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パラレルワールド繁盛記  作者: ゆきの鳥
後編 シー・ユー・アゲイン
21/24

2-9 最後の一日(1)

20XX/12/31 From:越後谷翔


おはようございます。

昨日の売り上げ見ました。目標達成まで、あと一息ですね!

ところで、今日の大晦日の売上高、競争しませんか?

負けた方が寿司ランチおごるってことで。支払いは来年。(冗談です)

では、今年最後の一日、お互い頑張りましょう!



 スーパーマーケットの大晦日の朝は早い。

 いや、朝ですらない。未明の二時半であるから、ほとんど深夜である。

 この時間に出勤する者はさすがに多くはない。

 店長の広瀬龍二は、従業員専用口を開けようとしていた。ポケットから鍵を取り出し、開錠しようとしたが、手がかじかんでいてうまくいかない。この時、龍二はやっと、自分が寒さを感じていたことに気づいた。緊張で気が張り詰めていたせいか、自覚していなかったのだ。

 気温が低いのは、きっと晴れているからだ。頭上にはまだ夜の星が見えている。

 ちょうどそこへ、車を停めてきたばかりの二階堂麻衣がやってきた。普段は気丈に振る舞っている彼女でさえ、やや疲れの表情が見える。無理もない。二十三日以降、休日をとらずに連続で出勤しているのだから。

 従業員駐車場のほうに、一台の車がやってきたのが見えた。おそらく、水産部門チーフの柿崎淳だろう、と龍二は思った。

 この後、三時頃には他の社員たちも出勤してくる。三時半となれば、生鮮部門のパート職員たちもやってくる。この年の最後の勝負は、日の出を待たずに始まるのだ。


 龍二は、店舗の中に入ると、まずは冷え切った建物内を暖めるために空調のスイッチを入れた。

(そういえば昨日、盛田さんが、売り場の暖房の効きが弱いと言っていたな)

 ただでさえ外気温は低いのに、店内が寒くては大変だ。店の従業員はもちろんのこと、お客さまの体も冷え切ってしまう。それはよろしくない。どこかの吹き出し口の調子でも悪いのかと思い、龍二は売り場フロアへ向かった。

 龍二は、天井の数か所ある空調吹き出し口を順番に見て回ったが、特別に異変は感じられなかった。強いていえば、どこかから隙間風が吹き込んでいるような感覚があったが、開店前なので出入り口はどこも閉まっている。

 まあ、素人である龍二が判断できることはそう多くない。寒いと訴える者がいる以上は、いちど業者を呼んで点検してもらおうか。そう考えたときだった。

「広瀬店長! そこから動かないで下さい!」

 誰もいないはずの売り場に、聞き憶えのある声が響いた。振り返ると、古川信江ではない、銀髪とんがり耳の姿のフリュカが立っている。

「ん? 一体どうし――」

「ありました、そこです!」


 龍二は、わけのわからないまま、フリュカが指す方向を見た。

 そこは売り場とバックヤードを隔てる、何でもない壁――のはずだった。しかしよく見ると、壁にはうっすらと縦長の長方形の光が浮かんでみえる。時折、そのあたりから風が吹き込んでいるようで、光は水面のように揺らいでいた。

 光の長方形は床から立ち上がっていて、上は龍二の背の高さを少し超えるくらいの高さに及んでいた。それは青白いようでいて、次には山吹色のように見えたりもする。


「広瀬店長、決して動かずにご覧ください。『あれ』は時空の裂け目で、近づくと危険です。間に合ってよかったです」

 フリュカは、大きくて透明な板を取り出した。薄くてアクリルに似た素材に見え、畳一畳ぶんよりやや小さい程度。それを持って揺らめく光の長方形に重ね合わせると、板と光とが融合し、打ち消し合うようにして見えなくなった。

