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パラレルワールド繁盛記  作者: ゆきの鳥
後編 シー・ユー・アゲイン
18/24

2-6 もしも、あの頃

 けだるい暗闇の中、遠くから、チャイムの音が聞こえる。それで目が覚めた。


 はじめに気づいたとき、白い天井と蛍光灯が見えた。

(ここ、どこだっけ)

 龍二はベッドに寝かされていた。

 どうして自分が横になっているのか、状況が思い出せない。それに、ここは自分の部屋ではない。龍二は首だけを動かして周囲を見た。

 ガラス窓からは校庭が見えている。体操着姿の児童たちがドッヂボールをやっていて、男性の教師がホイッスルを首から下げてそれを眺めていた。どこかのクラスが体育の授業をしているのだ。

 龍二がいる部屋の中には、ほかに誰もいない。

 かすかな消毒液の匂いがする。壁際の棚の中には薬の瓶がたくさん並んでいた。

(ああそうか、保健室なんだ)

 どうしてここにいるんだっけ。龍二は、おぼろげな記憶をたどっていった。

(そうだ、昼休みに、クラスのやつらと一緒に回転遊具に乗っているとき、誰かがふざけて高速回転させたんだ。それでバランスを崩して、たぶん落っこちた)

 今は何時間目なんだろう、と龍二は考えた。確かさっき、チャイムが聞こえた気がするから、少なくとも五時間目が始まっているのだ。五時間目の授業はなんだったっけ――。


 そう考えているとき、扉が開く音がした。

 白い布が張られたパーテーションの向こうから、頑固そうな顔立ちをした頑固そうな男が現れた。担任の、鵜飼うかい先生である。もう定年が間近で、頭髪が薄いので、陰でハゲ鵜飼と呼ばれていた。

「おう、目が覚めたのか。どこも痛くないか」

 鵜飼先生に言われて、龍二は体を起こし、あちこちを手でさすったり押さえたりしてみた。頭が少し痛んだので、黙ってその部分を指さした。鵜飼は、龍二の頭を指で軽く触れて言った。

「ああ……。ちょっとコブになっとるな。さっきまで保健の先生が見てくれていたんだが、いまは出かけているんだ。脳しんとうかもしれないと言ってた。もうじきおまえの母さんが来るから、念のため一緒に病院に行くといい」

 龍二はうなずいた。

 窓の外には晴れた空が見えていた。強い風が吹いているのか、ときどき砂ぼこりが巻き上がっている。校庭を駆け回っている中学年の児童たちを見ていて、龍二は思い出した。


(そうだ、うちのクラスも、五時間目は体育だったっけ。跳び箱のテストをやるんだった)

 運動神経に恵まれなかった龍二は、跳び箱が嫌いだった。勢いをつけて駆けていっても、いつも踏切板のところで減速してしまい、跳躍に失敗するのだ。クラスの女子たちにくすくす笑われるくらいだったら、テストを受けずに点数を落としたほうが、まだましだと思った。

 いまから病院に行くということは、今日の午後の授業はおそらく免除されるということだ。龍二にとってみれば、聞き逃したら困る算数や理科の授業ではなかったことが救いだった。体育なら、一回や二回休んだところで、その後に影響はないからだ。


 どうせなら、はやく迎えが来てくれないだろうか……そう考えていたとき、なにか言いたげな鵜飼の視線に気が付いた。ジャージを着ているということは、きっと体育館から授業を抜けてやってきたのだろう。他の生徒をほうってここにいるのだろうか、そう不思議に思っていたとき、鵜飼のほうから口を開いた。


「……ところで龍二よ、おまえ、まだ部活動なににするか決めていないのか」

 いつもは保健の先生が座る丸椅子に腰かけながら、鵜飼は言った。

 この話題は、五年生に進級してから、何度となく鵜飼に言われ続けていて、そして避け続けていたものだった。この小学校にはいくつかの部活動があったが、運動部ばかりで、龍二にはまったく興味がわかないものだった。

