朝起きたら隣に裸の異性が居た。
前略、俺の隣に知らない女が寝ていた。しかも裸で。
おかしい。俺は昨夜一人で寝たはずである。部屋の鍵もしっかりと閉めた。……戸締りは完璧だったはずである。それにもかかわらず、なぜかこの女は俺の横にいて、寝息を立てていた。
……歳の頃は十五か十六といったところか。何故こんなところにいるのかも疑問だったが、それとは別にある一つの疑念というか、恐怖が俺の胸を支配していた。それは、年端もいかぬ少女をかどわかしたとされて逮捕される未来についてだった。俺は会社に籍を置く一般人であり、もしも嫌疑がかけられ、なおかつ逮捕などされてしまったら一巻の終わりだ。どうしよう、どうしようと慌ててしまう。
ぐるぐると、そこに解決できる何かがあるわけでもないと理解しつつも部屋を見回す。時計、ベッド、少女、壁にかけられたスーツ、そして通勤カバン。我ながら殺風景な部屋だ。そんな殺風景な部屋の中で、やはり最も存在感を有しているのは俺の隣で寝ている少女だった。
少し息が漏れる度に流れる黒い髪は柔らかそうだ。身目形もかなり整っている。三十代も中盤の俺のような人間からしたら、それこそ多大なお金を払わなければ話すことさえままならないような、高嶺の花だった。
「……んぅ。ふぁぁ……よく寝た。あ、おはようございます」
「おはようございま……じゃない! 君は一体誰だ?!」
「ああ、申し遅れました……。貴方の嫁の、柊と申します。どうぞお見知りおきを」
「……嫁ェ?」
怪訝に聞き返すのも許してほしい。何せそういう相手など一人もいないからだ。容姿はそこそこ優れているほうだとは思うが、昇進コースで今まで進んできた俺には女の影なんて一つも存在していなかった。ああ、そんな独身貴族のもとに何故このような少女が来たのか。謎は深まるばかりである。
頭が痛くなってくる俺を、少女は慮るように気遣ってきた。大丈夫ですか、と身を乗り出して来た。その気遣いが少しうれしく感じてしまったのは、俺が心のどこかで結婚すること……女に対する何か理想のようなものを持っていたからだろうか。きっとそうなのだろう。
「……えっと、もう一つ聞いても?」
「ええ、なんなりと」
「嫁って、どういうこと……?」
「ほら、あれですあれ。男女が三日同じ寝床で枕を共にしたなら、それは夫婦と同じなのでは……? というやつですよ!」
「は、はぁ……」
「む、その返事はあまり理解してらっしゃらいませんね?! いいでしょういいでしょう。夫婦だと証明するために、今からここでヤってしまいましょう! 枕をともにするんではなく、交わしちゃいましょう!」
そういいながら鼻息荒く俺へと詰め寄ってくる少女。陶磁器のようになめらかで白い肌があらわになり、布団の隙間に覗くのは桜色――って、そんな場合じゃない。俺は素早くベッドから降りて、少女へと向き直る。少女は何が起こったかわからない様子で俺のほうを見ていた。会社に入ってから、布団から起き上がる能力だけは地味に自慢できる特技の一つだったからだ。
そのまま軽く身だしなみを整えて、少女へと話しかける。
「……おふざけはそこまでにしておいた方がいいよ」
「ふざけてなんかいません」
「こちらからしたら身元も確かじゃない、しかも君みたいないたいけな少女をどうこうしようという気にはならない。第一鍵をかけていたのに、なんで君はこの部屋に入ってこれたのか。……正直に言うと、君は│そういう(・・・・)手口で男をかどわかして男から金を奪取していく人間だと思っている」
「なっ、なっ! 私、そんなんじゃないです! そもそもここに入れたのは、ずっとここにいたからで……。それに│そういう(・・・・)手口をするならもうちょっと回りくどい方法使いますしっ! ですしっ!」
「……よしんばそうだとしても、その証拠はどこにもない。それに、ずっといたからってどういうことか説明してもらおうか」
「あ、私幽霊です。ここに揺蕩っていた幽霊が受肉した姿……それが私です」
……遠野物語など、幽霊に関する民族的な物語には枚挙にいとまがない。だがしかし、それはフィクションの世界のことであり、現実世界で起こるはずもない。起こってしまったらしまったで、それはそれは大変な騒ぎになることが目に見えているだろう。しかし、そのことが事実でないなら、本当にいくつかの選択肢しか存在していないのだ。
