表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パラレルワールド繁盛記  作者: ゆきの鳥
後編 シー・ユー・アゲイン
17/24

2-5 good for nothing

『店内のお客さまにご案内です! まもなく、鮮魚売り場前通路にて、マグロ解体ショーを開催いたします! わたくし、水産担当社員の柿崎淳が、心をこめて包丁を振るわせていただきますので、お買い物ついでにぜひご覧ください!』


 そのアナウンスが店内に響き渡ると同時に、買い物客たちからどよめきが起こった。時計は午前の十時二十五分である。それなりに混雑している時間帯だ。

 人々の動きが突然変わり、押していたカートを方向転換させて、案内のあった場所へ向かう客が目立った。会計を済ませてレジ袋を持ち、帰るつもりだったのをやめて、鮮魚売り場へ歩いていく者もいた。

 

 日曜日のサンシャインマート茅場町かやばちょう店は、第六番並行世界からの客でにぎわっていた。

 第六番世界とは、この店がもともと存在している世界であるゼロ番世界に、観測できるうちでもっとも似通った世界である。およそ二十年ほど前に、ゆっくりと剥離するように分裂したこの二つの世界は、気候も社会情勢もほとんど同じで、きょうだいどころか、まるで双子のような世界であった。

 そのためなのかどうか、この六番世界のお客さまは、サンシャインマートに対する順応も早かった。

 六番世界のこの場所には、元から『サンフラワーマート』という店舗が存在し、その世界の住人が入り口をぐぐった途端に、見知らぬはずのサンシャインマート茅場町店の中に出る、といった具合なのだ。六番世界において、それは毎週日曜日にのみ起こる現象であって、その他の曜日の『サンフラワーマート』は、きっと普通に営業しているのだろう。

 そのように、六番世界の住人にしてみればイレギュラーな曜日にあるにもかかわらず、お客さまはけっこう積極的に来店してくれるのである。


『マグロ解体ショー、ただいまより開始します! お客様、どうぞお近くでご覧ください!』


 龍二が鮮魚売り場を覗きこんだとき、柿崎の回りには既に人だかりができていた。

 売り場通路には、水産加工室から持ち出したと思われる脚のしっかりした小型の作業台が設置され、その上にはまな板があり、銀色に輝くメバチマグロが横たわっていた。柿崎の見立てでは重量十キロ超の、スーパーのイベント用と考えたらじゅうぶんに立派な品物であった。

 マグロを前にして、水産部門チーフの柿崎淳は気合が入っていた。

 頭にはねじり鉢巻き。スポーツ刈り風の男らしい短髪によく似合っている。いつもは作業用のつば付き白帽子とマスクにより、顔がほとんど覆われている彼だったが、こうしてよく見るとまあまあイケメンである。

 どこから出したのか、水色の半纏を着用している。背面には赤い大きな文字で『祭』と書いてあり、袖口が作業の邪魔にならないように、たすきを結んで止めている。

 頭部には小型のヘッドホンのようなものを装着している。ヘッドセットマイクだ。あれなら、包丁を握ったままでも店内放送が可能である。

 龍二が柿崎の雄姿を見て感心しているとき、すぐ横から声がした。

「いよいよ始まりそうね」

 いつのまにか隣に来ていたのは、二階堂麻衣であった。彼女もまた、解体ショーの成り行きが気になるのだろう。ふたりは、見物客の邪魔にならないように、マグロを取り囲む人だかりからすこし離れた場所で様子を伺っていた。