「ぜったい入らなければいけない?」

「ぜったいってわけじゃないがな」

 致命的なことに、龍二はとにかく足が遅かった。それは、あらゆる運動競技に不向きであるということだ。小学生のうちは、とにかく走るのが速いのが重要だったりするのだ。


「ぼく、べつにやりたくないです。野球も、陸上とかも」

「じゃあ、将棋部はどうだ」

「そんなのないでしょ」

 そういえば、唯一文科系の部活動もあった。合唱部である。しかし龍二は、運動とおなじくらいに、人前で大きな声で歌うというのも苦手だった。それ以外には文科系の部活はないはず。将棋部なんて聞いたこともない。

「そう。なかったから、おれが作ったんだよ。秋の団体戦に出るのに五人必要なんだが、人数が足りんのだ」

 鵜飼の表情は真剣そのもので、出まかせを言っているようには見えなかった。

「どうしてぼくが入るの」

「こないだの、学級通信に載せた詰将棋な。解けたのおまえだけなんだわ。指せるだろ」

 しばしの沈黙ののちに、龍二はだまってうなずいた。


 

 ある夏の日の放課後。

 陽が傾きかけた教室で、少年と少女が、将棋盤を挟んで向かい合っていた。

 少年は広瀬龍二で、少女のほうは同じ学級の天王洲里香である。彼女は盤面をみて真剣に考え込んでいた。

 龍二は、鵜飼に誘われて将棋部の部室に来るまでは、彼女が将棋を指すなんてまったく知らなかった。龍二の男友達にも、何人かは駒の並べ方と動かし方くらいは分かる者がいたが、定跡じょうせきの話に及ぶとほとんど誰もついて来られなかった。男子でさえそうなのだから、女の子が将棋を知っているなんて、龍二は予想もしていなかったのだ。


 現在の戦況は、どうみても龍二が有利である。

 龍二たちのとなりの机では、他のクラスの男子同士が対局をしている。顧問の鵜飼は、その二組の間を、交互に行ったり来たりしていた。いつものことであるが、決着がつくまでは、勝負にはまったく口を出そうとしなかった。

 里香はしばらく考え込んでいたが、ふとひらめいたように、持ち駒の飛車を盤面に打ち込んだ。王手角取りである。龍二は、玉を防御するために、持ち駒の香車を使って受ける。当然ながら、龍二の角は里香の手に落ちた。

 手薄になった守りを固めようと、龍二は自陣に銀を打った。里香は、手に入れたばかりの角をさっそく龍二の陣地に打ち込み、次の手で馬に成らせた。そこから形成は逆転し、怒濤のように一気に詰んだ。龍二の負けである。

「降参」

 龍二はそう言うと、そそくさと盤上の駒をかき集め始めた。勝ったはずの里香はにこりともせず、何か言いたげな様子だったが、あきらめたように口をつぐむと、龍二と一緒に駒を集めにかかった。


「これで、広瀬くんとは三勝三敗」

「そうだっけ」

「うん、数えてるから。もういっかいやるの?」

 里香とそんなことを話していると、龍二は誰かに肩をつつかれた。さっきまで対局を見ていた鵜飼である。

「龍、おまえはおれと指すんだ。里香はとなりで佐藤と指せ」

 鵜飼にそう言われて、里香は、しぶしぶ隣の机に移動した。

「先生とやったら負けます」

 鵜飼は、龍二の言葉など意に介さない様子で向かいに座り、駒を並べ始めた。

「おまえの先行、おれの飛車落ちでどうだ」

「……」

 鵜飼は、自陣の飛車をつまみあげると、盤面から取り除き机の隅に置いた。

 龍二は鵜飼と何度か対局したことがある。対等な条件の平手から初めて、鵜飼のほうが徐々に駒を落とし対局して試すうちに、どうやら飛車落ちくらいで、なんとか勝負になることがわかった。それでも鵜飼のほうが有利なくらいだ。