一、『大家さんから合鍵を貰って侵入してきた』。二、『玄関からではなく、何か他の場所に出入り口を作ってやってきた』。この二通りだ。他にもあるかもしれないが、ひとまず俺が思い当たるのはここあたりが限界だ。……そしてそれをする意味が見えない。それが今感じている不信感だ。
それに幽霊とは何なのだろうか。大家にも不動産会社にもここが事故物件であるとは聞いたことがなかった。古くてただただ安いアパートで、交通の便がそれなりに悪い家であるとしか聞いていない。……もしかして、不動産屋もしくは大家の報告がなかっただけでそうだっただけなのか。それはいけない。幽霊とか怖すぎる。
……まぁそれは今置いといて。今目の前の少女をどうするかが問題である。
「?」
俺がそちらに目線を向けている意味が分からないのか、首をかしげる少女。その様子はやはり可愛い。雑誌の中学生、もしくは高校生モデルとかに出ていてもおかしくないほどの容姿だ。少なくとも三十ウン年、これほどの美少女を俺は見たことがない。
……とりあえず、会社には連絡を入れておこう。まさかこの子を放って仕事に出る訳にはいかないし。そういうわけで、携帯電話を取ったのだが……。
「まっ、まさかっ! 警察に連絡するっていう魂胆じゃないですよね?! 認めません、そんなの認めませんよぉ!」
「そんなんじゃないって! 会社に連絡するだけだから! ほら、君を今の状況で一人にするのは危険だし、ちょっと恐ろしいことになりそうだしね」
「……むぅ。そうだったら、まぁいいでしょう。ふふんっ」
焦ったり上機嫌になったり、まったく感情が豊かな少女だ。どちらかというと雰囲気は小動物系か? それも犬のような。いや、犬にしてはいささか性に奔放すぎるというかなんというか。
まず犬はこんな女性らしい体つきはしていない。
「……はい、ちょっと風邪の具合が酷いので今日はお休みさせていただきます。すみません」
そんなことを考えながらも、上司とのやり取りはきちんと行う。成績がいいのか、上司は俺の体を大事にするようにと告げて電話を切った。真面目に頑張ってきたかいがあったと言うものだ。
それはともかくとして。
「えっと、幽霊? なんだよね?」
「ええ。幽霊です」
「……えっと、どうやったらここから去ってもらえる?」
「そうですね……」
んーむ、と少女は唇に人差し指を当てて考えこむ。そして、はっと何かに気が付いたのか、ぽんと掌にこぶしを落として、俺にこう言い放った。
「女の子として一日を過ごせたら、それでいいですっ! もちろん貴方の嫁、という条件は付きますが! がっ!」
「……それで本当にいいんだね?」
「ええ! あと、一日を過ごすにあたってもう一つ条件があります」
「なんだい?」
「その口調です。やめてください。もっとフランクに、親し気に接してください。お願いします」
「……えっと、じゃあこれでいいのか?」
ええ、と満面の笑みで笑う柊。そしてするりと、そのままベッドから出てくる。当然ベッドの下は全裸で。つまりは俺に全部が見えるわけで。
「――っ!」
「……なんで目を逸らすんですか?」
「いや、普通は目を逸らすだろう……! というか何か服を……」
そこまで言って気が付いた。独り身、しかも今まで女性と付き合ったことさえない男の部屋にそもそも女性用の服など存在するはずがない。どうしようか、と悩む。何か方法はないものか、そうやってとりあえず部屋を見回す。そして目に入る洗濯物。白い無地のシャツがそこにあった。
ああ、とりあえずはこれを着せておこう。ベランダにでてさっと取り入れる。それを目を隠しながら、柊のほうへと差し出す。
「これ」
「……? なんですか?」
「これ、着ろって言ってるんだよ! そのままじゃいろいろマズいだろ!」
「あ、そうですね……。では失礼して」
……前略、朝起きたら俺の横に少女が寝ていた。信じられないとは思うが、今目の前でTシャツを着ている少女を見ていると、やはり事実なのだと再認識せざるを得なくなる。ああ、どうしてこうなった――!
