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パラレルワールド繁盛記  作者: ゆきの鳥
後編 シー・ユー・アゲイン
14/24

2-2 頂点を狙う

「龍くん、そいつは悪魔よ! 誘惑に負けちゃダメよ!」


 惣菜部門のバックヤード、その調理場の前の通路に、二階堂麻衣の力強い声が響いていた。

「う、うむ……しかし」

 うんうん唸りながら、龍二は悩んでいた。決断がにぶいのは、昔からの悪い癖だった。

「いやいや店長。こんなチャンス、めったにないッスよ! 悪い取引じゃありませんって」

 煮え切らない龍二を焚き付けようと頑張っているのは、水産チーフの柿崎淳だ。

「ま、待ってくれ、おれにも覚悟ってものが」

 ぐずぐずと決断できずにいる龍二の両側に、麻衣と柿崎がいて、二人がそれぞれ龍二を引っ張り合うように反対の主張をしているのだ。


「それだけは……柿崎くんとの取引だけはしてはいけないって、お代官の最後の言葉だったじゃない! それに、チャンスならきっと、まだあるわよ!」

「人を詐欺師みたいに言わないでくださいよ。よく言うじゃないッスか、チャンスの女神さまには前髪しかない、って。これを逃す理由はないと思います」


 龍二は苦しい決断を迫られていた。目の前には甘い果実。採って食べるようにそそのかすのは柿崎で、それをしたら破滅だと諭す麻衣。

 やはり、冒険はするまい。麻衣とお代官を信じよう――龍二が、その意思を固めようとしたときだった。調理場から、白衣にエプロン姿のパート従業員、星野彩が飛び出してきた。

「店長、お姉さま方がいまや遅しと待っておられます! 一刻もはやくご決断を!」

 星野彩の言葉を聞いて、龍二は思い出した。調理場には、『惣菜タイガース』という気性の荒い四頭のメス虎たちが待っているということを。このまま麻衣の言葉に従っていては、甘い果実を逃した上に、獰猛な虎たちの餌食となってしまうだろう。

 龍二の良心は、もはや風前の灯であった。

 そもそも、どうしてこんなことになったのか。事の発端は、数時間前にさかのぼる。



 十二月上旬の、ある土曜日の朝のこと。

 開店前の事務室で、後藤香織が昨日までの売り上げデータをプリントアウトしている時だった。

 全店舗の売り上げデータを比較した紙を見ながら、龍二は思わず感嘆の声をあげた。

「昨日の売り上げトップ、城東店か!」

 龍二が驚いたのにも無理はない。城東店は、越後谷が急きょ店長代理に入った店舗であり、今までは売上二位か三位あたりが定位置だった。

「さすがはお代官ですね。不動の一位といわれる中央店を抜くなんて」

 後藤もデータを見ながら、感心したように言った。

 それはほんの僅差で、明日にはまたひっくり返されるかもしれなかったが、一位は一位だ。今ごろ城東店の従業員たちは、輝かしい成績に湧き立っていることだろう。

 龍二は、この店に配属されて四年になるという後藤にたずねた。

「後藤さん、うち――茅場町かやばちょう店は、日別トップとったことないの?」

 しばし考えてから後藤は答えた。

「わたしが知っている限りでは、ありませんね……。普段は、三位か四位ですし……かなり売れた時でも、せいぜい二位だったと思います」

 そこまでは、龍二もなんとなく予想していた返答だった。しかし、後に続いた彼女の言葉が、この店の一日を変えることになる。


「たった一回でも一位を取れたら、茅場町店の皆さんの意識も変わるかもしれませんが……」


 会社専属の事務センターに所属している後藤と、正社員である龍二は、県内に九つある各店舗を転々としてきた。龍二は売り上げトップ常連の中央店で働いたこともあるし、逆にもっと小規模の店で仕事をしたこともある。やはり、競り合う相手がいなかったり、トップなど取れないとあきらめている店は、いざというときの一押しがなく、結果的には売り上げが伸びない傾向にあった。