 それと共に、隙間風のような気流もおさまった。

「これでもう大丈夫です。――広瀬店長、この壁には、もともと扉か何かがあったのですか?」

 龍二は、十年前の記憶を掘り起こした。

「……そういえば、前にはそこに、バックヤードへ通じる出入り口があったと思いますよ。数年前に塞がれたらしいですが」

「ああ、なるほど」

 フリュカは、何かを確認するようにひとりで頷いてから、予備の透明板を片手に、龍二に説明をした。


「――さきほどの光は、不規則に開いた時空間ゲートです。お店の入り口に定着しているものと、似たようなものですが、急速に発達したもので、不安定すぎるのです。

 実は昨晩、時空間トンネルに干渉する作業をしておりましたが、それが刺激となったのか、トンネルが一時的に活性化してしまったようなのです、

 このように、数か所にわたり新たな『穴』が発生しており、わたくしは、発見しだい順番に塞いでいたところでした。このボードは、空間安定化素材が配合されており、応急措置ではありますが、『穴』を塞ぐのにじゅうぶん効果があります。

 これが最後の『穴』だったのですが、今日は皆さま、早くからお仕事をなさるのですね。これは誤算でした。あやうく、どなたかにご迷惑をおかけするところでした」


 何だかよく分からないが、龍二はうなずきながら、フリュカの話を聞いていた。龍二の不安を察したのか、フリュカは次のように説明しなおした。


「ええと、つまりですね。店内で不審な光や、奇妙な空間のゆらぎを見つけたら、決して飛び込んだり、素手で触れたりしないで下さい。別な世界へ落下して、戻ってこられないかもしれません。もしも『穴』を発見されましたら、小さいうちに、いまのようにこのボードを宛がって沈静化させてください」

「……ん? ああ、要するに、変なものを見つけたら、とにかくこれで塞いでくれって話ですか」

「はい、おっしゃるとおりです」


 そう言いながら、フリュカは、抱えていた数枚の透明板と、蛍光イエローの軍手のような作業手袋を龍二に渡した。理屈はよく分からなかったが、まあ日曜大工の感覚で問題ないだろう、と龍二は独自に解釈した。

 会うときにはいつも、穏やかな微笑みを浮かべていた彼女だったが、きょうは余裕がなさそうな硬い表情をしている。やはり、宇宙人であっても大晦日は多忙なものなのだろうか。

「では、お忙しいところ申し訳ありませんが、応急措置は広瀬店長にお任せ致します。

 わたくしは、他にも穴が開きそうな場所を補修して回ります。なにせ、別の並行世界も見回らなくてはなりませんので……。建物内の扉にあたる場所は、元々危険性が高かったので、既に予防工事を行わせて頂きました。しかし、このように元々通行可能であった場所までは、考えがおよびませんでした」


 申し訳なさそうに頭を下げると、フリュカは、まだ電源の入っていないはずの自動扉を通過し、忙しそうに速足で外に出ていってしまった。

(正直、きょうはこっちにも、そんな余裕はないんだがな……)

 不満がないと言えば嘘になったが、たとえ口に出さなくても、心を読むフリュカにはおそらく伝わっている。それに、彼女はいままで、騒動の責任について真摯に対応してくれていたし、じゅうぶんな賠償もしてくれたではないか。

(まあ、女性横綱どのに刃向って、ふっとばされても割が合わないってことだ。そう考えることにしておこう)

 今更、文句を言っても仕方がない。龍二は、派手な黄色の軍手を持ち、アクリル板のような補修材を引きずりながら、ふたたびバックヤードへ戻っていった。



「……というわけで、店の中で変な光を見つけたら、至急店長に報告してほしいそうッスよ。内線電話はアテにならないッスから、店内放送で暗号コードの『九十九番』で呼ぶといいッス。それとは別に、困ったときは大晦日名物、『三十一番』が本日限定で復活だそうッス」


 鮮やかな水色の半纏を着用した柿崎淳は、サービスカウンターに入ったばかりの、盛田真由美と筒井優花ゆうかの前で、そう説明をした。盛田はすぐに承知をしたようだったが、優花のほうは首をかしげている。