□
場所は変わり、現在は遊園地だ。なぜ遊園地かと言うと、柊が前々から行ってみたいと考えていたかららしい。その詳しいところを聞こうとすると、何故か大慌てでごまかされた。きっと何かがあったんだろう。
しかし俺と柊は一日限りの関係だ。そのような詳しいことを知ったところで俺に何が出来るとも言えないし、そもそも柊に関しては厄介に思っている俺がいる。少しだけ心が痛むというか気にかかるところはあったが、俺はそれを無視して今ここにいる。
ちなみに、柊の現在の服装は薄い空色のワンピースだ。センスはないことは理解していたが、やや無難だと思われる服装ではあるだろう。そんなワンピースを翻しながら、やたら嬉しそうに俺の服の袖を引っ張る柊。
「ふわぁ……!」
「こういう場所に来るのは初めてなのか?」
「ええ、生前はあまりこういう場所に来る機会に恵まれなかったので……」
えへへ、と薄く笑む柊。なんだか寂しそうなその笑いは、しかし遊園地の喧騒に巻かれて一瞬にして消え去った。そんな笑みを追求するわけにも行かず、入場口へと歩みを進める。
「あ、今更になりますけど、お金とかは大丈夫でしょうか……?」
「使う機会もない上にそれなりに稼いでるからな。その心配はいらない」
「……それならいいんですが。いえ、ありがとうございます。一日限りの私に、こんなに良くしていただいて」
出会って当初の発言とは一体何だったのか。子を成すだの枕を交わすだの淫猥な言葉は鳴りを潜めて、このようななんだか健気な感じになってしまっていた。これが素の彼女だというなら、これほど奥ゆかしい美少女がいたものかと瞠目することこの上ないというのに。……しかし、仮に柊が健気であっても俺の態度とスタンスは変わりない。彼女を今日一日で満足させて、あの世に送り返すだけだ。もし叶わないならば、その時はとりあえず警察に突き出そう。DNA検査でもしてもらえれば血縁ではないことは理解していただけるはずだ。
そんなことを考えてながら、受付カウンターのすぐそばにある券売機で入場券を購入する。大人千円、高校生以下の子供六百円。これだけでかなり設けていると考えたら、これ以上に狡い商売なんてないだろう。何ともなしにそんなことを考えてしまう。……これが商社マンならではの悩みというかなんというか。
「……ふわぁ」
「そんなにいいものなのか、コレ?」
「ええ、ええ! こんなに楽しくて騒がしい場所だとは思っていませんでした。なんというか、予想外ですっ!」
「……ならよかったんだが」
ぼそりとつぶやいた言葉は、しかし柊へと届かずに中空に消える。
「あ、あれ乗ってみたいです! あのぎゅーんってしてくねくねってしてるあれですよ!」
「ああ、ジェットコースターか。……やっぱり魅力的に映るもんなのか?」
「もちろんですとも。あんな高速で動くものに乗る機会なんて生まれて一度もありませんでしたから」
まただ。
また柊の目が一瞬だけ黒く淀んだ。
「じゃあ、乗ってみるか」
そんな瞳を忘れようと、忘れさせようと声をかける。惨憺たる現実から目を背けることは得意中の得意だ。なにせ会社から戻ってきて常にそんな気持ちを抱え込んで入りのだから。その排除には余念がない。だからこそ好成績を叩き出せるのだ。
俺の思惑には気付かず、柊は満面の笑みを浮かべながら、元気よく返事。この年齢なら、普通に反抗期に入っていてもおかしくない年齢だ。それがこれだけの挨拶を返せることに少しばかりの驚きを持ちつつ、足をそちらへと進めた。
して、到着する直前にふと疑問に思ったことがある。柊はこのジェットコースターに乗りえる条件を満たしているか――すなわち身長の問題である。
結論。可能か不可能か、と言われれば、それは可能だった。
「わぁい」
「……危なかったな」
「まさか身長が足りなければ入れないとは思いませんでした。しかし一センチほど私の身長がここの規定に勝っていたようですね。ふふん」
「裏を返せば、それってその年齢でその程度の身長しかないってことに――」
