1-2 火曜日 (2)
なんとか束の間の休憩をとることが出来た龍二だったが、悠長に座って飯を食っている場合ではなかった。
フィルム包装された鮭おにぎりをかじりながら、ペットボトルのお茶を片手に持って、龍二は、バックヤードから店の売り場の中を覗きこんでいた。隣には麻衣の姿もあった。
「……正面入り口からは入れなかったのに、この客たちは一体どっから来るんだろう?」
龍二のつぶやきに対する、麻衣の返答は予想外のものだった。
「もしかしたら、どこか別の世界の住人だったりして。ほら、このへんは『茅場の幻影城』の舞台だって言われてるでしょ?」
茅場の幻影城――。それは、この地域で生まれ育った者なら、必ずと言っていいほど子供のころに聞かされる、ローカル民話であった。
むかしむかし、このあたりの土地は、すすきが一面に生い茂っているだけの寂しい荒地で、住む者もなく、単に茅場と呼ばれていた。ただ、峠と集落とを結ぶ細い道が一本通っているだけだった。
ある日、一人の狩人が山中で足を痛めてしまった。季節は秋で、日没が早くなっており、なんとか茅場のあたりまで降りてきたころに、辺りは真っ暗になってしまった。
狩人が、寒い夜の野宿を覚悟したとき、遠くに何やら光るものが見えた。近寄って見ると、それは立派な宮殿であり、きらびやかな衣装に身を包んだ人々がいた。狩人が怪我をしていることを知ると、彼らは足の手当てをしてくれて、見たこともないようなご馳走を振る舞ってくれた。そのあと狩人は、何の動物の毛皮か知らないが、大層暖かいふかふかの毛布にくるまって眠った。
目がさめたとき、日は昇って明るくなっていたが、昨夜お世話になった宮殿は、跡形もなく消え去っていた。
――と、大体そういう話である。
「うーん、それに関係ある……かな?」
龍二は、子供のころに聞いた幻影城伝説を思い出していたが、それがいまの店の状況と、どうつながっているのかが分からなかった。
「小学生くらいのころ、流行らなかった? 幻影城の正体は何だったのか、って話」
「そりゃ、狐にでも騙されたんだろ」
龍二は言いながら、先ほどまで、自分がまさにそういう気持ちだったことを思い出していた。
「昔話をファンタジックに解釈するとそうだけど、ほかの考え方もできるんじゃない? たとえば、UFOに乗った宇宙人と遭遇していた話だった、とか、一時的にタイムスリップして未来の世界に行っていた、とかね。わたしが小さい頃、このへんに来る用事があるときは、宇宙人につかまってしまうんじゃないかとか、時空の穴に落っこちてしまうんじゃないか、って、妙な心配をして怖かった思い出があるわ」
「ふむ……」
龍二は考えた。この店にやってくるお客たちは、ワームホールを通ってやってきた異星人か、時空の扉を通過してきた過去人や未来人ということか? そういう不思議なゲートが、ちょうど自分たちの店の前に出現したとでもいうのだろうか?