 龍二と鵜飼は対局を始めた。お互いに長考の戦いになった。

 となりの里香たちの対局はあっけなく終わっていて、彼女らはいつのまにか帰ってしまっていた。教室には、鵜飼と龍二だけが残っていた。

 風のない日だった。夕暮れが近づいても、教室内の空気は微動だにせず熱をはらんでいた。

 校庭側の窓は開け放たれていた。グラウンドでは野球部がシートノックの練習をしていて、金属バットがたてる硬質的な音が規則的に響いていた。階下の音楽室からは、合唱部が練習するコーラスの声が聞こえている。

 対局している二人は無言だった。時折、駒を打つ音だけが、ぱちんと響いていた。


「……強いな」

 鵜飼がぽつりと言いながら、じっくり考えた末の一手を打った。

 痛いところである。

「先生のほうが強いよ」

 龍二も考えた。守るのか、いっそ攻めに転じたほうがいいのか。攻撃は最大の防御とも言うが、防御は確実な防御である。龍二は、手持ちの駒を出して自陣を固めた。

 しかし、それが間違いだった。飛車落ちから始めたはずの鵜飼は、唯一の大駒である角の威力を効かせつつ、香車、桂馬、そして最後には銀将をもって攻め、龍二の囲いは突破されてしまった。たまらず龍二は降参した。

 鵜飼は、投了直後のままの盤面の駒を、一手一手、逆の順序で動かしはじめた。

 おそらく鵜飼は、対局開始からのすべての手順を記憶しているのだ、と龍二は思っていた。自分はそういうのは苦手で、あまり憶えていないほうなのだが、記憶にある範囲では鵜飼のリプレイに間違いはなかった。


 中盤まで盤面が戻ったところで、ふと手を止めて鵜飼は言った。

「……あのな、龍二。おまえどうして攻めないんだ」

「攻めてるよ」

「じゃあ、なんでいつも居飛車なんだ。戦法はそれぞれの勝手かもしれんが、おれは、おまえの飛車が敵陣に突っ込むのを、ほとんど見たことがない」

 鵜飼は、龍二の陣地で常に守備を任させていた飛車をとりあげると、裏返して、盤の中央にぱちんと置いた。

「――『龍』だ。こう言うとシロウトっぽいって思うかもしれないが、最強の攻め駒だぞ」

 龍二は何も答えなかった。

「さっき、ほんとうは里香に勝てただろうが。途中で何回も、里香を攻める隙があったのに、おまえは気づかないふりをした。おれと指してこんなに強いのに、違うとは言わせん。それともおれが弱いってのか」

 鵜飼の口調は静かだったが、水面下に怒りを含んでいるように思えた。

 龍二はぽつりと言った。

「だって……里香は泣くから」


 鵜飼は、龍二の飛車を元通りに置きなおすと、また一手ずつ、駒を戻す作業に戻った。そして言った。

「勝てないからって、里香が駄々をこねて泣いてると思うのか? 泣けばおまえが勝たせてくれると?」

 龍二には返す言葉もなく、下を向いて黙ってしまった。考えを見透かされていたのだ。ふうっと息を吐いてから、鵜飼は続けた。

「――確かに、世の中にはそういう女もいるがな、里香は違うぞ。真剣勝負して、負けて、悔しいから泣く。そしてまた立ち上がって頑張るんだ。そういうやつだ」

「手加減しないほうがいいってこと?」

「おまえ、おれに手加減されたらうれしいのか」

 龍二は首を横に振った。

「よし、龍。もう一回おれと指せ。おれは飛香落ちにするから、ひとつ賭けようじゃないか。おまえが勝ったら、体育の点数、ちょっとおまけしてやる」

「そんなことしていいの?」

「いいわけないだろ。だからおれが勝つんだ」

 点数のごまかしなんて、教師としてやってはいけないことだ。そんなことをして、もしも龍二が皆にばらしたら、えらいことになるだろう。しかも、飛香落ちなら、前にも二度対局したことがある。一勝一敗だ。おそらく互角の勝負になる。

