1-1 火曜日 (1)
店長に就任して二日目の朝。
昨日よりも四十分ほど早い時刻に、龍二は車のハンドルを握っていた。今日からは、店長が自ら朝一番の鍵を開けなくてはならなかった。
今日は火曜日。全店舗共通で『お肉の日』だ。毎週、畜産部門の売り出しをするのは火曜日と決まっていた。退屈のせいか、寝不足か、龍二はあごが外れそうなほどの大あくびをした。
信号待ちをしながら、龍二はぼんやりと考え事をしていた。
鶏モモ肉、牛豚合挽き肉、ウインナーソーセージ……。売り出しの定番商品は、いつも似たり寄ったりだ。十年以上もスーパーマーケットで働いてきた龍二にとっては、毎週おなじことをやっている気がして、面白味がない。それらを使った料理は嫌いではなかったが。
大して変わり映えのしない商品に、世の中の主婦たちは飽きもせず、毎度群がっている。彼女たちの、そのたくましさの根源について、龍二は考えていた。
朝から家族全員のぶんの食事を支度し、掃除、洗濯、そして買い物、晩御飯の用意。毎日それが続くのだ。龍二にとっては、想像しただけで耐えがたい。肉がグラム当たり十円安いことですら、彼女たちにとってはきっと大ニュースに違いない。それほど、毎日が退屈極まりないのだろう。
(ああ、嫌だ嫌だ。そんなことしか楽しみがないなんて。おれは女に生まれなくてよかったなぁ。主婦なんて仕事は絶対に御免だよ)
信号が青になった。憂鬱を吹き飛ばすかのように頭を振りながら、龍二は車を発進させた。家庭に尽くすだけの人生をつまらないと否定した龍二だったが、自分が三十八歳独身で、ここ数年は恋人も不在のままだという事実は、すっかり棚に上げられていた。
(いっそのこと、ステーキ用の高級国産牛肉でも大売り出しすれば面白いかな? もちろん、びっくりするほど安い単価で)
勝手にそんな暴挙をやったら、本社に怒られることは明らかだ。しかし、失うもののない龍二にとって、何を恐れることがあろうか。あと一カ月もしたら、誘惑にかられて、本当にそういう無茶をしそうな気がしてならなかった。
昨日と同じように、龍二は駐車場に車を停め、小さな手荷物を持って、砂利の上を店のほうへ向かって歩いた。
(あれ……?)
龍二はまばたきをした。その目には、白い壁のサンシャインマート茅場町店が映っていた。
しかし何かが昨日と違う。建物全体が、ぼうっと輝いて見えるのだ。
それはほんのかすかな光で、虹のような繊細な光彩を放ち、直線的なはずの輪郭は二重三重に見え、周囲の風景に滲み出しているようだった。
最初は、昨夜のうちに誰かが、壁のペンキを明るい白に塗りなおして、窓の清掃でも行ったのかと思った。だが、そんな大がかりな作業をしたのなら、店長の自分が気づかないはずがない。
もしかしたら、自分の視力に問題があるのかと思ったが、妙な見え方をしているのは店舗の建物だけで、ほかのものは普通に見えている。
(きっと気のせいだな。おれは昨日よりも早い時間に出社しているから、朝陽の当たり具合がちがって、そう見えるのかもしれないな)
わずかな違和感をおぼえるも、龍二はまだ出社二日目である。そんなこともあるだろう、と、自分を納得させつつ、従業員入口のドアノブへ鍵を差し込んだ。
バチン、と小さな火花が散り、龍二の手に痛みが走った。
「ちくしょう! 静電気かよ……」
かすかに痺れる右手を振ってから鍵を差しなおし、ノブを回すと扉が開いた。そうして龍二は、無人の店舗内へひとり吸い込まるように入っていった。
その朝、最初の異変に気付いたのは、水産部門チーフ社員の柿崎だったと思われる。
開店作業が無事に終了し、お客を店内に入れたところで、彼自慢の美声アナウンスが店内に響き渡った。