馬鹿馬鹿しい話だが、目の前で起こっている現象を説明するには、何か無理やりにでも答えを見つけてやりたい。
いまもどこからかやってくるお客たちは、少なくとも自分たちと同じ人間に見えるし、使っているお金も我々のものとまったく同じで、自動精算機を通しても問題がない。価格にクレームが出ていないことや、客単価を考えあわせると、貨幣価値もほぼ共通であるようだ。
「ちょっと確認してくる」
龍二は店の中に入り、近くにいた一人の客に、思い切って話しかけてみた。
「あの、つかぬことをお訊ねしますが、きょうは西暦何年の、何月何日でしょう?」
一生に一度も言うことはあるまいと思っていた台詞である。恥ずかしさで顔から火が出そうだったが、どうしても確かめる必要があったのだ。
「――はぁ?」
振り向いたその客は若い主婦らしく、長い茶髪で濃い化粧をして、高いヒールの靴を履いていた。まだ幼い男の子を連れている。変質者を見るような鋭い視線で睨まれ、龍二は、せめてもっと物腰柔らかそうな中年のおばさまに聞くべきだったと後悔した。
「きょうは20XX年の、10月XX日だよ、おじさん!」
母親の代わりに、連れていた男の子が答えてくれた。
龍二は礼を言ったが、気が強そうなヤンママは無視をして、男の子の手を引っ張ってその場を去ってしまった。龍二は、男の子がそのまま素直に成長して欲しいと心から願った。
念のため、他の何人かの客にも質問をして、麻衣のそばに帰ったとき、やっと生きた心地が戻ってきた。
「どうだった?」
「客の暦は、おれたちと同じみたいだ。今日は今日。未来からのお客さんではないらしい。それに、どこからお越しなのかも聞いてみたけど、やっぱり茅場町近辺から来ているそうだ」
ペットボトルのお茶を一口飲みながら、すこし考えて、龍二はつぶやいた。
「どうやら、宇宙人や未来人ではなさそうだな。……場所も同じ、時間の流れも同じってことは――」
言いながら、龍二は自分でも信じられない考えに行きついた。
「もしかしたら、この世界に似たもう一つの世界……か。今日のお客は、パラレルワールドからやって来ているのかもしれない」
麻衣は、驚いて言葉も出せずにいた。しかし、少し考えてから、渋々うなずいた。
「馬鹿げているけれど、では何なのかって聞かれても分からないわ」
我ながら、パラレルワールド説は悪くない――と、龍二は思った。
幻影城の伝説が残っているような土地だ。きっと、時空のひずみみたいなものがあって、店の入り口にそれがぽっかり現れてしまったのだ。なぜ、どうして? ――いや、そんなことは後から考えよう。
龍二の隣で、麻衣は何か思いつめているようで、暗い表情をしていた。二人で事務室に戻ると、麻衣はパソコンの画面を見て言った。
「ああ、やっぱりだわ。龍くん、今日の売り上げデータ見た? 何かおかしいのよ」
十月の初旬となれば、気温が急激に下がってくるため、人々は暖かいものを食べたくなるものだ。そこで、鍋の材料となりそうな魚介類やおでんの具材、白菜や長ネギなどを多めに仕入れてあったのだ。実際に、今日は晴れるものの、気温が下がるという天気予報であり、仕入れ担当者たちの読みは見事に当たっていたはずだったのだが。
売上動向を示すデータは、当初の狙いとはまったく違う結果を表示していた。
「鍋の材料がまったく売れていないな。代わりに、氷菓や清涼飲料水がバカみたいに売れている。それに――」
さっきの客たちの恰好ときたらどうだ。レインコートの下は半袖のシャツ一枚だ。下はショートパンツにサンダル履きの客も多かった。そう言おうとした龍二だったが、麻衣もおそらく同じことを考えていたのだ。
この激しい天候、売上動向、それに客の服装。これではまるで――。
「まるで、真夏だわ」
グロッサリー部門チーフである麻衣は、鍋物の需要が高まることを予想して、関連商品をあらかじめ大量発注してあった。それらは棚に並んだままびくりとも動かず、代わりに、売り場を縮小したばかりのアイスクリームが飛ぶように売れ、いまや棚は空っぽである。
