2-3 ドッペルゲンガー
十二月の、ある日曜日のことである。
この曜日に接続されるのは第六番並行世界。つまり、十月に起こったあの騒動以来、サンシャインマート茅場町店は、月曜日以外の全ての曜日でパラレルワールドと連結していることになる。
日曜日であるせいか、店内はそれなりに賑わっていた。
サッカー台近くの大窓から見える景色は季節相応で、店にやってくるお客の行動にも変わったところはほとんどない。ここがパラレルワールドとの、いわば汽水域であるということすら、うっかり忘れそうになる。それもそのはず、かなり最近まで、元々の世界であるゼロ番世界とひとつであったのだ。
サービスカウンターに、ひとりの地味な中年女性客がやってきた。古川信江と名乗ったその客は、店長である広瀬龍二への取り次ぎを希望したのち、カウンターの前の椅子に腰かけて、盛田真由美と話していた。
「ところで盛田さん。ちかごろ、わたくしどもには『もうすぐ何かが終わって、新しく始まるのだ』というメッセージが強く感じられるのです。それは個人個人の思いというよりは、もっと、地球上すべての人間の根底にある意識の流れのように思えるのですが……。地球では、近いうちに何かのイベントがありますか」
この中年女性は、宇宙人のフリュカ・メイ・ノヴィエという女の、仮の姿であった。その正体は、銀髪エルフ耳で長身の女性であるので、このスーパーマーケットの中では目立ちすぎてしまうだろう。
盛田は、カウンターに置いてあった卓上カレンダーを指して言った。
「それはおそらく、年越し、というイベントのことでしょうね。ほら、このカレンダーも、もうすぐ終わりです。あと二十日も経たないうちに、新しいものに取り換えなくてはいけませんでしょう」
古川信江の姿をしたフリュカは、疑念のこもった視線でカレンダーを見た。
「ええと、暦の取り換え作業が、それほどの大イベントなのでしょうか?」
盛田は苦笑しながら答えた。
「まあ……そうですか。エルフィンの皆さま方には、行く年を送り、新年をお祝いするという風習がないのですね。暦を交換するのはもちろんですが、地球では、その国ごとにちがったお祝いのやり方があるんですよ。
日本では、家族そろって過ごすのが一般的で、年越しの夜におそばを頂いて健康を願ったり、新年の朝には神社へ参拝したりします。他にも色々……たとえば、ある大きな都市では、新年を迎える瞬間にあわせて、盛大に花火を打ち上げたりもしますよ」
「なるほど……」
興味深そうな様子で聞き入っていたフリュカだったが、日曜の店内は混雑していた。すぐに他のお客がやってきてしまったので、フリュカは邪魔にならないように、カウンターから離れた椅子に移動した。
そこへ、呼び出された龍二がやってきた。
「お待たせしました、フ……古川さま。本日はどうなさいました?」
龍二の顔を見ると、フリュカはにっこりと笑って言った。
「ご無沙汰しております、広瀬店長。実は、時空間トンネルの閉鎖工事の目処がついたのです」
「お、おお、そうでしたか」
周囲の者に聞かれはしないかと、龍二はきょろきょろとあたりを見回した。サービスカウンターにいる盛田や、筒井優花はともかくとして、客にはあまり聞かせたくない。
「あの、出来たら事務所でお話ししません?」
龍二は奥の扉を指してそう提案したが、フリュカは困った顔で答えた。
「それが、わたくしどもは四番世界に属する存在ですので、この世界では、活動範囲が限られます。前にも申し上げましたが、例のゴム紐のような力で引っ張られておりまして、自由に動けるのは、せいぜいこの店の売り場の中くらいなのです」
龍二たちが店の入り口から外に出ようとすると、見えない壁にはじき返されてしまうのと同じように、並行世界の人々も、店内から奥のバックヤードへ侵入しようとすると、はじかれてしまうのだ。『傾斜』に逆らって、並行世界間を自由に移動できるフリュカでさえも、それについては例に漏れないということなのだろう。
