1-0 月曜日(プロローグ)
十月初旬の、よく晴れた朝のことだった。
「はぁ……」
広瀬龍二は、車のハンドルを握りながら、大きなため息をついた。
ため息をつくと幸せが逃げるわよ、と言っていたのは、龍二の母親だったが、目下のところ彼には関係のない話であった。なぜなら、逃げて困るような幸せは、なにひとつ彼の手元にはなかったからだ。客観的なことはともかくとして、少なくとも彼自身はそう思っていた。
なにしろ、今年で三十八歳になったというのに、いまだ独身である。恋人もいない寂しい身の上だ。
幹線道路である県道を抜けると、閑静な住宅地へ入った。まだ朝も早いせいか、車通りは少なく、通行人もほとんど見かけない。
あと三十分もすれば、通勤ラッシュのために、角をひとつ曲がるのにも苦労することを龍二は知っていた。この界隈の交通事情が十年前のままならば、の話ではあるが。
気をつけていないと見逃してしまいそうな細い路地へ入り、少し進むと、殺風景でだだっ広い駐車場があった。目的地に到着である。タイヤが砂利を踏みつけて、バリバリという音を立てた。
龍二は車を停め、手提げ袋ひとつを持って外に出た。
朝の太陽は高度をすでに上げつつあり、空はすっかり明るくなっていた。案外風が冷たくて、もう少し着込んでるべきだったかと、彼は後悔していた。
すぐ前方に、白い壁の鉄筋コンクリート造りの建物が見えてきた。スーパーマーケット「サンシャインマート 茅場町店」である。住宅街の中ではけっこう目立っていて、このあたりでは一番立派な建物かもしれなかった。ただし、小さな地方都市の、官庁街からも離れた郊外という立地である、という前置きは必要ではあるが。
今日からここが、龍二の新しい職場になるのだ。しかも、店長というご立派な肩書つきで。
龍二は砂利道を通り抜け、店舗正面からは裏側にあたる、従業員入口へ向かって歩いた。
途中で廃棄物置き場になっている小屋の前にさしかかったとき、一羽の肥えたカラスが地面をてくてくと歩いていたが、カラスは彼に驚くでもなく、飛び立ちもせず、少し道の端に寄っただけだった。肩を落とし、猫背で歩く龍二とは対照的に、やけに図太く堂々としていた。
龍二は、またひとつため息をついてからつぶやいた。
「――おれがこの店で終わりをむかえたら、ゴミあさりのついでに、おれの骨も拾ってくれよ」
入口の鍵は既に開いていた。明日からは、朝一番に鍵を開けるのは、おそらく龍二の役割になるだろう。
ノブを回し建物の中に入ると、受付窓口とバックヤードへ続く通路が見えた。
龍二がこの店に戻ってきたのは、新人研修のとき以来で、実に十年ぶりだった。人影は見えなかった。この時間に社内にいるのは、鍵を開けた早番の職員と、早朝勤務の清掃員くらいのもので、大勢のパート従業員たちがやってくるのはもっと後だった。
初めてスーパーマーケットに出勤することになった十年前の朝にも、こんな憂鬱な気持ちだったことを思い出す。
(十年ぶりといっても、なんだかあまり変わらない気がするな。この店も、おれ自身も)
そう考えながら、龍二は店舗バックヤードにある事務所へ入るなり、まずは大きな声であいさつをした。
「おはようございます!」
(――あ、しまった。店長らしくスマートに堂々と『おはよう』って言おうとしたのに!)
平社員時代に染みついた癖が抜けずに、低姿勢がつい言葉に出てしまったのだ。しかも、無意識のうちにしっかりと腰を曲げてお辞儀をしてしまっている。龍二は、朝一番から計画が台無しになったことに落胆しつつ、おそるおそる顔を上げた。
一人の女性社員が、にやにやと小悪魔のような笑みを浮かべて、龍二を見ていた。
「龍くん、おはよう。久しぶりね」
見覚えのあるその女性は、二階堂麻衣だった。新人研修のころ、まさにこの店舗で一緒に働いたことがある。二人は社員としては同期入社であったが、麻衣は六歳年下だ。
「――お、おはよう。二階堂さん、久しぶり」
二階堂麻衣の、その細身の体型と華やかな顔立ちは、十年前から変わっていないように思えた。彼女はすでに結婚し、子供もいると聞いていたが、二十代独身だと言われても疑う余地のないくらい、若々しく美しかった。
この事務室の中には、見たところ他の社員はいない。麻衣と二人きりだと考えると、龍二は急に落ち着かない気持ちになり、そわそわと周囲を見渡した。
(あれ? 昔と配置が変わっているぞ! 更衣室は? ……おれのロッカーはどこだ?)
