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パラレルワールド繁盛記  作者: ゆきの鳥
後編 シー・ユー・アゲイン
19/24

2-7 二秒ちがいの

 それは日曜日の夕方。混雑が引いて、店内が閑散としてきた頃である。

 サンシャインマート茅場町かやばちょう店の売り場の一角には、お客が軽食をとったり、座って休息できる程度の小さな飲食スペースがあった。簡素なテーブルと椅子のセットが三組ほど設置されていて、近くには飲料の自動販売機があった。

 テーブルのひとつに、筒井"ユウカ"が二人で向かい合って座っている。

 一人は、サービスカウンター勤務の、おとなしい性格の新人職員、筒井優花ゆうか。一見、双子のようにそっくりで、少し違うもう一人の女性は――。


「あたしも、筒井ユウカ。夕方の夕に季節の夏、って書いて『夕夏』ね」


 テーブルを挟んで向かい合う『夕夏』の姿に、優花はすっかり見とれていた。

 自分はこれでも、きょうの再会のために、精いっぱいのお洒落をしてきたつもりなのだ。お気に入りのニットのセットアップに、ボアつきの新しいショートブーツ。長いストレートの黒髪はしっかりブローした。我ながら、上出来の仕上がりであると思っていた。

 それでも、『夕夏』はさらに上を行っていた。

 まず、ぱっと目を引くのは、ゆるいウェーブのかかった、ふわふわのロングヘアーである。おそらくカラーリングをしているのだろう、店内の照明を受け、光に透けた部分は明るいオレンジ色に見える。

 きめ細かい白い肌は優花とおなじであったが、まぶたと唇には、キラキラと輝くラメが塗られていた。頬にもしっかりとチークが入っていて、元々の小顔をさらに引き立たせている。

 冬にもかかわらず、膝上丈のタイトスカートをはいて、下品にならない程度の柄もののタイツを合わせている。その足元は、高めのヒールがついたレザーのブーツ。身長が低めの優花たちにとって、スタイルが良く見えるコーディネイトといえる。

 あちら側――第六番並行世界のファッションの流行がどうなっているのかは分からないが、少なくとも、優花より「お洒落」であることは確かであろう。


「ねえねえ、ユウカ同士でなんかややこしいから、そっちを『ハナ』って呼んでいい? んで、あたしのことは『ナツ』でよくない?」

「あ、うん。それいいかもね」

 夕夏の提案に、優花はすぐに賛成した。


 日曜日の店内で出会ったふたりは、一目でそれとわかる同一人物であった。

 ゼロ番世界で暮らす「優花」と、第六番並行世界で暮らす「夕夏」は、世界が分離する時期のさなかに生まれ、まるで赤ん坊のうちに引き離された双子のように、別々の世界で育った。宇宙人が時空間トンネルなどというものをこしらえなければ、おそらく一生、出会うことはなかっただろう。


 優花は、熱いカフェオレの入った紙コップを両手で握って、冷めるのを待っていた。

 向かいの夕夏も同じ飲み物を持っていたが、夕夏はコップにかかったプラスチックのカバーを取り外し、息をふうふう吹きかけて、一生懸命に冷ましにかかっていた。

「この店のやつ、あっついねぇ。あたし猫舌でさぁ」

「わ、わたしも!」

「そういうのって同じなんだね。やっぱ体質ってやつ?」

 夕夏がカップに息を吹きかけるたびに、立ち上る湯気は飛ばされて消えるが、またすぐにゆらゆらと湧いてくる。それを見て、むきになったように再び息を吹きかける。べつに急ぎの用があるわけでもないのに、落ち着かない夕夏の様子を見て、優花は思わず吹きだした。

「あー、ハナもそうやってバカにするんだー。あたし、よく言われるんだ、せっかちだって。でもさ、目の前に飲み物があるってのにさ、じっと待ってるってのができないのよ、これが」