「それにしても、うちの店にヘッドセットマイクなんてあったんだ?」

 龍二が麻衣に聞いた言葉も、周囲の賑わいの声でかき消されそうだ。

「ああ、あれ? 実は柿崎君の私物らしいわよ。接続の設定とかも、朝から自分で調べてやっていたわよ。ちなみに半纏も、倉庫から自分で発掘してきたらしいわ」

「えっ……マジか」

 この解体ショーに、彼は一体どれだけの情熱を注いでいるというのだろう。龍二は、そこまでマグロに賭ける柿崎の執念がすこし怖くなった。

 まあとにかく、このショーが盛況で終わってくれれば良いのだが。

「そういえば……美智子部長の姿が見えないんじゃないか? もうお帰りになったのかな」

「んなわけないでしょ。アジのお造りも預かったままだし、きっといるわよ」

 龍二と麻衣は、人混みの中に美智子部長の姿を探した。が、柿崎の周囲に人垣を築いているのは買い物客ばかりで、社員らしき者はいなかった。


『お待たせ致しました! マグロ解体ショー開始です! なんとこのマグロ、築地市場からお取り寄せ致しました! もちろん、全て実演販売致します!』


 柿崎はそうアナウンスすると、自分の後ろに置いてあったラジカセのスイッチを入れた。迫力のある和太鼓の響きがスピーカーから大音量で流れだした。あのラジカセと和太鼓の音源も、龍二には憶えがない。もしかしたらあれらも柿崎の私物かもしれなかった。

 もはや刀剣類ともいうべき、鋭く研がれた包丁を握ると、柿崎は口の中で小さく感謝の言葉をつぶやいた。それから店内向けのアナウンスをした。


『では、ちょっと勿体ないですが、いきなり頭を落としてしまいましょう! さぁ、皆さま、よーくご覧ください!』


 柿崎がその刃を振り下ろす。

 力をこめると、マグロの頭部は脂の乗った胴体から見事に分断された。美しい赤い色の断面が見えると、周囲からわあっと感嘆の声があがり、大きな拍手が沸き起こった。

「凄いわねぇ」

 麻衣が思わず声を漏らした。龍二が隣にいる彼女を見ると、その瞳は期待に満ち溢れていて、もはや仕事中であることを忘れているかのようだった。しかし、龍二自身も、解体ショーについ目を奪われてれしまいそうだ。

 そのとき、人混みの中から、ひときわ黄色い声援がした。


「キャー! 淳くん! 男前ー!」


("淳くん"……だと?)

 龍二は違和感をおぼえた。

 お祭り半纏を着込んでいる柿崎は、今日に限っては名札を着用していない。すると、もともと柿崎の名前を知っている客ということになるが、ここは第六番世界である。そこまでの馴染みの客がいるものだろうか?

 嫌な予感がして、声の主である客を探すと、それは一般客に紛れた美智子部長であった。


「二階堂、あれ、あそこ見てみろ」

 龍二は肘で麻衣をつついて、客のひとりを指さした。麻衣もすぐに気づいて、げんなりした様子で言った。

「うわっ、信じられないわ。私服に着替えてお客さまのふりをしているなんて!」

 さっきまで柿崎のショーに夢中になりかけていた二人は、一気に興が醒めてしまった。

 勤務時間中にもかかわらず、部長ともあろうお方が、客を装って至近距離から解体ショーを楽しんでいるとは、誠にけしからんことである。しかし、考えようによっては、部長が自らサクラとなって場を盛り上げていると言えなくもない。これでは、おおっぴらに咎めることは難しいかもしれない。

 ともかく、この様子ならば、柿崎に任せておいてもイベントは盛り上がるだろう。店長と部門チーフの二人の社員が見物しているというのも、他の従業員たちに示しがつかないので、龍二と麻衣はそれぞれ持ち場に戻ることにした。

 後ろ髪をひかれる思いで立ち去る際にも、背後からはずっと、客たちの大きな歓声が聞こえていた。



 サービスカウンターの中で、売り場の一角から聞こえてくる歓声を聞いていた筒井優花ゆうかにも、その盛り上がりの様子が想像できた。マグロには特に興味はなかったが、仕事でさえなければ自分も見に行きたかったほどだ。

 解体ショーは盛況のうちに終了した。

 実演販売がおわり、マグロが入った買い物カゴを持った客たちが、レジの前で行列を作っていた。一般のレジが混雑してきたので、サービスカウンターで会計をしようとする客も現れ始めた。

 カウンターには盛田が立って対応し、優花は商品の包装や、混雑時の補助を担当した。

 ほんとうは、カウンター対応の合間を縫って、するべき仕事は山ほどあった。予約注文分のギフト商品の包装や、発送手配もしなくてはいけなかったが、まとまった時間がとれずに、なかなかはかどらなかった。

