1-3 水曜日 (1)
水曜日の朝のこと。
筒井優花は、昨晩あまり眠れなかった。
優花がサンシャインマートに勤め始めてから、そろそろ半年になる。彼女は仕事のことを考えると、いつも憂鬱な気分になった。
とくに昨日はひどかった。普段とは違う、意味のわからないクレームに一日中晒され続けたおかげで、すっかり参ってしまったのだ。
周囲にいた品出し担当者や、レジチェッカーたちも、みな似たような目に遭っていたようで、誰もが困惑しながら仕事をしていた。それについて、店長から具体的な説明は何もなかった。
ただ、越後谷フロア長が、サービスカウンターチーフの盛田に何か話しにきたあとは、心配せず、落ち着いて仕事をするように、というコメントが連絡網のように回ってきていた。
店に向かう足取りは、いつにもまして重かった。疲れがとれず体全体がだるいのと、また昨日のようにクレームが殺到したらどうしよう、との不安からだった。
(……昨日のあれは何だったのかな? 今日こそは、店長から正式な説明があるのかな?)
優花はそんなことを考えながら、従業員専用口からバックヤードへ入り、女子更衣室へ向かった。ドアを開ける前から、誰かのおしゃべりで室内が騒がしいのがわかる。言葉は聞き取れないが、ざわめきは部屋の外まで漏れている。
「おはようございます」
朝のあいさつをして更衣室に入ると、既にレジチェッカーたちが数人いて、着替えをしながら噂話で盛り上がっているところだった。大方は、きのう起こった奇妙な現象についての話題だった。
そこには優花のほかに五人ほどがいたが、皆が口々に言いたいことを言うものだから、誰が誰に話しかけているのかよく分からない。それでいて、会話は滞りなく進んでいるから不思議だ。みんな、優花から見るとずいぶん年上なので、気軽に会話に混じることはできなかったが、聞いているだけでも多少の情報は入ってくる。
噂話をまとめると、昨日の混乱の原因は、店の入り口が別の世界につながってしまったらしいこと、それに、店長をはじめとした、社員格のスタッフたちは大混乱に陥っている、ということだった。
特に、二階堂麻衣の担当するグロッサリー部門は、売上動向を読み違えて、かなり大きな損失を出してしまったらしい。
優花は急いで着替えを終わらせると、持ち場へ向かった。優花の仕事はサービスカウンターでの顧客対応である。途中で、壁に掛けてあったシフト表を見ると、今日は盛田真由美と一緒のシフトが組まれていた。
一段と気が重くなる。
盛田は、五十路を迎えたベテランの接客担当者だ。
化粧や身なりはいつもきちんとしていて、気品があり、接客が丁寧なので、常連客からの人気も高かった。優花にとっては、身近にいるうちで一番仕事ができる先輩だが、いつも厳しくされていた。盛田に悪気はないのだろうと思うが、叱られるたびに悲しい気持ちになってしまうのだ。
(きっと、わたしが世間知らずで、人よりも出来が悪いから厳しくされているんだ。これも勉強だと思って、頑張らなきゃいけないんだ)
優花は自分にそう言い聞かせ、開店前の売り場へ出て行った。店舗正面の大窓の近くに、店長の龍二と越後谷フロア長がいて、なにやら話し込んでいる様子が見える。距離が縮まると、その会話が聞こえてきた。
「そうだなぁ……ここから見るぶんには、外は普通の景色に見えるな」
「あっ、待ってください――いま店の前を横切ったの、ほら、事務員の後藤さんですよ」
「ということは、今日は普通の世界で営業できそうかな?――あっそうだ、実際に外に出てみたらいいんじゃないのか」
「そうですね」
二人の会話の意味は、優花にもなんとなく理解できた。要するに、今日も昨日のように妙な世界とつながってしまうのか、そうではないのか、確かめようとしているのだろう。
龍二と越後谷は、店の出入り口のほうへ歩いていった。優花のいるサービスカウンターからは遠ざかってしまったので、もう会話の内容は聞こえない。
二人の様子を眺めていると、一時的に自動扉の電源を入れて、外に出ようと試みているようだった。越後谷が自動扉を操作している間、開きっぱなしになった扉を境目にして、龍二が俊敏とはいえない反復横跳びをしながら、店内と外を何度も往復していた。
何か納得がいったのか、二人はうなずきあって、連れ立ってバックヤードへ戻って行った。
