1-5 木曜日
木曜日になった。
窓の外の景色は、嵐でも雪でもなかった。季節相応の、ごく普通の秋晴れの空があった。
今日こそは通常営業か、と、龍二はかすかな期待を抱いたが、店舗入り口には例の空気の壁が存在していた。裏の従業員専用口に回ってみると、空模様が微妙に異なっている。やはり今日も、別の世界に連結しているようだ。
昨日とおなじように、龍二は越後谷と一緒に大窓から外を見ていた。
「お代官はどう思う?」
「これはさすがにわかりませんね。うっすら出ている雲も、秋の雲らしく見えますし」
二人して、しばらく唸って考え込んでいたが、龍二が思いついたように口を開いた。
「あっ、よく考えたら、元の世界と目に見えて違っているとは限らないよな。どこかがちょっぴりだけ違う、そっくりさんの世界があったっておかしくないんだよ。それに、例えばだけど、公用語がドイツ語の世界になってるとかなら、見た目でわからない」
「――それって、通貨は円のままなんでしょうか?」
越後谷が真顔で聞きかえしてきたので、龍二は思わず吹きだした。
「ものの例えだって。――まあ、それは開店してみないと分からないな。おれ、フロアに残ってお客の様子を見てみようと思う」
「僕も残ります」
龍二と越後谷は、客に警戒されないように、なにか仕事をするふりをして観察することにした。龍二はサービスカウンターに入り、越後谷はシフトが休みになっている麻衣に代わり、品出し担当者を装った。
開店のアナウンスとともに、自動扉のスイッチが入った。いつもならこれで、開店待ちに並んでいた客が、少なくとも十数人は入ってくる……はずだった。
ところが、客がひとりも入ってこない。
五分、十分、二十分が過ぎても、状況は変わらなかった。さすがにしびれを切らした越後谷が、サービスカウンターの龍二のもとにやってきた。
「龍さん、まずいです。この世界ではお客は来ないのかもしれません」
「ん? ――ああ、お代官か。いま大事なところなんだよ。盛田さん、ここはこれでいいのかな」
龍二は、盛田にギフト包装のやりかたを教わっているところだった。
「お代官は器用だから、これ、できるんじゃないか? 円筒形の包装。これがうまくなれば、海苔の缶なんかも包めるんだけど……ああ、ちくしょう、すぐ紙がしわしわになるんだ」
「ああもう、何やってるんです! この大変なときに……」
普段は冷静な越後谷だったが、厳しい売り上げノルマがかかっているせいもあり、珍しく苛立っていた。
このサンシャインマート茅場町店は、ただでさえ付近に競合店ができて苦しいところに、原因不明で別世界につながってしまったのだ。その上で、売り上げ金額前年比102%達成が必須なのである。これで焦らない人間はいないだろう。
……いや、一人いた。自分の目の前に。越後谷はあきれてため息をついた。
「ちょっと僕に貸してくださいよ」
越後谷は、龍二から茶筒らしき缶と包装紙を奪い取ると、器用にくるくると包み始めた。丸い部分はきれいにひだを寄せて、巻きながら整えている。その手つきを見て、ベテランの盛田も感心しているようだった。
「まあ、フロア長はお上手ですね」
「こいつ、昔から器用貧乏なんだよ」
「貧乏って言わないでください。まあ、実際の役には立ってませんが……」
手早くひとつの缶を包み終え、越後谷は別の缶に手を伸ばした。
さっきまで缶と包装紙に夢中になっていた龍二は、越後谷に対象物をとられて、急に手が空いてしまった。
ずっと前かがみになっていたせいか、肩の凝りが気になる。まずは体を起こして首を回し、腰に手を当てて反り気味に伸ばしながら、外の様子をみているとき、ふとあることに気が付いた。
「盛田さん、きょう、外に通行人を一人でも見た?」
「そう言われれば。ずっと見ていたわけじゃありませんが、一人も見なかった気がしますね」
「ふーむ」
龍二は大窓のほうへ歩み寄った。
すぐ外は来店者用の駐車場で、その前を片側一車線の道路が走っている。この位置関係は、もとの世界と変わりがない。いつもなら絶えず車が行き交っているのだが、いまは一台も見えない。
店の前の道は古くからある道で、それこそ、茅場の幻影城の民話に出てくる、峠へ続く道だったと言われている。運命が多少違っていても、この道路は人々の生活をつなぐ、不変の道だということなのか。
龍二がそんなことをぼんやり考えていると、後ろから越後谷の声がした。
「龍さん、この缶、あと何個包めばいいんです?」
「え? ――ああ。別にそれは……。ただの練習だから……」
その言葉に越後谷の手がぴたりと止まった。
「マジですか!? 注文の品とかじゃなかったんですか!」
「ああ、すまんすまん」
笑ってごまかす龍二だったが、越後谷は真顔で怒っていた。彼は無駄を嫌う性格で、紙の一枚や一分単位の時間にいたるまで、とことん大事にしないと気が済まないのだ。一言で言うと「ケチ」である。仕事のデキるイケメン越後谷に、唯一の欠点があるとしたらそれかもしれない。
龍二は、昨日床に落としたギフト箱を六個も捨てたなんて、こいつにだけは言えないと思った。
勤務時間内に無駄な行動をしていたことを責められ、龍二が劣勢に立たされていたそのとき、盛田が声を上げた。
「店長、外を見てください。車――いえ、バスです。大型バスが来ました」