「――それは禁句ですよ。女性に背と肉付きに関する話題はダメなんです。あとついでに年齢もですよっ!」
「……ああ、それはすまなかった。以後気を付ける」
そうしてください、と満面の笑みで語り掛けてくる柊と俺はお隣さん。俺の気分は少しばかり歳と距離感の近い娘のそれ。……そろそろ結婚しなければ。両親からもさんざん催促されてるし、やらなければ帰省した時に顰蹙を喰らうのは俺だ。と言っても、俺のような何も趣味がなく面白味もない人間と誰が結婚してくれるというのだろうか。……ああ、このことについて今考えるのはよしておこう。悲しくなるだけだし。
やがて、がたんと機体が揺れた。出発するらしい。となりでは柊が期待に胸を膨らませ、頬を紅潮させながらきらきらとした瞳を進行方向に向けていた。本当に幼い子供のようで、これはいよいよ父親の役割に徹するのも悪くないかななどと思い始めた。――しかしその余裕はあまり長くは続かなかった。
「……そういや俺、ジェットコースター苦手なんだったあああああああああああああああああああああああああああああ!」
「何言ってるか聞こえませんよぅ! ひゃあああああああああああああ!」
「うわあああああああああああああああああああああああああああ!」
「ひゃっはーぁあああああ!」
ああ、なんで俺は発車する前に気が付いてしまったのだろうか。乗る前に気が付いてほしかった。うかつすぎる自意識に喝を入れたいくらいだ。と、それはともかく。数分ほど高低差の恐怖に、頬に打ち付ける風の勢いと重さに心身共に疲弊しながら、ようやくそれは停車した。危険すぎる。恐ろしきはジェットコースター。よもやこの年になってあのような悲鳴を上げるなんて思いもしなかった。
そんなことを思いながら一つ息を吐くと、やはり隣にいた柊がにんまりと笑みを浮かべていた。それは先ほどの満面の笑みとは何ら変わらないが、その性質が変化したような気がした。それはどちらかというと馬鹿にするというか、嘲笑うというか。そんな笑みだった。十中八九、あんなか細くてどう見ても大人のそれとは思えないほどの悲鳴に対しての笑みだろう。屈辱。
「……苦手なんですかぁ?」
「……悪いか?」
「いやぁ? ぜぇんぜん悪くないですよぉ?」
「にしてはいやに語尾が伸びてるな」
「勘違いでしょう。ええ、勘違いにほかなりません。少しお疲れなのでは? 次は……そうですね、あれに乗りましょう」
そうして柊が指さしたのは、コーヒーカップのアレだ。そう、ハンドルをもってぐるぐるするあれだ。具体的な名前をなんというか度忘れしてしまっているのが、なんともこの歳の哀れさを表している。
しかし、あれならそこまでひどいことになることはないだろう。柊の腕力などたかが知れていると言うものだ。そもそも女子供にそこまでの速度で回せるような重さのものではないはずだ。……そう信じたい。
「あ、回り始めましたね」
「そうだな」
「……どうしました?」
「いや、会社を休んでこんなことをしていいのかなって思って」
「あー……。そうですね、では親からの聞きかじりを一つだけ」
そういって、柊は指を一つ立てた。
「まずですね、人間には疲れが二種類あります!」
「……ほう?」
「単純に、いろんなことをして疲れた時に感じるアレが一つ。もう一つは、生きることに疲れた時に感じるアレです」
「ふむ」
「前のものは、一晩寝るだけでも回復します。回復してしまいます。でも、後ろの方は、寝るだけじゃ回復しないんです。それこそ、こうやって遊ばないと回復しないんですよ? ……一つ分かることがあります。――あまり、遊んだりしてないでしょう?」
どきりとした。年端もいかない少女に、なぜか追い込まれている自分がいるのにも、少しの焦りというか恐ろしさを感じた。今目の前にいる少女は、俺が今まで見てきた少女の顔をしていなかったのもその原因の一つかもしれない。俺を見る柊の瞳は、まるで今までそういうことをしてこなかったことに対する責めの目線。それがまるで傲慢だというように、あるいは特権だというように。少女はその目線を俺に向けていた。