 そう言いつつも、絶えずふうふう息をかけている夕夏が、なんだか面白かった。

「いいじゃない。わたしは反対で、いつもトロいって言われる」

「へー、なんか不思議だね。産まれたときは同じだったはずなのに、どっから違うふうになったかな」

 我慢できずに、ついに湯気の立つカフェオレに口をつけた夕夏だったが、顔をしかめて舌をぺろりと出した。まだ熱かったのだろう。

 まるで、好奇心の赴くまま動き回る小動物みたいだ。外見はお洒落に決めていて、気取り屋なのかと思ったけれど、そうではないようだ。優花は、さっき出会ったばかりの夕夏に、すっかり親しみをおぼえていた。


 ふたりはお互いの居住地や、家族構成などを確かめ合ったが、やはりまったく同じ。学歴や、勤務地や職種まで同じなのは驚きだった。すなわち夕夏は、サンシャインマートにそっくりの、この場所に立つ『サンフラワーマート』で接客の仕事をしているのだという。

 照合作業はどんどん遡って、幼少時まで話が戻ったときだった。


「ナツも、七月二十二日生まれよね?」

 さも当然のように優花が言ったとき、一瞬、ふたりの間の空気が凍り付いた。

「あれ? ……あたしは、七月二十三日生まれ」

 ふたりは呆気にとられたままお互いの顔を見ていた。一日ちがうではないか。


「え、誕生日が違うって、けっこう大事おおごとじゃない? ほら、運勢とか――」

 優花はうろたえて、不安そうに言ったが、夕夏のほうはけろりとしている。

「ふーん、ハナはそういうの信じるほうなんだ?」

「だって……。わたしたち、そっくりだけど、ちょっと違うじゃない。きっとそのせいだわ」


 七月二十二日生まれの優花は、西洋占星術ホロスコープでは蟹座生まれとなる。一般的には、面倒見がよく心優しい星に生まれたとされている。いっぽう、七月二十三日生まれの夕夏は獅子座。自尊心が高く、リーダーとなる素質がある生まれ星とされている。

 女の子であれば、子供のころから必ず触れる機会がある、西洋占星術。そうでなくとも、朝のテレビなどで、今日は何座の運勢が良いとか悪いとかいう話を聞いて、少しは気に留める程度の人間は珍しくもないだろう。


 占いをそこまで信じない様子の夕夏は、疑い深そうな様子で言った。

「でもさ、同じ人間が一日生まれがちがうだけで、性格って変わるのかな? それにさ、あたしは日付が変わって零分一秒に産まれたらしいから、実際にはまる一日も違わないんじゃない?」

 それを聞いた優花も、何かを思い出したように言った。

「そういえば、わたしは、日付が変わるぎりぎり直前に産まれたって……。二十三時五十九分の、五十九秒だったんだって」


 一瞬の沈黙のあと、二人のユウカは、まったく同じ声とタイミングで同時に言った。

「じゃあ、たったの二秒ちがいね」


 そもそも、二秒ちがいなどというのも怪しいものだ。たまたま、看護師が時計を見るタイミングが違っただけの話かもしれないのだ。

 本当に、産まれた日にちが後の性格に影響を及ぼすのか。それは分からない。

 二人のユウカが話し合って導き出した結論は、思い込みによる影響が蓄積したという可能性だ。

 蟹座は女の子らしいおしとやかな性格。獅子座は頼れる姉御肌で目立ちたがり。そのような解釈は、子供の頃から二人とも、少女向け雑誌などで繰り返し目にしてきた。そして、無意識のうちに、生まれ星座にふさわしい行動を選んできた結果が、現在の違いになったというわけだ。

 占いを信じないという夕夏でさえも、ほんとうは情報に影響されやすいのだとも言える。


 とりあえずの結論にたどりついた頃、二人の飲み物のカップは空になっていた。

「あーあ、あたしも蟹座が良かったぁ。もっと穏やかな性格が良かったな」

 口を尖らせてそう言ったのは、夕夏のほうだった。

「え、どうして?」

 優花から見たら、引っ込み思案な自分よりはよほど自信にあふれていて、むしろ羨ましいとさえ思える。そんな優花の思いとは反対に、夕夏は浮かない表情のまま、長い髪をくるくると人差し指でねじりながら言った。

