2-11 最後の一日(3)
十二時半を過ぎた頃、龍二は店内の各部門を巡回していた。
忙しさのあまり、休憩に入っていない従業員がいないかどうか、確認するためだ。店内の混雑は、やや収束に向かってきていたものの、まだまだ忙しい。龍二は、各部門のリーダーをみつけると、交代しながらでも必ず昼の休憩をとるように指示を出していった。
(そういえば、筒井さんの仕事は大丈夫だろうか?)
筒井優花に、作業終了の目処として提示してあるのが十三時。
まだお客で混雑しているフロアを横切り、龍二がサービスカウンターへ行ってみると、包装作業の進捗は芳しくない。この繁忙時だから仕方がないとも言えるのだが、龍二の姿をみつけた優花は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「店長、すみません……! わたし、やっぱり、仕事が遅くて……」
「まだ時間はあるよ。後藤さんを呼ぶから大丈夫だ」
龍二はそう言ったものの、内心は焦っていた。後藤は本来は事務員で、月末ともなれば仕事が多い。ベテランの久保田洋子が事務の応援に出てきているものの、負担は決して軽くはないだろう。
こうなってくると、麻衣が倒れたのが非常に痛い。
駄目でもともとで後藤を呼んでみると、渋い表情をしながらも駆けつけてきた。そして、龍二と優花、後藤の三人で、いっせいに包装作業を始めた。
「後藤さん、広瀬店長、すみません、わたし……いつも手伝ってもらってばかり」
「仕方がありません。きょうは毎年、こういう日なのです」
優花は泣きそうな顔で謝りながらも、歯を食いしばって作業をしている。おそらく少々無理をしてまでやってきた後藤にも、笑顔で返事をするほどの余裕は見られない。
慣れない作業のせいか、龍二は紙の縁で指先を切ってしまった。
たいした傷ではなかったが、商品に汚れをつけてはいけない。優花に頼んで絆創膏を分けてもらうと、自分で指に巻きつけながら、気持ちを落ち着けるように、ひとつ深呼吸をした。
――何やってんだ。店長のおれが冷静じゃないとだめじゃないか。
ふと、顔を上げて自分のまわりを見た。
追いつめられた兎のような目をして作業をしている、筒井優花。自分の仕事をなげうってまで手伝ってくれている後藤香織。お客の長い列をひとりでさばいている盛田真由美。
離れたところでは、棚に商品を補充しながらお客さまの相手をしている、柿崎淳や星野彩。その後ろのバックヤードでは、壁に阻まれて見えはしないが、惣菜タイガースをはじめとした多くのパート従業員たちが頑張っているのだ。
なんと心強いことか。
龍二はふたたび、自分のすぐ目の前にいる優花に視線を戻して言った。
「ねえ筒井さん。……もし、自分で仕事が遅いと思うなら、皆に存分に手伝ってもらうといいよ」
「で……でも、それでは皆さんにご迷惑です」
「いいじゃないか」
龍二がそう言うのを聞いて、それまで、無表情で作業に没頭していた後藤の口元が、かすかに笑った。不思議そうな顔をしている優花に、龍二はさらに話を続けた。
「誰かに借りをつくったら、いつか返せばいいじゃないか! 一人前になってからだって遅くはないんだ。たくさん力を借りて、なんなら利子をつけて返してやればいい!