龍二は窓の外を見た。観光バスのような大型乗合自動車が駐車場に入ってきたのだ。越後谷も固唾をのんで様子を見守っていた。
バスはまもなく駐車位置に停まった。扉が開き、中の人々が降りてくる。
「これは――奇妙だな」
バスから降りてきた人々は、性別も年代もばらばらのようだったが、みな同じような恰好をしている。それはニュースなどで見覚えがある姿だった。三人ともが同じひとつの可能性を疑った。
このままでは、店が危険に晒されるかもしれない。
「いや、まだ確定はできないぞ。――だが、お代官はホームセンターで例のアレを買ってきてくれ。おれはフロアに残って、若い従業員を中心に退避させる」
「わかりました。急ぎます」
龍二は緊急の店内放送を行った。
フロア内の安全が確認できるまでは、指名された従業員以外は、バックヤードから出てこないように指示をした。その退避勧告により、レジチェッカーが大幅に減った。フロアに残った数名の者たちには、売り場にあった一番上等な防塵マスクと使い捨て手袋を配給し、装着させた。
果たして、これで対策は万全なのか。そして、客をさばき切れるのか……。龍二は恐怖で背筋が寒くなるのを感じた。何かあったら大事である。
そして、団体客がいっせいに入口から入ってきた。
客の誰もが、全身を上から下まで覆う、ツナギのようなフード付きの服を着ている。それらは薄手で、真っ白く、素材はポリエチレンといったところか。靴や手袋のつなぎ目をテープで目張りしていることから、おそらく一回きりの使い捨てであろうことが想像された。鼻と口は防塵マスクできっちりと覆われていて、目にゴーグルを装着している者もいた。
客たちは、一見ごく普通に買い物をしているようだったが、ほぼ全員が手に小型の装置を持っていた。
一人の客が、野菜売り場のキャベツにその装置を向けた。途端、何かに驚き戸惑った様子で、隣にいた者にも装置を使うように促した。そして、二人の客は驚きの声をあげた。
「機械の故障じゃないわ! このキャベツ、まったくの平常値よ!」
その瞬間、店内の客がいっせいに動き出し、生鮮食品売り場に殺到した。みな、装置を振りかざし、数値を確認すると大喜びで、鮮魚のパックや肉や野菜を、買い物カゴの中に詰め込みはじめた。生鮮品は飛ぶように売れ、棚はみるみる空っぽになっていった。
(ここまではある意味、予想通りか。あと一つの最大の心配は……)
人手が足りないので、龍二自らサービスカウンターでレジを打っていた。そこへ、もう一台の大型バスが到着したらしく、客の第二波が押し寄せてきた。
(まずい、とてもさばき切れない)
龍二が白旗を揚げたい気持ちになっていたとき、人波をかき分け、越後谷が帰ってきた。
「龍さん、お待たせしました、これを!」
越後谷から龍二の手に渡されたのは、今日の大半の客が持っているのと同じ種類の計器――汚染物質測定器、であった。客がそろって白い防護服を着こんでいるのを見て、三人はすぐに、ここが有害物質に汚染された世界である可能性を考えたのだ。
後に判明したことであるが、この世界では、十数年前に某国同士が戦争を起こし、その争いは世界各国を巻き込んだ。忌まわしい兵器が数多く使用され、いつくもの街が有害な灰の下に埋もれていった。戦力を持たないはずの日本も、これの巻き添えを喰らってしまっていた。
おかげで、国土の大半は汚染された。
争いが鎮まった現在でも、住人たちはシェルターでの集団生活を余儀なくされているのだ。彼らは、特別な事情がない限り、個人単位で外出することはなく、日に数回やってくるバスで買い物などの用事を足すのだという。
龍二は、客に怪しまれない程度に近づいて、彼ら自身の汚染度を計測した。数値は平常値を示した。ほかの数人の客にも試したが、やはり汚染物質は検出されない。龍二は店内放送用のマイクのスイッチを入れた。
『業務連絡、業務連絡。従業員のみなさま、七十七番です。レジが混雑しておりますので、応援願います』
バックヤードで控えていた若いレジチェッカーたちが、一斉に飛びこんできた。各部門の品出し担当者は、ありったけの野菜や魚をワゴンに積んでフロアに出てきた。商品が棚に並ぶ前のを待ちきれず、客は奪い合うように直接品物を手に取っていく。
七十七番というのは、さっき決めたばかりの暗号のサインである。店内は安全である、という意味だ。
汚染世界を疑ったとき、龍二たちが一番恐れたことは、客の体に付着した汚染物質が店内に侵入することだった。もしそうだとしたら、チェッカーやフロアの担当者が危険に晒される。
しかし、昨日の真冬世界の日、客が入口から出入りしても、店内に風が吹き込んだり、気温が下がることはなかった。楽観的な考えではあるが、客の出入りがあっても、汚染物質は店内に侵入してこないかもしれない、と龍二は予想していた。実際それは当たっていたことになる。
レジの前は、カートに食糧を山ほど積んだ客が長い列を作っていた。大売出しのときでも、こんな光景はめったにお目にかかれない。
自らも客をさばきながらなので、その様子をじっくりを見て感慨に浸る暇もなかったが、龍二は心の中で、部下たちに呼びかけていた。
(お代官、麻衣、そしてこの店の従業員のみんな……! 今日はこれで勝ったも同然だぞ!)