 つまり、売り上げ一位を狙うことができる店舗と、まったく見込みがない店舗とでは、従業員のモチベーションが大きく違うのだ。


「後藤さんの言う通りだよ。……今日あたり、うまくいけば一位を狙えないかな?」


 今日は土曜日。店の入り口は、第五番並行世界と接続されている。

 この第五番世界は、三百年前にエルフィンにいちど支配され、その後の独立運動により、平和的に自由を勝ち取ったという経緯がある。居住環境自体は龍二たちの世界と似ていた。

 龍二と後藤のふたりは、ホワイトボードに貼りついている十二月の販売計画書を見た。上旬の土曜日――まさに、きょうこの日の欄には「独立記念日」と書いてある。

 第五世界において、十二月の第一週は、一週間とおして祝日ムードなのだそうだ。住民たちはこの期間、家族や親しい友人同士で集まっては宴会を開き、自由をたたえ乾杯し、ご馳走を食べてお祝いするのだ。

 そこで、龍二はきょうこの日に、勝負に出ることにしたのだ。

 お祝いといえば豪華な食事。オードブルや刺身、ローストビーフ、フルーツの盛り合わせなどなど、高級食材とアルコール飲料はふんだんに用意してあった。まさにクリスマス並みの高級食品アイテムを揃え、きょうの日に備えていたのだ。


「後藤さん、どうだろう。この戦略がハマれば、今日こそトップとれないかな」

 頬杖をつき、楽観的に話す龍二に対し、後藤は固い表情のまま答えた。

「……正直に申しますと、一位はさすがに厳しいと思いますよ……。トップ常連の中央店は、元から売り場の規模が違いますし、お代官のいる城東店もいまや強敵ですから。奇跡が起こらない限り、望みは薄いかと」

「うーん、やっぱりそうかなあ」

 落胆してため息をついてしまったが、頑張れば二位はいけるかもしれないのだ。龍二はよいしょっと掛け声をかけながら椅子から立ち上がり、従業員たちを激励するために、バックヤードの巡回に出ることにした。


 龍二はまず、通路に麻衣の姿を見つけたので、声をかけた。

 彼女は、ビールやワイン、日本酒などを集中的に売り込むため、品出し担当者との打ち合わせを念入りに行っているところだった。むろん、麻衣自らもやる気じゅうぶんで、率先して重たい飲料を運搬している。華奢な体型に似合わず、腕力があるらしい。ここは心配しなくても良さそうだ。

 水産部門の柿崎は、色とりどりに盛り付けられた刺身の船盛りを、棚の目立つところにディスプレイしていた。そのほかにも、海老や蟹、尾頭付きの鯛といった、豪華な海の幸がぎっしり並べられていた。

 精肉売り場には、ステーキ肉やスペアリブ、青果売り場にはカットフルーツなど、どこの売り場も抜かりなく、ご馳走メニュー向けの品ぞろえがされていた。

 そして、店内を見回った最後に、龍二は、惣菜売り場へ向かった。この日のため、特別に企画した商品があるのだ。

 独立記念日限定の高価格商品――「インデペンデンス寿司」と名付けられたパック寿司が、コーナーのかなり大きな面積をとり陳列されている。きょうはこれを、店内製造で大量販売するという目論見を立てていたのだ。

 調理場を覗き込むと、パート従業員たちの手によって、インデペンデンス寿司の製造が急ピッチで進められている様子が見えた。この勢いなら、品切れの心配もないだろう。

 準備万端だ。開店の時刻を伝える店内アナウンスを聞きながら、龍二は安心して事務室へ戻っていった。


 最初のパラレルワールド騒動が起こってから、二か月が経過しようとしていた。

 サンシャインマート茅場町店は、パラレルワールドの住民たちにも徐々に認知され、受け入れられていった。龍二をはじめとしたリーダー社員たちが、販売動向を予測し、顧客の需要に応えてきたこともその一因ではあったが、従業員たちの地道な努力が実を結びつつあるというのが事実だろう。

