1-4 水曜日 (2)
北野専務が、専属運転手を伴って店に到着したのは、十四時を過ぎたころだった。
知らせを聞いて、龍二は事務室に戻ってきた。ちょうど後藤がお茶を出していたところで、専務は礼も言わず、パイプ椅子に座って脚を組み、ふんぞり返っていた。額が禿げあがった、太めの小男である。整髪料か香水かは分からないが、下品なほどの強い匂いを漂わせていた。
龍二を見ると、北野専務は相変わらずの耳障りな声で言った。
「何やら非常事態だというのでね、忙しいけど来てやったよ。――別の世界とつながった、だと? 馬鹿を言うな。業績が振るわないからって、なんとも幼稚な言い訳を考えたものだな。まあ、越後谷くんの顔を立てて、念のため、この目で確認しようと思ってね」
「あ、あははは。――どうも、ご苦労さまです。売り上げはこれから頑張りますので、はい」
(祖父の七光りで幹部になったような奴が! こっちの苦労も知らずに!)
龍二は心の中で悪態をついてはみたものの、口に出すことはできず、ただ愛想笑いを浮かべることしかできなかった。悔しかったが、刃向っても仕方のない相手だ。立場が違いすぎるのだ。
越後谷と麻衣も遅れてやってきたところで、北野専務は椅子に座りなおし、三人に向かって言った。
「役者がそろったようだから、この機会に言っておこう。――越後谷くん」
「はい、なんでしょう」
この、社内の誰に聞いても良い噂を聞くことがない北野専務を前にしても、越後谷は普段と変わらず、余裕気な涼しい顔をしている。かすかに微笑みまで浮かべているように見えた。
「半年後、この茅場町店の店長はきみになっているから、そのつもりで」
麻衣は露骨に嫌そうな顔をして黙っている。
「その話は初耳ですが」
越後谷は表情を変えずに答えたが、その目には軽蔑の念がこもっているようだった。
「まあ、ほぼ内定だよ。奇跡が起きない限りはな。――きみたち、この広瀬店長から、まだ聞いていないのかい? この先の半年間で、前年度の売り上げを2%上回らない場合は、広瀬は店長解任となる。……そうそう、店の前に露店も出しているようだが、あれの売り上げは含めるなよ」
北野専務は、緑茶を飲み干しながら言った。
龍二は黙って下を向いた。事務室内は静まり返り、後藤がパソコンのキーを叩く音だけが響いていた。
「はっはっは。ほら君たち、何をお通夜みたいな顔をしているんだ? なにも、店長をクビになったからといって、会社をクビになるわけじゃないんだぞ。
ただ、ちょっと遠くて小さな店に、降格して異動になるだけだ。たったの2%増も達成できないんじゃ、仕方ないだろ?
ついでに、給料も最低賃金並みに下がるわけだがね。それで、もしも広瀬君が、経済的にやっていけないとか、プライドの問題だとかで、自ら身を退くというのなら、我々は一切、引き留めはしないよ」
凍り付くような空気の事務室で、北野専務ただ一人だけがにやついていた。
分別ある大の男である龍二には、ふざけるなと怒鳴り散らすことはできず、だからといって泣いて逃走するわけにもいかなかった。すべては専務の言う通りで、この店で売り上げを増やさない限りは、島流し同然になることが、あらかじめ決まっていたのだ。
「おおっと。おしゃべりし過ぎてしまったなぁ。時間もないし、店のほうを見させて頂こうか。広瀬くん、案内を頼むよ」
「……はい、参りましょうか」
龍二は怒りを噛み潰しながら、北野専務を先導し、うつむき加減で事務室を出ていった。扉が閉まった途端、麻衣は溜まった鬱憤を吐き出した。
「なにあれ! 相変わらず嫌味なオッサンね!」
相当我慢していたのか、麻衣は手に持っていた告知用の文章の束を丸めて、机をばんばんと叩いていた。ずっとパソコンに向かっていた後藤も、椅子ごと向き直って言った。
「この会社の中で、専務が好きな人なんて誰もいませんよ。いつも変な匂いですし」
「それより、さっきの専務の話って本当なのか? その、龍さんの、売上ノルマの話だけど」
越後谷が質問すると、麻衣と後藤は目を合わせて、ばつの悪そうな顔をした。
「わたしたちは、噂でなんとなくは聞いていたの。半年後までに目標を達成しないと左遷だって。でも、詳しいことは本当に知らなかったの。龍くんも何も言ってくれないし……」