それを惜しむような者は、その時間も待てないような者は、この店にはひとりもいない。なあ、違うかい、後藤さん、盛田さん」
「違いません」
後藤が大きくうなずいて答えた。
「広瀬店長のおっしゃる通りよ」
お客の途切れた合間に、盛田も振り向いてそう言った。
「後藤さん、盛田さん、すみません、わたし頑張りますので……!」
そう言った優花には、少し笑顔が戻っていた。
包装作業は順調に進み、まもなくして全て終わった。
これで、あの気弱そうな若奥様を待つばかりとなる。龍二と後藤はサービスカウンターを後にした。後藤はよほど忙しかったのか、駆け足で事務室へ戻って行った。龍二は後藤に、心の中で謝り、礼を言った。
龍二は、優花のことが気がかりだった。
この職場には主婦が多い。独身で若い優花には、もっと別の仕事で生きる道もあるのだから、恩を売るような言い方をしたことは、本人の負担になるのではないのか。
選択肢は常に他にもあるのだ。しかし、店長である自分がそれを言って何になろうか。
龍二はその後、あの九十九番コードで柿崎に一度呼び出され、派手な軍手とナントカ素材配合の透明板をもって時空間の隙間を埋める作業を行った。その他にも、店内で一度、古川信江の姿をしたフリュカを見かけた。やはり、妙な光を板でふさぐ作業をしているようだった。
十五時になった。
あの若奥様がご来店になり、無事に品物を受け渡したとの連絡がきた。嘘か誠か、泣きながら喜んで下さったらしい。優花ももらい泣きしていたようだ、との情報も、これまた真実かどうか分からなかった。
陽が傾き、早い冬の夕暮れが近づいてきた。
大晦日の夜の食卓を飾るオードブルや、寿司の盛り合わせを受け取るためのお客が来店し始めた。売り場にも、最後の買い物に駆けつけたお客がまだ多くいた。
今日は普段よりも閉店時間が早い。売り場スタッフにとっても、バックヤードの従業員たちにとっても、いよいよラストスパートの時間となった。
そのころ龍二は、バックヤードとサービスカウンターを往復し、お客が訪れるたびに、予約注文の品物を運んで届けていた。
忙しさに追われるうちに、いつのまにか日没を迎えていた。店内の客は徐々に減り、気づくと人影はまばらになっていた。
ある大口注文のお客に無事品物を渡し終え、ふうっと一息ついたときだった。
龍二は、何とはなしに、売り場から窓の外を見た。氷河期の世界だけあって、あちこちにうず高く積まれた雪の山が、ぼんやりと白く照らされて見えていた。第二番並行世界は、夜の闇に支配されつつあった。
それは、目の前にいきなり現れた。
店舗の正面側、大窓のど真ん中に、揺れる光の渦巻きが音もなく広がった。
――時空間の裂け目だ、塞がなくては!
龍二が透明板を取りに行こうと動き出すよりも早く、渦はみるみるうちに長方形を成していった。それは、あっというまに、足元より数段高いところに浮かぶ光の扉となった。
そこから、一人の女性がひらりと飛び降りてきた。
「ふう、よいしょ、っと!」
それは、筒井優花――に似た、別の筒井優花。龍二はまだ知らなかったが、第六番並行世界にいるはずの、筒井夕夏であった。
龍二は、優花がもうひとり現れたことに仰天していたが、同時に夕夏も驚いたようで、まばたきをしながら龍二の顔を見ていた。
まるで、会うはずのない場所で知り合いに出くわしてしまったかのように。
「えっ!? ――りゅう……」
夕夏は何か言いかけていたが、はっとした様子で口をつぐむと、くるりと後ろを振り向いて、光の扉の奥へ向かって叫んだ。
「おじいちゃんたち! こっちに来ても大丈夫だよー!」
夕夏が揺らぐ光の中へ手を伸ばし、何かを引き寄せた。一番先に見えたのは、杖の先端。そして、目に見えない階段を降りてくるのは、龍二が知っている人物だった。
「――鵜飼先生! どうしてここに?」
鵜飼巌は、少し照れたように笑いながら言った。
「おう、龍か! おれの手袋見なかったか?」
「手袋――って、保管してありますけど、それより一体どうして……」
鵜飼巌の足が床に届いたころ、夕夏は、もうひとり光の中から現れた老婦人に手を貸していたところだった。鵜飼巌と同じように、杖をついている。
光があらわれたのは、サービスカウンターからほど近い場所であったので、盛田真由美と筒井優花も、異変に気づいて駆けつけていた。
「――ナツ? どうやって来たの!?」
優花は、きょう会えるはずもない夕夏が現れたことに驚いていた。彼女のいる世界とのトンネルがつながるのは、日曜日だけのはずなのだから。優花に気づいた夕夏は、嬉しそうに手を振りながら言った。
「ハナ! 会えて良かった! ――だって、あの宇宙人の女の人が、時空間トンネルはもう通れなくなるって言ったんだもん。あたし、なんとかしてもう一回、ハナに会いたかったから、危ないって止められたけど、あの光の中を通ってきちゃった」