「あの、柿崎さん。『三十一番』って何でしょうか」

「――ああ、優花ちゃんは聞いたことないッスか? これは、忙しくてどうしようもなくなったときや、店長の判断を仰ぎたいときの、緊急お助け番号ッスよ。マイクを握って、『三十一番』をコールすれば、たとえお手洗いにいようが、広瀬店長が転がるような勢いですっ飛んでくるッスよ」

「そ、そうなんですか」

 春からこの店に勤めている優花には初耳だった。盛田たちの話から察するに、それは繁忙を極める大イベントの際に伝統的に使用されている暗号コードで、現在ではもっぱら大晦日にのみ使われるらしい。

「試しに、いま呼んでみてもいいッスよ。何秒で到着するか楽しみッスね」

「い、いえ、結構です」

 柿崎が、自前のヘッドセットマイクに手を添え、にやにやしながら言ったが、優花は恐縮して頭をぶんぶんと横に振った。



 大晦日、開店前のサンシャインマート茅場町かやばちょう店は、年間を通じて最大の忙しさに追われていた。

 社員からパート従業員まで、勤務可能な職員は全て出勤が指示されていた。

 早いものは深夜から、遅くとも日の出とともに仕事を始めた従業員たちは、連日の勤務の疲れもなかったかのような働きをみせていた。これについては、龍二もまさに頭の下がる思いだった。龍二は、稼働し始めた部門から順に訪れて、体調が悪い者がいないか確認してまわっていた。


 グロッサリー部門チーフの二階堂麻衣は、前日の温暖化世界向けの商品を撤去するため、忙しく走り回っていた。最後の追加注文をねじ込むつもりなのか、時折、バイヤーと何かを熱心に話し込んでいる。少しの取りこぼしもするまいと必死な様子だ。

 水産部門チーフの柿崎淳は、裏ではマグロ解体ショーの準備を進めながら、店に出て商品の陳列を急ピッチで進めていた。水産加工室ではパート従業員たちがフル稼働しており、豪華な刺身の盛り合わせが着々と出来上がってきていた。

 調理室では、あの惣菜タイガースの面々が頑張っていた。ちょっと顔を出した龍二は、最年長の小泉和子に早速つかまり、きょうこそは材料をじゅうぶんに仕入れてあるのかと、しつこく問い詰められる羽目になった。横からその様子をみていた星野彩は笑っていた。

 事務室には、月末の事務作業に追われる後藤香織と、休暇中のところを呼び寄せた大ベテラン、久保田洋子がいた。

 この店の出来る限り、これ以上はないというほどの布陣を敷いていた。

 強がっているのかもしれないが、皆元気だった。


 北野専務に突き付けられた、ノルマ達成の期限はきょうまでだ。

 売り上げ金額が及ばなければ、春までの移行期間をおいたのち、龍二は県境付近の小型店へ降格異動となる。待遇も給与体系も大幅に格下げとなり、それは実質上の肩たたきに等しい。空いた店長のポストには、越後谷がおさまることだろう。

 それがまったく気にならないわけではない。しかし、龍二にはもう充分だった。左遷だというなら行ってやろう。不甲斐ない新米店長の自分に、ここまで皆がついてきてくれて、頑張ってくれたことだけで満足だと思った。


 ふと龍二は、未明に越後谷から届いた、冗談めかした挑戦状のことを思い出した。

(そういえば、お代官と売り上げを競争するんだったな。目標達成はともかくとして、城東店には勝って終わりたいよな)

 皆が踏ん張っている時に、店長の龍二が勝手に満足してしまうわけにはいかないのだ。やはり、店長であるからには、やるだけやってやろうと、龍二は気合を入れなおした。

 そして、とにかく倒れる者が出ないで年末を乗り切ってくれることを願った。売り上げ達成はその次だ。


 十二月三十一日、大晦日の朝。ようやく陽は昇り、空は明るくなった。

 本来のゼロ番世界は快晴で、冷え切った朝になっていたが、店の入り口側の大窓から見える第二番並行世界は、氷河期の世界。路肩の雪はうず高く積もり、空には雲が多い。陽が差してはいたものの、時々雪がちらついている。風が地吹雪を巻き上げている様子も見えた。