「そんな目標、尋常じゃないぞ!」
麻衣の説明を聞いて、越後谷は珍しく怒りをあらわにした。
数字で言えば、たったの2%と思えるかもしれないが、最近、近隣地区に他チェーンの競合店が進出してきたばかりで、この茅場町店は売り上げアップどころの状況ではなかったのだ。
「競合店に売り上げを喰われているんだから、せいぜい、前年比96%で御の字ってとこだ。店長になったばかりの龍さんに、会社はどうして無茶を言うんだ」
麻衣と後藤の女性ふたりは、お互いに顔色をうかがって言い出せずにいたが、先に言葉を発したのは後藤のほうだった。
「……逆でしょう。最初から無理と知って店長にしたんじゃない? 言っちゃ悪いけど、広瀬店長って、もともとあまり仕事ぶりが良くなかったから。お偉い方――とくにあの専務、なにか相応な理由をつけて、広瀬店長をお払い箱にしたいってことよ」
麻衣はそれを聞きながら、腕組みをしてじっと黙り込んでいた。納得のいかない越後谷は、二人に同意を求めるかのように訴えかけた。
「そんなやり方……理不尽だと思わないか? あんな降格や減給は不当に決まってる。専務があれでも、もっと上層部にかけあえば――」
「お代官、黙って」
「は、はい」
言葉を遮ったのは麻衣だった。その声は重々しく凄味があった。越後谷はその迫力に思わず後ずさりしていた。
「――売ればいいのよ」
「なんだって」
「要するに、102%売ればいいのよ! わたしはやるわ!」
麻衣は怒りに燃えていた。越後谷は、麻衣の負けず嫌いは知っていたつもりだったが、彼女にここまでの闘志を見たのは初めてだった。最初は驚いたものの、越後谷も覚悟を決めた。
「……わかった、僕もやる! 龍さんに102%売らせよう!」
「いいわね、それ。あのムカつく専務に一泡吹かせてやればいいのよ。わたしは事務員で、売上には直接協力できないけど、出来ることがあったら協力するわ」
後藤も賛同した。普段は口数が少ない彼女だったが、案外と熱いところがあるのだな、と越後谷は思った。
「他のチーフ格の人は巻き込めないかしら? 盛田さんなんかどう? 口が堅そうだし」
「いいと思う。僕も折を見て、声をかけてみよう」
「なんだかちょっと楽しくなってきたわね」
「よし、そうと決まったら頑張るわよ! みんなで龍くんを支えるのよ!」
事務室にいた三人は、すっかり意気投合した。年齢が近い者同士だということもあり、話は更に熱を帯びていった。そして手を取り合って、売上達成と、打倒専務を固く誓い合った。
その頃、龍二は北野専務とともに、店内のサービスカウンターの中にいた。
窓の外の冬景色を見せた途端、専務は立ち止まり絶句した。顔は真っ青で、このまま卒倒でもしてしまいそうだった。
さすがに心配になった龍二が声をかけると、やっとうめき声を発して、めまいがするとか、水が飲みたいとかいうので、とりあえずサービスカウンターに引きずるように連れてきたのだ。
専務は疲れた顔で丸椅子に座っていた。そこへ、筒井優花がコップで水を運んできた。
優花は、まだ二十歳を過ぎたばかりの、若い職員だ。
もう四十を目前にした龍二から見れば、優花くらいの女の子はみな可愛らしく見えた。流行のアイドルグループの真似をしているのか、前髪は目の上ぎりぎりに揃え、やや斜めに流している。長い髪の毛は後ろで束ねられていたが、耳の横あたりに毛束を残して、長く垂らしていた。
龍二の若い頃に流行した、明るすぎる茶髪やギャル系の恰好よりはずいぶんましだとは思うが、今は今で、みんな似たようなメイクと髪型である。優花は肌が白く、顔立ちが整っていているのだから、もっとすっきりした髪型にしてもいいのに、と龍二は思った。
水を一気飲みし、大きく息をついた専務は、やっと気を取り直したらしく、座ったまま龍二に言った。
「――いくらきみでも、あんな子供だましな嘘を言うはずがないとは思っていたよ。しかし、どんな状況であっても、数字は数字だ。売り上げ目標はビタ一文動かんからな」