 鵜飼はぎりぎりの賭けに出ているのだ。その気迫に、龍二はごくりと唾を飲み込んだ。

「おれが勝ったら、あしたから里香と指すときは駒を落とせ。そして二度と手抜き将棋はするな」

 鵜飼が一手ずつ逆戻しをしていた盤面は、すっかり対局開始のときと同じ状態までに戻っていた。鵜飼は、自陣の香車をとって、机の隅にあった飛車に並べて置いた。

「おまえの先手だ」

 龍二は、授業中に居眠りをしたり、たびたび宿題を忘れたりして、ときには鵜飼にこっぴどく叱られることがあったが、このときほど鵜飼が恐ろしいと思ったことはなかった。

 正面からの睨みつけるような真剣なまなざしは、龍二が迷う右手を差し出すとともに、盤上に落ちた。

 張り詰めた空気の中、龍二は、最初の一手を指した。



 社会人になってまもなくの、ある日のことであった。

 新築されたばかりの、真新しい白壁がまぶしい、サンシャインマート茅場町かやばちょう店で、広瀬龍二は新人研修を受けていた。

 それは、夕方の、買い物客で混雑している時間帯だった。野菜売り場で棚に特売品のレタスを積み上げていたときである。

「きゃあっ!」

 となりの通路から、女性の悲鳴が聞こえた。同時に、何か大きなものが落ちて潰れたような、嫌な物音がした。龍二はレタスの箱を放り出すと、急いで駆け付けた。

 床に呆然と座り込んでいたのは、おなじく新人研修を受けていた、自分より年下の女性社員だ。研修中と書かれた腕章をつけているので間違いない。名前は……何といったか。

 彼女の回りの床には、十数個の生卵のパックが落ちて散乱していた。彼女自身のタイトスカートも、割れた生卵まみれになって、べっとりと汚れていた。

 傍らには商品を運ぶための台車が置いてあり、卵が並んだパレットが数段積んで残されていた。状況から推測して、卵の補充をしようとしていた彼女が、なんらかの理由で荷物のバランスを崩し、商品ともども床に転倒してしまった、といったところだろう。

「だ、大丈夫か」

 とっさにそう言ってみたものの、一体どうしたらいいのか分からない。彼女を助け起こすのが先か、卵を片付けるのが先か。片付けるにしたって、一体どこにどうやって?

 そうこうしているうちに、回りには買い物客が集まってきて、いったい何事かとどよめき始めた。


 騒ぎに気づいた当時の売り場チーフがすっ飛んできて、龍二とその女子社員に向かい、血相変えて怒りはじめた。

 龍二は、なぜか自分が共犯者扱いされたのが納得できなかったが、だまって聞いた。そして、転倒した新人女子社員と一緒に、床の掃除をした。

 その女子社員は雑巾を持ち、汚れを拭いてはバケツで洗い、また絞るということを繰り返していた。膝をつき、うつむいているのでよく見えないが、時折鼻水をすすっている。泣いているのだろうか。龍二は気づかないふりをした。

 気まずい空気を破って、先に口を開いたのは彼女のほうだった。

「広瀬さん、本当にごめんなさい」

「……いや、おれなんてさ、こないだ一升瓶落として壊したから」

 龍二はどう答えて良いかわからず、とっさに自分の失敗話をしてしまった。そして、うまい慰めの言葉すら言えない自分が情けなくなり、力なく笑った。そんな龍二の、つたない心遣いを汲んだのか、彼女もすこし笑った。

「そうなんだ。……ありがとう」

 商品を壊した話をしてお礼を言われるのも奇妙だが、龍二は相変わらず気の利いたことのひとつも口に出せぬまま、卵のパックを片付けていた。女性社員は、ぐすぐすと鼻をすすりながらも、思い切ったように顔を上げて、精いっぱいの笑顔をつくって言った。


「広瀬さん、このことは忘れない。わたし、もっと頑張って、一人前になって、そしたらきっと広瀬さんを助けるから」

 あらためてよく見た彼女は、目を真っ赤にした泣き顔だったが、とびきり美人だった。

 そのとき胸元の名札が見えた。彼女の名は二階堂麻衣。――そうだ、入社式のときも、配属店舗が決まったときも、抜群にかわいい子だと思っていた彼女だ。

 間近で見た麻衣の笑顔に、龍二は自分の顔が火照るのを感じた。きっと頬が真っ赤になってしまっているのだと思い、ごまかすために、とっさに足を踏み出し方向を変えようとしたときだった。ぐしゃりと何かを踏んづけた感触があり、次の瞬間、天地がひっくり返った。