優花はあきれ顔になった。
あの得体の知れない光の中を通ってくるとは、なんと無謀なことか。しかし、ポジティブな夕夏らしいとも思った。
ふたりのユウカは、手を取り合って再会を喜んだ。
「もうナツってば、無茶しないでよ!」
「うん、ごめん。――でもね、あのおじいちゃんたちも、こっちの世界に会いたい人がいるって言って、困ってたみたいだったからさぁ」
夕夏が振り向いた先には、優花がまだ名前を知るはずもなかったが、鵜飼老夫婦がいた。
盛田真由美は呆然と立ちすくんでいた。
無理もない。日曜日でもないのに、十年以上前に亡くなってしまったはずのピアノの先生が、この世界に現れたのだから。
鵜飼富恵は、杖をつきゆっくり歩き出した。そして、盛田のすぐ目の前までやってくると、穏やかな笑顔を浮かべながら盛田の手をとった。
「――真由美ちゃん。こちらの世界の真由美ちゃんには、お久しぶりみたいね。あの、しっかり者の娘さんはお元気かしら。
わたしは、このとおり、おかげさまで主人とも会えたのよ。これもみんな、真由美ちゃんのお店のおかげなの。本当にありがとうね」
鵜飼富江は、そう言いながら盛田の肩をさすり、なにか小声でささやいていた。盛田は言葉に詰まり、ただただ頷くばかりだった。
「ねえ、ハナ聞いて! あたし決めたの。サンフラワーマート、辞めることにしたの! ――んでもって、新しい仕事も決まりそうなんだ!」
夕夏は、吹っ切れた笑顔での報告となった。そして、周囲に聞こえないように、優花だけに小声で耳打ちをした。
「――実はね、辞めた理由はほかにもあるの。あたしの彼氏、実はサンフラワーマートの上司にあたる人だから。……ほら、職場恋愛は、表向きにはだめってことになってるでしょ?」
そういうことなら納得できる、と優花はうなずいた。そして、こっそり言った。
「わたし、応援するよ。ナツの新しい仕事のことも、彼氏とのこともね」
「ありがとう! ――ハナのほうは、これからどうする?」
夕夏は、すこし心配そうに優花にたずねた。
「うん、わたしはね。迷ったけど、このお店で続けようと思うんだ。きょう、やっと決心がついたの。別の道のほうは、ナツが進んでくれているし、わたしはこっちで頑張ってみようと思うの」
「そっか! それじゃあ、お互い頑張ろうよ!」
「うん、約束ね」
二人のユウカは握手を交わした。二人とも、晴れ晴れとした笑顔だった。
龍二は、灰色の手袋を鵜飼巌に手渡した。鵜飼はそれを受け取って、確かめるようにしげしげと眺めながら言った。
「――不思議なこともあるもんだな。どこでどう世界がつながったのか、あいつと道端でばったり会ったんだよ。……それで、これも何かの縁だろうと思って、六番世界に婿入りすることにした」
そう言いながら、鵜飼は満足そうな表情で、手袋をポケットにしまいこんだ。
「いや、待ってください先生。――さっき、あの子が言ってましたよね。もうすぐ、時空間トンネルは通れなくなる、って。そしたら、先生はもう二度と――」
龍二が言い終わらないうちに、鵜飼は首を横に振った。
「まあ、年寄りの最後の冒険だと思って、大目に見てくれや。
――そうだな、心残りがあるとしたら、龍がまだ嫁さんをもらっていないことくらいだ。いい歳なんだから、ゆっくりしている場合じゃないぞ。そろそろ本気を出さんかい」
鵜飼はそう言って笑うと、別れのあいさつに代えるように、片手をあげた。
そして、富恵と共にふたりで杖をつきながら、光の扉の中へ消えていった。――ありがとう、と龍二は口を動かしたつもりだったが、それが声をなしたのかどうか、自分でもよく分からなかった。
「んじゃ、そろそろ本当に危ないらしいから、あたし行くね! ハナ、またねー!」
鵜飼夫妻の後から、軽い足取りで光の中に飛び込んでいったのは夕夏だ。
まるで、また明日には会えるかのような言葉を残し、風のように消えていった。優花もまた、笑顔で手を振り続けていた。
まもなく、光の扉は揺れながら渦巻きの形になり、だんだんと薄らいで消滅した。
そこにはただ、元通りの大窓があるばかりだ。
龍二が呆然としながら、消えていった光のほうを眺めているとき、店内に大音量でアナウンスが響き渡った。声の主はおそらく、事務員の後藤である。
『全従業員の皆さまにご連絡です。ただいまをもちまして、七十七番をお知らせ致します』
同時に、店内のそこかしこで、わあっと歓声が上がった。
レジチェッカーたちは、皆が顔を見合わせて、飛び上がるような勢いで喜んでいた。バックヤードで、水産加工室で、調理室で、パート従業員たちが一斉に手を叩き、歓喜の声を上げていた。それは、売り場フロアまでも聞こえてくるほどだった。
――「七十七番」? 何だったっけ?