『――お足下の悪いなかのご来店、まことにありがとうございます。本日はサンマが特売となっております。脂ののったおいしいサンマ。奥様、今夜の夕食にいかがでしょうか。なお、外は激しい雷雨となっておりますので、ごゆっくり店内でお買い物をお楽しみください。いらっしゃいませ、いらっしゃいませ~』
「あら? 雨なんて降っていないわよ」
事務室にいた麻衣が、怪訝そうな顔で窓の外を見た。
柿崎の店内放送は、事務室を含むバックヤードにも聞こえていたが、パソコンに向かっていた龍二は麻衣に言われて初めて気が付いた。顔を上げてみると、確かに、窓の外は晴れている。
「おれにも『外は雷雨』だって聞こえた気がするんだけど……」
そこへ、売り場へ出ていた越後谷がやってきた。
「いやあ、急に大雨が来ましたね。天気予報では晴れだったのに、まったく不意打ちです」
龍二と麻衣は思わず顔を見合わせた。
「まさか、この店が快晴と雷雨の境界線だったりして」
麻衣はひきつった笑いを浮かべていた。
妙な空気を察したのか、越後谷も窓の外を見ると、やはり晴れていた。龍二は立ち上がって、窓越しに地面を見たが、アスファルトは乾いたままだ。
「お代官、雨が降ったのを見たのか?」
「ええ、そりゃあもう、バケツをひっくり返したようなひどい雨で、雷も鳴っていました。店の窓から外を見たときは、まるで夕方みたいに真っ暗になっていたんですが……」
越後谷の言葉が終わらないうちに、龍二は事務所を飛び出して、売り場のほうへ向かった。麻衣と越後谷もその後に続いた。三人はバックヤードを通り抜け、店内から正面の大窓がよく見える位置に到着した。
窓の外は大雨だった。
真っ黒な厚い雲が空を覆い尽くし、時折閃光が見え、やや遅れて雷鳴が響いてきた。店内の客はみな、水滴の滴る傘を片手に持って歩いたり、びしょ濡れのレインコートを羽織ったまま買い物をしていた。店内に湿った匂いが充満していた。
「あ、傘立てと袋を用意しないと!」
麻衣が声をあげた。客の持ち込んだ水滴で、床が濡れると滑りやすくなる。放っておくと危険だ。
「僕がとってきます!」
「わたしは床を拭くわ」
麻衣と越後谷は、それぞれバックヤードへ走っていって、龍二はその場に一人残された。
(しまった、おれは何をすれば……)
本来なら、店長である龍二が気づいて、指示をするべきだったのだ。気が利く部下を持ったこと喜ばしいはずなのだが、自分の愚鈍さが一層浮き彫りにされたようで、みじめな気分になった。
しかし、落ち込んでいる暇はない。
奇妙である。ついさっき、事務所の窓から見た空は晴れていたし、雷鳴も聞こえなかった。それに、客の様子が何かおかしい。いまは十月なのに、客の恰好は――。
自分の目で確かめるしかない。龍二は、売り場を通過して、客が入ってくる店舗の入り口へ向かった。
大窓に近づくにつれ、黒い雨雲は一層不気味さを増していくように見えた。自動扉を通り、雷雨の激しい外へ出ようとしたときだった。
龍二は、空気の塊に弾かれて、店内に押し戻された。
(そんなに風が強いのか?)
もう一度、店の外に出ようと試みる。ところが、いくら足を踏ん張ってみても、自動扉と外の境界のところで、押し戻されてしまうのだ。まるで、目に見えない風船が出口を塞いでいるかのようだ。
しかし、客たちは平然と出入りしている。
数人の客が訝しげに龍二の動きを見ていたが、構っている場合ではなかった。龍二は、ふたたび売り場を横切り、バックヤードを通り抜け、従業員通用口へ向かった。そこから見る外は青空だった。
(一体どうなっているんだ? 店の正面だけ雷雨なのか?)
