表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パラレルワールド繁盛記  作者: ゆきの鳥
後編 シー・ユー・アゲイン
16/24

2-4 憧れの代償

 まだ開店前の、静かな朝の水産加工室でのこと。

 柿崎淳は、横長の大きな発泡スチロールの箱の前にひざまずいていた。

(ついに……待ちわびたこの日がやってきたッス)

 目の前にあるその白い箱を、さもご神体のように両手を合わせて拝んでから、封をしてあったガムテープを一気に剥がし、ごくりと唾を飲みこんでから、彼は蓋を取り外した。

 瞬間、箱の中から冷気が吹きだしたように感じた。そこに横たわるのは、銀色に輝く一尾の魚体。冷たい風を感じたのは、冷却用の氷のためであった。

「うおっまぶしい……! これは……見事なメバチマグロっスね!」

 柿崎は目を閉じて、ふたたび手のひらを合わせて拝んだ。

 あの有名な、海峡一本釣りのマグロは主にクロマグロである。いま目の前にあるメバチマグロは、それよりもやや安価な魚ではあるが、家庭の食卓に並べるぶんには充分立派な品物だ。それに、わざわざ築地市場から取り寄せた一尾丸ごとのマグロは高価だ。

 柿崎は水産部門のチーフといえど、これを買ってもらうチャンスは滅多にない。先日の、インデペンデンス寿司の件で龍二をそそのかし、念願叶って手に入れたのだ。

 柿崎にとっては夢にまでみた、憧れの魚であった。眺めているだけで、抑えきれずに笑いがこみあげてくる。

 その様子を、柿崎の背後から多少引き気味に見守っていたのは、店長の広瀬龍二である。

「……で、どうなんだい、柿崎くん」

 いっそのこと黙って立ち去ってしまいたかったが、高価な魚を一匹あずけたのだから、店長としてはその後の方針を確認しないわけにはいかないのだ。

「いやあもう、ふふふ、こんな幸せはありませんよ。形も良いですし、重量は十キロ……いや、もっとありますかね? こいつに自分が包丁を入れるなんて想像したら、もう勿体なくて罰が当たりそうというか、それが逆に燃えるっていうか」

「あの、いや、そうじゃなく段取りとかは」

「解体ショーを開催する時間と場所だけ決めて頂ければ、あとは自分が段取りしますよ! こういうの大得意なんで、任せてくださいッス! いやーそれにしても、立派ですね! 背びれも尾びれもビッカビカですね!」

 何を話しかけても、さきほどから一切顔を上げずマグロばかり見ている柿崎に、龍二はもはや話しかける気力も失せていた。

「……ああ、わかった、よろしく頼んだぞ」

 何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、龍二は水産加工室を後にした。

 マグロとの感動の対面を果たした柿崎は、しばらくは余韻に浸りながらずっとそれを眺めていたが、ふと立ち上がり元通りに蓋をかぶせると、今度はありったけの包丁を調理台の上に並べて見比べだした。そしてついには、砥石を取り出して、すべての包丁を順番に研ぎ始めた。

 本当に特別なときしか開催することのできない、水産部門の花形企画、「店内マグロ解体ショー」の日がついにやってきたのだ。一尾丸ごとの立派なマグロに包丁を入れるのは、他でもない柿崎自身である。水産部門チーフとしては、これ以上ない晴れ舞台なのだ。

 出勤してくる水産部門の職員が朝のあいさつをしても、彼の耳には一切入っていなかった。そして、柿崎の何かにとり憑かれたような様子に、誰もが無言でその場を離れたという。



 筒井優花ゆうかは、その日の朝、いつもよりは念入りに髪の毛をブローして、新しい髪留めをつけ、化粧にもやや長い時間をかけた。そういえば、気合を入れて、昨夜はお風呂上りにちょっと贅沢な保湿フェイスパックまでしてしまった。

 あなた、デートの約束でもあるの? と、母親から冷やかされたが、そうではなかった。きょうは日曜日。もしかしたら、『彼女』に会えるかもしれない日なのだから。

 開店前のサンシャインマート茅場町かやばちょう店。

 優花は、品出し担当者たちがあわただしく動き回っている様子を見ながら、いつものように持ち場であるサービスカウンターに入った。今日は繁忙が予想されたためか、盛田真由美と一緒の、二人体制のシフトが組まれていた。