棚からぼたもちとでも言うべきで、龍二の実力とは言い難い状況だったが、売り上げは売り上げだ。茅場町店の爆発的な数字は、いまごろ北野専務のいる本部でも確認できることだろう。
その日は、午前に二回、午後に三回、大型バスが数台ずつやってきて、団体客を吐き出しては回収していった。そのたびに、生鮮食品の棚は空っぽになった。農産、畜産、水産部門は、この時期の平日としては過去最高の売上高を達成した。全部門を総合しても、前年同一曜日比108%の売り上げである。
夕方、最後のバスが出て行ったあとに、龍二は、越後谷と盛田に缶コーヒーを渡し、三人でささやかに乾杯した。麻衣は今日シフトが休みであったことが、龍二にとっては残念だった。
うれしいはずなのに、龍二たちの胸には、コーヒーでは飲み下せない切なさがつかえていた。汚染された国土で、計器を手放せずに暮らすこの世界の住民たちの胸中は、いかなるものなのだろうか。それは決して、別な世界の出来事とは言えないのだ。
閉店の処理をしながら、次こそは、自分たちの力で、本当の意味での祝杯をあげたいものだ、と、龍二は思った。
金曜日の早朝である。
水産チーフの柿崎淳は、早出当番に当たっていた。店長の龍二に代わり、店の鍵を開けることになっていたのだ。
いつもより早く家を出て、従業員専用駐車場に愛車を停めた。そして、砂利道を店のほうへ向かって歩いていくと、昨日はなかったプレハブ小屋が、店の敷地内の一角に出現していた。
不思議に思いつつも、従業員専用口を開けようとしたとき、作業服とヘルメットを着用した男が近づいてきた。胸元を見ると、服のポケットの部分に、聞き憶えのある地元建設企業の社名が刺繍してあった。
ヘルメットの男は言った。
「サンシャインマートの店長さんですか? 依頼のあったプレハブ一棟、設置完了しました。確認のサインをお願いします」
「あっ……いや、自分、店長じゃないっス」
「店長さんじゃなくても、社員の方なら結構です」
ヘルメットの男は、クリップボードに張り付いた作業報告書と、ボールペンを柿崎のほうへ突き出してくる。
柿崎は躊躇した。プレハブのことなど、龍二から一切聞いていなかったのだ。
だがしかし――と、柿崎は思い直した。あの昼行燈の広瀬店長のことだ、きっと自分に伝え忘れただけに違いない。それなら、サインをしても問題ないだろう。まったくだらしないな、店長は――。
およそ三十分後、龍二がやってくるなり、呑気そうに間延びした声で言った。
「柿崎さーん? なーんか見慣れないプレハブ小屋があるんだけど、あれ一体何なんだろうね?」
柿崎は血の気が引く思いをした。迂闊にサインをしたのは早計だった、のだろうか。無言で、さきほどヘルメットの男から受け取った報告書の写しを、龍二に手渡した。
龍二は、その文面を声に出して読み上げた。
「えーーっと何々? 『サンシャインマート茅場町店さま、”大至急”プレハブ一棟納入。依頼人、古川信江さま』……って、誰だ、この人?」
龍二は本当に心当たりがない様子で、しきりに首を傾げている。顔面蒼白になりながら、柿崎は頭を下げた。
「勝手にサインして、すみませんッス!!」
この回の内容について、不適切な表現等がございましたら、速やかに修正、あるいは削除するつもりです。