たかが十年、されど十年。あまりにも久しぶりに来たものだから、なにも勝手が分からない。しかも、まったく実感のない店長という役職をひっさげているから、余計に緊張してしまう。
「あ、そうだ。これ、龍くんの頼んでたやつだって」
麻衣が指すほうを見ると、長テーブルの上に、ビニール袋に包まれた新しい作業着が置かれていた。前から着ていたものは、古くなって生地がくたびれていたので、昇格を機会に注文してあったのだ。
それにしても、いくら同期入社とはいえ、龍二のほうが年上だし、しかも一応は上司なのだから、昔のように気安く「くん」付けで呼ぶのは勘弁してほしい、と龍二は思った。
「んで、ロッカーはここね。まだ名札ついてないけど」
「……あ、ああ。ありがとう」
龍二のロッカーは、実はすぐ目の前にあった。名札がかかっていなければ気づくはずもなかったが。麻衣の話では、あとで事務の人がつけてくれるらしい。
さっそく新しい作業着に着替えようとしたが、以前あった男子更衣室は、いつのまにか物置になっていた。女子更衣室は昔と変わらない場所にあるというのに。
(男子更衣室は廃止されたのだろうか? 男はここで着替えるってことか?)
龍二は一瞬ためらったが、上着の下にはアンダーシャツを着込んでいたので、脱いでも見られて困ることはないだろう。ズボンのほうは、さすがに麻衣の目の前で脱ぐわけにもいかないので、家から履いてきていたもので我慢しようと思った。
薄手のジャンパーを脱ぎ、新品作業服の包装を剥がしていると、麻衣が近寄ってきた。
「龍くんは、すっかりおじさんになっちゃったのね、特にこのあたりが」
麻衣は、龍二のたるんだお腹の肉を、無遠慮に人差し指でつついた。長年の不摂生の産物である、そのぷよぷよした肉の感触が面白いのか、彼女は一人で爆笑していた。
「お、おい、やめないか。いま上着を着るんだ」
中年太りの腹を触られて、龍二の顔は羞恥心で真っ赤になった。
(おれは何をやっているんだ! 就任早々、こんなところを誰かに見られたら……)
龍二の不安は現実となった。何者かが事務室の扉を開いたのだ。
「おはようございます」
爽やかなあいさつとともに登場したのは、これもまた龍二がよく知っている顔であった。
「お、おはよう――ああ、良かった。お代官か」
龍二は安堵した。女子社員や、よく知らない男性職員でなかったのが幸いだった。
お代官と呼ばれた男――越後谷翔は、別の店舗で龍二と一緒に働いたことがあり、お互いに気心の知れた仲であった。
越後谷という名字は珍しく、いかにも時代劇に出てきそうだ。越後屋といえばお代官様だよな……と誰かが言ったのが始まりで、それ以来、お代官というニックネームで呼ばれていた。
しかし、時代劇に出てくる越後屋は悪徳商人のほうであって、代官ではないので、なんだかややこしい。
「龍さん、何か楽しそうですね! 僕も混じって良いですか?」
越後谷は、龍二の背後に回り込むと、羽交い絞めの態勢に持ち込んだ。無防備になった龍二の腹部を、麻衣が揉んだり撫でたりして、面白がっていた。
「これは完璧にメタボだわ」
「離してくれ! くすぐったい! そして痛い!」
龍二は、越後谷の腕をなんとか振りほどくと、肩で息をしながらたずねた。
「ところでお代官、男子更衣室は無くなったのか」
「え? ――ああ、場所が変わったんですよ。あっちのほうです」
越後谷に促され、龍二は事務室を出ていった。ひとり残された麻衣は、二人の後姿を見送りながら、ため息まじりに小さくつぶやいた。
「根はいい人なんだけどね……。龍くん、お気の毒だわ」
広瀬龍二が店長になる。
それは晴天の霹靂のようで、彼を知る者なら皆、腰を抜かすほどの大ニュースだった。
