風速3メートル
冬の海へドライブ。ジャズとブラジル音楽。LPレコード。
ランチの後のコーヒーを、彼と一緒に楽しんでいた。
彼は会社の同期で、お互い音楽好きで話が合うのだった。
彼は文学好きでもあり、学生時代には小説を書いたり、作家に憧れていたこともあった。大学を出た後はこの会社に就職したきりで、特に何も書いてなかったが、またいつか何か書いてみたいと思っていた。
その点でも私と彼は話が合った。
彼はその当時も気付いたことをメモしておく小さなノート(手帳ではない)を常に持ち歩いており、親しくなってからは昼休みに一息ついているとき、コーヒーなど飲みながら、そのノートを見せてもらったことがあった。
「どんなキーワードでもいいんだ」
彼は言った。
「気に入った言葉が見付かれば、その一言から物語を膨らませて、作品が書けると思った。想像力あればこそだけど」
風速3メートル、これもその小さなノートで見た言葉だった。
そのページには、一見無関係そうな乱雑な言葉が並んでいた。
抽象的な詩のようにもみえたが、連続ドラマのサブタイトルを集めた放映リストのような印象もあった。
「なんだい、これは?」
彼の几帳面な筆跡を目でなぞりながら、きいてみた。
「作品タイトルだよ」
彼は言った。
「え! もうこんなに書いたのかい?」
優に100は越えているタイトルの数々に驚いて、更に質問を重ねた。
「完成予定作品タイトルだよ」
彼は笑いながら言った。
「このうちのいくつかは実際に書いてみたこともあるんだ。でも、書いてみたことと、それが納得行く出来かどうかは別の話なんだ」
「こんなにランダムな言葉から話が書けるだけでも、かなり凄いじゃないの」
私は返した。風速3メートル、なかなか印象的な言葉だったから、私は更に尋ねた。
「これはどんな話になったの?」
私は、彼が既にこのタイトルで何かを書いているはずだと思った。
「ああ・・・」
彼は苦笑しているように見えた。
「書き始めたけど、やめたんだ。」
「どうして?」
彼はまた苦笑した。
「自分がモデルだと、書きにくいものなんだ。」
彼はそう言うと、ストーリーを話し始めた。
「学生の頃、僕はいくつかのサークルをかけもちしていたんだけど、やはり、音楽関係のものが多かった。なかでも、当時はまっていたのはジャズだった。
よくあるパターンだと思うけど、ビル・エヴァンズから始まって、ピアノ・トリオなんかよく聴いたんだ。
ある日、サークル仲間の一人がうちに遊びに来て、僕が集めたその辺のレコードを、CDじゃなくて、アナログ盤だったけど、何枚か貸したんだ。
そう、LPだよ」
「10インチやドーナツ盤じゃなくてね」と彼はにこやかに言った。
「何しろ、ジャズのレコードは、ジャケットのデザインもかなり重要な要素だったから。ブルー・ノート・レーベルにやはり好きなものが多かったな。
君も知っているソニー・クラークの『クール・ストラッティン』なんて、LPでなけりゃ絶対いけないと思った1枚。むろん、いい音で聴けるならCDでもいいと、今は思うけど、飾って眺めて嬉しくなるのは絶対LPだよ。
そういえば、チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』っていう有名な盤があるんだけど、カモメが飛んでいるジャケットでね、けっこう気に入ってたんだけど、ジャケットの端が折れ曲がって戻ってきて、ブルーな気分になったのを覚えてるよ。好きで飾っていたやつを貸してやったんだけどさ。
・・・脱線したな。
話を戻すと、その友達がけっこう遅くまで部屋にいて、終電がなくなっちゃったから、車で送っていくことにしたんだ。今は車は持ってないけど、その頃は中古の軽自動車を持っていたから、予算の都合で軽だったんだけど、その愛車でね。
そしたら、車に乗り込んでしばらく走ってから、急にそいつがさ、「思い出した!」なんて言いだしてね、「今日は別のサークルで飲み会をやってるから、そっちにまわってくれないか」なんてさ。調子のいいこと言いやがって。