「いろいろと不便ですねぇ」
「申し訳ありません。それもこれも、全てトンネル事故のせいなのですが……しかしそれも、もうすぐ収束しそうなんです」
「もうすぐというと?」
「おそらく、この様子だと、あと二か月もかからないかと思います」
フリュカの説明によると、時空間トンネルは、いままでどう頑張っても全く制御できなかったのが、今月に入ってから活動が収まる兆候が見え始めたのだという。作業が順調に進行すれば、まずはトンネルが勝手に機能しないように無力化し、出入り口を閉鎖したのち、二度と悪さをしないように埋め戻す作業をするのだという。
「そうですか、それはご苦労さまです」
「いえいえ、広瀬店長どのこそ、ご苦労さまです。もうしばらくお時間を頂けたら、元通りのご商売ができるようになると思います。その折にはまた、報告に参りますので」
龍二とフリュカは、お互いに頭を下げた。傍からみても、スーパーの店員と常連客がなにやら話し込んでいるだけのようにしか見えない。誰がこれを、宇宙人と被害者の店長が重大な話をしている場面だなどと思うだろうか。
「ああそうだ。うちの柿崎から、これ預かってました。なんでも、無理を言ってお借りしたそうで」
龍二は懐から、地球産のメガネにしかみえない小型装置を取り出した。柿崎ははっきり言わなかったが、時々店に訪れているフリュカに個人的に頼み込んで借りたらしい。実は、試しに龍二もそのメガネをかけてみたのだが、度が入っていないようで、用途がわかりかねた。
感情視覚化アイフィルターという正式名称を知らぬまま、龍二はそれをフリュカに返却した。
「まあ、友好の記念に差し上げてもよろしかったんですが……確かに受け取りました。では、失礼いたします」
龍二は、去っていくフリュカの後姿を見ながら思った。
もし、トンネル工事が終了したら、フリュカとはもう二度と会えないのだろうか……と。元々は、この世界に訪れるはずもなかった宇宙人である。
フリュカだけではない。やっと馴染みになりかけた、並行世界のお客たちとも、二度と会えなくなるのだろうか?
並行世界騒動は厄介なことであったが、そう思うと、龍二は一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
同じ日の夕方のことである。
夕方の混雑もピークを過ぎた頃、筒井優花はその日の仕事を終えた。サービスカウンターから出て、店内通路を抜け、バックヤードへ戻ろうとしていた。
店内を通過するとき――フロア内を制服姿で歩き回っていると、休憩時間であろうが時間外であろうが、お客から呼び止められ、ものを訊ねられることがたびたびあるのだが――そのような種類の視線を感じた。
普段なら、いくら急いでいても立ち止まって対応する優花だったが、自分を見つめる相手の姿を確認したとき、言いようのない恐怖に襲われて、きびすを返し、あろうことか逃げ出してしまったのだ。
バックヤードへ続く扉を走り抜け、それでも不安は消えなかった。
なるべく遠くへ逃げなくてはいけないような気がした。誰もいない女子更衣室へ飛び込んだが、さっき店内で見た人物の姿が、はっきりと脳裏に焼き付いている。
きっと気のせいだ、見間違いだ――そう自分に言い聞かせたが、体の震えが止まらない。
優花は座り込み、膝を抱えて顔を伏せた。並行世界のお客は店内からこちら側へ来ることはできないはず。でも、もしも『彼女』がわたしの後を追ってきて、その更衣室の前で待っていたとしたら……。
そんな、ありもしない想像をしているとき、かちりとノブが回る音がした。
扉が開き、中に入ってきたのは、白衣姿の星野彩であった。どうやら、今日の仕事が終わったところのようだ。星野は、壁際でうずくまっている優花をみつけると、心配そうな顔をして近寄ってきた。