 優花が忙しさに目が回りそうになっているとき、一人の杖をついた年配の女性客が、買い物カゴを持ってこちらへやってくるのが見えた。

 それを見た盛田の顔色が変わった。焦った様子で、優花に耳打ちをした。

「悪いけど、あちらのご婦人は優花さんが対応してくれる? ちょっと、あの方とはお話できないの」

「えっ……は、はい」

 一体どういう理由だろう。怪訝に思いながらも、優花はカウンターを盛田と交代した。

 優花が知っている盛田真由美という人物は、例え意地の悪いお客でも、苦手な相手でも、怯むことなく笑顔で応対するといるというのが信条であったはずだ。優花もそのように教わってきたのだから。しかし、交代するすれ違いざまに見た盛田の顔色は蒼白であった。まるで、白昼の幽霊でも見てしまったかのように。


 奥に引っ込んでしまった盛田に代わり、優花がその年配の女性客の応対をした。

 カゴを受け取って、商品をレジスターに通していると、そのお客は、上機嫌で優花に話しかけてきた。

「今日のマグロショーは、とても良かったわ。普段はあまり買わないのだけれど、あんまりきれいな赤身だったから、仏様にお供えしようと思ってね」

 この老婦人は、仏前に生魚を供えようというのか。いったいどんなお客さまだろうと気になり、優花は顔を上げてみた。

 人のよさそうな、上品な年配の女性であった。

 毛染めをしていない白い髪はきれいに整えられ、髪留めで束ねられていた。ベージュ色の冬物のコートに、首元にはふわふわした茶色の襟巻をしている。派手な恰好ではないが、スーパーの買い物客の中では上等な服装をしているほうだ。このまま喫茶店に行って茶飲み友達と過ごすのだと言われても違和感がない。

 顔をあげた拍子に目が合ってしまった。優花は思い切って、気になったことを訊ねてみた。

「あの、お仏壇にお刺身をお供えするのですか?」

 余計なことを聞いて、気を悪くさせてしまったかと優花は後悔したが、そのような心配をよそに、老婦人は穏やかな微笑みを浮かべながら答えた。

「……そうね。ふつう、お仏壇にお肉や生ものはあげないわね。でも、うちにくるお坊さんにお訊ねしたら、その方の個人的なお考えだそうですが、仏様の好きだったものをお供えしても大丈夫なんですって。うちの主人、マグロの刺身が本当に大好きだったのよ」

「まあ、そうでしたか」

「今までは、さすがに気が引けて、お刺身を供えたことなんてなかったんだけどね。こんなにおいしそうなマグロなら、喜ぶんじゃないかと思って、つい買ってしまったのよ。あのひとの命日も近いことだしね」

 老婦人は、パック詰めされたマグロの切り身をうれしそうに見ていた。確かに、赤色が鮮やかな、見事なお造りに仕上がっていた。

「きっと、ご主人も喜ぶと思いますよ」

「そうね。どうもありがとうね」

 優花は、保冷剤と一緒に、マグロのお造りを丁寧にレジ袋へおさめた。

 会計をしてお釣りを渡すと、その老婦人は笑顔でお辞儀をして、杖をつきつつ、ゆっくりと歩いて出口へ向かっていった。物腰が穏やかで、優しそうなご婦人だった。

 すると、ひとつの疑問が残った。盛田はどうして、あのお客の応対ができないと言ったのだろう。

 不思議ではあったが、またお客がやってきたので、あとで考えることにした。いずれもマグロのパックを持ったお客で、次が家族連れの若い主婦、その後ろには中年の女が一人並んでいた。

 さっきの老婦人と同じく、若い主婦の客も、マグロ解体ショーが面白かったと興奮気味に話していた。買い物かごの中には、他の商品もたくさんあったが、マグロはつぶさないように丁寧に扱いつつ、保冷剤と一緒に客に渡した。

 その次の中年女の客が目の前に来たときだった。


「あなた、遅いわ」


 中年女がいきなり言った。

 はっとして良く見ると、列に並んでいたその中年女性は、私服姿の美智子部長である。いつのまにか客に紛れ込んでいたのだ。

 部長は、腕時計をわざと大きな身振りで覗きこみ、不機嫌そうに言った。

「わたしがここに並んでから、何分経ったかわかるかしら。わたし、さっきからずっとあなたを見ていたのよ。まあ驚いたわ。新人のわりには、無駄口だけは一人前なのねぇ。それに、動作も遅いわよ」