疑問を抱えながら、龍二は外へ出た。店舗の裏をまわり、小走りで店の正面側へ到達した。
店の正面入り口付近も晴れていて、雨が降った様子はない。狐につままれた、とはこういうことを言うのだろうか。
見ると、近くに二、三十人ほどの人だかりが出来ていて、なにやら騒いでいる。人々は、呆然と立ち尽くしている龍二に気づくと、一斉に詰め寄ってきて、口々に文句を言い始めた。
「あんた、この店の人だな!? 一体どうなってるんだ」
「どうして店の中に入れないの?」
「休業日だなんて聞いてないわよ!」
その一団は、どうやら買い物に訪れた客らしかった。
わけがわからないまま、龍二は人だかりをかわしながら、店の入口へ走った。
近づくにつれ、窓を通して店の中が見えないことに気が付いた。普段なら、サッカー台で客が袋詰めをしている様子や、レジを打っている従業員たちの姿が見えるはずなのだが、それらは全く確認できなかった。
店の中は真っ暗――いや、真っ黒に近く、墨汁を溶かした水に満たされているかのようで、時折灰色の細い筋がいくつも現れ、揺らめいては消えていった。
その得体の知れない様子に龍二は躊躇したが、背後からは客たちの怒号が迫っていて、退くに退けない。意を決して自動扉から中へ入ろうとしたが、さっき店内側から試したときと同じように、空気の壁に阻まれて、進むことができなかった。
龍二の様子を見ていた、体格の良い中年の男が、おなじように店内に入ろうとしてみたが、やはり弾かれてしまいだめだった。それを遠巻きに見物していた他の客たちが、また騒ぎ始めた。
一人の女の客が龍二に詰め寄り、ヒステリックな怒鳴り声をあげた。
「あんたみたいな下っ端店員じゃダメよ! 店長を呼びなさいよ!」
龍二がたじろいでいるその時、越後谷が走ってやってきた。
「店長! 例の準備ができました! ――お客さま、ご迷惑をおかけして申し訳ございません。広告のお品だけなら、すぐ用意できますので、本日はどうかご勘弁願います」
おおーっ、と客の一団がどよめいた。
どうやら買い物ができそうなことに対する安堵なのか、それとも颯爽と現れたイケメン店員に癒されたためなのか、今しがた怒鳴っていた女性客は、集団の中に混じっておとなしくなっていた。
(……なんだよ、例の準備って)
龍二は目で越後谷に訊ねた。越後谷は片目をつむってサインを送り返した。おそらくは、いいから話を合わせて下さい、といった意味だろう。
少し遅れて麻衣もやってきて、手に持ったチラシ広告を配りながら、客の一人一人に声をかけはじめた。
「広告掲載の商品は全てご用意できます。もうしばらくお待ちください」
さっきまで苛立っていた客たちは落ち着きを取り戻し、チラシを見ながら買い物の算段を始めたり、顔見知り同士で雑談をはじめた。あきらめて立ち去ってしまった客もいたが、それは龍二の予想よりも少なかった。
不思議な現象へと興味が移った者もいて、自動扉のところに行って、片手を突っ込んで面白がったりしていた。
(そうか、越後谷たちが客の不安を取り除いてくれたんだ。おれもしっかりしなければ)
龍二は、再びバックヤードへ引き返していく越後谷の後を追った。
『――お客様には、たいへんご迷惑をおかけ致しております。本日は、トラブル発生のため駐車場にて営業させていただきます。特売の豚バラ肉は、こちらに用意してございます。脂ののったおいしいサンマもいかがでしょうか~』
さきほどの混乱から一時間ほどが経過したころ、店舗入り口付近の駐車場の一角に、即席の売り場が設営されていた。
売り場とはいっても、広告で予告済みの品と、生活必需品である一部の品を持ってくるだけでやっとだった。イベント用のテントすら間に合わず、完全な野ざらしの露店状態である。
ハンドマイクを片手に客寄せをしているのは、目立ちたがり屋であるらしい水産チーフの柿崎という男だ。彼の周囲には、発泡スチロールの箱に入った精肉や鮮魚などが積み上げられている。
その隣には、特売用のワゴンが数台置かれ、マヨネーズやら醤油、味噌、樹脂ラップやボックスティッシュなどがいっぱいに積まれていた。
事務所から持ち出したパイプ椅子に腰かけ、長テーブルの上に置かれた古いレジスターを必死に叩いているのは龍二である。最新式のレジと違って、商品管理システムと連動していないし、自動精算でもないが、若い頃から雑用ばかりしていた龍二は、それの扱い方も少しは知っていた。
レジは一台しか用意できなかったため、龍二の前には長い列ができていた。
店に入れないということを知ると、車でやってきた客の多くはよそへ行ってしまったが、徒歩でやってくる客はだいたい、この場で買い物をした。普段と比べものにならないほど客は減ってしまったが、それでも一人で客をさばくのは大変だった。
休憩することもできず、ひたすらレジを打っているうちに、気が付くと十三時を回っていた。越後谷がやってきて、交代して昼休みをとることができたが、それまでの間は空腹であることすら忘れていた。