オレはちょうどいい足代わりかよ、とうそぶきつつ、行ってやったよ、そいつのいう店まで。始発が動く頃までやってる店で、けっこう近かったから。
なんのサークルなのか訊いてみたら、「ブラジル音楽同好会」だって。
ちょっと驚いた。
当時は今みたいにブラジルの曲が気軽に聴けるような時代じゃなかったから。レコード屋も今ほどなかったし、探すのに一苦労だった。それがまた楽しくもあったんだけど。
そいつを店に送り届けたら、深夜だったし、僕は帰らせてもらおう、と思っていたんだけど、「おまえもちょっと寄っていけよ、紹介したいから」とか何とか言われて、ブラジル音楽に興味ありだったこともあって、その気になった。
当時の僕はジャズの方からボサ・ノヴァに興味を持って、スタン・ゲッツを入り口に、アントニオ・カルロス・ジョビンの作品は好きだったな。ジョアン・ジルベルトだって今でも好きだし。これをきっかけにブラジル音楽、というか、ボサ・ノヴァの名盤について情報が増えたらいいなと思った。レコードガイドもなかったし。
それで、そいつと一緒にその飲み会に途中参加したんだ。
アルコールは口にしなかったけど・・・ちょっと飲んだかもしれないな。
時効だね、許して」
彼はちょっと舌を出して見せた。
「当然だけど、既にみんなできあがっていて、そろそろ次の店に行こうと思ってたらしかった。深夜だっていうのに。開いてる店なんてあるのかな、と思ったな。細かい経緯はもう思い出せないんだけど、そこで僕は、サークルの一員の彼女に初めて会ったんだ。
夏だったから薄着で、けっこう胸があるなあなんて思ったのが第一印象だったけど(苦笑)、どんな娘かなんてことよりもね。
この前君に貸したCDに、カエターノ・ヴェローゾとマリア・クレウーザがあったと思うけど、その辺のやつは彼女に教わったレコードなんだ。
ジョイスも彼女から借りて初めて聴いた。
例の友達はオレにブラジル音楽の事なんてこれっぽっちも話してくれなかったけど、彼女は、素敵な音楽をいくつも教えてくれたんだ・・・。
そういえば、ボサ・ノヴァ40年か何かの記念で、大御所のホベルト・メネスカルとカルロス・リラの二人が来日したとき、たまたま僕はタワー・レコードにいて、インストア・イヴェントに思わず参加したよ。
でも、その時はメネスカルやリラが如何に偉大かということを知っているやつがあまりいなかったみたいでね、CDを買えば直接サインがもらえるというのに、遠巻きに「何だろう?」というような奴らばかりで、あまり盛況とは言えなかったなあ。サインをもらえて、握手も出来て、僕は感激だったけど。
・・・何の話だっけ?
ああ、そうか、それの続きね」
「冬の海を見に行ったんだ。」
彼はひとくちコーヒーを飲んだ。
「彼女とは二人きりで会うようになって、何度もデート・・・デートだよな、あれでも」
彼はそうつぶやくと、続けた。
「最後のデートになりそうだ、っていう予感はあった。
開口一番、「海が見たい」なんて言うもんだから、そうしたんだ。
大滝詠一の“雨のウェンズデイ”みたいだろう?
いつもなら、いったい何時間かかると思ってんだよ?!、とか言いそうなのに、僕はうなずきもせず、すぐに運転席に乗り込んでた。
ドライブしたよ、僕の軽自動車で。壊れかけたワーゲンじゃないけど。
どうせ行くならきれいな砂浜がいいなと思って、ちょっと調べて。
夏だったなら人だらけですごいことになっていたんだろうけど、何しろ冬だったから、そんなに人の出は気にならなかった。平日の昼間で道もすいてたし。ウインド・サーフィンをする奴らがちらほらいたな。静かすぎるよりは、その方がよかったね。
風は少し強かった。僕は寒がりだから、車の外に出るのをちょっと躊躇した。
駐車スペースに車を駐めると、彼女は静かにドアを開けて外に出た。
防波堤により沿うようにして海を眺めている姿が、なんだかとても絵になっていて、つい見とれてしまったほどだった。
なかなか僕が外に出ないもんだから、彼女はわざわざこっちに戻って、運転席のドアを開けたんだ、無言で。そうなるともう出るしかないじゃない?
