1-6 金曜日 (1)
金曜日である。
昨日はシフトにより一日休んでいた筒井優花に、前日の出来事を細かく教えてくれる人物はいなかった。彼女には、親しく話せる者がいなかったのだ。この、サンシャインマート茅場町店の中に限った話だが。
白い防護服姿の団体客が押し寄せ、大入りだったということなど知るはずもない。
毎朝の更衣室の噂話を聞いても、優花にはいまひとつ状況が分からなかった。わかっていることといったら、今日は盛田が休みで、優花が一人でサービスカウンターの対応をすることくらいだ。
まだ若く、新人である優花にとって、頼る者がいないというのは不安でしかなかったが、盛田の厳しい視線がないのだと考えると、正直なところ気楽でもあった。さすがに半年もやっているのだから、大抵のことは一人でも対応できる、という、ささやかな自信も持っていた。
少し早かったが、着替えを済ませ、バックヤードからフロアに出ようとした時だった。
「ああ、待って! ええと――筒井さん……かな?」
背後から声をかけられ振り向くと、白衣にエプロン姿の女性従業員が立っていた。
顔は、つばのついた白帽子とマスクにほとんど覆われていて、目の部分しか出ていない。生鮮部門の従業員はみんなこういう服装をしているので、優花には見分けがつかず、積極的に話しかけたことなどない。
声の主は若々しく、まだ二十代のように思われた。「星野彩」という名札がエプロンについている。
星野は、持ってきた小さなテーブルをその場に置き、紙製のマスクと使い捨ての手袋を置いた。
『フロア従業員の皆様は、念のため携行して下さい 店長』
というメモが添えられている。
「間に合って良かったあ。昨日のあれがあったから、念のため今日も持っておけって、店長が。わたしたちは、ほら、年中こんな恰好だから、あまり関係ないけどね」
そう説明する星野のマスクの下はおそらく、人懐っこい笑顔なんだろう、と想像させた。
「昨日って、なにがあったんですか? わたし、休んでいたので……」
不安そうにたずねる優花に、ああ、と、小さくうなずいてから、星野は話し始めた。
「わたしたちはずっとバックヤードにいたから、詳しくは知らないんだけどね、きのうは汚染された世界と繋がっていたんだって。結局、汚染物質は侵入してこなかったらしいけど、念のためってことじゃないかな? まあ、おかげさまで、クリーンな野菜や魚が売れまくって、嬉しい悲鳴が響き渡ってたって話よ」
優花は、半分わかったようなわからないような、中途半端な相槌を打ちながら聞いていたが、実際は星野の話についていくのがやっとだった。
「ああ、そうですか、どうも」
我ながらそっけない返事だったかもしれない。もしかしたら頭も下げなかったかもしれない。しかし優花は、星野の説明がちゃんと理解できず、そのことで頭がいっぱいだった。開店前で忙しいのか、星野はすぐに調理場に戻って行った。
紙マスク一枚と手袋を一対持って、優花はサービスカウンターへ向かった。さっきの、人がよさそうな星野と、引っ込み思案な自分とを比べて、つい落ち込んでしまう。
(あーあ、わたしってダメだなぁ。せっかく、年齢の近そうな人と話せたのに。もっといい感じに会話できないのかな)
優花は、開店前の準備で忙しく動き回っている品出し担当者たちを横目で見ながら、フロアを横切った。他の従業員たちは、すれ違いざまに声をかけあったり、短い世間話などをしている。優花にはそういう、気軽に話せる相手は一人もいなかった。それが、自分が若すぎるせいなのか、あるいは消極的な性格のせいなのか、よくわからなかった。
入口のほうを見ると、龍二と麻衣がいて、外を見ながら話し込んでいるようだった。優花も、大窓から外の様子を見てみたが、何の異状も感じられなかった。そして、おとといの朝にそうしていたように、龍二は自動扉から外に出ようとしていた。
今日は見えない壁が既に発生しているようで、龍二は何もないところで弾き返され、勢い余って大きくのけぞっていた。あれがパントマイムだったとしたら、大した腕前なのだが。
越後谷フロア長は見当たらなかった。今日は休みなのかもしれない、と優花は思った。
ふと、背後に人の気配を感じた。
「おはようございます、筒井さん」
声がして振り返ると、見覚えのある、しかし意外な顔があった。
「おはようございます。あれっ……どうしたんですか」
そこにいたのは、事務員の後藤香織だ。
普段は地味な色しか着ない印象の後藤だったが、今日はレモンイエローのシャツを着用し、明るいオレンジ色のカーディガンを羽織っている。これは、フロアで接客業務をする優花たちと同じ服装である。
イエローとオレンジは、サンシャインマートのイメージカラーであるらしい。自分たちは普段から着ているので何とも思わないが、後藤がその恰好をしているのがなんだか新鮮で、優花はついつい見入ってしまった。
「今日は、サービスカウンターとレジを兼任することになりました。事務は久保田さんにお任せしてあります。ここの仕事は三年ぶりなので、わからないことが多いかもしれません。筒井さん、どうかよろしくお願いしますね」
そう言うと後藤は軽く頭を下げた。