 自らが蹴り上げた生卵のパックが宙を舞っている。

 すぐそばで、短い悲鳴が聞こえた。

 そして、尻餅をつき、床に頭を打ち付けた。ああ、衝撃で火花って本当に出るんだな、と、龍二は遠のく意識の中で思っていた。



 あの日の天王洲里香も泣いていた。

 鵜飼との賭け将棋に負けた龍二は、その翌日、飛車落ちで里香と対局した。

 圧倒的有利にもかかわらず、里香は負けた。彼女の飛車は無慈悲に奪い取られ、龍二の手駒と化した。里香の陣地で睨みを効かせたままの『龍』の駒を、恨めしそうにじいっと見つめたあとで、里香は顔を上げて、涙をためたまま言った。

「ありがとう。でも、次は負けないから」

 その日から天王洲里香は、龍二の中で、クラスの女子たちとは違う、特別な存在になった。

 しかし、小学校の卒業と同時に、彼女は遠くに引っ越してしまった。もしも彼女があのまま近くにいて、一緒に中学校へ進学していたら、どうなっていたのだろう。龍二は大人になってからも時々、そんなことを思った。


 音のない闇の中で、龍二は思い出していた。そうだ、麻衣は、天王洲里香に似ているのだ。あの新人研修の日から、きっと心の片隅で、ずっとそう思っていたのだ。



 サンシャインマート茅場町店の事務室で、後藤香織は、受話器を置くやいなや、通路へと駆けだした。

 途中で一度、バックヤードの従業員とぶつかりそうになりながらも、売り場へ飛び出していく。

 もうすぐ十四時になろうとしていた。混雑している時間帯ではないが、それなりにお客で賑わっている店内の、すいている通路を縫うように駆けて、たどりついたのはサービスカウンターであった。

 息を切らしながら、後藤香織は言った。


「――広瀬店長が、気が付かれたそうです。どうやら、疲労がたまっていたみたいで。じゅうぶん休息をとれば、何も心配ないとのことです」


 後藤の報告を聞いて、盛田真由美は胸を撫で下ろした。

「そう、大したことがなくて良かったわ。……広瀬店長、ああ見えてご苦労が多かったのかもしれないわね」

 筒井優花ゆうかは、まだ心配そうにしていた。さっき泣いたせいで、まぶたが少し腫れぼったい。

「そういえば……わたしも最近、店長に迷惑をおかけしてしまいました」

 それを聞いた盛田は、自分が相談ごとをしている最中に龍二が倒れたことを思い出し、責任の一端を感じずにはいられなかった。そして、優花と二人してため息をつき、うつむいてしまった。


「あ、あの……お二人とも。そう暗い顔をなさらないで下さい。広瀬店長は、普段はとても盛田さんを頼りにしている様子ですし、若手の優花さんのことも、常に気にしておられます。ですから、あの……お二人が元気に頑張ってくれることが、一番のお見舞いになるかと思うのですが」

 

 後藤の言葉で気を取り直したのか、盛田にいつもの笑顔が戻った。そして、まだしょんぼりしている優花の肩を叩いた。

「ほら、後藤さんの言う通りだわ。広瀬店長がいつ戻ってきてもいいように、夕方までがんばりましょう」

「は……はい」

 いちおう返事はしたが、優花のほうは、午前中に美智子部長がもたらした深手がいまだに響いているようであった。盛田はそれに気づいていたが、若い頃は誰しも、程度の差こそあれ試練に直面するもので、盛田にも経験がないわけではなかった。これ以上は、優花自身が踏ん張ってくれなくてはいけない。