龍二が考えを巡らせていると、まずは、一番近くにいた筒井優花と、盛田真由美が駆け寄ってきて、二人して口をそろえて言った。
「広瀬店長、おめでとうございます!」
何が何だかわからず戸惑っているところに、店内にもかかわらず従業員にあるまじき全速力で駆け寄って来る男がいた。コーナーを曲がり、前のめりになりながら突っ込んでくるのは、半纏姿の柿崎淳である。
「店長! ついに、ついにやったッスね!」
勢い余って激突しそうになる柿崎を両手で制止しながら、龍二は後ずさりをした。
「うわぁ、何だ何だ」
品出しのためフロアに出ていたスタッフたちも、次々と龍二のもとへ駆けつけてくる。そして、バックヤードに続く扉が勢いよく開き、大勢のパート従業員たちが一斉に出てきた。
「広瀬店長ー! 目標達成、おめでとうございまーす!」
星野彩を先頭に、バックヤードの従業員たちが口々に叫びながらやってきた。水産加工室や、農産部門のスタッフたち、もちろん、あの惣菜タイガースもいる。龍二はあっという間に、白衣姿の奥さまたちに囲まれてしまった。
「目標達成、って、ま、まさか――」
事務室にいた後藤香織、休憩をとっていた二階堂麻衣が、やや遅れて到着した頃には、龍二も事態を察していた。『七十七番』とは、店長の龍二ただ一人だけが知らなかった、目標金額達成を知らせる合図であったのだ。
「あーあ。やっぱり龍さんは強かったなぁ」
城東店の事務室で、売上高を映し出すディスプレイを見ながら、越後谷翔はつぶやいた。
「え、越後谷くん? まさか、あの広瀬龍二に負けたのか」
この店のフロア長である横浜が、越後谷の後ろから画面を覗きこみながら言った。店長に次ぐ地位であるので、越後谷とは同格にあたる。
越後谷は大きなため息をつき、柄にもなく悔しさをにじませながら言った。
「申し訳ありません。ついつい、守りに入ったのが失敗でしたね」
失敗もなにも、横浜には、越後谷に落ち度があるとは思えなかった。城東店の売上高は前年を上回っているし、店長代行としては充分りっぱに務めを果たしたと言えよう。
ただ、予想に反して龍二がその上をいったというだけの話である。
「いや、きみを責めているわけではなくて。――わたしの知っている広瀬龍二という男は、もっとこう、ぼんやりとして覇気のない男だったはずなんだが……」
横浜はしきりに首を傾げている。その様子を見ながら越後谷は苦笑した。
――そうかもしれない。もしも、龍さんが以前のままだったとしたら。
もしかしたら、越後谷たちは、とんでもない強敵を目覚めさせてしまったのかもしれなかった。いや、敵ではない。同じ会社で働く仲間でもある。そう考えると頼もしい限りではないか。
とにかく、負けは負け。年明けに寿司ランチをご馳走するのは、越後谷のほうになるだろう。冗談気味に宣戦布告したものの、約束を反故にする気は毛頭なかった。
越後谷は両腕を上げて伸びをした。勝てなかったが、すがすがしい気分だった。
「前しか見ていない人間は、強いんですよ。僕も、もっと頑張らないとな」
茅場町店の売り場フロア内で、龍二を中心とした従業員たちは、歓喜の渦のなかにあった。
興奮でだれも気づかなかったのだが、いつのまにか、店内の照明はやや暗めになっていた。訪れる客はかなり少なくなっているとはいえ、営業時間内であったから、その程度は買い物に不自由がない範疇のことであった。
大窓の外の風景が一変していたことに、最初に気が付いたのは、後藤香織である。
「店長、あれは――」
後藤が指さす窓の外を見ると、そこに第二番並行世界の冬景色はなかった。
店の外は、どこまでも広がる漆黒の空と、一面に散らされた星々。最初はただの夜空だと思ったが、違っていた。地面や建物にあたるものが、まったく見えない。
そして、視界の中央で存在感を放つのは、青く輝く、水と大気の惑星であった。
「あっ、あれって――地球……ッスよね?」