「は、はい、よろしくお願いします……」
勤務歴半年の優花も、実際にはわからないことだらけなので、そこまで礼儀正しくされると、かえって引け目を感じてしまう。
(それにしても、後藤さんって、実はけっこう美人だったんだ)
優花が知っている後藤は、いつもパソコンに向かっていたり、受付に座っていたりする姿で、飾り気がなく地味で真面目な印象だった。しかし、今日はフロアに出るためなのか、適度な化粧をほどこし、束ねられた髪はシンプルなバレッタで留められていた。タイトスカートの裾から見える脚のラインはすらりと美しい。
後藤と同じくらいの年齢では、グロッサリーの麻衣も美人だが、彼女とはまた方向性が違っている。華やかでエネルギッシュな麻衣とは異なり、後藤の自己主張は控え目で、清楚でありながら凛々しさを感じさせた。
自分が目指すべきは、きっとこういう大人だ。三十を過ぎるころには、こんな女性になっていたい、と優花は思った。
そうしているうちに、開店時間を告げるアナウンスが流れた。
しかし、窓の外を見ても、通行人も走る車も見えず、客が来る気配は少しもなかった。
「昨日も、こうだったらしいわ。お客様は大型バスでやってくるの」
「そうなんですか」
優花は、後藤と短い会話を交わしたが、それ以上話すことも見つからなかった。店内放送で流れる音楽が、客のいないフロアにむなしく響いていた。
やることがないので、優花は後藤と一緒に、ギフト用商品のストックを包装紙で包んでいた。本来は、注文があってから包装することになっているのだが。
「ごめんください」
突然、カウンターの向こうから声がした。
二人が同時に顔を上げると、白い防護服に身を包んだ客が立っていた。フードとマスクで顔はほとんど見えないが、声からすると中年女性である。
窓の外を見たが、まだバスは来ていない。ほかの客の気配もない。
後藤の話では、客はバスで一斉にやってくるはずだ。腑に落ちないところはあったが、昨日は昨日だ。優花はあまり深く考えないようにして、普段どおりの笑顔で客にあいさつをした。
「はい、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ、じゃありません。この店は一体どうなっているのですか」
中年女は、いきなり怒り出した。
「あの……。お客さま、どうなさいましたか」
優花は、不安をなるべく表に出さないように、平静を心がけながら客に訊ねた。後ろのほうからは、後藤が成り行きを見守っている。
「どうなさいましたか、ですって? あなたのような若い人では話になりません。店長を呼びなさい、店長を!」
客の女は大声で怒鳴り始めた。優花は気が気でなくなっていた。
『店長を呼べ』。
クレームをつける客のお決まりの台詞だが、大抵の場合は、最初に対応した店員といくらかの応酬の挙句に出る言葉である。そもそも、何でもかんでも本当に店長を呼ぶべきではない。
「お客さま、まずはお話をお伺いしてもよろしいですか」
なんとか客に落ち着いてほしいと願う優花だったが、中年女は何がそんなに腹立たしいのか、いっこうに矛を収める気配がない。
「あなたたちは、日本語がわからないのですか? ここの責任者を呼べと言っているのです! わたくしは忙しいのですから、早くなさい! 店長ですよ、て・ん・ちょう!」
優花は泣きたくなった。
いくら店が奇妙な世界とつながっているとはいえ、こうも毎日のようにクレームが続くと、元々揺らぎかけていた自信が、すっかり崩れ去ってしまいそうだ。
ぽん、と、優花の肩に後藤の手が置かれた。
「お客さま、まもなく店長の広瀬が参ります。少々お待ちください」
後藤が内線電話で龍二を呼んだのだ。
女性客は、カウンターの丸椅子に座って、ふてぶてしくくつろいでいた。どこから出したのか、ペットボトル入りのお茶を飲んでいる。優花は、ほっとした反面、自分が情けなくなった。
後藤の内線電話で報告を受けた龍二は、速足でサービスカウンターへ到着した。
「お客さま、お待たせいたしました。店長の広瀬です」
龍二が丁寧にお辞儀をすると、女性客は満足そうに、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「あら、またお会いしましたね」
「……え?」
龍二は、記憶をたどってみたが、この女性客は見覚えがない。少なくとも最近は。まあ、龍二の記憶力自体は、それほど信用できるものでもなかったが。
中年女は立ち上がり、優花と後藤のほうに向きなおって、頭を下げた。
「あなたたち、失礼なことを言ってごめんなさい。いろいろ調べたり試したりした結果、あれが店長を一番はやく呼べる方法のようでしたので」
優花はわけがわからず、とりあえずその女性に頭をぺこりと下げた。後藤も、まったく事態が飲み込めないという表情だ。
中年女は、再び龍二のほうを向くと、丁寧な口調で言った。
「広瀬店長。わたくしたちはまず、あなた方に謝らなければなりません。すべて、わたくしどもの失態でございます」
「え、あの……。お客さまは、一体何の話をされているのですか」
龍二には、まったく心当たりがない。