(いまの店長の動き、何だったのかな……)
首をかしげながら、優花は仕事の準備にとりかかった。ちょうどそこへ盛田がやってきたので、朝のあいさつをした。
「おはようございます」
盛田に笑顔はなかった。優花は緊張で体をこわばらせた。
「おはよう、筒井さん。――ところで、昨日あなたが書いた予約伝票なんだけどね、これではよく分からないわ」
「えっ、す、すみません……」
「ほらよく見て。どこが問題なのか、間違い探しよ」
盛田は、優花が客に注文を受けて書いた商品予約のメモを、目の前にかざした。優花はすっかり動揺してしまい、なにがまずかったのかを発見することができなかった。
「そう、わからないのね。 ――ほら、この菓子折りは、ふつう贈答やお土産にする商品でしょ? 包装は当然するとして、熨斗紙は必要なのかしら?」
優花は昨日のことを思い出していた。確かに、盛田に指摘されたことは、客に確認しなかったと思う。
(ああ、またやっちゃった……)
頭の中が真っ白になり、血の気が引いていくような気がする。
「……まぁ、注文個数が少ないから、一般的な熨斗紙ならその場ですぐにつけてあげられるわ。でも、用意が必要な場合もあるでしょ。前にも言わなかったかしら」
「はい、すみません……」
優花は自分が情けなくなった。盛田に返事をする声もだんだん小さくなっていった。
「あなた、いつもそうやって謝ってばかりよね。――まあいいわ。お客の連絡先は聞いてあるようだから、あとで電話して確認してみましょう。……これから開店なんだから、そうやって暗い顔しないでよ。次は気をつけてね」
「はい……」
落胆する一方で、そんな意地の悪い言い方をしなくても良いのではないか、という不満が、優花の内に湧きあがった。
確かに自分はミスをしたが、些細なことだと思う。指摘するにしても、遠回しな言い方をしないで欲しいし、いつも謝ってばかりだ、というところを突かれても、謝るしかないので仕方がないではないか。
それに、盛田自身だって、客の言ったことをうっかり忘れることもある。自分のミスとなると、盛田は経験にものを言わせて、誰にも知られずフォローしてしまうことも可能だし、笑ってごまかしたりもする。何だかずるいのではないか、と優花は思う。
(あーあ、朝から嫌な気分。この仕事、わたしに向いてないのかな……)
最近では、毎日のようにそんな思いが頭をよぎる。
こんな、レジ打ちに毛の生えただけのような仕事では、苦労して取った各種資格も何の役にも立たないし、そろそろ本気で、次の就職先でも探したほうが良いだろうか……などと考えつつ、優花は仕事の準備に取りかかった。
開店の十分前である。
ふと見上げると、窓の外が妙に白いことに気が付いた。優花が目を奪われていると、近くにいた盛田も気づいて、慌てて事務室あての内線電話をかけた。
レジチェッカーや、品出しの担当者たちも窓の外を見上げた。その場で立ち尽くす者や、よろよろと窓のほうへ吸い寄せられるように歩いてくる者。そして皆が、仕事の手を止めた。
龍二と越後谷が、息を切らして飛んできた。二人は窓の外を見て、呆然としていた。
空は、どんよりした灰色の雲に覆われている。
絶え間なく澱のように落ちてくる無数の白いものは、雪にしか見えなかった。それらは地面を分厚く埋め尽くし、しっかり踏み固められていた。昨日今日降ったばかりという雰囲気ではない。除雪の跡なのか、駐車場のところどころに積み上げられた雪山が見える。
遠くにちらほらと見える人影は、厚手のブルゾンに、ニットの帽子やマフラーなどを身に着け、相当着込んでいるように見えた。
誰がどう見ても、真冬の景色だ。それも豪雪地帯並みの。
龍二は顔色を失っていたが、横にいた越後谷に何かを言われて、なんとか気を持ち直したようだ。渡されるままに、店内放送用のマイクを握り、まだ戸惑いの残る声で全体放送を行った。
『――全従業員の皆様へ連絡です。本日、店舗入り口側の外は大雪となっております。夏物アイテムは縮小し、冬用商品の在庫がある部門は、積極的に棚へ並べてください。えー、本日も、お客様とのあいだに、なんらかのトラブルが発生する可能性があります。対応に困ったときは、わたくし広瀬か、越後谷フロア長へ相談してください。……ええと、では皆さん、今日も一日、がんばりましょう』