龍二は焦った。成績不振で、自分がクビになることは致し方ないが、ここで承諾すると、この店の従業員全員に苦労を強いることになる。簡単に引き下がるわけにはいかない。
「い、いや、それは流石に……。お客さんは別のスーパーだと思い込んでやってくるので、クレームやトラブルが絶えず発生しています。フロアスタッフは皆、心身ともに疲れ切っていて大変なんです。それに、地域住民に向けた露店もやめるわけにはいきません。年末に向けて、パート職員の労働時間調整も発生していますし……」
龍二の抵抗に、専務はうんざりとした表情で言った。
「ああ、わかったわかった。きみはなんとも言い訳がましいな。仕方ない、落ち着くまでの間は、他の店から何人か、人手をこっちに回してやる。それから、近いうちに、学生の若い女の子でも何人か短期バイトで採ればいいんだ、ほら、その子みたいな……」
専務は、カウンターに立っている優花の姿を見ると、何か思いついたように椅子から立ち上がった。そして彼女の横に並び、不自然に体をぴたりと寄せた。
「きみ、優花ちゃんっていうのか。いくつなんだ」
「えっ……二十一歳です」
「ふうん、勤めてどのくらいになるんだね」
「あ、あの、半年くらいですが……」
優花が戸惑っている様子を見て、専務の顔に下品な笑みが浮かぶ。
「きみ、毎日が楽しいだろう? 若いっていいよね。憶えておきなさい、女は、生意気な口をきかず、ただニコニコ笑って立っているのが一番いいんだよ。見た目さえ良ければ、何も考えてなくても、世の中をじょうずに渡っていけるからね」
北野専務は、優花の腰のあたりに片手を伸ばし、スカートの上から尻を撫でまわしていた。
優花は驚きと恥辱で声も出せず、泣きそうな顔で下を向いている。自分のことなら我慢ができる龍二だったが、これにはさすがに頭に血が昇った。
(こいつ……男として最低だ)
龍二は拳を握りしめ、今度こそ何か言ってやろうと口を開きかけた、そのときだった。
どこからか菓子折りほどの大きさの紙箱がいくつも降ってきて、専務の頭髪が薄い頭に全弾命中し、派手な音を立てた。
散乱した箱をよく見ると、どれも空箱のようだ。案外、痛くはなかっただろう。
専務は、頭をさすりながら上のほうを見た。どうやら、高い棚の上に積み重ねてあった、包装用の化粧箱が落下してきたようだ。
棚の陰から、誰かの声がした。
「あらまあ。手元が狂って、専務さまに当たってしまいましたね。ごめんあそばせ。お毛が……いえ、お怪我はございませんでした?」
現れたのは盛田であった。高いところのものを取るためなのか、フック付きの長い棒を手に持っている。そして、謝っているわりには落ち着き払っている。
優花は専務のそばから離れて、散らばった箱を拾い集めていた。その表情は安堵しているようだった。
顔を真っ赤にして専務が睨みつけた。
「き、きみが落としたのかね! なっ、名前をいいたまえ」
「はい。勤続二十年、盛田真由美と申します」
盛田はにっこりと極上の笑みで答えた。
箱の直撃と、ベテラン盛田の貫録に戦意喪失したのか、専務はもう帰ると言い出した。
龍二は、裏口で待っている運転手のもとまで送るつもりだったのだが、専務はその申し出を断り、ひとりでフロアを後にした。それきり戻ってこなかった。
優花は拾い集めた箱をまとめて、ひもで束ねようとしていた。龍二のほうを見て、ぺこりと頭を下げたが、恥ずかしそうな顔をして、うつむいてしまった。さぞ悔しかったことだろう、と龍二は彼女の気持ちを慮った。
「盛田さん、ありがとう。――そして、筒井さん、本当に申し訳なかった」
笑顔の消えた盛田は不機嫌そうに言った。
「わたしがやらなかったら、店長は専務に刃向かって、大騒ぎを起こしていたんじゃありませんか? お客様もいるこのお店の中で。 ――ああ、筒井さん、汚れたり凹んだ箱は、廃棄扱いでいいのよ。……店長、会社の資材を無駄にしてごめんなさいね。でも、これで済むならお安いものじゃないかしら、とわたしは思うけど」
盛田は、内心は怒りを抱えていたのだろう。
それが専務に対するものだけではなく、目の前で下劣な行為を許した、不甲斐ない店長に向けられた苛立ちかもしれないし、もしそうであっても無理はない、と龍二は思っていた。