「ねえ……優花ちゃんよね? どうした? 具合わるい?」
優花はおそるおそる顔を上げると、泣きそうな表情で答えた。
「星野さん……どうしよう、わたし、見ちゃったかもしれないんです」
はじめ星野は、優花の言っている意味がまったく理解できなかった。しかし、きょうは日曜日。元の世界といちばん近いと言われている、第六世界の日。店内で見たもので、恐ろしいものといったら――。
真っ青な顔をして震えている優花の肩をさすりながら、星野は言った。
「優花ちゃん、大丈夫だよ。あんな噂、きっとデタラメだよ」
「そう……かなあ」
「そうだよ。ほら、しっかりしなよ!」
星野のなぐさめの言葉は、結局のところ優花にとって気休めにもならなかった。星野は心配して、優花を車で自宅まで送ってくれたのだが、その後も、考えるのは店内で遭遇した『彼女』のことばかりだった。
「うーん、困った困った、困ったなぁ~」
翌日の朝、月曜日の事務室で、龍二はつぶやいていた。
「どうかしましたか」
デスクで伝票整理をしていた後藤香織が、いかにも社交辞令的な返事をした。真面目な仕事人間である彼女にしてみれば、勤務時間中に無駄口の多い龍二の相手をするのは不本意なのだ。
「最近、日曜に休みがほしいって申請がやけに多いんだよ。それも、よりによってレジチェッカーや品出し担当に多いんだ。これぜんぶ承認したら、フロアの人数が足りなくなっちゃうんだよな……」
休暇申請書の束を指ではじきながら、龍二はぶつぶつ言っていた。後藤は返事をしなかった。
「こんな時には、接客神の盛田さんに相談してみようか――って、今日はシフトが休みか、あ~困ったなぁ」
後藤はその問題に関わるつもりはなかったのだが、このまま龍二が自分の背後でしきりに唸ったり、頭をがりがりと掻いたりしていては、仕事に集中できない。そろそろ種明かしをしてやることにした。
「店長、もしや、この店の『日曜日』に関する噂、ご存じありませんね?」
「なんだそれ」
「まあ、わたしは正直、眉唾ものだと思っていますから、わたしが信じているわけではない、とご承知のうえでお聞きいただきたいのですが――」
後藤の妙なプライドがそうさせるのか、勿体ぶった前置きをしている間に、事務室の扉が開いて、柿崎淳が血相を変えて飛び込んできた。
「店長! 大変っス、サービスカウンターで筒井さんが倒れました」
「なんだって」
龍二はあわてて椅子から立ち上がった。
「いま、二階堂チーフが付き添っています。店長も来て下さい」
事務室から飛び出していった二人の後ろ姿を、後藤は心配そうに見送っていた。
まもなくして、麻衣に支えられた優花は、休憩室へ連れられていった。
本人の意識はしっかりしており、いちおうは自力で歩けるようで、どこも痛くも苦しくもないということだ。サービスカウンターでの接客中に、目が回ってしゃがみこんでしまったというから、おそらく貧血か立ちくらみであろう。優花のそばには、事務員の後藤が付き添うことになった。
龍二は優花のことが心配ではあったが、いちおう自分は独身男性であるので、看護を後藤に任せたというわけだ。それでも、そわそわと落ち着かず、休憩室のすぐ外から、ときどき様子を伺ってしまう。
しばらくして、部屋から後藤だけが出てきて龍二に言った。
「店長、ちょっといいですか。エルフィンのフリュカさんと、連絡をとることはできないでしょうか」
龍二は首を傾げた。
「どういうことなんだ」
筒井優花は、思いのほかしっかりした足取りで、休憩室から出てきた。それでもまだ顔は青白い。事務室にやってきた彼女は、椅子に腰かけ、後藤に差し出された暖かいお茶を飲んで、やっと少し落ち着いた様子だ。
「どうしたんだ。体の調子がよくないのなら、無理せず帰宅していいんだぞ」
龍二は、なるべく優しい口調を心がけて優花にたずねた。
優花はしばらくためらっていたが、おずおずと口を開いた。
