虚ろ
赤い文字が点灯している。
無骨な駆動音を発する自動販売機は、はっきりと売り切れを告げていた。大手メーカーの自動販売機。場所もまあまあ良く、季節は秋の終わり。欲しかったのはブラックコーヒー。問題なく得られるはずのものを得られなかった。平田修二は不機嫌にもう一度同じボタンを叩き、欲しかったコーヒーのラベルを憎らしげに睨んだ。ついてない。ようするにそういう事なのだろう。
しかし平田はこの「コーヒーが売り切れている」という事態に悪意を感じていた。
誰からなどではなく、もっと漠然とした「世界からの悪意」。それはここ最近平田に付きまとっている感覚だった。例えば信号がすぐ赤になったり、ベンチが全て埋まっていたり、電車が目の前で行ってしまったり。自分のあずかり知らない理由で世界から弾き出されている。つまらない事かもしれない。でも、こういう事があまりに続く。いつからこうだったのか、平田には思い出せなかった。あるいは生まれた時から続いている事態を、ようやく認識したのかもしれない。
「くそ……」
平田は苦虫を噛み潰したような顔で地面を蹴った。すると靴底から妙な感触が伝わってくる。本当についてない。
ねっとりとした靴底と地面を引き剥がすと、黒っぽいガムがぐちゃぐちゃになって張り付いていた。汚れたのか、もともとそんな色なのか、ガムはコンクリートに擬態しつつ、粘着性を保っていたのだ。
(ついてない……?)
(違う。これは明確な悪意。世界からの。だとしたら悪意のたどり着く先は——)
平田は周囲を見回した。世界は何の変哲もない夕暮。疲れた顔の人々が忙しく往来を行き来している。どこにでもある、街の喧騒。しかし平田には道行く人々の顔がこちらを見て醜悪に歪んでいる気がした。
(————そう————殺意)
「そりゃあ、気のせいだって平ちゃん」
街外れの居酒屋は平田たちのなわばりだった。その座敷で関口裕也は平田の話を聞くと笑い飛ばした。
「いいかい平ちゃん。笑う門にはぁ福来るってね。言うだろ?平ちゃんは気にしすぎなんだよォ」
関口はすっかりできあがっているようだった。枡に入った酒を、ワインを飲むようにくるくると回しては飲んでいる。こんな話は酔った奴にしかできないので平田には丁度良かった。
「お前はそう言うがな。現に今日は電車が先行きやがるわ、自販機のコーヒーは売り切れてるわ、挙句の果てに地面蹴ったらガムが付きやがったんだ。昨日なんかなぁ……」
「平ちゃん、最後のは不注意だぜ」
「うるせぇよ」
そう言うと平田は自分の枡をどかした。
「確かに自分でも妙なこと言っていると思うがよ。お前にはねぇのか?そういう……」
「『世界の悪意』ってやつかい?平ちゃんも詩人だなぁ。オレは考えたこともねぇや。バカだからよ」
「そうか……」
平田が押し黙ると、関口は思い付いたように口を開いた。
「でもよぉ、『悪意』ならしょっちゅう受けているじゃねぇか。この前抗争で潰してやった組なんてひどかったからよ。相当恨んでると思うぜ。命狙ってるって話だ。でもへっちゃらだろ?」
「そういうわかりやすいのはいいんだ。オレが言いてぇのは……」
平田が言いかけたところで、関口は話を遮るように一升瓶を前に出した。
「飲んで忘れな」
関口はそう言うと、平田の枡になみなみと酒を注いだ。
「オレはバカだから平ちゃんが何でそんなに悩んでいるのかよくわからねぇ。でも酒の相手くらいはできるぜ。だから」
関口は自分の枡にも酒をなみなみと注ぐ。そしてコツンと枡を合わせた。
「飲もうぜ。酒ってのはそのためにあるんだからな。オレはいつもそうしてきたぜ」
ぐいと関口が飲むと、平田も倣い一気に飲んだ。すると何がおかしかったのか、平田はくつくつと笑い出した。仕事で見せるような人を威圧する笑みではなく、心からおかしい時に出る笑いだった。やがて堪えられなくなったのか、平田は声を上げて笑い出した。
「ったく。おめえと話してると、どんな事も酒で消えちまいそうだな」
「そうさ!へっへっへっ」
関口もつられて笑っている。酒宴の盛り上がりに合わせるかのように、料理と酒が次々と運ばれてくる。
「うっしゃ!飲むか!」
平田は言った。
「おう!」
関口が応える。酒がうまいという感覚を、平田は久々に思い出した。