 この日も、店は開店直後から賑わいをみせていた。しかし、騒動が起こる前の、ごく普通の土曜日の店内と比べると、お客はやや少ないと言わざるを得なかった。


 午前中の早い時間帯から、インデペンデンス寿司は快調なペースで売れ続けた。

 惣菜部門の調理場は、まるで盆と正月がいっぺんに来たような、たいへんな忙しさになった。これでも、シフトを調整し、稼働できる人数のほぼ上限いっぱいまで人を出しているのだ。

 星野彩が、品出しのために調理場から売り場フロアへ出ると、惣菜売り場の前にお客が集まっているのがひと目で分かった。

 売り棚を見ると、開店直前には大量に並んでいたインデペンデンス寿司が、ごっそり減っている。普段ならそうそう売れない高額商品だ。星野は自分の目を疑ったが、いま自分が持ってきて並べたばかりの寿司も、お客がすぐに二個、三個と手に取ってカゴに入れるのを見て、ただならぬ事態だと確信した。

 

 急いで調理場へ戻った星野は、小泉和子へ報告した。

「小泉さん、売り場のインデペンデンスが残り少ないです」

「まあ! あんなに高いお寿司がよく売れること。船橋さんと篠崎さんも、他の商品はいいから、インデペンデンスの作成にかかってちょうだい。星野さんは、寿司のネタをもっとたくさん持ってきてちょうだい」

 惣菜部門の最年長パート職員、小泉和子は、手元の包丁の動きを一切止めることなく皆に指示を出した。彼女はとっくに定年を迎えていたものの、その頭脳と腕前がいまだ冴えわたっていることから、延長雇用されていた。

 そんな小泉の指示に機敏に反応し、一切滞ることなく作業を進めているのは、惣菜部門の中核をなすユニット『惣菜タイガース』であった。最年長の小泉を筆頭に、偶然にも、一回りずつ年齢のちがう寅年生まれの従業員が四人そろっているのだ。

 そして、猛獣のような闘志を秘めた女傑揃いのチームでもある。つまり、能力とやる気は充分だが気性が荒い。

 一見、人当たりの良さそうな星野彩でさえ、ひとたび牙をむくと誰も手が付けられない、と噂されている。彼女はタイガースの中でも最も若い末娘として活躍していた。

 そんな惣菜担当者たちの作業が遅いはずはなかったのだが、いくら店頭に品物を並べても、すぐに棚が空いてしまうという状況は、現場に焦りを生んでいた。それは、事務所で売り上げデータを眺めて喜んでいた龍二が、まだ知らないことだった。

 

 午前十一時を過ぎた頃。

 POSシステムで売り上げの推移を見ていた後藤が驚いて声をあげた。

「店長、すごいですよ。現時点で城東店を抜いて、全店舗中二位につけています」

 後藤がディスプレイに見入っている一方で、龍二はしたり顔で言った。

「そうだろ。城東はきのう、無理して一位を獲ったんだろうと読んでいたよ。今日はきっと、その反動で売上が伸びないんだ」

「となると、敵は中央店だけですが……」

 売り場面積で劣る茅場町店が、勝てるわけがない。後藤はそう思いながらも口に出せず、言いよどんでいた。

「よし、今日はいけるぞ! 後藤さん、このまま勢いをつけて、一位を狙おうじゃないか」

「え、あの……。店長、しかしですね」

「後藤さん、弱気になることないって! 今日が勝負どころなんだよ! よし、水産と畜産はもっと頑張れそうだな、ちょっと気合いを入れに行ってくる!」

 めずらしく上機嫌で、しかも強気の龍二に対し水を差すようで、後藤が言えなかったことがあった。売上高の割には、客数が伸びていないのだ。それを知ってか知らずか、龍二は張り切って事務室を出て行ってしまった。