「……すみません。恥ずかしい話なんですが、昨夜はほとんど眠れなくて、ご飯も食べていなくて……。たぶん、そのせいだと思います」
これが男性社員の口から出た台詞だったとしたら、自己管理がなっていないと苦言のひとつも言いたくなるところだが、青ざめた顔ですっかりしょげた様子の優花を前にしては、そのような気持ちも起こらなかった。
「そうなのか。心配ごとでもあるのかな? ……ああ、男のおれには言いにくいことかな……」
気を回し過ぎて、むしろ余計なことを言ってしまったかと、龍二は後藤に助けを求めるように視線を送ったが、後藤は黙って首を横に振っている。
優花はそれを見て、やっと意を決したように口を開いた。
「後藤さん……すみません。正直に言います。わたし、見たんです。きのうの日曜日、もう一人の自分を」
龍二は知らなかったが、パラレルワールドとの接続周期が明らかになって以来、この茅場町店内では、不気味な噂が流れていたのだ。優花はか細い声で話し続けた。
「あの、店長はドッペルゲンガーって知ってますか? 世の中には、自分と同じ人間がいて、それを見ると近いうちに死んでしまうっていう。それとおなじで、並行世界のもう一人の自分と出会ってしまったら、死ぬとか、片方が消滅するんだとかいう噂があって……」
茅場町店から観測できる並行世界は、現在のところ全部で六つ。
それぞれの世界は、枝分かれした時期が異なっている。たとえば、インデペンデンス寿司を売った土曜日は、三百年前、エルフィンが地球へ初めて到達した直後に分離したとされている。
毎週日曜日に現れる、龍二たちが六番世界と呼んでいる世界は、わかっている範囲では一番最近まで一緒だった世界で、どうやら二十年程度前に分裂を開始したらしい。
今年三十八歳になった龍二にしてみれば、ついこのあいだの話だ。現時点で二十歳を過ぎている者にとっては、自分と同じ人間が六番世界に存在する可能性が極めて高いことになる。
すなわち、日曜日のサンシャインマート茅場町店に、もう一人の自分が、お客として来店してもおかしくないということだ。
「後藤さん、その噂知ってたの?」
龍二がたずねると、後藤はうなずきながら答えた。
「おそらく、大半の従業員の間に広まっています。
でも、逆の話も聞きましたよ。サービスカウンターの盛田さん、いつだったか、自分と同じ人間にばったり会ったそうです。それはもう瓜二つだったと。結局、普通に世間話をして、お互いのご主人の悪口でたいそう盛り上がったんだと言って、大笑いしていましたね」
龍二にとっては、色んな意味でいいんだか悪いんだかわからない情報である。第一、あの肝のすわった盛田真由美であれば、消滅するかどうかはともかく、ショックで死んだりとかしないことは保証できる。
優花は、申し訳なさそうに言った。
「わたしはきのうの夕方、自分に似た人を、店内で見かけたんです。ちらっと見ただけなんですが、向こうのほうはわたしに気づいたのか、こちらに向かってきたんです。わたし、怖くて、走って逃げてしまって……。
あの、こんなくだらないことで、すみません。でも不安でたまらなくて、夜眠れなくて、ご飯も食べられなくて……。それで、頭がふらふらしてしまっただけなんです」
「ふーむ」
これについて、龍二ははっきりとした回答を持ち合わせていない。
しかし、ひとつわかったことがあった。日曜に休暇の申請が増えているのは、この噂のせいなのだ。まだ若い優花が惑わされるのは仕方がないかもしれないが、けっこういい歳のご婦人方までが怯えてしまっているのは困ったことだ。
日曜日は、並行世界のお客が相手とはいえ、休日なので比較的忙しい。そんなときに休暇の希望が集中してしまっては、今後の業務に影響しそうだ。それに、優花のように心配しすぎて体調を崩す者まで出てしまった。
「よし、フリュカさんに訊ねてみよう。噂の真偽をはっきりさせなきゃな」