「だってさ、若いのに生意気とか、女のくせに出しゃばりとか言われるんだもん。一生懸命頑張ってるつもりなのに、これじゃあ頑張り損っていうかさ。この髪型だって、会社のお局さまに、派手すぎてダメだって注意されたばっかり。……なんか、自分が馬鹿みたい」

 たしかに、髪型は派手かもしれない、と優花も思った。

 自分とはまったく別の悩みを抱えている夕夏に、どう声をかけていいのかわからず戸惑っているうちに、夕夏は気持ちを切り替えたように、ぱっと顔を上げ、無理したような明るい声で言った。


「実はあたしね。この店、辞めようかなって思ってるんだ」

「えっ……?」

 驚きで二の句を継げずにいる優花を前に、夕夏は続けた。


「あたしね、女らしく大人しく、とか言われなくてもいいような、もっと自分の裁量でできる仕事がしたいって思うの! 髪型がどうとか関係ない、やることやっていれば認めてくれるような。

――ああ、こういう言い方すると、また生意気だとか、世間知らずとか言われそうだよね。……でもさ、学生時代にあこがれた仕事って、もっと違うくなかった?」


 分身とも言える夕夏にそう言われ、優花もまた、かつて夢見た自分の将来像を思い出していた。

 街の中心の官庁街の一角にたたずむオフィス。自分専用のデスクで、パソコンのスキルを駆使して仕事をする。スーツに身を包み、パンプスのヒールを鳴らしながら颯爽と歩く。ビジネスバッグを小脇に抱えて、会社帰りには、おしゃれなカフェに立ち寄って、資料の整理なんかしたりして。

 周りの子たちと同じように、勉強を無難にこなして、同じように資格を取得していれば、順当にそういう仕事にありつけると思っていた。そう、就職活動が現実味を増してくるまでは。


 優花がすぐに返事をしなかったので、早とちりをした夕夏は、ばつが悪そうにしょんぼりとして言った。

「……やっぱり、あたし生意気? ハナに言われるならいいよ、はっきり言ってよ。みんなそう言う――」

「ち、ちがうの!」

 優花はあわてて首を横に振って、身を乗り出して夕夏の顔を覗きこんだ。

「そうじゃなく……わたし、ナツがかっこいいと思ったの! こうやって、いつも悩んでばっかりで、自分でなにも決められないわたしよりは、ずっと……」

 夕夏は、驚いて目を丸くしていたが、すぐに笑顔になった。

「ありがと! そう言ってくれるの、たぶんハナと彼氏だけだよ!」


(あ、ナツ、彼氏いるんだ……)

 何だか急に取り残された気がして、今度は優花の表情が曇った。

 しかし、そこは女同士、更には同一人物同士である。夕夏もすぐに察することができた。

「あー。ハナ、自分はまだ彼氏いないって落ち込んだでしょ? 心配しないの! あたしだって恋人できたんだから、ハナにだってできるよ!」

「そうかなあ」

「あたしにできて、ハナにできないことなんて何もないよ」

 夕夏はそう言って笑った。他の誰でもない、もう一人の自分自身の言葉なら、なぜか信じられるような気がした。鏡に向かって自問自答するような寂しさと虚しさは、ここにはなかった。


 その日、優花は、ついに自分の悩みを打ち明けることはできなかった。

 でも、それは今はいいと思えた。

 優花と夕夏は、また次の日曜日に、ここで会うことを約束して、別れのあいさつをした。陽が暮れて、窓の外はすっかり真っ暗になっていた。夕夏は、帰るべき第六番世界へと戻っていった。

 ガラス越しに、優花はずっと、手を振りながら見送っていた。



 目を開けると、視界いっぱいに漆黒の空と満天の星が広がっていた。

 さて、ここはどこだ。

 龍二は仰向けになっていた。頭を動かして、自分の周囲を見回しても、目に入ってくるのは一面の星空だけだ。冬の大気は澄んでいて、星々は手が届きそうなほど近く、ぎらぎらと鋭いほどの輝きを放っている。