遊んでいて責められることはあった。子供時代の俺など、特に両親に怒られたものだ。しかし中学生……高校生になってからはどうだろう。そもそも遊ぶこと自体が減った俺に両親は感心したような目こそ向けてきたものの、責めるような目線を送ってくることはなかった。それは会社の上司だってそうだ。頑張ることに対して褒めることはあった。しかし有給休暇を取ろうとする社員に対して少し怪訝な目線を向けていたのを覚えている。
ああ、なぜそれが傲慢だというのか、特権だというのか。俺はそれが理解できなかった。そして柊が、何故そのような目線を俺に向けているのかも。
「――生を謳歌してください。それが生きとし生けるものの、最大の権利にして……最大の義務です」
そう謳う柊の存在感は、その時において、他の何よりも、この世全てを束ねたものより大きかったに違いない。少なくとも俺はそう感じてしまった。この小柄な少女に。
「だから、謳歌していないあなたにお教えします。ええ教えますとも! 生きることに対する意欲というのは、どうもこういう遊んだり趣味に時間を費やしたりしたりすると湧いてくるものらしいですよ? 湧いてますか、意欲」
「……湧いてない、かもな」
「今生きる理由は?」
「………金のため、かな。しいて言うなら」
「えー、つまんないですね。ほら、だったら少しだけ簡単なところから始めてみましょうよ。例えば女のためとか、食事のためとか。ビールとかもいいですね!」
そもそも女をむさぼろうとも思わないし、食事に対しては何らかの感慨も抱かない。ビール? 翌日の体調に差し支えるから控えている。上司の飲み会では仕方なしに飲んでいるが、逆に言えばその程度だ。……こうして考えてみると、俺って趣味も何もない、からっからの人間なんだな、と自覚する。成程、柊が言うところが少しは理解できるかもしれない。
「何かないですか? うつつを抜かせるようなもの」
「特にない、な」
「じゃあ、読書とかどうですか? お勧めの本とかお教えしますよ!」
「……例えば?」
「遠野物語とか」
「自虐か何かか?」
違いますよ! などと騒ぐ柊の姿に、なんだかほほえましい気持ちになってつい笑みがこぼれてしまう。くすり、と。小さく漏れたそれは、しかしひいらぎのみみにとどいた。否、届いてしまった。
「今笑いましたよね! ほら、こうやって会話することが楽しいなら、それを生きる意欲にしてもいいんですよ? ほら、私を娶っていただいてもいいですし。それが嫌なら……そうですねぇ……」
「友達、とか」
「友達、いいですね! でも足りません。もうちょっと親密な感じがいいです! となると、ソウルブラザーとかでしょうか?」
「いや、普通に親友でいいんじゃないのか?」
その手があったか、とばかりに驚く柊。あきれを通り越して、苦笑が浮かんでしまうのは仕方ないことだ。しかし、そんな様子すらも少しだけ微笑ましく感じてしまう。今しばらくは、こんな会話に浸っていてもいいか。そう思ってしまったが最後、沼に沈むように会話を続けてしまう。
「……ところで、柊はどれくらいの時代の生まれなんだ?」
「えっと、聖子ちゃんカットとか流行ってた時くらい?」
「1980年代か……。割と最近だな」
「確認してなかったけれども、今って何年くらいなんですか? なんかずいぶんと変わったような気がしたので」
「2015年だよ」
「……三十年ちょっとでここまで変わるんですか、驚きですね」
そんな他愛ない会話を続けること数分、アトラクションが停止した。どうやらこのお話の空間も終わりを告げたようだ。席を立つ柊の背中を追うようにしてアトラクションを後にする。そしてそのまま柊の背中を追っていく。
「……ところで」
「なんだ?」
「死ぬってどういうことだと思いますか?」
「……生命活動を停止する、っていう意味なことを問いかけてるわけじゃないんだよな? 概念としての意味というか、観念?」
「まぁ大方はそうです。死ぬことに対する価値観と言いますか。そういうのをお伺いしたくて」