龍二はスマートフォンを取り出し、フリュカあてのメールを打ち込み送信した。しかし、あれこれ忙しいフリュカからの返信はすぐに来るわけでもなかった。
待っている間、筒井優花をどうしようかと龍二は考えたが、そこで、優花が抜けたサービスカウンターが、がら空きになっていることを思いだした。フロアの人員に余裕はない。龍二は自分が行くしかないと思った。
「筒井さんは、一時間ほど休憩していいよ。なんなら、無理せず帰宅してもいいからね。――後藤さん、おれはサービスカウンターに入るから、筒井さんのこと頼むよ。スマホに返信がきたら、おれの代わりに見ておいてくれ」
「わかりました」
龍二は、二人を残して事務室を出た。通路で麻衣とすれ違ったので、優花のために軽食と飲み物を用意してやるように頼んだ。そして、サービスカウンターへ向かって歩いていった。
月曜日の店内は、どことなく懐かしい雰囲気に満たされていた。なにしろ、週にたった一度の通常営業である。なじみのお客が多く訪れていて、平日とは思えない賑わいをみせていた。売り場の通路では、久しぶりに訪れた常連客が、顔見知りの従業員とうれしそうに話し込んでいる様子も見られた。
カウンターに入ってしばらくすると、誰かが龍二を呼ぶ声がした。
「龍、おまえ、広瀬龍二だろう」
誰かと思ってみると、どこかで見たような爺さんである。龍二がおぼろげな記憶をたどるより早く、その年配の男はおのれを指さしながら言った。
「鵜飼だよ鵜飼。茅場小の」
「あ……ああー! ハゲ鵜飼……先生」
「そうそう、ハゲ鵜飼、って、ハゲは余計だ」
その男、鵜飼巌は、龍二が小学校のときの担任教師であった。龍二たちが卒業した数年後に定年を迎えたと聞いていた。すると、現在は八十歳を過ぎていることになる。
たしか、同窓会でかなり前に一度会ったきりだ。
頭髪が薄いのは相変わらずだったが、そのわずかに残る毛はすっかり白くなっていた。背丈も小さくなったような気がする。それは龍二のほうが成長したせいなのかもしれない。足を悪くしたのか杖をついていたが、顔色は良く声にも張りがあり、いたって元気そうであった。
「先生、よくおれがわかりましたね」
「龍はぜんぜん変わっとらんからな。東京の大学に行ったと聞いてたが、こっちに戻っていたのかね」
「お恥ずかしいことに、あっちではいい仕事にありつけませんで……」
龍二は頭をかきながらそう答えたが、若いころは失敗ばかりで、実際のところはそんな一言で済む話ではなかった。浪人と留年を繰り返し、両親に迷惑と心配をかけた末、都会にもなじめずに地元に帰ってきて、ようやく父の紹介で職についたころには、すっかり年増になっていたのだから。
「ふーん。嫁さんはもらったのかい」
「いえ、それがまだ」
「はぁー。おまえは子供の頃から、のんびり屋だったからなぁ」
鵜飼巌はあきれたようなため息をついた。
そのあと、鵜飼は買い物かごを持って店内を一回りし、また龍二のところへ戻ってきて、会計を済ませていった。大好物だというメバチマグロの刺身を指さし、これで一杯やるのが楽しみなんだと言って笑っていた。
立ち去ろうとする鵜飼の背中に、どこか寂しさを感じた龍二は、あることに気づいた。
マグロの刺身は、小分けパックのきっちり一人前ぶん。他に買っていたのは、惣菜のおひたしとから揚げの、いずれも少量パック。缶ビールがひとつ、それと、インスタント味噌汁に、ごみ出し用のビニール袋、洗濯用洗剤。
まるで、単身赴任か、独身男の買い物かごだ。
龍二の記憶では、担任だった頃の鵜飼には奥さんがいたと思う。
まあ、鵜飼が八十を過ぎていることを考えると、もしかしたら奥さんは他界してしまったのかもしれない。いちども結婚したことのない龍二には、連れ合いを失った寂しさを想像することは難しかった。
(いや、たまたま奥さんが留守ってだけかもしれないし……。勝手な決めつけはよくないな)