 暦はついに、十二月の下旬に入っていた。

 時季はまさにクリスマスの直前である。店内はきらきらと輝く星型のモチーフや、金銀のモールにより華やかに装飾がされていた。売り棚には、チキンやローストビーフ、派手なパッケージの炭酸飲料など、パーティー向けメニューが目立っている。サービスカウンターには、地元の製菓メーカーと提携したホールケーキも用意されていた。

 それだけではない。店内の一角には、お正月用品の鏡餅やしめ飾りなどのコーナーもできている。小売業界は今まさに、歳末商戦の真っただ中に突入しているのだ。

 優花が店内の様子を眺めているとき、ふと、見覚えのない女性がいることに気が付いた。サンシャインマートの制服を着ているので、社内の人間には違いない。優花の視線に気づいたのかどうか、その女性はこちらにくるりと向きを変え、きびきびとした歩き方で近づいてきた。

 隣にいた盛田真由美が、うやうやしくお辞儀をしてあいさつをした。

「おはようございます、部長」

 あわてて優花も頭を下げた。

「おはようございます」

 その見知らぬ女性――盛田は部長と言った――は、細身で化粧の濃い中年女であった。もしかしたら盛田と同じくらいの年齢かもしれないが、明るすぎる口紅が逆に老けて見える。

「おはよう、盛田さん。そこの若い子は、新人さんかしら」

「そうです。筒井優花さんといいます」

 その部長であるらしい女性は、値踏みをするように、じろじろと優花を見た。盛田の言葉には返事もせず、不機嫌そうな様子で女は言った。

「あなた、ちゃんと服装マニュアル確認してる? 派手なヘアアクセサリーは禁止、色付きマニキュアも禁止。髪はきちんとまとめること。その顔の横に垂らした長い髪の毛は何です? この店は、エーケーベーなんとかじゃありません」

 一瞬、何事かと呆然としてしまった優花だが、はっと我に返り頭を下げた。

「はい、すみませんでした」

 女はさらに続けた。

「まあ、盛田さんや、ここの店長は優しいから何も言わないかもしれないけど。他では通用しませんからね」

 そう言って、女はつんけんした様子で、バックヤードのほうへ歩いて行ってしまった。

 じゅうぶん距離が開いたところで、盛田が優花にささやいた。


「あれ、北野専務の妹なの。北野美智子っていって、部長だからっていつも威張ってるのよ。特に、若い女の子には何か言わなきゃ気が済まないのね。何が服装マニュアルよ、自分の濃い化粧のほうが、よほど規則違反だわ」

 盛田が人に悪態をつくのは珍しい。どうやら、美智子がよほど嫌いらしい。

 レジの金銭補充のため訪れた後藤香織の話によると、北野美智子は、きょうの午前中いっぱいは茅場町店内にいるということだ。繁忙のための応援要員であるらしい。

 それを聞いた途端、盛田は落胆した様子で、大きなため息をついた。

「はーあ。あの人がいると思うと、仕事がつまんないわ」

 盛田にも苦手な相手がいるのだな、と、優花は少し意外な気持ちで聞いていた。しかし、優花もこの後、美智子の真の恐ろしさを知ることになるのだった。


「うぇー、美智子部長来てるんッスか、なんでまた」

 開店前のバックヤードにて、マグロの興奮冷めやらぬ柿崎と、商品を積んだ台車を押していた二階堂麻衣が出くわした。しばしの立ち話をしている間にも、二人の息は白くなっていた。建物内といえども、商品の運搬に使用する通路には寒風が吹き込んできて、防寒着なしでは凍えそうである。

 露骨に嫌そうな顔をしている柿崎に、麻衣が言った。

「ほら、このまえ、うちの店が全店舗中の一位を獲ったじゃない? そして更に、マグロ買っちゃったじゃない。たぶんだけど、最近龍くんが目立ってきたから、北野兄妹としては面白くないんでしょ」

「つまり、応援とは名目ばかりで、実質的には監視なんスね。あの兄妹、ほんっと、広瀬店長が気に入らないんッスね……」

 二人で大きなため息をついたところで、麻衣が言った。

「なんだか知らないけど、ご機嫌ななめな感じだったわよ。何事も起こらなきゃいいけど」

「マジっすか。勘弁してほしいッスね……」

 せっかくの記念すべきマグロを預けられた日だというのに、柿崎は水を差されたような気分になった。麻衣と別れると、肩を落としてとぼとぼと水産加工室へ向かって歩いた。


(せめて、美智子部長がいなくなってからマグロショーをやりたいッスね)