「はい、すみませんでした……」

 しおらしく頭を下げて謝る優花に、美智子部長はさらに追い打ちをかける。

「ところで、あなたの後ろにある商品の山は何かしら。見たところ、ギフト発送を依頼された品物のようだけれど。あれの包装や手配は、一体いつやるつもりなの? 朝から積んであるけれど、全然進んでいないじゃない」

 部長の指摘のとおりだった。あれこれ動き回っているうちに、すっかり後回しになってしまったのだ。時間を見つけてやらなくてはいけないのだ、と、優花は常日頃から、盛田に言われ続けているが、それがなかなか実行できないでいることは、自分でも分かっていた。

「あの、お店のほうも忙しくて……あっ、いえ、わたしの手際が悪いだけです、すみません」

「すみません、すみません、って、あなたねぇ……」

 美智子部長は、呆れたように大きなため息をついた。

「……あなた、学校時代からトロい子だったの?」

「えっ……」

 いきなり関係のない話をされて戸惑う優花だったが、実際それは図星だった。優花は、幼少期から、いつも誰かのあとを黙ってついていくような性格であり、先頭に立って行動したこともないし、大抵の行動は周囲の人よりも遅かった。

 美智子部長は、返答に困り黙ってしまった優花をあざ笑うように言った。


「やっぱりそうなのね。あなたって、怠け者で、計算高くて、本当はずる賢いのね。

『わたしトロいんです、すみませーん、助けてくださーい』って言うだけで、男たちには甘やかしてもらえるし、自分は努力もしなくて済むんだから楽でいいわよね」


 優花は頭から血の気が引いていく気がした。

 後ろのほうに引っ込んでいた盛田が血相を変えてやってきて、果敢にも美智子部長に反論した。

「人には個性があります。誰もが最初から出来るわけではありません。それに、筒井さんはまだ若いんです。もう少し、お言葉に配慮して頂いてもよろしいかと」

 美智子部長は顔を紅潮させ、憤慨した様子で言った。


「この際だからはっきり言ってあげる。役に立たない個性は要らないの!

 わたしの言うことが気に入らないというなら、どうぞどこへでもお行きになりなさいな。あなたたち二人が辞めたって、会社の誰も困らないのよ!」


 もう一言言ってやろうかと思いつつも、歯を食いしばって盛田は我慢した。サービスカウンターの二人が黙ってしまったので、美智子部長はあきれ顔になり、マグロの入ったレジ袋を片手に、どこかへ歩いていってしまった。

「この店のバックヤードはまあまあだけれど、接客部門は品質が悪いわねぇ」

 誰に言うでもなく、去り際にそう吐き捨てていった言葉だけが、二人の耳に残っていた。



「優花さん、不愉快な思いをさせて悪かったわね。言われたことは忘れなさい」

 盛田に背を向けたまま、優花は前かがみになり、小さく肩を震わせていた。

 ほんとうは、盛田に何度も同じことを注意されても、言われた通りの仕事ができない自分が悪いのだと分かっていたし、もしかしたら、部長のあの意地悪な言葉も、少しは当たっているのかもしれなかった。

 そのせいで盛田も巻き込んでしまったのだ。謝らなければならなかったが、泣いていることが悟られてしまうので、優花は声を出すことができないでいた。

「さっきは、カウンターを代わってくれてありがとうね。お手洗いでも行って、ちょっと休んでから戻っていらっしゃい」

 盛田は、優花の肩を軽く叩きながら言った。優花は無言で頭を下げながら、バックヤードへ引き上げていった。

 女子化粧室に入り、濡らしたハンカチで目元を押さえたが、一人になると余計に涙があふれてきて、止まることがなかった。鏡を見ると、目が真っ赤になっている。この日に限ってきれいにブローした髪が余計に空しかった。


――わたし、役立たずなのかな。迷惑なのかな。別のどこかへ行かなくちゃいけないのかな。


 しかし、別のどこかとは何処だろう。

 彼女には行く当てもなく、自信が持てることなんて、昔からなにひとつなかった。しかし、もしかしたら、向き不向きというのがあるのかもしれないではないか。


――どこかにわたしを必要としてくれる場所があるのかもしれない。でも、次の場所がもっと厳しい職場だったとしたら? 行く先々で、どこでも必要とされなかったとしたら?