「盛田さんのおっしゃる通り。何か言ってやろうとは思ったけど……もしかしたら、殴っていたかもしれないしな。箱の十個くらいは捨てても構わないよ。いっそ二百個くらい注文して、常に棚の上に置いておいてくれ」
盛田はやっと少し微笑んで言った。
「筒井さんは若いし、おとなしいから、男の客に変なことを言われることもあるのよ。店長も気をつけて見てあげて下さいね。筒井さんがもっと図太くなって、馬鹿な男には言い返せるくらいならいいんでしょうけど。――まあ、お嫁にするんなら、このくらいのほうが可愛くていいかしら。ねえ、広瀬店長」
「えっ? ああ、えーと……」
盛田の不意打ちに、龍二はしどろもどろになった。なにしろ筒井優花は、龍二から見ると、一回り以上も年下だ。そういうふうに考えるつもりはなかった。
(……いやいや、最近は歳の差婚ってのもあるぞ)
無論、盛田は冗談で言ったのだが、優花はどうしたらいいのか分からず、ただ頬を赤らめている。
その様子が初々しくて可愛らしい。
もしも、こんな若い子が自分の嫁になったら……そう考えると、甘い妄想が次々と浮かんでくる。龍二の頭の中にとどめておく分には無害かもしれないが、その願望が暴走すれば、それこそセクハラになってしまう。あの専務と大差ない。
(いかんいかん。今は仕事中だ)
浮ついた想像を振り払ったところで、龍二は、優花のような若い女子職員に告げておくべき情報を思い出した。
「――そうだ、筒井さん、この店にはセクハラ通報窓口があるんだ。事務の後藤さんと久保田さんがそうだから、何かあったら相談してね。まぁ、おれに言ってくれてもいいんだけど――男のおれがセクハラ窓口ってのも、なんか嫌な感じするだろ?」
「えっ……はい。……でも、広瀬店長なら嫌じゃないですけど……」
優花が恥ずかしそうに、小声で何か喋ったようだったが、ちょうどカウンターに客がやってきて、対応に出ていってしまった。
これ以上、二人の仕事の邪魔をしてはいけない。龍二は盛田に向かって一礼し、サービスカウンターを後にした。
優花のような若い女の子は、悩みがあったとしても、せいぜい恋愛のことくらいなんだろう……と、龍二は思っていたが、それは違うようだった。若いからこそ、さっきのような災難に遭うこともあるだろうし、将来についての悩みもあるだろう。
できることなら、今回のことに挫けることなく、立派な従業員に育ってほしい、と龍二は願った。
バックヤードを通りぬけ、事務室の扉を開けて中に入った途端、龍二は思いがけない熱烈な出迎えを受けた。
「龍さん、お帰りなさい! これからみんなで頑張りましょう」
「102%だろうが、105%だろうが、やってやろうじゃない!」
「あの専務の好きなようにはさせません! そして、競合店にも負けません」
越後谷、麻衣、後藤の三人が寄って来て、龍二を取り囲んだ。
自分のいない間に同盟が結成されていたとは知らず、龍二はただ戸惑っていた。三人はそれぞれ、打倒専務と売り上げ達成に向けた意欲を語り出した。
一昨日、龍二が十年ぶりにこの店に帰ってきたときには、自分が首になっても仕方ないと、半ばあきらめかけていた。地道に売り上げを伸ばしてやろうという責任感もなければ、石にかじりついてでも粘ってやろうという闘志もなかった。
だが、龍二は気づいた。店長という役職である自分の下には、越後谷や麻衣をはじめとした、有能でやる気にあふれる部下がいて、その下には多数の従業員たちもいる。優花のような若い者にとっては、ここが人生で初めての職場かもしれない。そして皆、真剣に自分の仕事と向き合っていることを、龍二は感じ取っていた。
――そうか、おれひとりが首になればいいという問題じゃないんだ。おれは店長なんだから、おれがあきらめてしまったら、皆の頑張りを無駄にしてしまうんだ。
事務室で三人の部下に囲まれながら、龍二に初めて、店長としての自覚が芽生えつつあった。
あの北野専務はもちろん、サンシャインマートの誰もが予想だにしないことではあったが、器が人を育てることはあるのだ。眠れる龍が目覚めるがごとく、龍二が真の力を発揮する日は、そう遠くない――かもしれない、のであった。