 そのように、見た目にも寒そうな店の外には、開店を待つ人々の列が見えていた。二番世界の住人たちは、さすがに氷河期世界暮らしが長いだけあって、誰もがしっかりした防寒着を着込んでいる。震えている者はひとりもいなかった。


 ここは小さな地方都市。

 首都圏などから帰省している家族のために、家庭の主婦たちは朝から忙しい。人それぞれ事情は異なれど、多くのお客たちは、午前中のなるべく早い時間に買い物を済ませ、あとは家にこもりっきりで夜の宴会の用意をするのだ。早い者は、昼間から酒を飲みはじめるくらいなのだから。

 この第二番世界でも、その風習は一緒であるらしい。

 手料理をそれほど作らずに、出来合いのものを利用するという層も、そこまで遅い時間に買い物に走ったりはしない。

 すなわち、大晦日は勝負が早いのだ。

 売り上げを稼げるのは、午前中からせいぜい昼過ぎまで。日没前には、大勢が決まると言っても過言ではない。あとの時間は、予約注文のオードブルや寿司などを受け取りにくるお客がいるだけだ。


 開店十分前を知らせるアナウンスが店内に響く。

 バックヤードで、店内の売り場フロアで、従業員たちは開店に備えていた。麻衣が率いるグロッサリー部門のパート職員たちは、一分一秒を惜しむかのように売り棚に商品を補充していた。

「一分前! 皆さん、一度下がってください!」

 麻衣の声がフロアに響くと、補充作業をしていた者たちは、大型台車を引っ張って一斉にバックヤードへ消えていった。大きな台車は、お客が押し寄せると買い物の邪魔になる上に、自分たちが身動きできなくなってしまうのだ。

 麻衣自らも、大型台車を引っ込めて、小回りの利く小型の台車に荷物を積み替えはじめた。

 その声を聞いていた水産の柿崎も、惣菜部門の星野彩なども、売り場に出ている余分な台車をバックヤードへ押し込んだ。レジチェッカーたちやサービスカウンターも準備が整った。


『開店します! 正面入り口、ひらきます!』


 優花が入り口のほうを見ると、扉のところにいるのは龍二であった。きょうは店長自らが、文字通り開店をする、すなわち入口を開けるというのだ。

 自動扉のスイッチを入れる。龍二自らが扉を開き、礼をもって最初のお客を招き入れた。

 ひとりが店内に入ると、なだれこむように、お客が次から次へと店内に入ってきた。買い物カゴを手に取り、ショッピングカートを確保しようと躍起になっているお客たちを、龍二が誘導する。またたく間に、店内の通路は人であふれかえった。

 最終決戦の幕は切って落とされたのだ。



 毎年のきょうの日は、花を買う。

 あえて菊は入れず、妻の好きだったカーネーションや小バラを混ぜた花束を作ってもらう。馴染みの花屋の女主人から商品とつり銭を受け取り、鵜飼うかいいわおは、外に出て空を見上げた。

 風もなく晴れた大晦日になった。あの日と似ている、と思った。

 冷えた手指をコートのポケットで温めながら、手袋をサンシャインマートへ忘れたままになっていることを思い出した。

 しかし、あいにく今日は水曜日。本来の店舗に入ることはできず、敷地内の小さなプレハブの店が営業しているだけだ。行ったところで、回収は難しいかもしれない。

(――それでも、あとで立ち寄ってみるか。プレハブにもマグロの刺身はあるだろうか)


 ほんとうは、あの店も嫌いだった。

 十一年前の大晦日、鵜飼は妻と一緒に、まさしくサンシャインマート茅場町店へ行くところだった。こんなふうに晴れて寒い日だった。天気もいいし、散歩がてらに一緒に歩こうか、と言ったのが、悔やみきれない間違いだった。