時々、越後谷が横から助言をしているようで、どこか頼りない放送内容ではあったが、これで最低限の指示は伝わった。昨日は大混乱だったが、今日はきっと、昨日よりはいくらかましになるだろうと、優花はほのかな希望を感じた。
麻衣が、使い捨てカイロを山積みにしたワゴンを猛スピードで引っ張り出してきたとき、店内放送が、開店の時刻を告げた。
扉が開き、銀世界の住人たちが店内に入ってきた。
本日のお客様は、そのまま冬山かスキー場に出かけていっても違和感のないほど、完璧な防寒装備でご来店になっている。実際の室温が下がっているわけではなかったが、彼らが冷気を伴っているように思えて、優花は寒気を感じた。
開店から三十分ほどしたころだった。
盛田は、きのう優花がとった予約注文の客に電話を入れたが、それは存在しない番号であったらしい。優花は内心、自分の聞き取り間違いではないかと心配でたまらなかったが、なぜか盛田は何も小言を言ってこなかった。
不思議に思っているとき、一人の年配の男性客がカウンターにやってきた。
「おととい注文したアレ、取りにきたんだけど」
優花は、男性客に名前をたずねた。予約注文したのであれば伝票があるはずなのだが、その名前の予約伝票は存在しなかった。
昨日もこれと似たようなことがあったのだが、たまたまその場で商品を用意できたので、無事に乗り切ったのだ。
伝票を探すのに手間取っている間に、客は苛立ちを募らせていた。優花があきらめて客のところ戻ったときには、相手はすっかり険しい表情になっていた。
「お客さま、申しわけございません。そのご注文は受け付けていないようです。原因は不明なのですが、当店ではそういう不思議なことが起こるようでして――」
男性客はしびれを切らし、顔を真っ赤にして怒鳴り声をあげた。
「わけのわからんことを言うな! あるのか、ないのか! はっきりしたまえ」
フロア中に響き渡るようなその声を聞き、盛田もそばにやってきた。少し離れたところでは、麻衣が心配そうにカウンターの様子を伺っている。
口を開けば泣き出しそうな優花に代わって、盛田が客にたずねた。
「お客さま、ご迷惑をおかけ致しました。もしも、すぐにご用意できるものであれば致します。恐れ入りますが、いま一度ご注文をお伺いさせて頂けますか」
丁寧で慣れた盛田の接客態度に、男は少し落ち着きを取り戻したようだ。大きなため息をつくと、ウエストポーチのファスナーを開けて、紙切れを一枚取り出して見せた。
「あんた達もおかしなことを言うなぁ。――ほら、確かに、ここに注文の控えも持っているんだ。日付も受け取り時間も間違ってないし、店の名前も書いてあるじゃないか。『ウェルカム北野屋・茅場町店』ってな」
優花と盛田は顔を見合わせた。
ここは「サンシャインマート」である。「ウェルカム北野屋」などという店は聞いたことがない。
麻衣が呼んだのか、龍二が大急ぎでやってきた。盛田が手短に経緯を説明すると、龍二は客に向かい深々と頭を下げた。
「店長の広瀬です。お客さま、まことに申し訳ございません! 何もかも、わたくしの責任でございます。――ご説明させて頂きますと、お客さまが日頃ご利用されている『ウェルカム北野屋』様の入り口が、当店『サンシャインマート』に繋がってしまったようなのです。その原因は、まったくもって不明なのでございます」
「ふうむ……」
最高責任者である店長が頭を下げれば、意図的なクレーマーを除き、余程のことでない限りお客は溜飲を下げてくれるものだ。この男性客も例に漏れず、怒りの表情は徐々に消えていった。男性はぐるりと回りを見渡してから言った。
「――そういえば、棚なんかの配置が昨日までと変わっとるなぁ。言われてみれば、あんたたちの制服も違ってる。そこの姉さんたちみたいな、寒々しいスカート姿の店員なんて、普段なら考えられんよ。あんたら、足から風邪ひかんようにな。うん……よく見れば、北野屋の店員よりも美人が多いな」
すっかりご機嫌になった客は、カウンターの丸椅子に座り込んで、盛田と雑談を始めた。
どうやら、急ぎの品でもなかったらしい。あとは、現在ここにある商品で対応するか、今日の受け取りをあきらめてもらうかの交渉をするだけだろう。ベテランの盛田が、ここまできて接客に失敗するとも思えない。