 小さな化粧室の中で、涙を流す己の姿といくら向き合ってみても、答えは見つからなかった。



 バックヤードの水産加工室で、龍二はショーを終えた柿崎をねぎらっていた。

「いやー、見事なもんだったよ。おれも仕事でさえなかったら、飽きずにずーっと見ていられたよ」

 まだ半纏姿の柿崎は、恐縮して頭を掻きながら答えた。

「うーん、自分的にはまあまあッスかね? ちょっと突っ走り過ぎちゃったんで。もう少し、お客さまと対話しながらでも良かったかもしれないッスね」

 そう言いながらも、柿崎は満更でもなさそうだった。

 龍二と二人して、ショーに使ったテーブルをバックヤードに運び込んでいると、通路のほうから麻衣が駆け寄ってきた。なにやら深刻そうな、青ざめた顔をしている。


「龍くん、美智子部長はお帰りになった?」

 息を切らしてそう訊ねる麻衣に、龍二が答える。

「ああ、さっき帰っていったよ。アジもマグロも忘れずにちゃんと持たせたぞ」

「そう、帰ったのね……」

 麻衣は、きょろきょろと周囲を見回して、他に人がいないことを確認すると、龍二に耳打ちした。

「ちょっと問題が発生したの。サービスカウンターに行ってあげて。わたしは、優花ちゃんを見てくるから……」

 話を聞くなり、龍二は、柿崎と二人で運んでいたテーブルから手を離した。

「悪い、柿崎くん! おれは行かなきゃならん」

「え、ちょ、何なんッスか」

 龍二はすぐに、麻衣の言う通りにサービスカウンターへ向かった。麻衣も、更衣室のほうへ駆けていってしまい、テーブルと柿崎だけが残された。

(さっき、優花ちゃんがどうとか聞こえた気がするけど、何だったんッスかね……)

 嫌な予感がしつつも、柿崎は一人でテーブルを運ぶ作業に戻った。

 解体ショーは終わったが、まだ昼前である。混雑の時間帯はまだまだ続くのだ。余計な心配はせず、自分の仕事をきちんとやり遂げることも、店の運営には大事なことであった。



 龍二がサービスカウンターに到着したとき、盛田真由美はまだ、青白い顔をしていた。

「美智子部長がひどいこと言ったんだって? 大丈夫?」

 この店に来て三カ月が経つが、ここまで覇気のない盛田を見るのは初めてだった。筒井優花の姿はなかった。

 盛田は、無理やりに笑顔を作りながら答えた。

「まあ、わたしは別にいいけれど……優花さんがね。ちょっと休憩に行かせたけれど、いいでしょう?」

「それは構いませんが……」

 龍二は、美智子部長が言った内容を盛田から聞き出し、衝撃を受けた。なんと残酷で非情な言葉であろうか。龍二自身も、若いころは美智子部長に叱られたものだが、それでも自分が男であったがために、まだましな扱いを受けていたのだと、今更ながら気が付いた。

「もっと言ってやろうかと思ったけれど、あんな駄々っ子みたいなのと言い合っても、得にならないしね。……優花さん、だいじょうぶかしら」

 そわそわと落ち着かない様子の盛田に、龍二は言った。

「いま、二階堂さんが筒井さんのフォローに行っています。だから大丈夫だと思いますよ」

「二階堂チーフ、ですか……」

 盛田はなにか釈然としない様子だった。

「どうかしましたか?」


「ええ……。わたしが思うには、優花さんの気持ちをわかってあげられるのは、むしろあなた……広瀬店長のほうじゃないかしら。

 二階堂さんは、この店に来た最初から、負けず嫌いの頑張り屋だった。でも、優花さんは……。わたしは最近気が付いたのだけれど、本人はきっと、どう頑張ったら良いのか分からないのよ」