部門チーフの麻衣にとって、読みを外したことは失敗でしかない。今日に限っては予測不可能と言えたが、仕事である以上は結果がすべてだ。どう慰めたらいいものか、と、龍二は麻衣の表情をうかがったが、彼女は落胆などしていないようだった。
「――パラレルワールドか何か知らないけど、見てらっしゃい……! 今日のマイナスは、明日三倍にして取り返してやるんだから!」
龍二は思い出した。彼女は人一倍、負けず嫌いだということを。
復讐を誓う麻衣の鬼気迫る表情を、ディスプレイの青白い光が照らし出していた。店舗の方向から、ひときわ激しい雷鳴が聞こえた気がした。龍二はなぜだか背筋が寒くなった。
投光器というものがなかったので、仮設露店は日没をもって撤収となった。
レジ打ちを終えた龍二や、ハンドマイクを持った柿崎など、外に出ていた社員は全員、事務室に戻ってきていた。客足は夕方のピークを過ぎて落ち着いてきた。
事務室には、店長の龍二と、フロア長の越後谷、グロッサリーチーフの麻衣、水産チーフの柿崎、それに、サービスカウンター担当の盛田の五人が集まっていた。
龍二は、売上データをプリントアウトして配布し、昼間考えた仮説を皆に披露した。
「つまり、店長が考えるには、外の世界は『夏真っ盛りのパラレルワールド』ってことッスか」
缶入りのミルクコーヒーを飲みながら、柿崎は唸った。マイクで叫び過ぎたのか、少々声が枯れている。
「とりあえず、そう考えても矛盾はありません。売上動向は、まさに真夏のそれですからね。盛田さん、サービスカウンターのほうはどうでした?」
越後谷が名指しをした盛田真由美は、接客ではこの店でナンバーワンの地位にある。サービスカウンターというのは、お客に一番接する機会が多く、要望やクレームを一番身近に感じるポジションであった。
「午前中に、商品冷却用の氷と、ドライアイスが品切れになってしまいました。その他で問い合わせが多かったのは、害虫対策用品など、いわゆる夏向けの季節商品が置いていないことについて。それと、なんだか妙なことをおっしゃるお客様が多かったです」
「妙なこととは?」
龍二が訊ねると、盛田は首を傾げながら、慎重に言葉を選びながら答えた。
「――どういう言い方だったか……。みなさん、昨日までとは店の雰囲気が違う、などとおっしゃいます。それに、見たことのない店員ばかりだ、とか、今日は誰々さんはいないのか? とか。この店にいない従業員の名前を言うんですよ。
わたしにもうまく説明できないのですが、とにかく、会話がかみ合わないことが多かったですね。それに、折り込み広告と、実際の品ぞろえが合っていないということも良く言われました。レジの子たちも、それでみんな参ってしまって」
盛田は疲れた表情で、深く息をついた。
フロアに出ていた従業員は、さぞかし対応に苦慮していたことだろう、と龍二は思った。それに比べたら、露店で一日中レジを打っていた自分の苦労など、まだましなほうだと思えた。
「やっぱり別の世界から客が来てるんですかね? とりあえずは、店長の仮説で話を進めていいんじゃないッスか?」
「僕も文句ありません。不明な点は多いですが、そこを追究しようにも、僕らでは手に余る話です」
柿崎と越後谷が賛同の意を示したのに対し、麻衣はずっと苦虫をかみつぶしたような顔で黙っていた。空気を察したのか、誰も彼女に話しかけようとしなかった。麻衣が担当するグロッサリーだけではなく、鮮魚や惣菜、畜産部門も、皆が読みを外して、軒並み売上は落ち込んでいたが、グロッサリーの大きな空振りに比べたら、まだかわいいものだった。
麻衣の責任ではないのだが、現実には麻衣の失敗として数字が残ってしまう。負のオーラを発散している彼女をちらりと見て、決して触るまいと思いつつ、龍二は越後谷に質問した。
「……ところでお代官、本社の幹部と連絡はとれたのかな?」
ずっと露店に出ていた龍二に代わり、店内のことは越後谷に任せていたのだった。