それは、宇宙空間からみた地球の姿であった。
柿崎淳は、口を半開きにしたまま、月の有人探査船の乗組員でもなければお目にかかれないであろう光景を眺めていた。
こんな芸当ができる人物は、ひとりしか思い当たらない。
龍二は、後頭部に静電気のようなぴりぴりとした刺激を感じた。振り返ると、売り場の隅のほうに、フリュカ――古川信江ではない――の姿があった。
外の景色に夢中になっている従業員たちを残し、龍二はひとり、フリュカのもとへ歩いていった。
「目標達成おめでとうございます、広瀬店長」
フリュカはそう言って微笑んでいた。やはり、窓の景色は彼女のしわざなのだろう。
しかし、龍二が一番に聞きたいことは他にあった。
「フリュカさん。もう、時空間トンネルは、閉鎖されるのですね」
「その通りです。実を申しますと、このようにうまくいく保証は無かったのですが。
――以前、すこしお話しましたかもしれませんが、時空間トンネルは、そこに暮らす人々の意識の影響を強く受けます。
この世界の皆さまは、一年のおわりとはじまりを、特別なこととして捉えているようでした。そこで、皆さまの意識が一度区切りを迎えるタイミングに、便乗するようにトンネルに干渉をすれば、制御がうまくいくのではないかと考えたのです。
広瀬店長どのには、長い間、ご迷惑をおかけしました。
時空間トンネルの閉鎖工事は、最終段階に入っています。夜明けを待たずに、トンネルはその機能を完全に停止することでしょう。
本来なら窓の外に見える景色は、少々おぞましいものになるところですが、ご商売に支障のないよう、別の映像に代えさせて頂きました」
振り返って窓の外を見ると、大宇宙より見下ろした、我らの暮らす地球の姿があった。映像だと言われても、その鮮明さに本物であるかのような錯覚をおぼえる。まるで宇宙飛行士にでもなったような気分だ。
突然、景色の中に鮮やかな火の玉があらわれ、幾重もの放射状の光となり散開した。それが窓の半分ほどを覆ったかと思うと、流星のようにゆっくり消えていった。間隔を置いて、もうひとつ、ふたつ。これは龍二にも見覚えがある。
「花火……ですか?」
大窓の近くから、麻衣や柿崎たちの話す声が聞こえてきた。
「あら? 宇宙空間は酸素がないのに、花火なんてできるのかしら?」
「うーん……。どうだったッスかね? むかし読んだ本には、できるって書いてた気もするッスけど……」
フリュカは苦笑しながら龍二に言った。
「本当に宇宙で花火が出来たら良かったのですが。――残念ながら、あれは、合成映像です。花火そのものは、さきほど、第四番世界の地表に近いところで打ち上げたのですよ。『新世界』の発見をお祝いするための演出です」
龍二は、フリュカたちの当初の目的を思い出した。
元々、彼女たちが時空間トンネルを掘ったのは、汚染されていない別の地球を探し出すことが目的であった。全ては、滅びに瀕した、第四番世界の住人たちを救済するためだったのだ。
『新世界』を発見したということは、フリュカたちの仕事がまず一つ完遂され、最終目的への大きな一歩を踏み出したことを意味している。
「おおっ! ――それは、おめでとうございます!」
「ありがとうございます。そして、お店の前にある時空間トンネルの出入り口は閉鎖しますので、あしたからでも、また元通りのご商売ができると思います。――では、ご報告まで」
お辞儀をひとつして、素っ気なく立ち去ろうとするフリュカであったが、龍二には察しがついていた。その背中に向かって言葉をかける。
「フリュカさん。――もしかしたら、もうお会いできなくなるのではありませんか」
しばしの沈黙。
振り向いたフリュカは笑顔だった。
「――いいえ。いつの日にか、また会えます。この仕事が一段落したなら、時空間トンネルの制御技術がもっと進歩したなら。――地球の誰よりもいちばん先に、広瀬店長に会いに参ります」