 そう考えながら歩く柿崎の行く手には、物陰にかくれてきょろきょろしている男の姿があった。龍二である。おそらく美智子部長から逃げ回っているのだろう、と簡単に予想できたが、彼が持ってきたニュースは、柿崎の考えうる範囲では最悪のものだった。

 龍二は、柿崎の姿をみつけると、背を丸めながらこそこそと近寄ってきた。

「柿崎くん、頼みがあるんだよ……」

「な、なんスか」

 片目を閉じて、両手を顔の前で合わせながら、龍二は申し訳なさそうに言った。

「美智子部長がさぁ、マグロ解体ショー見るまでは帰らないって言ってるんだよね……。それでさ、まあ開店直後ってのもあんまり不自然だから、昼前の十時半ごろに、ぱーっと終わらせちゃってくれないかな……」

 柿崎は一瞬で事態を理解した。

 厄介なお局さまに一刻も早くお帰り頂くためにも、解体ショーは手早く済ませてほしいということなのだ。柿崎は、お客様たちが夕方の食卓に刺身を並べることができるように、午後の開催が望ましいと考えていたので、龍二の提案には同意しがたい部分があった。

 すぐには承服できず、黙り込んでしまった柿崎をなだめるように、龍二はひきつった笑みを浮かべながらさらに続けた。

「そ、そうだ。今日のショーが好評だったら、もう一本マグロを発注していいよ。もっと大きいやつ。いまなら年内の納品が間に合うから、大晦日あたりにパーっと派手にやればいいじゃないか、なぁ」

 その条件ならやぶさかではない。

 今朝届いたばかりの魅惑的な魚体を想像して、あれがもう一本……と考えると、思わずにやけそうになる。なんとか顔を引き締めつつ、わざともったいぶって柿崎は答えた。

「……店長がそう言うなら、仕方ないっスね。日曜の午後はどうせ、お客の引きのタイミングが読みにくいですし、午前でも悪くないッスよ」

 柿崎がそう答えた瞬間、龍二の表情がぱっと明るくなった。

「そうかそうか、頼むよ柿崎くん。バーンと盛り上げちゃってくれ」

「その代わり、盛り上がったらおかわりッスよ! 絶対ッスよ」

 ひときわ真剣なまなざしで、最後の確認とばかり念を押す柿崎に、龍二もしっかりとうなずいた。


「約束だ。だから、ショーは確実に成功させてほしい。そしてもうひとつ、美智子部長がなんらかの個人的要求とか無茶な要求とか、ちょっと逆セクハラっぽい要求をしてきても、なるべく笑顔で爽やかに事を荒立てずに、やんわりと乗り切ってくれ! マグロは保証する! 以上だ!」


「えっ、ちょ、何ッスかそれ……」

 言葉の後半のほうを早口にまくし立てると、柿崎の返事を待たずに、龍二は逃げるように駆けていって、あっという間に向こうへ消えてしまった。普段おっとりとした彼からは想像もつかない、素早い退却である。

 あとには、寒風吹き込む通路で立ち尽くす柿崎の姿だけがあった。

(しまった、広瀬店長がトロいと思って油断したッス……)

 もう一匹のマグロの対価は、ショーの成功などではなく、ほんとうは美智子部長の接待であったということだ。龍二にしてやられたという悔しさよりも、柿崎はひとつの疑念にとらわれていた。


(広瀬店長って、本当に皆が噂するように、元負け組の落ちこぼれ社員なんッスかね?)


 確かに、この店に戻ってきて間もない頃の龍二は、ただの野暮ったい自信なさげなおっさんで、店長らしい威厳はまったく感じられなかった。それでも、今にして思えば、あの頃から不思議と皆が団結していたような気がする。龍二を支えていたのは越後谷に間違いなかったが、その時ですら、輪の中心にいたのは龍二ではなかったのか。

 越後谷の急な出向のあとも、この店の売り上げは落ちてはいない。むしろ、おそらく創業以来初の、全店舗中一位という栄光にまで輝いた。翌日の順位がガタ落ちしたのはある意味で順当だったが、それでもトップを獲ったという実績を作ったのは龍二だ。