 盛田の言うことは、わかるようでわからなかった。

 確かに、負け組という点では龍二は折り紙付きだが、まだ若くて将来のある優花と、三十八歳にもなって芽が出ずにクビになりかけた中年男の龍二では、状況があまりにも違うのではないか。

 それに、女の子をうまく慰められる自信はまったくない。龍二は、女に泣かれるどころか、それ以前にもう何年も恋人がいないのだから。

「女性は女性同士のほうが気持ちが分かるんじゃ……」

 言いかけた言葉を遮って盛田は言った。

「近いうちに、じっくり話を聞いてあげてはいかがですか? だって、広瀬店長が、ここのリーダーなんですもの」

 そう言いつつも、盛田は下を向いて、なにか考え事をしている様子だった。龍二は、それが美智子部長の無慈悲な態度のせいだと思い込んでいた。

 いくらベテランでも、へこむことだってあるだろう。龍二は盛田を励まそうと思った。

「盛田さんも、美智子部長の言うことなんてお気になさらず、元気を出してくださいよ。もし盛田さんたちが辞めちゃったら、おれも、この店のみんなも困っちゃいますよ」

 盛田は龍二に軽く頭を下げた。

「ありがとうございます。……でも、違うんですよ。わたしが広瀬店長に報告したかったことは、むしろ、あれのことなの」

 盛田は、サービスカウンターに置いてあった、忘れ物カゴの中を指さした。

 店内で拾得された、いろいろな忘れ物に混じって、灰色の手袋がある。それには『鵜飼うかいいわお先生・月曜日』と書かれたメモが添えられていた。龍二が書いてくっつけたものだった。


「鵜飼巌先生、って、茅場小学校の鵜飼先生のことでしょう。

……今日、鵜飼先生の奥様がご来店なさっていたわ。わたしと娘、親子二代で奥様にピアノを習ったから、よく知っているわ。相変わらず、優しくてお綺麗な方だった」


 盛田はそう言った。なぜか悲しげな表情で。

 やはり龍二の記憶どおり、鵜飼巌には妻がいたのだ。

 きょうは日曜日。元の世界とそっくりな、第六世界の日。ふたつの世界にはそれぞれ同一人物が存在するのだから、来店してもおかしくはない。それのなにが問題なのか、と、不思議そうにしている龍二の顔を見て、盛田はさらに話を続けた。


「……ああ、広瀬店長はご存じないのね。もう十年以上前になるかしら――鵜飼先生の奥さまは、事故でお亡くなりになったわ。

 確かちょうど、大晦日のことね……。ご夫婦で一緒に歩いているとき、飲酒運転の車にはねられて……。ご主人の巌先生のほうは、命は助かったけれど、足に大けがをしてしまったの。いまでも杖をついていらっしゃるのはそのためね」


――いや、ちょっと待ってくれ。盛田さん、一体、どちらの世界の話をしているんだ?

 しかし、半開きになったままの龍二の口からは何の言葉も出ない。


「その奥さまが、ついさっきお店にいらして、マグロの刺身をお買い上げになって……。ご主人の大好物だったから、お仏壇に供えるんだ、と。

……もうじき、ご主人の命日なんですって。たいそうお喜びの様子で、お帰りになったわ」


 盛田はさっき、鵜飼巌の妻は亡くなったと言った。しかし、ついさっき来店して、亡き夫のためにお供えを買ったのだとも言った。

 龍二の頭の中で、ふたつの世界が交錯し、絡まってごちゃ混ぜになる。

 パラレルワールドを初めて目の当たりにしたときも、何も知らぬまま宇宙人に連れ去られたときも、こんなに混乱することはなかったのに。

 いま、天井と床は逆転し、柱はゆがみ、平衡感覚は失われていた。ここはどこだ。何曜日だ。校庭の、くるくる回る遊具に乗っているように、青い空と砂の色が交互に見える。世界は揺れて、目の前にあるはずのカウンターにすら手が届かないように思えた。

 バランスを崩し、伸ばした腕が空を切る。すぐそばで悲鳴が聞こえる。どすん、と尻もちをつく。

 目の前が真っ暗になり、かすれた意識の中で、龍二は遠くで誰かが叫ぶ声を聞いていた。


「――だれか、広瀬店長がお倒れに……!! はやく……!!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