 後藤はため息をつきながら、ふと、テーブルの上を見ると、新聞の折り込み広告が目に止まった。無造作に広げて置いてある。そういえば今朝はやく、龍二がなにか熱心に読んでいたのを思い出した。きっとこれなのだ。後藤はそれを手に取ると、思わず声に出して読んでしまった。


「クオリティーライフ全店舗、お客様大感謝祭、一斉大売出し……?」


 それは、県内に八店舗を展開中の、ライバルチェーン店の広告だった。普段よりもかなり大きな紙に刷られており、紙面も派手。売り出しの日はまさに今日だ。これは不意打ちである。

 後藤は、龍二が強気だった理由が分かった気がした。

 競合店が大売出しをすると、当然ながらお客を奪われる。相対的にサンシャインマート全体の売上が低調に終わる。ふつうであれば、茅場町店も等しくその影響を受けるので、店舗別の売り上げ順位に大きな変動はない。

 しかし、現在の茅場町店は、パラレルワールドに接続されているために、そのマイナスの影響を受けない。つまり、今日に限っては、茅場町店が単独浮上する可能性があるということなのだ。

「それで、店長は強気だったんだわ……」

 納得した一方で、後藤には客数が伸びていないことが気がかりだった。やはり、所詮は馴染みのない別世界の店ということか。

 午後からでも客数が伸びてくれれば、望みがあるかもしれない。後藤は、祈るような気持ちでディスプレイをのぞき込んでいた。


 十三時を過ぎた。

 茅場町店の日別の売り上げ順位は、依然として二位をキープしていた。

 龍二は事務室で昼食をとっていた。店内で購入したカツ丼を食べながら、POSシステムで売上の内訳を見ていた。ご馳走メニューが売れているためか、客単価は高かった。しかし、客数はいまだに伸びてこない。

 この日のために開発したレシピは、豪華海鮮船盛やカットフルーツセットなどがあったが、大きく伸びて売り上げを稼いでいるのは、やはりインデペンデンス寿司だ。販売個数は、龍二が見込んだ一日ぶんの数量に、もはや届きそうである。

 いまは、午前中の混雑のピークを過ぎて、店内は比較的落ち着いている。しかし、あと二時間半もすると、午後の客の波がやってくるだろう。あまりゆっくりもしていられない。

(売り場や、バックヤードの各部門は大丈夫だろうか? 態勢を整えるなら今しかないな)

 龍二は急いで弁当をかきこみ、お茶で喉に流し込んだ。

 立ち上がり事務室を出ようとした時、目の前の扉が勢いよく開いた。白衣にエプロン姿の生鮮部門従業員、星野彩が、息を切らして飛び込んできたのだ。

「広瀬店長! 大変です、インデペンデンス寿司が――」


 龍二は惣菜調理場へ向かいつつ、星野から状況を説明してもらっていた。

「寿司ネタがなくなりそうなんです。もう、とっくに予定個数をオーバーして作成し続けていますので」

 白帽子とマスクの間からのぞく星野の眼差しには焦りが見え、事態の深刻さを示していた。

「足りないネタはなんだ?」

「タイとカンパチが在庫わずかです。このままだと、あと一時間も経たないうちにネタ切れです。中トロと、ウニ、イクラも少なくなっています」

(それはまずい、高級ネタがほとんど枯渇してるってことじゃないか……!)


 龍二は、おそるおそる調理場を覗きこんだ。

『惣菜タイガース』の、星野を除く三人が、張り詰めた空気の中でインデペンデンス寿司を作り続けている。朝から製造に追われているせいか、皆、気が立っているようだ。店長の龍二といえども、声をかけるのもはばかられる。

 調理場に踏み込むことができず、立ちすくんでいる龍二に、星野が小声で言った。

「店長、インデペンデンスの販売目標個数はとうに越えていますし、以降は高級寿司ネタが不要な、安価レギュラー品に切り替えて作成するというのは?」

 星野の提案は妥当なものだと思われた。

 しかし、龍二は納得できなかった。なにしろ今日は違うのだ。もうひと押しで全店舗中の売り上げ一位が獲れそうなのだ。こんなチャンスはめったにないし、一度でもトップに輝いた事実を作ってしまえば、従業員の士気も高まる。