彼女についていく感じで、防波堤に沿って少し歩いてから、砂浜におりた。
言葉を交わすこともなく、ただ、歩いた。
何と言えばいいだろう・・・二人で砂に夢中で足跡を並べていた感じかな。
気がついたら駐めた車がかすむぐらいの距離になってた。
何でだろうな、不思議な空気に包まれていたというか、言葉は交わしてないけど、コミュニケーションは確かにとれていた気がする。同じ時間に同じ場所で、同じ風に吹かれていたからか、なんてね」
彼は遠くを見るようなまなざしで、想い出をたどっているようだった。
「そのうち、サーファーたちが陸に上がりだした。まだ日はけっこう高かったのに。「今日はもうだめだな」とか何とか言いながら、残念そうに帰って行くんだ。
と、そういえばいつの間にか風が止んで、いや、とても穏やかな風になっていた。
波は静かに寄せて返し、彼らには悪いけど、僕はこの方が遙かにありがたかった。
彼女の足跡は僕の前に相変わらず並んでいて、僕は立ち止まってしばらく彼女を眺めてたんだ。どこまでいくんだろ、ひとりで、このまま、って思いながら。
彼女は自分の足元と、打ち寄せる波を左に見ながら歩き続けて・・・五分ぐらい経ってからだったかな、我に返ったらしく、立ち止まってあたりをきょろきょろした。
それが妙に可愛かったから、よく覚えてる。
僕がずいぶん前に歩みを止めていたのに気がつくと、こっちを向いて腕組みをしながら怒っているようなそぶりを見せた。僕は両方の手のひらを肩のあたりでそれぞれ上に向けて、おやおや、というジェスチャーを返した。
彼女はこっちへ引き返してきた。それも今度は走って。犬の散歩に来ていた人とすれ違うときに、相手に砂をかけてしまいそうな勢いで。
僕はその場で待ってた。
なんとなく、だけど、ここから先には行けないと思ってた。
程なく、彼女が息を軽く弾ませて返ってきた。砂浜を走るなんてさぞ疲れたのではと思いきや、なんてことないようだった。
ふうっ、とひとつため息をついてから、海の方へ向き直り、気持ちいいね、とひとこと言った。僕にというよりは、波に向かって話しかけたようだったけど、確かに、とても気持ちいい風が吹いていた。
僕たちはしばらくそのまま、並んで海を、波を見ていた。
ときどき鳥が、あれもカモメかな? 自信ないけど・・・『リターン・トゥ・フォーエヴァー』とは違うけど、2羽とか3羽とか連れだって、視界の左右をよぎった。彼らも気持ちよさそうにみえたし、その背景に広がる海は、沖の方がきらきらと輝いて、とにかく美しかった。
「3メートルだって」と不意に彼女が言った。
何が? と言いかけたところで、彼女は走ってきた方向を指さした。
風速計の電光表示がその時「3」になっていた」
・・・そこで、彼は話を止めた。
「この話は、これで終わるんだ」
「え?」
「タイトルどおり、だよ」
意外な終局に「それから先は?」と促すと、彼は笑って応えた。
「どうにもならなかったのさ。」
彼は言った。
「二人で車に戻って、その時は浜ではなく道路に出たんだけど・・・彼女がそうしたからなんだけど、僕はそのまま浜を引き返そうとしてたから、今度は僕が走って追いつく番だった。彼女はもう波にも砂浜にも興味がなさそうだった。僕は足跡のことを思い出して、何度か右側の砂浜を覗いた。でも、距離があったからか、波や風のせいか、あれだけ並べた足跡はもう分からなかった。潮が満ちてきていたかもしれない。
僕は彼女を車で送っていった。車中では今度は二人とも音楽のことをよく話した。
何かカーステでかけていたのは間違いないけど、覚えてない。ラジオじゃなかったと思う。ブラジル系だったかなあ、やっぱり・・・。こういうの好きなの?とか、あれ聴いたことある?とか、そんな感じで。
行きは遠かったように感じた道のりが、帰りはあっさりついてしまった気がした。
車を左に寄せて停まると、彼女はすぐにおりて、運転席の僕の方にまわった。
彼女は少しかがんで窓をノックするポーズをする。
僕は窓を開ける。
「それじゃ、ここで」と彼女が言う。
いつもと同じだった。
「あがってコーヒーでも?」と、彼女はよく誘ってくれたのだけど、ついに一度もごちそうにならなかった。
何で、って言われても・・・その時ではないと思ってたから。
ただ、その時はコーヒーの話は出なくて、「気をつけて帰ってね」というと、バイバイって感じで右手をふって、まっすぐ部屋に向かって歩き出した。
僕は、いつもならしばらく見送るところだったけど、その道はあまり広い道路ではなくって・・・」
ここで彼はまたひとくちコーヒーを飲んだ。
「普段は交通量が少ないのに、たまたまその時は対向車と後続車の両方が来ていて、すぐに出さなくてはいけない状態だったから、言葉を返す間もなく車を動かしたんだ。
彼女はよくふり返って手を振ってくれることがあったけど、その時は・・・」
彼は首を振った。
「だから、僕が見た彼女は後ろ姿のままで途切れてるんだ。
それから一度も会うこともなく、消息も知らない。
でも、時々ふと思い出すことがある。
そういうときはやっぱり、こうしたカフェのBGMで、ミルトン・ナシメントが流れていたりするんだから」
「音楽の力はすごいと思うよ」
そう言いながら、彼は腕時計を見た。
なるほど、そろそろ昼休みは終わりだ。
彼は小さなノートを閉じた。
私はもうひとくちコーヒーを飲んだ。
2005-2007頃