 昼間から酒を飲んでいた不届き者の車が、一瞬のうちに妻の命を奪ってしまった。

 鵜飼自身も足に重傷を負ったが、いっそ一緒に逝けたらよかったのだ。自分たちには子供がおらず、きょうだい達も他県で暮らしているため、それ以来ひとり者だ。

 妻と暮らした日々は幸せだった。こんなことなら、最初から幸せなど知りたくなかったと、自棄になる日もあった。サンシャインマートに近寄るのも嫌になって、わざわざ離れたスーパーで買い物をしていたくらいだった。

 それでも、最近になってからようやく、妻との思い出があって良かったと思えるようになったのだ。

 思い切って十年以上ぶりに訪ねたあの店では、かつての教え子の顔を見ることができた。

 考えてみると、実の子はいないとはいえ、教師時代に育てた子はたくさんいると言ってもいい。妻もまたピアノ教室を開き、生徒をもっていたのだから、やはりたくさんの子供を育てたと言えるかもしれない。


――それほど、わるい人生でもなかったのかもしれないな。

 

 鵜飼は、片手で杖をつき、別の手で花束を持って、あの場所へと向かった。

 妻が最後を迎えた路上である。

 大きな橋を越え、すぐに角を曲がって川沿いの道を歩く。この道路はもともと交通量が少なく、いまも、時々しか車が通らない。歩道と車道の間には、一本の白線があるばかりで、相変わらず分断されていなかった。何の目印があるわけでもないが、鵜飼には間違えようもなく、そこがわかるのだ。

 目的の場所まであと少し。歩きながら、鵜飼はなぜか、ある教え子の顔を思い出していた。


――そういえば、龍のやつも、相変わらずだったな。あまり老け込まないうちに、嫁さんをもらえたらよいのだがな。


 そんなことを考えていると、川のほうから急に風がきて、視界が真っ白になるほどに雪を吹きあげた。あまりの頬の冷たさに、思わず目を閉じる。

 しかし、地吹雪とは妙だ。積もっている雪がないのに、どこから吹きあがっているのか。

 まもなく、風と雪がおさまって、道路の先が見えると、向こう側からやってくる人影があった。杖をつき、花束を持った老婦人である。


――まさか、そんなことが。


 鵜飼と老婦人の距離は一歩ずつ縮まっていった。

 そして、道端の、まったく同じ場所で、二人とも一緒に足をとめた。

 その婦人の顔は、間違いない。鵜飼が知るよりも少し年齢を重ねたようであったが、確かにかつての妻、富恵そのものであった。


「お、おまえなのか」

 鵜飼は、こわばった喉から、やっとそれだけの、かすれた声を絞り出した。

「まあ、本当にあなたですか」

 妻にうりふたつの老婦人は驚いて目を見開いた。声も生前の妻そっくりだ。

「いったいどうして……」

 鵜飼は混乱していた。妻の思い出をたどるうちに、自分はいつのまにか彼岸に渡ってしまったのか、あるいは、サンシャインマートで発生したという、時空間トンネルがなにか影響を及ぼしているのか。そうだとしたら、目の前にいる妻は別世界の存在なのか。

 戸惑っている鵜飼に、富恵は微笑みながら言った。

「わたしにもわからないわ、不思議ですね。……お天気もよいことだし、まずはお散歩でもしませんか」

 青空の下、土手沿いの遊歩道を指さす富恵の顔は、涙で滲んでみえた。



 大晦日の朝。大勢の買い物客で混雑する、サンシャインマート茅場町店のサービスカウンターにて、筒井優花は立ちすくんでいた。

「ああ、やっぱり、こんなに急じゃ無理ですよねぇ……」

 目の前には若い主婦と思しきお客さま。いかにも気弱そうで、泣きそうな困り顔をしている。


「え、えーっと。燻製ハムの詰め合わせセットが二十二個、個包装でお年賀の熨斗紙付き、本日お受け取りをご希望……で、ございますか……」

 気の弱さでは負けず劣らずの優花が、無理やりつくった笑顔で応対する。


「そうなんです……。お義母かあさまから頼まれていたのを、すっかり忘れてしまっていまして。あしたからの、お年賀まわりでお遣い物にするのだから、ぜったいにぜったいに忘れないように――って、念を押されていたのに、です。

 ああ、ほんとうのことを言ったら、お義母さまはお怒りになって、大晦日の食卓が最悪の雰囲気になってしまうでしょう。困りました……」


 優花は、どう返事をしたらよいのか迷っていた。

 贈答のハムのセットが二十二個。そんな数は、このカウンターにストックしていない。バックヤードに在庫がある可能性もあるが、あったところで、この忙しい大晦日、果たして包装作業が可能なのだろうか?