龍二の仕事ぶりは、お世辞にも良いとはいえなかった。覇気がなく、いつもぼんやりとしている昼行燈。社内での彼の評判は、そのように不名誉なものだった。彼には出世欲もなければ、向上心もなさそうで、もういい歳なのに昇進の見込みがなかった。そんなお荷物社員の龍二が首を切られないのは、父親のコネで入社したおかげである、という噂は社内でも有名だった。
少なくとも、龍二よりも店長に適任と思われる人材は、ほかに何人かいた。
しかし、候補者が複数いたからこそ、この人事は妙案とも言えた。あまりにも非現実的な人選に、最初は誰もが驚いたのだが、少し冷静に考えてみると、裏に特別な事情があるに違いないことは簡単に想像できる。
つまり、龍二は今回の栄転に際し、お偉い方からよほど理不尽な条件を飲まされているらしかった。人事が発表されてから、彼自身の顔色が一層冴えなくなってきたことからも、噂は真実味を増しながら、社内に拡散していったのだった。
更衣室で新品の作業着に着替えた龍二は、お代官こと越後谷に先導されて、稼働し始めたバックヤードのあいさつ回りを行った。
サンシャインマートのバックヤードは、大別して、生鮮部門、グロッサリー部門、事務部門の三つで構成されている。どこの部門でも、従業員たちは開店前の忙しさに追われていた。龍二は、険しい表情で動き回るパート従業員たちの迫力に気圧されつつも、なんとかあいさつ回りを済ませた。
売り場のほうにも足を運んでみると、品出し担当者と清掃員が仕事をしていたが、レジチェッカーたちはまだ出勤していなかった。普段ならレジ待ちの客が列を作る通路や、袋詰めを行うサッカー台のあたりには人影がなく、天井まで伸びた大きなガラス窓の向こうには、秋晴れの空が見えていた。
チェッカー従業員たちが出勤してから朝礼を行った。龍二は全従業員を前に、新店長就任のあいさつをした。
大勢の人の前でしゃべるのは元から苦手で、案の定、途中で言葉が詰まってしまった。しかし、横についていた越後谷が、機転を利かせてフォローを入れてくれたおかげで、無事に終わった。
越後谷はまだ三十台前半の若手だが、店長に次ぐ立場のフロア長という役職が与えられていた。彼は実際、店長候補の筆頭であったとも噂されていたが、その若すぎる年齢だけが店長の資格を満たしておらず、昇格できなかったと言われている。
彼は頭の回転が速く、話が上手で、さらにルックスも良かった。能力があるのに、それをひけらかすことも、傲慢になることもなかった。パート従業員の奥様たちから、会社の上層部まで、誰もが越後谷を慕い、高く評価していた。
龍二にはわかっていた。就任のあいさつをする自分に向けられた従業員たちの目は退屈そうで、ひとかけらの尊敬の念も感動もなかったということが。
一方、龍二のフォローがてら、軽いジョークを披露した越後谷に対しては、笑いと喝采が沸き起こり、従業員たちの顔が一斉に輝きだしたように見えた。
いったい誰が店長にふさわしいのか、誰の目にも明らかだ。それを一番身に染みて感じていたのは、他ならぬ龍二であった。
――いっそ越後谷が、悪徳商人よろしく、心根の腐った嫌な奴だったら良かったのにな。
朝礼を終えて、それぞれの持ち場に戻っていく従業員たちを見送りながら、龍二は思った。もしそうだったら、憂鬱な気持ちをすべて越後谷のせいにできるし、奴を妬んだり恨んだりすることで、負のエネルギーを消費し尽くせばよいのだから。
今まさにそうしているように、この境遇を誰のせいにもできずに、自己嫌悪で情けない気持ちにならなくても良かったかもしれない。
自嘲の笑みを浮かべながら、龍二はバックヤードへ立ち去った。
サンシャインマート茅場町店の、最後の平凡な一日はこのように始まり、そして滞りなく終わっていった。POSシステムの速報値によると、売り上げ額は前年同一曜日比92%という、予想の範囲内の、低めの滑り出しであった。