「連絡がついたことはついたのですが、会議中で忙しいとかで、視察にも来ませんでしたよ。こちらの異状を説明したのですが、僕の話が要領を得なかったためか、まともに取り合ってもらえず、ただの怒られ損でした。申し訳ありません」
越後谷が話してだめなら、この場の誰が話しても無駄であっただろう――と、皆が無言のうちに思った。
「そうか、嫌な役をさせてしまったな。おれのほうが店内に残るべきだったのかな……」
龍二は片手で頭をかきむしりながら言った。
この店の店長にふさわしいのは越後谷だ。おれなんかはただのお飾りだ――そういう考えがあったから、無意識のうちに、龍二は自ら店外に出て、ひとりレジを打つという役目を買って出てしまったのかもしれなかった。しかしそのせいで、本来背負うはずの苦労から逃げてしまったのではないか。龍二は、自分が情けなくなった。
「――そうッスね、店長は店の中にいて、司令塔になってくれたほうがいいんじゃないスか。明日からでも」
柿崎がそう言った途端、事務室に妙な空気が流れた。
龍二は、自分が司令塔なんて無理なんじゃないかという、白けた沈黙が訪れたのかと早とちりしてしまったが、問題はそんなことではなかった。たまらず越後谷が聞き返した。
「柿崎さん、明日、と言いましたか」
「ええ、自分、何か変なこと言いました?」
柿崎は、周囲の顔をきょろきょろと見回していた。
「――そのことなんだけど」
下を向いて押し黙っていた麻衣がようやく口を開いた。場の空気が一気に張り詰める。
「龍くん、判断して。わたしたち、明日はどうしたらいいの?」
「えっ」
「あした、夏なの? 秋なの? 判断してちょうだい」
仕入れ担当者や部門チーフたちは、季節や天候に応じて需要を推測し、売り出し方針を決める。商品の発注から入荷のタイムラグがあるため、本来そういうことは、数日前から計画しなければならないのだ。
明日は夏なのか秋なのか。明後日はどうなのか、来週の今日はどうなっているのか。
それがわからなければ、買付担当のバイヤーよりも、むしろ発注権限のある部門チーフが一番困る。明日も夏だろうと思って氷菓を大量発注したところで、元通りの肌寒い秋の天候に戻ってしまっては、不良在庫を抱えるだけだ。
昼行燈とはいえ、仮にも龍二は店長である。そのくらいのことは分かっていた。全ての方針を決めるのは店長だ。
龍二は額に手を当てて唸った。
全員の視線が店長の龍二に集まった。事務室は重い空気に包まれた。
(おれが判断しなくてはいけないんだ。明日は普通の一日なのか、それとも真夏の世界か……。おれの責任で決めなくてはいけないんだ。よく考えろ、考えて……)
「――って、考えてもわかるもんかい!」
龍二は大声を出しながら、拳でテーブルを叩きつけた。
周囲の皆はあっけにとられていた。龍二は、すぐに自分のなげやりな態度を後悔したが、それを責める者は誰もいなかった。
「そりゃあ、そうよね……」
気が抜けたような麻衣の声を皮切りに、皆がおずおずと口を開いた。
「考えたってわかりませんよ」
「自分、もうどっちでもいいッス」
龍二は少しほっとした。肩の荷が降りたような気がした。しかし、部下たちに甘えてばかりはいられない。どちらなのか決めなくてはいけないのは確かだ。
「さっぱり分からないので、これで決めよう」
龍二はおもむろに、懐の小銭入れから百円玉を取り出した。
「もしや、コイントスで決めるんですか」
察しのいい越後谷がすぐに気づいて言った。
「そうだよ。お代官がやるか?」
「いいえ、店長どうぞ」
「じゃあやるぞ。百って書いてあるほうが出たら、明日は秋。裏なら真夏だ。……せーの!」
龍二は親指の爪で硬貨を弾いた。銀色のコインは回転しながら真上に跳ね上がり、落下してきたところを手の甲で受け止める――はずだった。
ところが、彼は生来、運動神経と反射神経が鈍かった。
龍二の右手は百円玉を押さえそこねて、あらぬ方向へ弾き飛ばす結果となってしまった。
「ああっ!」
皆が思わず声をあげた。