「それで、広瀬店長はまだ病院に?」

「ええ。いま、点滴を打っているようで。意識ははっきり戻ったそうです。店長を運んだふたりのうち、柿崎くんはついさっき病院を出て、こちらに向かったそうです」

 後藤がそう話すのを聞いて、盛田は複雑な面持ちで言った。

「じゃあ、二階堂さんはまだ……」

「ええ……。店長の親御さんに、連絡がつかないらしくて。もう少しだけ付き添うんだそうです」


 盛田は、十年前に研修社員としてこの店にやってきたばかりの、龍二と麻衣の初々しい姿を思い出していた。なぜどうして、今このときにそれが思い出されるのかわからない。あの頃は二人とも若くて、なにかすこしの切欠でもあったなら、もっと違う運命もあったのではないか。

 龍二にも麻衣にも、盛田にも、まだ見たことのない別な世界があったとしたら。もしかしたら二人は。

 そんな思いがよぎったのは、白昼のほんの一瞬のこと。

 用件を伝えた後藤は立ち去り、優花も自分の仕事にとりかかった。盛田は、いつものようにカウンターに出て、愛想のよい笑顔を振りまきながら、来客の応対にあたった。まもなくして、柿崎淳も店に戻ってきて、生鮮部門の品出しを始めた。

 もしも、あの頃――そんな想像をしてみても、近いようで誰にもつかめない、陽炎のように儚いものに思えた。



(あー、今日はいろいろあって疲れたッス)

 病院から戻ってきた柿崎淳は、本来の業務に復帰していた。水産コーナーの棚の品物を並び替えながら、お造りなどのパック商品に値引きシールを貼る作業をしていた。

 日曜日も十七時を過ぎた。

 平日ならば、仕事帰りのビジネスマンやOLなどで混雑する時間帯だが、週末は、せいぜいレジャー帰りの家族連れなどがやってくるくらいだ。それもいまは冬季で、学校はまだ冬休み前。店内は比較的閑散としていた。

(きょうはお客の引きが速そうだし、もたもたしてたら商品が売れ残るッス。思い切ってこれもこれも、がっつり値引きしちゃうッス!)


 シールを貼り付けている柿崎の横には、主婦や中年男性などのお買い得品を狙うお客が、常に二、三人ほど張り付いて、一緒に移動していた。中には、自らお目当ての商品を手に持って、これにもシールを貼ってくれと直接要求するお客さえいた。正直、柿崎は困ることがある。なんでもかんでも一律値引きしているわけではないのだから。

 そのように、お客の視線を多少気にしながらも、なるべく見ないふりをして、柿崎は値引き作業を続けていた。だから、背中に痛いほど明らかな視線を感じていても、少しの間、彼は無視をしていた。


「あのぉ、そこのイケてる魚屋のお兄さん! ちょっと教えてよ」


 ついつい、即座に振り返ってしまった。柿崎はおだてに弱いのだ。

 幸い、人違いではなかったらしい。声の主は若い女性で、まっすぐ柿崎を見つめて微笑んでいる。その顔を見て、柿崎は驚いた。


「えっ、優花ちゃん――ッスよね? なんかきょうは、イメージが違うくないッスか?」


 見間違うはずはない、明らかにその女性は、筒井優花である。しかし、何かが違う。どちらかというと鈍感で女性の変化には疎い柿崎であったから、その違いが何なのかはよくわからなかった。

 その、筒井優花のような筒井優花は、柿崎ににっこりと笑いかけ、自らを指さしながら言った。


「そ、あたしユウカ! ――んで、この店に『あたし』がいるでしょ? きょうもいるかな? 会ってお話したいんだけどー」


 夕刻の混雑の中、柿崎淳は、値引きシールを片手に持ったまま、しばし呆然と立ちすくんでいた。

作者に将棋の知識はほとんどありませんが、全く遊んだことのない方のためにちょっぴり解説します。(そもそも間違ってるかも……)

※「飛車」という駒は、開始状態のままでも移動力の高い強力な駒ですが、敵陣に突入することで裏返し、「龍」になることができます。こうなると超強いです。「居飛車」とは、飛車を攻めに出さずに自陣内に置いている状態のこと。

※「定跡」とは、将棋における定番の駒の動かし方、お決まりの手筋のようなもの。作者はずっと「定石」だと思い込んでいましたが、それは囲碁の場合の言い方だそうです。

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