「そうですね、あなた方もお忙しいでしょうから、手短にお伝えしましょう。まずはこちらへ」
女性客が右手をすっと上げると、龍二たちの四方に光の壁が出現し、あっというまに囲まれてしまった。
まぶしさと圧迫感に、龍二は目を閉じた。体がふっと浮き上がったような感覚があり、ファックスの受信音に重低音を混ぜたような、耳障りなノイズが聞こえる。
龍二は思わず耳を塞いでしまった。
「――ああ、ごめんなさい。もう目を開けても大丈夫です。危険はありません」
雑音の中から浮き上がるように、女性の声だけがやけにクリアに聞こえる。不快音はいつのまにか止まっていた。龍二は目を開けた。
「きゃあっ!」
すぐ隣で小さく叫んだのは優花だった。悲鳴の理由はすぐにわかった。
「なんだ、これは……」
龍二の口から思わず言葉が漏れた。
足元にあったはずのタイル張りの床は、消え失せていた。その代わりに、はるか下方の遠くに、ジオラマのような小さな街並みが広がっている。まるで、高層ビルの展望台から真下を覗きこんだような光景だ。
見慣れた店内の風景はなくなっている。
頭上には秋の空があって、刷毛で伸ばしたような雲がやけに近く感じる気がした。遠くには紅葉の始まった山々が見え、その反対側には青い海が広がり、水平線が見える。
「街の上空に、浮いている!?」
一般常識をすべて押しのけた末の、得られた答えがそれだった。
龍二の近くに見える人間は、優花と後藤、それに、防護服を着込んだ客の中年女だけだった。
優花はおびえた様子で、後藤の着ているカーディガンの裾をつかんで、立ちすくんでいた。龍二の目から見ると、みな、足場のない空中に立っているように見えた。
しかし、浮いているにしてもおかしい。足元には硬い床が存在するような感触がある。そして、空中にいるにしては、風の動きがまったく感じられないし、さっき龍二が声を出したときには、狭い部屋にいるときのような反響を感じた。
客の女は、丁寧で穏やかな口調で、龍二たちに語りかけてきた。
「みなさん、驚かせてごめんなさい。まずは、わたくしたちのことを理解していただきたく、ここにお連れしました。言葉で説明するよりも、実際に体験していただくのが、一番宜しいかと考えたのです」
龍二には、女の言うことの意味が分からなかった。
優花たちはすっかり怯えていて、しかし動くこともできず、不安そうにすがるような瞳で龍二を見つめていた。
次に発するべき言葉を選んでいるとき、中年女が何かに気づいたように、急にうろたえ始めた。
「ああ、どうやら、怖がらせてしまったようですね。これはとんだ失礼をいたしました」
視界が突然暗転した。
真っ暗、と感じたがそうではない。屋外から急に薄暗い室内に入ったときと同じで、目が慣れると、徐々に周囲が見えてくる。
龍二たち四人は、今度は殺風景で小さな円形の部屋にいた。
足元に床があることは確認できたが、それ以外は、無機質に湾曲した壁がおぼろげに見えるばかりで、この部屋が何なのかはさっぱり分からない。壁に沿って、ネオン管のような光るラインがぐるりと一周しており、それがぼんやりと室内を照らしている。
(ここはどこだ? そして、この女は何者だ?)
不安と猜疑心でいっぱいになりながら、龍二は目の前の不思議な中年女を見ていた。
「申し遅れました。わたくしは、『エルフィン』のフリュカと申します。そしてここは、わたくしどもの研究所でもある浮船でございます。疑似全面ウィンドウは、皆さまの恐怖心をあおるようでしたので、映像を遮断させて頂きました」
女は、そのように自己紹介と説明をしたが、誰にも理解できなかった。龍二は、優花と後藤の顔を順番に見たが、二人とも無言で小さく頭を横に振るばかりだ。
龍二は思い切って口を開いた。
「え、ええと――ナントカの、フリュカさん……とおっしゃいましたか」
「エルフィン、のフリュカです。人間ではありません。わかりやすく言うと、宇宙人ということになります」
「はい? う、宇宙……」
宇宙人!?
龍二は大声で叫びたい衝動を抑えつつ、二人の女性部下のほうを振り返った。
後藤はかろうじて正気を保っているようだったが、優花の顔色は真っ青だ。
「……後藤さん、筒井さんをそこに座らせてやって」
「は、はい」
後藤は、優花の体を支えるようにして、ゆっくりと座らせ、楽な姿勢をとらせた。緊張と不安の連続により、立っているのがやっとだったのかもしれない。龍二は内心、後藤には相談相手になってほしかったのだが、優花を放っておくわけにもいかなかった。
前を見ると、白い防護服に身を包んだ、自称宇宙人の女――フリュカが立っている。その地球人にそっくりの姿を、蛍光灯よりも冷たい、青白い光が照らし出している。どうやら、武器や拘束具の類は持っていないようだ。
龍二は、目だけを動かして室内を観察した。出入り口や窓らしきものは見えない。
(こうなっては、おれ一人でも、この宇宙人と対峙するしかないか)
そう覚悟した龍二だったが、自分は単なるスーパーマーケットの店長にすぎない。優花も後藤も、龍二の知る限りではごく普通の一般人である。宇宙人相手に、一体何ができるというのだろうか。