そこに表示されている着信相手には見覚えがあった。見覚えはあった、のだが……。
「あ、相花さん!?」
身に覚えはなさすぎた。
SNSを通じての無料通話。確かに気軽に話し合うには便利なツールだ。けれどまさか相花さんの方から電話をかけてくることがあるなんて予想もしていなかった。天気予報は見てないけれど、たぶん明日は雨だろう。
どうしてこのタイミングなのか。
一体私に何の用件があるというのか。
ともかく考え込んでいても仕方がない。
数回のコール音の後、私はついに通話ボタンに指を重ねた。
「も、もしもし?」
『もしもし広沢さん? こんな夜更けにごめんなさい。今って時間空いてるかしら?』
「うん。全然大丈夫だよ!」
思わずスマホを耳元から遠ざけてしまう。
何と言うか、本当に電子音なのか疑わしくなるほど艶めかしいその声を至近で聞き続けるのはマズい気がしたのだ。主に理性とか抑制とかそっち方面で。
その変化に相手も気づいたのか、やや訝しむような声が飛んできた。
『大丈夫かしら? もし忙しいようならまたかけ直すけれど』
「いやいや全く問題ないから! で、どうしたのこんな時間に?」
『いえ、大した用事ではないの。明後日の花火大会のことについて少し伝えておきたいことがあっただけで』
「伝えておきたいこと……?」
『ええ。実は色々と用事というか、業務というか。とにかく予定外のことが立て込んでしまってね。集合時刻の方を少し遅らせて欲しいのだけれど』
なんだ、そんなことか。
緊張で張り詰めていた糸がわずかに緩むを感じる。
「全然問題ないよ。一応、元から早めに設定してたからね」
『では集合は18時にしてもらって良いかしら?』
「うん。内美にもそう伝えておくよ」
最短最速で終わった連絡事項。
スマホのスピーカー越しに伝わる彼女の息づかいから、どうもこれ以上の用事があるわけではないと推測する。
「でも、どうして電話? それくらいのことならいつも通り文章で済ませた方が早そうだけど」
言葉にして、遅れて後悔する。
それではまるで相花さんからの電話を迷惑に感じているみたいではないか。違うそうではない。単純な疑問を口にしただけであってそれ以上の他意はないし、むしろ嬉しいというか毎日かけて来ても相花さん相手ならご褒美というか。
言い訳がましい台詞を脳の中で推敲する。
けれどそんなことをしている間にも時間は進み、不自然な間が空き、弁明の機会を喪失してしまった。
やがて。
無言を断ち切り、相花さんの声を忠実に再現した電子音が私の耳朶を叩く。
それはまるで、背後から忍び寄る辻斬りのように。
『大した理由はないわ。ただ、広沢さんと話してみたかっただけ』
両断。
グチャグチャと渦巻いていた私の思考が真っ二つにされる。
言葉を刃物に例えることがあるけれど、彼女のそれはまさしく名刀であった。鋭すぎる切れ味は、それが致命傷であったことを私に気づかせない。
『……どうしたの? 急に黙り込んでしまって』
そんな心配するような声音すら、今は深手になりかねないと感じた。
たぶん彼女は、自分が手に刃物を持っていることすら気づいていないのだろう。
平然と。毅然と。私が考えもつかなかった一手を打ってくる。
まるで何事でもないかのように。まるで当たり前のことのように。
「……」
私にとっての特別なハードルは、彼女にとっては記憶にも残らないようなもの。
それは分かってる。別に相花さんが悪いわけではない。私が一方的に意識して、自分のハードルを上げていただけの話。だからこれは、逆恨みにすらならない、ただの小さな嫉妬。
そんなことは言われるまでもない自明の理。
だけど。無意識に、心の中で燻る何かがあった。
──そういうのは、ズルいだろう。
『もしもし? 聞こえている?』
「……うん。ちょっと電波の調子が悪かっただけだから気にしないで」
『そう。なら用件は済ませたし、私はこれで失礼するわね』
「……それなんだけどさ。もう少しだけ話さない?」
だから私もズルをした。
相花さんが私との電話を何とも思っていないというのなら、その気軽さにつけ込もう。まだ深夜というには早すぎる。別に話を長引かせてしまっても、何の問題もないはずだ。
返答はやはり、予想通り。
『それは別に構わないけれど』
わずかに胸がチクリと痛んだが、先に傷を負わされたのは私の方だ。
夜のテンションに後押しされるがまま、私は窓を開けてベランダに出る。
夏にしては涼しい風が頬を撫でた。
『しかし話すといっても、話題のレパートリーに自信は無いわよ?』
「別に何だって良いよ。そうだなー、そういえば相花さんは夏休みの宿題とか終わらせた?」
『そもそも出席日数が危うい私が、そこだけ真面目だと思う?』
「あー、それもそうか」
つい忘れそうになるけれど、相花さんは不良なのだった。
普通であればまず関わることのない相手。思えば、この関係性はどうして始まったのだろうか。
私の勇気か。彼女の気まぐれか。
どちらにせよ、たぶん奇跡か何かが手助けしたのだろう。
元より私は他人に対してあまり執着をしない人間だ。
それは自分以外に興味がないとか、人を人とも思っていない悍ましい精神の持ち主とか、そういう冷徹な意味ではない。
漠然とした感覚として。
違う世界から来た私が、この世界に居る人間に影響を与えてはいけない気がするのだ。
とりわけ芯のある信念ではない。