硬貨は甲高い音を立てて床にぶつかり、すいすいと転がって、壁際に置いてあった社員用ロッカーの陰に入り込んでしまった。それきり見えなくなってしまった。
皆、コインが消えた壁際を見つめていたが、百円玉がロッカーの反対側から顔を出したりもしなかった。
一瞬の静寂の後、麻衣が大口を開けて笑い出した。
「あーあ、なんだか、真剣に考えていたのが馬鹿みたい。――皆さん、ごめんなさい。わたし、今日の失敗は自分のミスだと思って、一人でイライラしていたみたいです。もう大丈夫です」
麻衣はいつもの明るい表情に戻っていた。
「そうだ! 二階堂さんは気にするな。どうしようもないことだったんだ」
龍二の言葉に皆がうなずき、それぞれが麻衣をねぎらい、励ました。事務室は和やかな雰囲気になった。
「ところで店長、明日は結局、夏っスか、秋っスか?」
柿崎が挙手して訊ねたが、龍二は返答に窮した。
「うーん……」
百円玉は見えなくなった。これではまるで、シュレディンガーの何とかだ。皆でロッカーをどかして、コインがどちらかに倒れる様を観察したところで、果たしてそれは本来の結果なのだろうか。
龍二は苦しまぎれと知りつつも言った。
「これは、明日のことは明日でないと分からない、ってことだよ! 普段どおり、秋のつもりで用意しよう! 何か起こったら、そのとき考えよう!」
「了解です!」
「わかりました!」
柿崎がまず返事をし、ほかの者たちもうなずいた。みな、会議前よりも表情は明るくなっていた。そこで解散となり、それぞれが部門に戻っていったり、帰宅の用意を始めたりしていた。
龍二がひとりパソコンの前に座り、今日の売り上げデータを眺めていたとき、麻衣がやってきた。
「龍くん、さっきはごめんね。わたし、自分の失敗がショックで……ううん、ちょっと違うかなぁ」
いつになくしおらしい様子の麻衣に、龍二は戸惑っていた。
「今日のことは、二階堂さんのせいじゃないよ。皆も言っていたじゃないか」
そうじゃないの、と、麻衣は頭を横に振った。
「――わたし、長年この仕事をやっていて、どんな季節でもどんな天候でも、完璧に売り上げを読めるっていう自信があったの。だから、今日の妙な現象も、自分はどうして先読みできなかったんだろう、って、悔しかったのね」
麻衣の言うことは無茶苦茶だったが、状況がどうであれ、仕事の結果については言い訳できないのが基本だ。彼女に落ち度はないのだが、気持ちは龍二にも理解できた。
「きっとわたし、自分を過大評価していたんだと思う。仕事にちょっと慣れたからって、何でもできるような気がして、調子に乗っていたの。でも、思い上がりだったのよ。――それに気づいたら、ふっと楽になっちゃった」
龍二は、どう返答したらよいのか迷ってしまい、「そうか」と一言発するのがやっとで、結局黙ってしまった。彼女と目を合わせるのも照れくさくて、パソコンの画面をずっと見たままだった。
「――あ、変な話してごめんね。そろそろ帰る」
麻衣は立ち上がり、帰宅するためにコートを羽織った。龍二は、気の利く言葉ひとつかけてやれない自分の不器用さを呪っていた。――こんなとき、例えばお代官だったら何て言うのだろう?
「じゃあ龍くん、お先に失礼します」
「あ、あの――」
麻衣が扉から出て行きかけたとき、龍二はなんとか喉から声を絞り出した。
「二階堂さんのこと、頼りにしてるから。店のみんなも、おれもだ。……あ、明日もよろしくな」
それだけ言うのが精いっぱいだったが、麻衣の表情はぱっと明るくなり、にっこり笑った。
「ありがとう」
そう言い残し、彼女は帰って行った。
しばらくしてから龍二は立ち上がり、閉店間際の店内を巡回してから、またパソコンの前に戻ってきた。売上データの分析をして、従業員全員の退社を確認したあとで、ようやく自分が帰宅する用意を始めた。
長かった火曜日が終わる。
爪先に何かを蹴飛ばした感触があり、足元を見ると、銀色の硬貨が独楽のようにくるくると回転していた。
床の百円玉が、倒れてしまわないうちに拾い上げると、龍二は誰もいない事務室を後にした。