幽霊ならではの質問だと思う。そもそも生きている人間は死に対して何か考えても、それが恒常に続くというわけではない。正反対の概念である「生」の概念が切っても切り離せないからだ。正の概念を装備しているときは、得てして負の概念に対しての理解は薄くなる……とはどこかで聞いたお話ではあった。
だからとりあえず、俺が答えられる範囲で柊に対しての返答を行った。
「……何かもできなくなって、希望も絶望すらも抱かなくなった状態、かな」
「つまりは、無感情で無動作であること、ということでしょうか?」
「そう、だな」
「………同意します。確かにそうだと思います、私も」
そういったきり、黙りこくる柊。その様子がどこかおかしくて違和感あふれるもので。俺は咄嗟に声をかけようとした。
どさり。
声をかけようとした俺に届いたのは、俺から出た声ではなくて、そんな音だった。どさり。その音が意味するところは、瞬時に理解することはできなかった。頭が真っ白になってしまって、何をどうしたらいいのか、そもそも何が起こっているのか、理解が及ばなかったのだ。ああ、もしかしたら理解したくないだけだったのかもしれない。とにかく、俺が今何が起こったか理解するころには、柊の細くて華奢な体躯は地面に横たわっていた。
「おい、柊! 柊!!」
「あ、す、すみません……。迷惑を、おかけして……」
「どこか悪いのか?」
「……ああ、そうですね。まさか幽霊になってからもこの病気に悩まされるなんて思いもしませんでした」
「病気……?」
そう、問いかける。
「ええ、病気です。……時に、先ほどお話した死の定義についてはまだ?」
「あ、ああ。覚えている」
「それですね、一つだけ違うところがあると思うんですよ。無感情と無動作はイコールではないんです。何かに対してもがいてもがいて、終ぞ達成できずに動くこともできなくなって、そして結果的に絶望する。それでもあがく、絶望する。そのループの末に、無感情になってしまうんです」
「……もしかして、それは柊自身が?」
不躾な質問だろう、聞いてはいけない類の質問だろう。でも俺はこの場でその質問をしなくてはいけないような気がした。なぜかは、何となく理解している。それがきっと、柊との相互理解に及ぶからだと、そう確信していたから。俺は浅慮だった。だが、その発言をしてしまった今、不思議に俺の心は何かを許容したようで、熱が引いて冷静になっていた。
ふいに、柊の顔が映りこんだ。その顔は辛そうでもなくなんでもなく、ただそこにあった結末を見透かすような、聡明な面持ち。黒く宝石のように輝く瞳は、今は何かを見据えて、そして諦念をあらわにしていた。その瞳が意味するところは。それは、俺には理解できなかった。でもなんだかそれがよくないもののような気がしてならない。
だから、声をかけようとした。
「動けずに、絶望を繰り返しました。何度も何度も。時折手を差し伸べられました。でもその手は脆くも崩れ去ってしまう橋への誘導でした」
「それは……」
「ALS、という病気をご存知ですか?」
聞いたことだけはあった。上司の友人が罹患し、その対応で上司がいくらか席を空けていたことを思い出した。その時の上司の顔はひどく切実で、とても辛そうだった。聞くところによると、病気の宣告から三年で亡くなったそうだ。治療法はいまだ確立されていない、いわば不治の病。まさか、まさか。
「……柊が?」
「ええ」
「何でこうも急に」
「それが幽霊と言うものなんじゃないんでしょうか? どうもこの一日に三年を凝縮しているみたいです。今はもう、腕も足も動きません。じきに言葉も話せなくなるでしょう」
「そ、それはいくら何でも」
「――非現実的すぎる、と唾棄しますか?」
……できなかった。それを唾棄するほど、今の俺には非現実を否定できるような状態ではなかった。そもそも柊という存在がここにあるのが非現実的だった。本来ならばここにあってはならないもの。それはこの世からすでに消え去っている記憶と人格であるはずだ。そんなものが今ここにいる以上に、非現実を否定できない材料はないはずである。