うっかり仕事中にしんみりとした気持ちになりそうだったとき、カウンターの上に灰色のものがあることに気が付いた。龍二が拾い上げてみると、それは男物の手袋であった。そういえば、さっき鵜飼が財布から千円札を出そうとして、手袋を外していたのを思い出した。
龍二はすぐに店の外に駆けだして、鵜飼の姿を探した。
手袋の持ち主はすでにいなかった。屋外は晴れていて、十二月のこの時期にしては暖かい日差しが感じられる。この気温では、手袋を忘れたことにすぐには気づかないで、とっくに家に帰りついてしまったのかもしれない。
龍二はあきらめて、サービスカウンターに戻ってきた。そして、灰色の手袋に『鵜飼巌先生・月曜日』と書いたメモをくっつけて、忘れ物入れのカゴに入れた。これで、自分以外の者が見てもすぐにわかるだろう。
この世界のお客が来られるのは月曜日だけだ。次のご来店は、おそらく一週間後であろう。
しばらく経って、内線電話の呼び出し音が鳴った。
『店長、後藤です。フリュカさんから返信がありました。結論としては、もう一人の自分に会っても、死んだりといった危険なことはないそうです』
「まあ……そりゃそうだろうな。わかった、ありがとう」
世の中に自分とおなじ人間がもう一人いると思うと、たしかに奇妙な感じはする。しかし、世界がもうひとつあるという前提ならむしろ当然のことであり、同じ個人同士がうっかり遭遇してしまったからといって、死ぬだとかという理屈は逆におかしい。
後藤からの報告があってまもなく、優花がサービスカウンターに戻ってきた。
「店長、ご迷惑をおかけしました。もうだいじょうぶです」
そう言って優花はぺこりと頭を下げた。血色を失っていた頬には赤みが戻り、表情もおだやかになっていた。
優花と交代して、龍二は事務室へ戻ってきた。そして、スマートフォンを手に取り、フリュカからの返信内容を確認した。
『おたずねの件について、並行世界間で同一人物同士が接触しても、まったく危険はございません。
例えばこうは考えられませんか? あなたには実は双子のきょうだいが存在していましたが、赤ん坊のうちに離れ離れになり、それぞれが別の土地で育ちました。その、自分自身の片割れと数十年ぶりに再会したからといって、どちらかが消えたり死亡したりはしませんよね?』
画面を見ながらひとりで頷いている龍二を見て、後藤が言った。
「ああ、その返信、筒井さんにも直接見せましたが、彼女、むしろ残念そうにしていましたよ」
「なんでまた?」
「姉妹同然の人と偶然会えたんだから、むしろ何かお話でもしておけば良かった、だそうです」
龍二は思わず吹きだした。
――若い女の子は、ひとつ心配ごとが解決したと思えば、また次の何かに落ち込むものなんだな。
「あまりにもしょんぼりしていて気の毒だったので、また次の日曜に会えるわよ、って励ましておきましたが」
「はは、そうなるといいな」
後藤の話によると、優花は麻衣からもらったおにぎりを食べて、ミルクティーをすっかり飲んでからフロアに出たのだという。あとは、不吉な噂はでたらめであるという情報が社内に広まってくれれば、従業員たちの混乱もおさまるだろう。
安堵の息をついた龍二のもとに、後藤が自分のスマートフォンを片手に近寄ってきた。
「実はさきほど、筒井さんを元気づけようと思って、盛田さんから画像を送信してもらったんです。――ほら、盛田さん、もう一人の自分に会って話したって言ってましたよね? そのとき、出会った記念に二人で撮影したんだそうですよ」
龍二がスマートフォンの画面をのぞき込むと、そこには、満面の笑みでピースサインを出している盛田真由美が、二人並んで写っていた。
その件以降、日曜に休暇の申請をする者は大幅に減った。
龍二は、ある日曜日に一度だけ、店内で自分に似た背格好の男を見たような気がしたが、人混みにまぎれて、すぐに見失ってしまった。それ以来一度も、もう一人の自分を見ることはなかった。