平田と関口が居酒屋を出る頃には、もうすっかり遅くなっていた。足のおぼつかない二人を、天を裂くような細い月が静かに見下ろしている。
関口は大きく深呼吸をして、体を整えた。
「じゃあ車呼ぶけど、平ちゃんも乗るだろ?」
平田の家はここから近い。歩いて五分もかからないだろう。それでも車に誘ったのは酒が入っているからだけではない。胸騒ぎだった。根拠なき凶事の直感が、今の平田を一人にすべきではないと言っていた。関口はこの手の直感を常に大事にしている。だからこの世界も渡ってこられたのだと自負していた。平田の与太話をまともに受けたのではない。ただ居酒屋での態度が気になっていた。
関口が携帯で車の手配を始める。しかし平田はそれを見ながら言った。
「オレ、歩くわ」
ハッとして関口は平田を見た。しかしすぐに相好を崩した。
「おいおい。大幹部平田修二様ともあろう方をこんな夜更けに一人で歩かせるわけにはいかねぇぜ?」
関口のふざけた調子に平田は乗らなかった。ただ静かに聞いた。
「不安にさせたか?」
じっと見据えて言う。この言葉に、関口は自分の心配が看破されていることを悟った。
「まあ、少しだけど」
関口は言った。
「オレが死ぬとでも?」
「そうじゃねぇよ。ただ何となくさ」
関口はしどろもどろに答えると、平田はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。酔いはすっかり醒めているようで、その笑みは平田の端整な顔によく似合った。
「オレは平田修二だぜ。一体誰がこのオレを殺せるっていうんだ?」
人は殺せる。その事をわかっている関口にとって、平田の言うことは矛盾の極地だった。しかしその矛盾をくつがえしてはばからないものを、関口は平田に見ていた。
鬼の平田。それが平田修二のこの世界で積み上げてきたものであり、それが全てだった。
「そりゃそうだな。いるわけねぇ」
「そうだろ。見てろ」
平田はそう言うと身をひるがえし、道の反対側にある自販機にずんずん歩いていった。
「平ちゃん?」
「オレはコーヒーが欲しい。熱いブラックだ!二本!」
平田はそう叫んで自販機に向かった。そして戻ってくると関口に缶コーヒーを投げて寄越した。銘柄は平田がよく飲んでいるものだった。
「これで文句ねぇだろ!」
「……ああ!」
「『世界の悪意』か。酔っていたとはいえ、オレにしちゃ随分センチな事口走っちまったな」
酔う前から言っていたような気がしたが、関口はそこに突っ込まなかった。
「おっ。車が来たぜ」
黒塗りのゴツイ車が二人の前に停まる。中から若い組員が出てきて、扉を開けた。関口が乗り込む。
「じゃあ本当に行っちまうぜ。寒いぞ?」
「くどい。歩きたいんだオレは。寒いけどな」
「そうか。じゃあまたな」
「ああ。じゃあな」
二人の挨拶が終わると、若い組員は待ちかねたようにアクセルを踏み、黒塗りの車は平田の家とは反対の方向に消えていった。
関口と別れた平田の足取りは軽かった。酒のせいもあるだろうが、それ以上にいい気分だった。それはここ最近のもやもやした感覚を関口に話すことによって吹き飛ばせた気がしたからだし、何より関口の心遣いがうれしかった。見上げる空は星の海。きらめきは希望。おぼろげな恐怖に捉われていた自分がいかに小さかったか。勝手な話だが、平田は今日の話を関口が忘れる事を願った。
平田は人気のない夜道を歩き続けた。点々と照らす街灯と、車もないのに粛々と働く信号の明かり。静かな夜だった。
平田は家の近く、公園の前に来るとふいに一服したくなった。ポケットを探ると幸い煙草は一本だけ残っていた。ついている。家の近くにあるこの小さな公園には大した遊具もなく、砂場とベンチがあるだけだ。子供もあまり寄り付かず、昼間でも閑散としている。まして今は夜中。人などいようはずもなかった。
平田は公園に一つだけあるベンチに腰掛けた。ほうと一息つく。煙草に火をつけ、ゆっくりと味わうように煙を吸い、吐いた。どこか遠くで聞こえる車の音と、風が木を凪ぐ音だけが聞こえてくる。穏やかだった。あまりの穏やかさに、自分の事とは思えなかった。
鬼の平田。そう言い出したのは確か関口だった。命を賭した鉄火場を、鬼のような強さで切り抜けていく平田を見て関口が畏敬をこめて呼び出した。
鬼。強さの象徴。邪悪なるもの。人ならざるもの。