 盛田の知恵を借りたいところっだったが、彼女はさきほどから、会計のために並んでいるお客の列を相手にしていて、とても込み入った話ができる状況にはない。

 自分で判断するしかないのか。


「あ、あの。やっぱり無理ですよね。……いいんです、こんな忙しい日に、わがままを言っているわたしが悪いんです。だめならだめと、はっきり言ってください」

 お客さまは、あきらめ半分の様子でそう言った。


(もしもわたしが断ったら、この若奥様は、意地悪なお姑さんにいびられて、最悪の大晦日を過ごさなければいけないんだ。それどころか、三が日の間もずっと、肩身の狭い思いをして過ごさなくてはならないんだ)


 実は意地悪などとは一言も言われていないのだが、ともかく優花はそう思った。

 この決断をするには、優花の処理能力と判断力では荷が重すぎた。まずはバックヤードの在庫を確認するべきか? この混雑したカウンターを抜けて、人混みをかき分けてまで行ってよいものなのか? それとも、断るのがお互いのためなのか。

 彼女の思考はぐるぐる回るばかりで、ひとつも答えが出なかった。


「優花さん、何を迷っているかわからないけれど、手に余るなら『三十一番』よ!」


 レジ対応の合間に、盛田が声をかけてくれたのだ。優花は、はっと我に返った。

 振り向いてカウンター内の作業台を見ると、店内放送用のマイクが用意されている。手を伸ばし、マイクに向かって『三十一番』と言えば、店長の龍二が助けに来てくれるだろう。

 しかし、それでいいのか。

 

――助けてくださいって言うだけで、男たちには甘やかしてもらえるし、自分は努力もしなくて済むんだから、楽でいいわよね。


 美智子部長の、忘れられない言葉が脳裏に響く。

 一体どうしたらいいのか。

 抜け出せない迷路の中にいるような気がして、自分自身に絶望していたそのとき、優花は思い出した。数日前の夕方に、広瀬龍二が言ってくれた言葉を。


――助けてくれと声をあげること、仲間の力や知恵を借りることは、何も恥ずかしくないんだ。


 優花は、顔を上げてお客様に向きなおると、笑顔で言った。

「お客さま、ご用意できるかどうか、すぐに相談してみます。どうか、少しだけお待ちください」

 すっかりしょげていた若奥様の表情に、わずかな希望がのぞいたように見えた。優花は、店内放送用のマイクを手に取って、スイッチを入れ、背筋を伸ばして大きく息を吸い込んだ。


『――業務連絡です。広瀬店長、広瀬店長。サービスカウンター、三十一番です』



 そのとき龍二は、バックヤードの調理室にいた。生鮮部門で不足しかかっている資材の調達にあたっていたのだ。

 店内放送の声を聞き、龍二は、そこにいた小泉和子や、星野彩の表情をうかがった。いま自分が行けば、用件が途中になっている惣菜部門が困る。

 龍二のためらいを察した星野が、きっぱりと言った。

「店長、いまのは優花ちゃんの声でした。きっと緊急事態なんです」

 手元の作業を一切止めないままに、小泉洋子も言った。

「どうぞ、あの子を助けに行っておあげなさい。ここにいる娘たちはみんな図太いから、わたしたちだけでもなんとかなるわ」

 龍二は、惣菜タイガースの四人に向かって頭を下げた。

「すみません、皆さん! 用事が済んだら必ず戻ってきます!」

 星野彩らに見送られ、もつれる脚に鞭を入れながら、龍二は通路を駆けていった。

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