 それよりもだ。

 店がパラレルワールドなんぞと繋がって、しかも宇宙人なるものもやってきてしまったのに、平然と営業を続けていられるのは何故なのか。この状況で、体調を一切崩すことなく店長の職を続けられるとは、おそらく並みの神経の持ち主ではあるまい。

(もしかして、ひょっとしたら……自分たちはいま、類まれなリーダーのもとで働いてるのかもしれないッスね)


 そう考えながらも、柿崎は水産加工室にて、朝の準備をしながら解体ショーの段取りを進めていた。開店時間が迫るにつれ加工室は忙しくなり、柿崎の部下であるパート従業員の動きも慌ただしくなっていた。

 開店前のバックヤードというのは、平日であれ休日であれ、どんな日でも忙しいものなのだ。

 それを知ってか知らずか――いや、知らないことはありえない。彼女の場合、単に自らの気の向くまま行動しているというだけで、人の迷惑や一般常識などお構いなしであったのだ。

 兄の北野啓吾は策略家だが、妹の美智子は、精神的に幼い永遠のわがまま姫といったところだった。悪気がないところが、むしろ兄より厄介である。

 ともかく、誰からも歓迎されないタイミングで、彼女は水産加工室に現れた。

「お・は・よう。淳くん」

 背後から名前を呼ばれた柿崎は、全身に鳥肌が立つような感覚をおぼえた。とても嫌な予感がするが、無視するわけにもいかない。

「お、おはようございまッス……」

 振り向くと、声の主である美智子部長が、目をギラギラ輝かせながら立っていた。

 加工室にいたパート従業員たちは、部長にあいさつを済ませると、品出しのため逃げるようにフロアに出て行ってしまったり、もはや見なかったものとして目の前の作業に没頭するなどして、ひたすら無視を決め込んだようだった。

 皆、わかっているのである。美智子部長は、イケメンか若い男性社員にしか興味がないということを。

 美智子部長は、不気味に微笑みながら柿崎のそばに歩いてきた。

「お久しぶりね、淳くん。ところで、いくつになったのかしら」

「に、二十八っス」

「まあ、早いものね。新人だった頃は頼りないと思っていたけれど、この腕もすっかりたくましくなったじゃないの」

「え、ええ。おかげさまッス……」

 柿崎に体を密着させ、二の腕を馴れ馴れしくさすってくる美智子部長に対し、柿崎は愛想笑いをするのがやっとだった。もはや、蛇に睨まれた蛙である。

「ねえ、マグロ解体ショーをやるんですってね。ほんとうはわたしね、応援とは単なる口実で、あなたのそれを見に来たのよ。もう本当に楽しみで楽しみでね。うふふ」

「は、はあ、それは光栄ッス」

 ベったりとまとわりついてくる美智子部長を追い払うこともできず、柿崎はただ、時間がはやく過ぎ去ってくれることだけを祈った。

(これを我慢すれば……マグロがもう一本手に入る!)

 柿崎はわざと大きな動作で壁掛けの時計を見た。開店の時刻が迫っているのだ。『忙しいのだから邪魔をしないで頂きたい』というアピールのつもりであったが、美智子部長にはまったく通用しなかった。

「あわてなくても大丈夫よ。わたし、お店の売り場も見てきたけれど、棚にはきれいに品物が並んでいたわよ。ここのパートさんは手際が良いのねぇ、淳くんの指導のおかげかしらね」

 柿崎に寄り添う大年増の女は、そう言って無邪気に笑っていた。

 そんなはずはない、いつもならまだ売り棚はスカスカで、品出しに追われる、一番切羽詰まった時間帯だ――柿崎はそう思ったが、部長の言葉を疑うわけにもいかない。

(こ、こんな日に限って、なぜ仕事が速いんだ!? いつもはもっと時間かかってるだろ!)