血で血を洗う世界に生きて、千の快楽と万の苦痛を味わった。
人も、殺した。
そんな自分が風の音を楽しみ、星の光を見つめているなんて、どうにもおかしかった。いつから風が心地良く、星はこんなに綺麗だと感じられるようになったのだろう。平田にはわからなかった。
ただ、悪くない。それだけは確かだった。
煙草が短くなってきた頃、平田は公園の前に現れた影に気付いた。見ると若い……少年と言えるような若者が四人。いかにもガラの悪そうな見かけで、ニヤニヤ笑いながら近づいてきた。平田は煙草を吐き捨て、仕方なく立ち上がる。
「なぁ、おっさん。財布よこせや」
百九十はありそうな金髪が言った。一際派手なアクセサリー。こいつがボスだろうと、平田は思った。金髪の言葉で残りの三人がサッと平田を取り囲む。
「悪いなガキ。今持ってねぇ」
少しも動じず見据えて言った。すると金髪は平田の胸倉を取り、腹に一発。馬鹿でかいモーションで拳を入れた。殴る場所に気を使ってないので、見掛けほどダメージはない。しかし金髪は効いたと勘違いしたのか、薄笑いを浮かべもう一度。
「よこせや」
と言った。平田にはもう先ほどまでの穏やかな気分は消し飛んでいた。
代わりにどす黒い感情が体を塗りつぶしていく。
「鬼か……」
平田のつぶやきは、金髪には何のことだかわからない。しかし財布を出す気がないらしいことは理解した。だからもう一度殴ろうとしたときだった。
金髪の視界が歪んだ。掴んでいた胸倉の手は捻り上げられ、胃液の飛び出るような一撃が鳩尾に叩き込まれる。
金髪が倒れ込むと、平田は残りの三人に視線を巡らせた。まだ事態が把握できていないようなのか、呆然としている。
「素人が……!」
次の瞬間、平田はバックステップで蹴りを後方にいた一人に入れ、横にいる一人の顎を跳ね上げ、もう一人の鼻に拳をめり込ませた。一瞬だった。まるっきり相手にもなっていない。四人は獲物を間違えた。鬼の平田は常に狩る側の人間。四人の手に負える相手ではないのだ。
「うう……」
うめき声は完全に戦意の喪失を意味していた。しかしただ一人金髪だけが憎しみあらわに平田を睨んだ。
「てめぇ……殺してやる……このままで済むと思うなよ……」
金髪はうまく呼吸ができないのか腹をおさえ、息を切らしている。平田はそんな金髪の怨み言を無感動な表情で聞いていた。
「殺してやる……絶対ぶっ殺してやるからな……!」
能面のような表情は、まるで崩れない。
「オレにはなぁ……バックが付いてんだよ……大物がな……絶対に殺してやる……」
「……へぇ。名前は?」
別に何か問題があるわけではないが、一応後で挨拶できるよう、平田は聞いた。
「関口裕也……あの人にこのことが伝わればてめぇは……」
笑み。口を吊り上げるだけの、酷薄な笑みを平田は浮かべた。
ゾクリとした。このとき初めて金髪は凍るような恐怖を覚えた。
瞬間、金髪の顔面を平田は遠慮なく蹴り上げた。歯の折れる鈍い音がする。靴にべったりと血が付いた。
平田は金髪の襟を掴んで引きずり上げると、残りの三人に連れて行くよう命じた。
三人は金髪の肩を担いで、転がるように公園から逃げていった。
「ったくあの野郎。ガキにはかまうなと言うのに……」
平田が一人つぶやくと、それを機に夜の公園は再び静けさを取り戻した。
いや、静かになったハズだった。しかし平田の心はどうしようもなく昂っていた。
ひどく、気分が悪い。遠くで聞こえる車の音や、風が木を凪ぐ音が耳障りだった。
見上げる空は星の海。その瞬きが今は不安を掻き立てる。
どうしようもない自分の性を、自ら証明した。
それはあたかも逃れようもない終末の縄を自ら手繰り寄せているような焦燥。
もうあの穏やかな気持ちには戻れない。手足には血がへばりついている。目を閉じれば呪詛の言葉が聞こえてくる。平田はすがるように公園の近くにある自販機に駆け寄った。
「コーヒー!熱いブラックコーヒーが飲みたい!」
祈りとも願いともつかない叫びを上げて平田は小銭を自販機にねじ込んだ。
そして狂ったようにボタンを連打する。しかし一向にコーヒーは出てこない。その時気付いた。平田を拒絶するように灯る赤い表示。
背中をいも虫が這い回るような怖気が走った。
それと同時だった。
奇妙な音がした。まず布を裂く音、次に刃物が肉に突き刺さる音、最後は電灯が落ちるように切れた、命の音。