「すまん、少し時間をくれ。とりあえず、インデペンデンス寿司を作り続けていてくれ」

 星野にそう指示をすると、龍二は調理場を離れ、下を向き考え込みながら通路へ出た。作れば売れるのがわかっているのに作れないことが悔しくて、自らの読みの甘さを呪っていた。

 ちょうどそこへ、麻衣が酒類を積んだカートを押してやってきた。麻衣は前方の人影に気が付いていたが、重量物を積載した台車を急に止めることができず、考え事をしていた龍二はあやうく撥ねられそうになった。

「ちょっ――どうしたの龍くん、深刻な顔して」

「ん? ……ああ、二階堂さん、実はね」

 事故寸前だったことも気づいていない様子の龍二に、麻衣はただ事ではないと感じとっていた。

「もう少しで販売金額一位がとれそうなのに、寿司ネタが切れそうなんだ」


 龍二から詳しい事情を聞いてみれば、そんなに悩む話でもない、と麻衣は思った。

 星野彩の言うように、普段どおりのラインナップに切り替えればよいだけの話だ。インデペンデンス寿司の販売目標数は、とっくに達成しているのだから。それに、悩んだところで、どこからか寿司ネタが湧いて出てくるわけでもないのだし、今からでは発注も間に合わないし……。

 そう言おうとして、麻衣は嫌な予感に襲われた。

 龍二が悩んでいるということは、彼にはある選択肢が思い浮かんでいるということだ。それだけは阻止しなくては。とにかく、この話があの男に伝わらないよう、注意しなくては――。


「おやおや! 何ッスか? 寿司ネタが足りない、とか聞こえた気がしますが」


 時すでに遅し。

 麻衣の背後に、お調子者の悪魔が立っていた。水産部門チーフの柿崎である。

「店長、まさか我々の水産部門をお忘れじゃないッスよね? こっちも刺身にしたいネタを譲るのは惜しいですが、広瀬店長の頼みとあらば仕方ないッスねぇ」

 そう、龍二も麻衣も、とっくに気づいていたのだ。水産部門に行けば刺身用の鮮魚があるということを。きょうは船盛りなどの豪華お刺身盛り合わせも出しているので、生食用の高級食材もふんだんに用意してあることだろう。

 水産部門に頼めば、寿司のネタを分けてもらえるかもしれない。しかし、担当チーフの柿崎が意味ありげな薄笑いを浮かべているのが気になる。麻衣は危険な匂いを感じ取っていた。

「柿崎くん……タイとかカンパチとかある?」

 うつろな目をした龍二が言う。

「龍くんダメよ、この取引には裏があるわ」

 引き留めようとする麻衣をあざ笑うように、柿崎は言った。

「裏だなんて酷いッスね。――二階堂さん、こっちだって、刺身盛り合わせのために仕入れてあった貴重な魚ですよ。譲るにしても、タダってわけにはいかないッスよねぇ」

 柿崎にしても、部門売り上げがかかっているので、これはまっとうな主張である。

「条件はなんだ」

 そう訊ねる龍二の表情は、迷い、既に疲れ切っているようだった。

 もうひと押しで堕ちる――そう確信した柿崎は、ほくそ笑みながら、ついに決定的な言葉を口にした。

「――自分に『アレ』を下さいッス。いつでも、店長のお好きなときに。ただそれだけッス」



「龍くん、そいつは悪魔よ! 誘惑に負けちゃダメよ!」


 柿崎に『アレ』だけは許してはならない。お代官こと越後谷の、去り際の言葉でもあった。

 麻衣の必死の説得もあり、悪魔の誘惑をはねつけようとしていた龍二のもとに、悪いニュースが届いた。調理場から出てきた星野彩の報告がそうであった。

「店長、お姉さま方がいまや遅しと待っておられます! 一刻もはやくご決断を!」

 星野の切羽詰まった様子から、調理場の中はただならぬ事態であることが予想された。

「みんな、作業の手を止めて待っているということかな?」

「いいえ。わたしたちはいつでも、立ち止まるなどという時間の無駄遣いはしません。さきほど、店長が『作り続けろ』とおっしゃったので、インデペンデンス寿司の下準備を進めておりました。出来る限りの用意はすっかり整いまして、あとは、新鮮なネタさえ頂ければ、すぐにでも品物が完成します」