ああ、でも。それはいくら何でも非情だ。あえて続けるならば、この言葉。
「できませんよね」
そうつぶやいた柊は、空を仰ぎ見た。既に動くのは口と目だけ。この異様な風景を、しかし周りの客もクルーも認識していない。そこだけがまるで幽世であるかのように、人々の世界の中から断絶されていた。
「ああ、そうだ。私はこの後間もなく消えます。きっと満足したんでしょうか。たぶんそうでしょう。だってこんなにも心が温かいんだから」
「……俺はお前に対して、何かをしたというわけでもない。女性らしく扱ってもいないし、お前はまだこの遊園地を堪能してない」
「たぶんですね、お話しできるだけでよかったんですよ。きっとそれだけが心残りだったんです。ご存知ですか? ALSの患者は口を動かせなくなったが最後、他人に情報を伝達する手段を失うんですよ? 腕も動かないし、できることと言えば瞬きと視線を動かすことくらい。イエスかノーかくらいは返答できます。ただ、こちらから他人に意思を提示することはできない」
「……だから、コミュニケーションに飢えていた、と?」
「その通りです。そしてそれは、あなたも」
「………そう、なのかもな」
「あはは、その反応じゃあ、会話の楽しさを教えることができたみたいですね。何かを残すことができてうれしいです」
それは。その言葉は。
まるで、もう一度と与えられた機会をむざむざこのようなことに費やしても構わないといわんばかりに。
まるで、二度とない幸福を手放して、他者に譲渡するように。
まるで、淡雪のようにするりと消えると、その定めを知っていたかのように――
「じゃあ、さようならです。すみません、ワンピースと下着だけ、もらっていきますね」
「それくらいなら構わない……けど。でも、怖くないのか? 辛くないのか?」
「え? 確かに少なからずそういう気持ちはありますよ? でも、そうですね……。なにかてみやげがあったなら、この気持ちにも少しだけ落ち着きを持って当たれそうです」
「何がほしいんだ?」
そういいながら、柊はその瞳を細めて、俺のことを見つめてきた。最初にあった時のように無邪気な瞳。すべてを楽しいと取り込める、童女の瞳で。
「貴方の名前を」
そう呼び掛けた。
「俺の名前、か」
「ええ」
「……柊。柊 暮人」
「ああ、暮人さん……。最後に会話を交わす相手が貴方でよかった……。どうぞ幸せに。末永く、幸せに」
一つ、強い風が吹き抜けた。それは何かを攫って行くようで。しかし俺はその風の強さに、思わず目を瞑らずにはいられなかった。それが今生の別れだと知りつつも、視認は許されないと。影でそう囁かれたような気がした。
目の前には、ただただ空虚と静謐が広がっていた。最初からそこには何もなかったと、そう言わんばかりに。
◇
数年後。俺は結婚した。柊のような女性ではない。むしろ全く逆の、活発で元気な女性だ。三十も中盤の、まさかまさかの結婚に親族友人は歓喜の声を上げた。
だが、俺は少しだけの空虚を胸に秘めていた。この場で褒められるべき相手はいない。あの日、人生のうるおいについて語った柊は、俺の道を拓いて逝った柊はここにはいない。いくばくかの寂寥を感じて、その空漠に少しばかりの思いを馳せる。だが今日この場はめでたい席だ。そんなくらい思考を打ち切って、会場を見回した。
見れば親戚や両親が嬉しそうに涙を流していた。この歳になって女っ気の一つもなかった男に対しての諦念があったのだろう。確かに、俺があちらの立場なら泣いてしまうかもしれない。
「暮人さん」
「……なんだ?」
「楽しそうですね」
「……ああ」
楽しまなければ、なんだか彼女に申し訳ない気がしたから。俺は目の前のワインを一つ傾けた。
人は変わって、俺は女に対して興味を持ち始めた、酒を飲み始めた、様々な悦楽に浸った。だってそれが、彼女の望んだことだから。
――生を謳歌してください。それが生きとし生けるものの、最大の権利にして……最大の義務です
そんな声が、司会の声に混じって聞こえた気がした。