現にめげずに私に話しかけてきた内美とは親友になったし、学校にもそこそこ仲の良い生徒は居る。だから、これは単なる私のエゴだ。
元々私の居なかったこの世界の住人が、私と出会ったことで何かしらの影響を受けることを少し恐ろしく思うだけの話。無論、外に出ている時点で『誰にも影響を与えない』なんて不可能なのは百も承知だ。
私が歩けばクラスメイトは挨拶を口にしなければならない。
私が良い成績を残せば私に嫉妬する誰かが現れるかもしれない。
そもそも、私が息をするだけで教室の酸素は薄くなる。
だから誰の生活にも干渉しないなんて理想論は語らない。
ただ、そういうのが積もり積もって他人の人生にまで影響を及ぼさないよう、私は基本的に『誰かと親しくなる』ということから逃げてきた。
だというのに。やっぱり最近の私は変だ。
理性も自制も投げ捨てて、気づけば相花さんと仲良くなりたいと考えている。
もしかしたら、この世界特有の風土病なのかもしれない。元の世界にはなかった病原菌に知らずに侵され、既に免疫は機能していない。そういうことであれば、この胸の不自然な高鳴りだって説明できるのだが。
『あなたはどうなの?』
「へ?」
『夏休みの宿題よ。まあ、あなたは7月中に全て終わらせて残りの夏休みを満喫するタイプだと思うけれど』
「ご名答。もうあとは日記を残すだけだよ」
ベランダで一人、星を見上げながら胸を張る。
その行動は伝わっていないだろうけれど、気持ちは伝わったのだろう。電話越しに相花さんがクスクスと笑う声が聞こえてきた。
それがなぜか無性に嬉しくて、知らずに私も笑っていた。
──相花さんの声って、冷たいようで温かいよなぁ。
カイロのように、じんわりとその温もりが心まで届くのを感じた。
もう離したくないと思ってしまうほどに。
一時間前の私に現状を説明したとして、どれだけ信じてくれるだろうか。
たぶん詐欺メールのように一蹴されてしまうだろう。
「そういえば、相花さんって浴衣とか持ってるの?」
予定調和が崩れていく。
彼女が関わると全てが予測不能になっていく。
だから。
次にどんな会話に言葉を弾ませるのか、この胸の高鳴りがどうなっていくのかは、何も分からない。
それでも他愛のない話を進める。
電波越しに伝わる熱が、私の免疫細胞を食い破るまで。
☆☆☆
「……ふぅ」
通話を切る。
気づけば月が西の空に傾いていた。
時間が経つのを早いと感じたのは、これが初めてだ。
「ずいぶんと長電話でしたねぇ」
路地裏の影から、黒髪ツインテールの少女が姿を現す。
待つことに疲れたのか、その表情からはどことなく活力が薄れていた。
「盗み聞きとは感心しないわね」
「いやいや、終わるまで話しかけなかった私の気遣いを無下にしないでくださいよ! というより通話料とかどうなってるんですかそれ?」
「必要経費」
「……こうして市民の税金は十代の甘酸っぱい青春の犠牲となるのであった」
ブツブツと文句を言う合星さんを無視して足を進める。
一応、今のところ『未確認の生命体』の反応はないけれど、全てがイレギュラーな相手にこちらの機器がいつまで通じるかは分からない。こうして定期的に街中を歩き回っているが、さてこの行動にも意味はあるのか。
「とりあえず街中に異常はなし。早く帰って書類作業に戻るわよ」
「いくら支給の高密度睡眠装置があるからって、ここまで働き詰めだと体を壊しますよ?」
「まだまだ余裕。徹夜は若者の特権よ」
「理念が最悪なベンチャー企業みたいなこと言い出しましたよぉ」
この仕事がブラックなのは元からだろう。
勤務態勢に決まりはないし、いつだって生命の危機に陥るし、だからといって待遇が良いわけでもない。
でも、そんな中にも変化はあった。
今はいくらか『やりがい』というものを感じてきている。
「ははーん、友達の生活を守るためなら命も張れるってやつですか?」
「……」
「そりゃあ現在の任務内容の中には市民の安全も含まれてますけど。あなたのそれは、一個人に対してのものですよね?」
ここで否定するほど馬鹿ではない。
どうせ見抜かれているというのなら、下手に自分に嘘を吐く必要もないだろう。
「ええ。確かに、私はあの初めての『友達』を特別に感じているわ」
口に出すことで、より明確になる。
もう誤魔化すことも、後戻りをすることも許されなくなった。
それでも構わない。
広沢さんとの関係に嘘を吐くより、ずっと良い。
「後悔しても知りませんよ」
「そうならないよう努力するわ」
あっさりと答え合わせは終わった。
あらかじめ分かっていた問題について敢えて言及しただけだ。そこに驚きも好奇心も湧かないのだろう。
だから、ちょっとだけ素直になった私はイジワルな笑顔を浮かべる。
「そういうわけだから、明後日までに今あるタスクを全て終わらせて絶対に花火大会に間に合わせるわ」
「……お先に失礼しまーす」
「ようこそ24時間フル残業の世界へ」
「残業の概念が壊れてますけど!!」
喚く合星さんの襟首を掴み、強引にでも引きずっていく。
途中、夜空を見上げた。広沢さんの名前を初めて聞いた日も、同じように空を見上げていたのを思い出す。
あの日と同じようで、たぶん全く同じではない空。
相変わらず、その星々は数え切れないほどに多いけれど。
「そういえば浴衣って本部から支給されるかしら?」
「ふっきれた思春期の傍若無人ぶり、怖ぇ」