 はるか下のほうには、街の光が見える。

 幹線道路を埋めつくしている車のライトが、絶え間なく流れていく。河川敷をまたぐ大橋をオレンジ色のライトが照らし、暗い川面から浮かび上がらせている。

 ところどころに、ショッピングセンターの派手な電光看板が見え、それらの間を埋めるかのように、住宅街の灯りがまばらに散らばっている。空の恒星の輝きほどの鋭利さはないが、それらひとつひとつも小さな星々のようだ。

 海の側は真っ暗だ。遠くに船舶の灯りがひとつ、ふたつと見えるばかりだ。


「よいしょっと」

 誰に言うでもなくつぶやき、龍二は体を起こした。

「さて、なんでここにいるんだっけなぁ」

 その場であぐらをかき、頭上の星空と、どこか懐かしい眼下の夜景とに挟まれながら、龍二は考えていた。まわりには床も壁も見えないが、自分の体重を支えるなにかが存在する感覚がある。風も、外気の冷たさも感じられない。ただ、空と大地のあいだに浮かんでいるだけだ。

 ここがどこか、おおよその見当はついていた。しかし、どういういきさつでたどり着いたのか、まったく思い出せない。はっきり覚えているのは、昼の店内、サービスカウンターですっ転んだことまで。

 そのあとの記憶はおぼろげだ。

 麻衣や柿崎らが、人事不省に陥った自分をどうにかこうにか病院まで運搬し、処置室でいちど意識が戻った。そこで麻衣と短い会話をして、また眠ったように思う。

――ああそうだ、夕方近くになってから母親が迎えにやってきて、タクシーに乗って自宅に戻ったんだっけ。そしてまた眠りこんでしまったんだ。

 じゃあ、どうしてここにいるのか。

「まさか、死んだってわけじゃないよな……」

 龍二はまだ三十八である。多少メタボ体型なおかげで、健康診断で指導を受けることはあったが、これといって体の不調はなかった。店長としての職務もまだやりかけのままで、仮に急死したのだとすれば、まだまだ悔いの残るところだ。

 不安になっていると、背後から聞き憶えのある声がした。

「死んではいませんよ。たびたび驚かせて失礼いたしました」

「やっぱり、フリュカさんでしたか」

 空中に、長身の宇宙人女性が姿を現した。古川信江ではない姿は久しぶりだ。

 前回、船で会ったときと、少し印象が変わった気がするが、薬のせいか頭がぼんやりとして考えがまとまらない。とにかくここは、エルフィンの浮舟の中であるらしい。


「広瀬店長どのには、すっかりご心労をおかけしてしまいました。お休みのところ、お呼びたてしてしまって申し訳ありませんが、なにかお力になれることがあれば、と」

「なるほど。もしかして、これもあなたが」

 龍二の左手の甲には、緑色の丸いゼリーのような物体が貼りついている。指でつつくと弾力がある。被膜で覆われているのか、べたつく感じはしない。

「それは、いわゆる栄養剤に、微量の抗不安薬を調合したものです。貼りつけておけば自然と体内に吸収され、消えてなくなります。自慢するわけではありませんが、点滴よりも性能が良いんですよ」

「ふーん」

 注射針が苦手な龍二には有難いものだ。早いところ、地球でもこれが実装されてほしい。


「ところで、おれをどうやって、この船に連れてきたのです? 瞬間移動にしても、店内を経由しないといけないはずでしょう」

 以前フリュカが説明した理屈によると、この世界でフリュカたちが活動できる範囲は、せいぜい店の売り場の中だけのはず。その領域を脱出するにはかなりのエネルギーが必要なはずだし、仮に外に出られたとしても、元の四番世界には戻れなくなってしまうはずだ。


「いえ……。実は、広瀬店長どのは、いまもご自宅で眠っていらっしゃいますよ。わたくしは、遠隔操作で広瀬店長どのの意識にアクセスしているだけで……。

 この船も実際には第四番世界にありますし、映像は偵察機から受信しているものです。いかにも船で空中散歩をしているような、臨場感を出してみましたが、お気に召しませんか」

 彼女がどうやってそれをしているのか、方法はよく分からないが、どうやらバーチャルリアル体験のようなものである、と龍二は理解した。あとの細かいことは気にしないようにした。