龍二は優花に、『もうだいじょうぶだと思うけど、また騒ぎ始めたらおれを呼んでね』と小声で耳打ちし、バックヤードへ引き上げていった。
優花は、周囲の噂で、新しい店長は昼行燈でクビ寸前の落ちこぼれ社員だった、と聞いていた。しかし、そのイメージは少し変わった。もしかしたら、優秀な店長だなんてお世辞にも言えないのかもしれないけれど――優花は、龍二の後ろ姿を見ながら思った。なんだか、ちょっと親しみやすいような気がする、と。
龍二が事務所に戻ると、事務員の後藤香織が声をかけてきた。
「店長、本部の北野専務から電話がありましたよ。今日の午後、視察に来るそうです」
「あー、……やっとか」
茅場町店の異常現象は、昨日の朝から何度も本部に連絡し、とりあえず見に来てくれと訴え続けていたのだ。龍二にしてみれば、遅くても今日の開店前には来てほしかったのだが。
「午後ってことは、営業時間中に来るつもりかなぁ。この忙しい時に……はぁー」
ついため息が出てしまった。龍二は、北野専務が普段から苦手だった。来てくれないと困るのは確かだが、来ないでほしいとも思う。
ふと、あることに気がついた。
「北野、か。――ねえ後藤さん、うちの会社の創業者の名前って、北野啓次郎……だったっけ」
「ああ……いまの専務さんが創業者のお孫さんですから、キタノには間違いないと思いますが、下の名前までは……。そういうの、久保田先輩ならすぐにわかりそうなんですが。資料で確認してみましょうか?」
「いや、いいよ。キタノは確実ってことが分かれば」
龍二は、さきほどサービスカウンターの客が言っていた店の名前を思い出していた。「ウェルカム北野屋」だったか。
昨日から不思議に思っていたことがある。店の入り口がパラレルワールドとつながっている、と仮定しよう。ではどうして、客は当然のように店にやってきて買い物をしていくのか、ということだ。
我々の世界とは別の世界で、「茅場の幻影城」のように、荒野の真ん中にいきなり新しい店が出現したとしたら、このように大勢の客が初日からやってくるだろうか? 否。
おそらく、別世界には「ウェルカム北野屋」とかいうスーパーマーケットがあって、客はそこに入ったつもりが、知らずにこの店に入り込んでしまっているのではないか。
もしかしたら、この店と北野屋は、源流をたどれば同じスーパーであり、創業者のちょっとした気まぐれで、店の屋号が違ってしまっただけなのではないか。つまり、違う世界にある双子同士の店……と言えるのではないか。
龍二は実のところ、さっきカウンターで怒鳴っていた客には、当てずっぽうな説明をしてしまったのだ。しかし、あながち間違いでもないかもしれない。
(いや待て、昨日の真夏の世界にも似た店が存在するとしたら、三つ子……かな)
なんだか嫌な予感がした。
しかし、その思考はさえぎられてしまった。事務員の後藤が近寄ってきて、龍二に二枚の紙を差し出したのだ。
「店長に頼まれた告知文を作りました。チェックをお願いします」
「あ、ああ……。もうできたの? 速いね」
それは、この異常事態についての説明文書だった。『この店は並行世界と繋がってしまった』という前提のもとで文面が考えられている。龍二、越後谷、麻衣の三人が中心になって内容を考えたのだ。
ひととおり読んでみて、不備がないようなので、龍二は店長自らコピーをとることにした。こういう雑用を、なんでもかんでも女子社員に頼むような男性社員もいるが、龍二はそれを好まなかった。
掲示用の文書を拡大カラーコピーしながら、先程、なにか不吉な考えが浮かんだような気がしていたことを思い出し、何だったか考えようとしたが、もうわからなくなっていた。
コピーが終わるのを待ちながら後藤のほうを見ると、彼女は自分の机に戻って、またパソコンの画面に向かっていた。彼女はいつも髪を黒い輪ゴムで束ねていて、太いフレームの眼鏡をかけて、化粧っ気がない。仕事は速く、無駄口をたたくこともない。真面目を絵にかいたような従業員だ。
龍二は、化粧が濃すぎたり、不必要に肌を露出するような女性はあまり好きではなかったが、後藤に関してだけは、もう少し華やかな恰好をしても良いのにな、と思うのだった。