龍二には、その言葉が嘘ではないように思えた。だから笑って返事をした。
「それは楽しみです。できれば、おれがよぼよぼの爺さんにならないうちにお願いしますよ」
「ええ、頑張りましょう。――それでは、またいつの日か」
長い銀髪を揺らしながら、ひとり立ち去っていくフリュカの後姿を、龍二はずっと見送っていた。
窓の近くには、まだ多くの従業員たちが残っていて、花火見物をしていた。その中には、休憩していたはずの麻衣の姿もある。彼女は龍二の姿を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「龍くん、どこ行ってたのよ! 花火きれいよ!」
すっかり油断していた。麻衣はお得意の、わき腹くすぐり攻撃を繰り出してきた。
「うわっ、しまった――」
くしゃり。
龍二の上着のポケットの中で、何かが乾いた音を立てた。
「あら? ――何かしら、この紙」
不審に思った麻衣が、その紙きれをつまみ出した。広げてみると、複写式の伝票である。
「ああ、それ、忘れていたよ。きょうの築地のマグロの、納品伝票を預かっていたんだ」
麻衣は声も出せず息を飲み込んだ。表情が一気に凍り付いていく。
龍二はそれを察知して言った。
「――え? 仕入れ伝票は、来月初めの事務処理でいいんだったよな?」
「龍くん――忘れちゃったの? クリスマスイブに北野専務がいらしたとき、マグロだけは特別発注だから、すぐに売上高から仕入れ原価を差し引け、って……」
思い出した。
「あ、ああー。……そーだったっなあ!」
あっけらかんとして龍二が言うと、麻衣は真っ青になって悲鳴をあげた。
つまり。
現在、POSシステムで把握している売上高から、マグロの仕入れ原価を手計算でマイナスしたものが、真の売上高なのである。
「ご……後藤さん! ちょ、ちょっとこれ計算して!」
麻衣は後藤を呼ぶと、丸まった仕入れ伝票を差し出した。後藤は持っていたスマートフォンの電卓をたたき始めた。
その頃には、異変を察した数人の従業員が集まってきて、後藤の手元を覗きこんでいた。お祝いムードはすっかり吹き飛んでいた。
後藤も顔面蒼白になっている。
「た、足りません! 目標額には、これだけ及びません」
掲げられたスマートフォンの計算結果を見て、その場の者たちに動揺が広がった。
店舗はもはや閉店寸前で、営業終了を告げる自動音声が流れ始めていた。店内にいる客はわずか。売上高はたいして期待できない。
絶望的な空気を破って口を開いたのは麻衣だった。
「か……買えばいいのよ! わたしたちが」
それに端を発し、皆が口々に言った。
「そうだわ! わたしたちが買い物すればいいんだわ!」
「財布とってきます! ――優花ちゃん、カウンターのレジ、まだ開けておいて!」
「い、いま持ち合わせが……。そうだ、ATM! 大晦日ってATM稼働してるッスか!?」
大窓の前に集まっていた従業員たちは、いっせいに四方へ散っていった。
買い物カゴを持って店内を駆けまわる者、現金を取りに行こうとする者たちで、売り場は騒然となった。それを龍二が右往左往して追いかけ回し、必死に制止しようと試みる。
「み、皆さん待って! いけませんよ! 自腹だけは駄目だー!」
無駄な抵抗と知りつつも、龍二は駆けずり回って、買い物をしようとしている従業員を見つけては説得にあたった。しかし、孤軍奮闘である。守備を突破してレジを通過する者が現れはじめた。
とても手に負えないので、ついに龍二は、店内放送用のマイクを握りしめて叫んだ。
『――全従業員に連絡です! 皆さん、自腹での買い物はおやめ下さい! 店長命令です!』
閉店間際の、閑散とした売り場に、広瀬龍二の声が響き渡った。
これは、ある年の大晦日、サンシャインマート茅場町店での出来事。
その背景には、無数の星々をたたえた遥かな宇宙空間が広がり、青い宝石のような惑星がひとつ、静かに輝いていた。