 死んでいないなら良し。それに、眼下には一切の遮蔽物もなく、見事な夜景が広がっているではないか。

「いやはや、お見事ですよ。すばらしい景色です」

 フリュカは黙って微笑んだ。

 龍二のちょうど真下に、サンシャインマート茅場町店の看板が見える。店内フロアの灯りはまだついているようだ。誰かがまだ残って、仕事をしているのかもしれない。店長の自分がこんなところにいるのも、なんだか不思議な気分だ。

 非日常な景色のせいか、龍二はふと、あのことを話したい気持ちになった。

「フリュカさんにこんなことを相談しても、お困りになるかもしれませんが……」

 エルフィンは心を読む。龍二の心配ごとは、既に感づかれているのかもしれなかった。それでも話してみたかった。第一、ほかに誰に相談できるというのだろう。


「実は、おれの恩人の先生が、奥さんを事故で亡くされていました。

 しかし、近い世界と言われている六番世界のほうでは、先生のほうが亡くなられていて、奥さんが残されていらっしゃる。……いえね、可能性としては、あり得る話だっておっしゃりたいでしょう。それはじゅうぶんわかっています。

 しかし……。おれの不出来な頭では、どうにも上手く消化できません。だって、お二人とも生きていらっしゃる……! おれには、長年連れ添ったご夫婦が、突然に別々の世界へ引き離されてしまったかのような錯覚さえします」

 話を聞きながら、フリュカは黙ってうなずいている。


「お二人を、いずれかの世界で引き合わせて、一緒にさせることはできないものでしょうか」

 龍二が思い切ってそう言うと、フリュカは驚いたような表情を見せた。

「申し訳ありません。それは――」

 フリュカはうつむいて、しばらく黙ってしまった。龍二も、それ以上何も言えなくなった。そしてフリュカは、意を決したように、ふたたび話し始めた。


「……広瀬店長や地球の皆さまに、たいへんなご迷惑をおかけしておきながら、こう申し上げるのも無責任かもしれませんが……。わたくしどもは、神ではございません。

 それが例え可能であるとしても、わたくしどもに、そこまでの権限があるものなのでしょうか。婚姻関係や、出産、死別など、ひとの運命に深くかかわるものを、積木をひとつ、そちらからこちらへ動かすように、だれかの気持ちひとつで変えてしまって良いものなのでしょうか」


 それを聞いた龍二は、気が抜けたように、がっくりと肩を落とし、大きく息をついた。

「ああ、ごめんなさい。広瀬店長、わたくしは――」

「いいえ。変なことを言っているのはおれのほうです。話せただけで、すこし楽になりました。どうか忘れて頂ければ」

 あとは、龍二には何も言うことはなかった。

 無駄とは知りつつも、龍二は心を閉ざすかのようにして、眼下のイルミネーションをただ眺めていた。照明に浮かび上がった自分の店の看板。駐車場の車が時折動いて、道路のほうへ流れ出しては走り去っていく。

 信号の光、街灯の光、一軒一軒の家がともす、ささやかな灯り。これが我らの街だ。

「トンネル掘削実験なんて……しなければ良かったんでしょうか」

 東の空から昇ってくる冬の星々を見つめながら、フリュカがぽつりとつぶやいた。



 次に龍二が気がついたのは、自分の部屋の布団の中だった。どうやら早朝のようだ。

 冬の夜明けは遅く、外はまだ暗い。

 龍二は、左手の甲に異物感をおぼえた。無意識のうちに右手でその部分を触れてみると、薄い膜のようなものが、ぺらりと剥がれ落ちた。

 そして、枕元に何か妙なものがある。ひんやりとした空気の中、思い切って布団を押しのけて起き上がり、電灯をつけた。

 そこにあったのは、ピンポン玉のような丸っこい物体で、小さな鉤爪と三枚羽のプロペラがついていた。

 最初はおもちゃかと思い、つまみ上げて観察してみたが、配線や電池にあたるものがさっぱり見当たらない。本体らしき白くて軽い球体は、触っているうちにまっぷたつに割れた。中身はからっぽだ。