「な、なんだと……」

 龍二は青ざめた。たしかに、作成をやめろとは言っていない。しかし、こうも早く作業が進んでいるとは予想外だ。タイガース恐るべし。龍二はおそるおそる訊ねてみる。

「ね、ねえ星野さん。もしもいま、『やっぱりインデペンデンスは中止で!』なーんて言ったら、どうなっちゃうのかな」

 星野の表情が一気に曇った。

「それは……わたしからお姉さま方には、おそろしくてとても言えません。ここまで用意した労力も、容器も、他の食材も全部無駄になりますので。それをおっしゃられるのなら、店長がじきじきにお願いします」

 虎の巣に丸腰で踏み込めということか。

 顔面蒼白で立ちすくむ龍二の様子を見て、嬉しそうな声をあげたのは柿崎だ。

「ほら! やっぱり寿司を作るべきッス! 売り上げも増えるし、店長も噛みつかれずに済みますし! タイでもカンパチでも、ブリでも……。早く決めないと、うちのパートさんが、残らず船盛りにしちゃいますよ~」

 龍二にふたたび誘惑の声が忍び寄る。

「龍くん、聞いちゃダメよ、しっかりして!」

 麻衣が引き留めようとする声は、既に龍二の耳に入らなくなっていった。虎の餌食になる恐怖と、手を伸ばせば届く売り上げ一位の誘惑は、風前の灯だった龍二の良心を吹き飛ばすのには充分すぎた。


「柿崎くん……どうか、寿司ネタを分けて下さい」


 龍二の発した、その屈辱的な一言をもって、すべてが決着した。

 麻衣は大きなため息をつき、酒を積んだカートを押しながら、黙ってその場を去っていった。力無くうなだれる龍二の目の前では、柿崎と星野が勝手に取引を進めていた。

「ええと、足りないのはタイとカンパチだけッスか?」

「はい、大至急頂きたいです。……あとは、ウニとイクラも残りわずかです。それに、中トロなどあったら嬉しいのですが」

「ちょっと勿体ないけど、なんとかするッスよ! 先にタイとカンパチとってきますね!」

 すっかり上機嫌になった柿崎は、小躍りしながら水産加工室へ走って行った。これで一安心とばかりに、星野も調理場へ戻って行った。

 皆が立ち去ったあとには、魂の抜けたようなこの店のリーダー、広瀬龍二ただ一人だけが残されていた。


 十六時を過ぎた。インデペンデンス寿司は売れ続け、ディスプレイを見ていた後藤が、ついに驚きの声をあげた。

「店長! 中央店を抜きましたよ! 現時点で一位に立ちました……信じられない」

 事務室で脱力していた龍二はむくりと起き上がった。

「よし……ついに来たぞ」

 龍二は納得したように頷いていたが、後藤には少し疑問が残った。確かに、ライバル店のあおりを受けない茅場町店が単独浮上するのは分かる。しかし、いまだに客数は伸びていないのだ。それなのに、どうして中央店に勝てたのだろうか、と。


 その後も、茅場町店はトップを守り続け、ついに、日別の店舗別売上一位を達成した。

 成績が確定するまで店内に残っていた社員は、ごくわずかであった。夜間専門アルバイトのほかには、グロッサリーの麻衣、水産の柿崎くらいのものだったが、いずれも信じられないとばかりに驚きの表情を浮かべたあとに、満面の笑顔で喜んでいた。多くの社員たちに正式な報告ができるのは、明日の朝になることだろう。