 柿崎がにわかに信じられないのも無理はなかった。しかし、この店には、彼がまだ知らないこともあったのだ。

 実はこの日、鮮魚売り場だけでなく、他の売り場でもやたらと品出しが素早かった。

 美智子部長が来店しているという情報は、女性同士のネットワークを通じて、店内の従業員の間に瞬時に広まっていた。女性の仕事に対しては異常に厳しい美智子部長のことだ、ちょっとでも売り場に隙があれば、ひどいお叱りを受けることがわかっているので、皆が意地になって完璧に棚を埋めたのである。

 追いつめられた人間は、瞬間的に高いパフォーマンスを発揮するものだ。


 そんな事情は知らず、売り場の様子が気になって落ち着かない柿崎に、美智子部長はしつこく迫っていた。

「それよりも淳くん、お店にあったアジのお造り、自分ではじめから捌いたの? 大したものだわ。ねえ、わたしにも、やり方を丁寧に教えてくれないかしら?」

「え、ええ、ちょっとだけなら……」

 柿崎はあきらめて、新鮮なアジを一尾とってきてまな板の上に置いた。自分で包丁を入れようとしたとき、美智子部長が甘えた声で言った。

「ううん、そうじゃなくって。わたしが包丁を持つから、後ろから支えて、やり方を教えてほしいのよ」

 美智子部長は、自分で言っておきながら、恥ずかしそうに頬を赤らめた。柿崎はもはや、嫌悪感を表情に出さないように我慢するのが精いっぱいである。

 ここまできたら、魚を一尾おろすまでは退かないだろう。柿崎は、厨房にある包丁のうちで、いちばん扱いやすいいものを選ぶと、部長の手をとって握らせてやった。

 そして、ご要望のとおりに、美智子部長の背後に回り込み、彼女の右手に自分の手を添えた。

(あーあ……どうせなら、清楚な優花ちゃんとか、人妻だけど美人の二階堂さんとかが相手であって欲しかったッス。……いやいや、これもマグロのためッス!)

 たいへん遺憾ではあったが、柿崎は踏ん張って指導をはじめた。

「まずは、尾びれのところのトゲトゲを削ぎ取るッスよ。怪我だけはしないように、気をつけて下さいね」

「あらぁ。淳くんは優しいのね。うれしいわ」

 美智子部長は喜びで体をくねらせた。よそ見をしているためなのか、美智子部長の手元が不安定になっている。不規則にふらつく包丁の刃先を見て、柿崎は恐怖を感じた。


――ああ、頼むから無事に終わってくれ。もう多くは望まない、それだけでいい。


 部長の背後にまわったことで、自分の顔が相手に見えないのが幸いだった。柿崎は冷静さを保つように努めながら、能面のような無表情で手ほどきをした。

 やがて、なんとか一尾のアジをさばき終えた。

 柿崎はその切り身を素早くとりあげた。白髪大根を敷いたトレイに盛り付け、手際よくラップでくるみ、一切無駄のない動作で手提げのレジ袋に入れると、ここ一番の精いっぱいの笑顔を作りながら美智子部長に手渡した。

「お疲れさまでした! ぜひご自身で召し上がってくださいッス! 保冷剤も入れておきましたッス!」

「まぁー、ありがとう!」

 目を輝かせ、笑顔で袋を受け取った美智子部長は、中に入ったアジのお造りをうれしそうに眺めていた。ご丁寧に刻み青ネギを添えて、おろし生姜と醤油の小袋までつけてやったのだから、これで満足して頂きたいものだ。

 彼女の顔色をうかがいつつ、柿崎はおそろおそる切り出した。

「あの……まことに残念なことに、自分、解体ショーの用意があるんで、失礼していいッスかね?」

 美智子部長は、一瞬驚いたように悲しげな表情をしたかと思うと、年甲斐もなく唇をとがらせて、すねたように文句を言った。

「ええー、もっと教えてほしかったのに。……でも、ショーがあるなら仕方ないわね」

 最後の気力をふりしぼり、柿崎はダメ押しの爽やかスマイルをこしらえた。

「すみませんッス! 盛大にやりますから、ぜひ楽しんでいって下さいッス」

「……わかったわ。あとで拝見するわね」

 アジの入ったレジ袋片手に、美智子部長は足取り軽く出て行った。額の変な汗をぬぐいながら、柿崎はそれを見送っていた。

(疲れたッス! そして、もう二度と戻ってこないでほしいッス)

 大きなため息をついて脱力する柿崎に、気を利かせているのか、加工室にいたパート従業員たちはひたすら無言で作業をしていた。『さっきのことは見なかったことにする』という、一種の気遣いなのかもしれない、と柿崎は思った。

(まあ、気を取りなおして、解体ショーの用意をするッス)

 時計を見ると、いつのまにか十時近い時刻になっている。解体ショーは十時半に始めてほしいと言われていたから、もうあまり時間がない。

 柿崎はあわてて道具の準備にかかった。美智子部長のことは、もはや頭から消え失せていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