「さしずめ、宇宙人の使い捨て小型ヘリ……ってとこかな」

 さっき、左手から剥がれたものは、床に落ちていた。ほのかな緑色の薄いフィルムだった。


 龍二は、昨夜のフリュカの憂いを帯びた横顔を思い出していた。

(すべての原因は、宇宙人エルフィンが作ったことに違いない。でも、誠実そうなあの人ひとりを責めるのも何だかな……)

 ふと気づいたように、龍二は自分の上着を探し、ポケットの中を探った。スマートフォンを取り出すと、着信を示す青色のランプが点滅していた。

 十件あまりのメールが届いていた。

 二階堂麻衣、柿崎淳、盛田真由美……。事務の後藤香織や、出向中の越後谷までもが、龍二の体調を気遣って、お見舞いのメールをよこしていた。中でも麻衣は、ひとりで四通も送ってきている。そのほとんどは仕事の段取りに関する内容で、店はなんとかなるから、この機会にゆっくり休むように、との趣旨からなる文面で占められていた。

 病院での点滴が効いたのか、はたまたエルフィン特製の栄養剤のおかげか、龍二の体はむしろ普段よりも軽かった。眠気もすっかり抜けている。

 物音に気付いた母親が龍二の部屋にやってきて、心配そうに声をかけてきたが、龍二に仕事を休む気は毛頭なかった。出勤時間までにはまだ余裕があったので、母親に頼んで風呂を沸かしてもらい、汗をすっかり流してから、身支度をした。


 自分の車は店に置きっぱなしになっているので、龍二は柿崎に連絡し、家の近くまで迎えに来てもらった。昨日の今日で、ほんとうに仕事をするのか、と柿崎は驚いていたが、いつもよりも調子のよい龍二にとって、何も問題なかった。

 柿崎は心配そうにしていたが、龍二はお構いなしで助手席に乗り込んだ。

 ちょうど日が昇ってきたところで、空は明るくなっていたが、まだ道路はすいていた。誰かの運転で出社するなど滅多にないことで、龍二にはその新鮮さをすこし楽しむ余裕さえあった。


「店長、やっぱり、きょう一日くらいは、ゆっくり寝てたらいいんじゃないッスか? 俺が店長を連れてきたって知れたら、二階堂チーフに殺されるッスよ」

「いや。なんだか知らないが、もう三日三晩くらい眠ったような気分なんだ」

「そッスか? ……じゃあ、もう絶対、ぶっ倒れないで下さいよ。店長を運ぶの大変だったんッスから」

 柿崎がそう言うのを聞いて、龍二の頭にひとつの疑問が浮かんだ。

「そういや、きのう、おれをどうやって車まで運んだんだ?」

 おそらく自分の足で駐車場まで歩いたわけではない。記憶はおぼろげだが、何かに乗せられて通路を移動していたような気がする。

 信号待ちをしている柿崎は、眠たそうに大あくびをしながら答えた。

「ああ……。二階堂チーフが、いつも飲料を運搬している台車にダンボールを敷いたやつを持ってきたんで、数人がかりで店長を乗っけたんッスよ。そのままお客さんがいる店内を引きまわして、騒ぎを聞きつけて集まってきたパートさんたちを押しのけながら、バックヤード通路を通って、やっとのことで車まで運んだんッス」

 その光景を想像し、龍二は赤面した。

「おいおい……! 扱いが雑な上に、いい晒し者になっているじゃないか」

「文句言わないで下さい! そんなら、店の経費でストレッチャーでも買って欲しいッスよ!」


 信号が青に変わり、柿崎はアクセルを踏んだ。ハンドルを切り、気を付けていないと見逃しそうな細い道へ入っていく。砂利が敷かれた、だだっ広い従業員用の駐車場はもうすぐそこだ。

 この年も残すところわずかとなっていた。

 サンシャインマート茅場町店の白壁は、昇り始めた朝陽を受けて、背景にわずかに滲んだような光彩を放っている。こうして今日もまた、少し不思議な店舗は動き始めるのだった。

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