一瞬が永遠に引き伸ばされ、本来なら聞こえるはずのない音を平田は確かに聞いた。
次の瞬間、焼けるような痛みが平田を襲い、どっと仰向けに倒れた。
平田の腹には深深と包丁が突き刺さっている。血が冷たい地面に流れ出してゆく。
黒い影が自分に覆い被さってくるのを平田は見た。そいつは絶叫した。
「よくも!よくも!よくも!よくも!よくも!よくもォォォォォォォォォォーッ!」
そいつは腹の包丁を抜くと、今度は別の場所に突き刺した。
さっきの奴らじゃない。見たこともない奴だ。女のようだった。ぼさぼさに伸びた長い黒髪を振り乱し、一心不乱に包丁を突き刺している。
「よくも!よくも!よくも!よくも!よくも!よくもォォォォォォォォォォーッ!」
平田には何のことだかさっぱりだった。心当たりが、多すぎる。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねェェェェェェェェェェーッ!」
それは言葉ではなく咆哮だった。女は尚も包丁を刺し続けている。何度も何度も何度も。平田はその様子を見ていたが、やがて止めた。もうどうでもよかった。
代わりに空を見た。満天の星を裂くような細い月が平田を見つめている。
霞むような細い月だった。
最後の言葉は。
誰に言ったものなのか、自分自身判然としない虚ろな言葉。か細い声は音になっていたのかさえわからない。眼下の女に言ったのか、あるいは世界に言ったのか————
「ゆる……して……」
泡のように消えていく意識の中、平田は答えを待った。
返事は、なかった。
朝の墓場には濃い霧が立ち込めている。黒や灰色の墓石が折り目正しく並び、それを飾る卒塔婆がかしずく。手入れの行き届いた石畳には草一本生えていない。
霧の海が包み込むその光景は、いかにも死者の国にぴったりだと、関口は思った。
そしてこの場に生きている者が自分だけなのだと実感する。
関口はやたらと広い墓地を歩き回り、やがてある墓石の前に立ち止まった。黒く磨き上げられたそれはかなりの高級品のようだったが、関口にはどうでもいい事だった。それよりも花が朽ちていることが気になった。だがそれもまたどうでもいい事だった。
関口は懐から酒の小瓶を取り出すと、墓石の前に座り込んだ。
「……平ちゃん。あの女は始末しといたぜ。だから安心して眠りな」
関口は言い、小瓶のふたを開ける。きゅっという小気味のいい音が響いた。
「嫌な予感はしてたんだぜ……。居酒屋にいた時からよぉ。平ちゃん、カッコつけてたけどひどく怯えてた。他の奴にはわかんねぇだろうが、オレにゃあわかるんだぜ……。そうなったら終わりだってことも……」
関口は酒をあおった。胸が焼けた。
「鬼の平田ともあろう者が何やってんだよ……あんたは無敵で最強だと思ってたのによォ。世界の悪意?そんなもんあんただったら軽くひねり潰せるだろォ!何やってんだよ。何で死んじまってんだよォ!」
叫びは霧に吸い込まれた。冷たい空気が関口を冷ます。
「オレ……前まであんたがいた地位に就いたぜ。幹部だ。のし上がってやる。何人ぶっ殺してものし上がってやるからな。見ていてくれよ。オレは絶対——————」
言葉が切れた。関口が辺りの様子を伺う。どうやら人が来たらしい。あの世のような墓地に生者の気配が滲んでくる。関口は舌打ちをすると立ち上がった。
「じゃあな」
関口はそう言い、墓石の上から酒をかけた。琥珀色の酒がゆっくりと垂れてゆく。
関口はそれを見届けると踵を返し、墓石から去ろうとした。
その時、ふいに関口は石畳の隙間に足を引っ掛け、豪快に転んでしまった。高いスーツに砂がこすれ、転がっていた石で少し手を切った。
手を見ると血が出ていた。砂利の混じった赤黒い血。それは実際わずかな量に過ぎなかったが、血塗れになっているような錯覚がした。
ざわざわと人がやってくる声で関口は慌てて立ち上がる。
唐突に嫌な気分がした。ひどく不吉な気分だった。
化け物の胃の中にいるのに、それに気付いてない。そんな状態に自分が置かれているような錯覚。
(これじゃあ……まるで——————————)
だが関口はそれ以上考えなかった。考えたくなかった。
ただいつものように酒をあおり、再び歩き出した。濃い霧の立ち込める墓地で、関口の姿はあっと言う間に溶けていった。