「龍くん、お疲れさまでした」

 事務室の椅子に腰かけて、最終売り上げ額のデータを見ていた龍二の頬に、温かいものが触れた。缶コーヒーである。振り向くと、麻衣が笑顔で差し出してくれていた。

「茅場町店初の快挙達成、おめでとう。一位がこんなに誇らしいものだったとはね」

「あ、ありがとう」

 龍二の好きな、無糖ブラックコーヒーだ。受け取って、遠慮なくプルタブを押し下げた。

 しかし、麻衣の反対を押し切っての一位達成である。龍二は若干の後ろめたさを感じていた。

「二階堂さんは、怒っていないの?」

 麻衣は、自分も同じ銘柄のコーヒーの蓋を開けながら、笑って答えた。

「ああ、柿崎くんのことね? 確かにわたしは反対したけど、決めちゃったことだし、もういいじゃない。それに、無茶をしたのは、客単価を伸ばすための高額寿司が、どうしても必要だったってことよね?」

 普段、事務仕事が中心だった後藤と違い、グロッサリー部門チーフの麻衣は、顧客動向に敏感である。おそらく彼女には、全てがわかっているのだろうと思いつつも、龍二は種明かしをせずにはいられなかった。

 

「こういう、最初から予定されているお祭りのときは、お客たちは馴染みの店で買い物をしたがるもんだ。世の中の主婦たちはさ、何日にどこの店で何を買って、何の料理を用意して……って、あらかじめ最低限の段取りはするだろ? つまり、第五世界のお客さまも、できれば普段から知ってる店で買い物をしたいはずなんだ。

 じゃあ、よく知らないはずのサンシャインマートにお越しのお客さまがいるとしたら、彼らは何を求めているのか。

 おそらくは、物珍しさにつられて来る少数派か、何か突発的な事情で、急きょ買い足しに走らざるを得ない人々だ。最初から客数は期待できない。――ならばいっそのこと、普段は売れないであろう、高価格帯のラインナップに注力した。しかも、お買い上げのあと、すぐに食卓に出せるような、オードブルやアルコール類などを中心に展開していたというわけさ。特に、お寿司なんて最高に都合がいいんだよ」


 そこまで話して、コーヒーを一口飲んだ龍二に代わり、麻衣が後を続けた。

「分かるわよ。わたしも時々、パックのお寿司を買うもの。特に、急に親戚がたずねてきたときや、おもてなしの料理を用意する時間がないときは助かるのよね。お寿司なら、それ一品だけでも、じゅうぶん恰好がつくから便利だわ」

 麻衣はいたずらっぽく微笑んでいた。

「さすが、二階堂さんは主婦だねえ」

 満足そうな笑顔を浮かべながら、龍二は何度もうなずいていた。



 龍二が退社の準備にかかろうとした時、事務室の電話が鳴った。

『ああ、広瀬店長ですか? 先程頂いた発注伝票のことなんですが』

 本社の物流担当者からの電話である。龍二や部門担当者が発注したデータは、いったん物流室が受け付けるのだ。

「ああ、『アレ』ね。何か間違ってた? 前にも注文できたって聞いたんだけど」

『いいえ、そういうことではなく――この発注、正気ですか? ……相当高いですよ』


 そう言われて、龍二は何だか愉快な気持ちになり、ひとりで笑ってしまった。

 この店に戻ってきたばかりのとき、勝手に何か無茶な商品を売ってやろうなんて考えていた。そのときは、失うものもなく、破れかぶれな気持ちだった。でもいまは、勝負のためにやっている。しかも、負け戦と決まったわけじゃない。

 やつの提案に乗ってみるのも、なんだか面白いじゃないか。

『……広瀬店長? やっぱり何かの間違いでした?』

 戸惑っている電話の向こうの担当者に、龍二はきっぱりと告げた。


「いいや、間違っちゃいない。築地市場直送のマグロ一本だ。脂の乗ったところを頼むよ」

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