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パラレルワールド繁盛記  作者: ゆきの鳥
後編 シー・ユー・アゲイン
13/24

2-1 戦友旅立つ

 サンシャインマート本社の役員室で、北野啓吾は、各店舗の売り上げデータを映し出すディスプレイを、不機嫌そうに睨みつけていた。


――気に入らん。まったく気に入らん!


 政府が打ち出す景気回復策も、巷ではこれといって実感が得られない中で、このサンシャインマートの小売部門の売り上げは、なかなか健闘していると言って良かった。

 それなのに、この男――専務という役職にある北野は、店舗別の売り上げの数値を見比べながら苛立っていた。昨今では社内禁煙が当たり前になり、この役員室で煙草を吸うこともできないのが、余計に腹立たしい。

 彼の悩みの種は、茅場町かやばちょう店という比較的大型な店舗の売り上げが、予想外に伸びてきていることであった。

(このままでは、あの邪魔くさい広瀬を葬り去ることができないぞ。何か方法はないか……?)


 かつての広瀬龍二という男は、社内でも有名な無気力社員だった。社歴は十年を過ぎているのに、成績はさっぱり上がらず、どこの店に回しても足手まとい。半端に歳をくっているせいもあり、厳しく注意できる人材がなかなかいなかった。

 扱いに困る一方、明確にサボるとか無断欠勤するということもない。毎日変わらず低空飛行を続ける、まさに昼行燈であった。これといった問題を起こすわけでもなく、親のコネ絡みで入社したという事情もあり、簡単に解雇することはできなかった。

 そこで北野は考えた。

 解雇できないなら、いっそのこと昇進させて、責任を押し付けてしまえ。どうせなら、とても達成できないような大きなノルマを課してやる。

――そうだ、後任人事の選考でもめている、茅場町店の店長に据えるというのはどうだろう? あそこはそれなりの大型店舗だし、付近に競合店が進出してきたばかりで、前年より数字が落ちるのは確実だ。

 茅場町店に広瀬を半年くらい置いといて、全責任を取らせ、県境付近の小型店舗へ降格島流しにする。そして、現在ナンバーツーの越後谷を、スライド式に店長に就任させる。これなら不自然ではない。厄介者の広瀬をお払い箱にできる上に、若手の最有望株である越後谷に傷がつかなくて済む。まさに一石二鳥だ!

 それを考え付いたときには、我ながら名案だと思っていたのだが。


 広瀬を茅場町店に送り込んだ直後、店の入り口がパラレルワールドにつながってしまうという、ふざけた異常事態が発生した。更にその後、エルフィンとかいう宇宙人が起こした事故が原因だった、という、小学生が考えたSF漫画みたいな報告書が提出されてきた。

 茅場町店は、そんな大混乱のさなかの、最初の一カ月を乗り切った。

 そして、こちらの世界で安く仕入れた商品を、パラレルワールドのお客へお値ごろで売る、という、商売人にしては基本的すぎることを徹底的にやり続けた。その結果、売り上げはじわじわと伸び、むしろプラスに転じようとしていたのだ。


(どうせ、越後谷くんや二階堂くんみたいな、有能な部下の力のおかげに決まっている。それなのに、このままでは全部、広瀬の手柄になってしまうぞ……!)


 北野が顎に手を当てて、唸って考え込んでいるとき、手元の電話から、内線呼び出し音が鳴った。

「ああ、北野だ」

『専務に、城東店の横浜フロア長からお電話です。急ぎの用件だそうですが』

 まったく、こっちはそれどころではないのに――。北野が、ため息をつきながら外線をつなぐと、受話器の向こう側からは、なにやら切迫した声が聞こえてきた。

『城東店の横浜です。専務、大変です。うちの店長が緊急入院しました』

「なんだって」

 横浜の話を聞くと、急病で倒れたという城東店店長の命に別状がある様子ではなかったが、少なくともひと月は仕事に復帰できないのだという。

 確認の意味を込め、北野は暦を見た。今は十一月の下旬である。年末商戦はまさにこれからだ。一番の書き入れ時の、忙しいときであるのに。

 北野は頭を抱え込み、ため息をついた。

 電話の相手である横浜というフロア長は、すっかり動転しうろたえている。

 北野にしてみれば、横浜は、年功序列的な意味でそれなりの役職に置いただけの男だった。つまり、若くもなければ、それほど頼りにならない。店長代行は厳しいだろう。

 それにしても、よりによって全店舗中第二位の売り上げを誇る城東店で、店長が倒れるとは。かたや、憎き広瀬の茅場町店は、パラレルワールド騒動を逆手に取って、徐々に売り上げを伸ばしている。

 世の中のなんと思い通りにいかないことか。


(いや、待てよ。この状況は使えるんじゃないか!?)

 北野の頭に、ふっと名案がひらめいた。これで、広瀬の戦力を大きくそぎ落とし、しかも確実に、城東店を救うこともできる。

 こみ上げる笑いを必死でこらえながら、北野は電話の相手に告げた。

「すぐに、代理の店長をまわしてやろう。――心配いらん、若いが優秀な男だ」



 十一月も終わろうとしていたある朝、サンシャインマート各店舗に、一通の重要メールが届いた。


人事通達:

現所属・茅場町店フロア長 越後谷翔を、出向扱いにて城東店の店長代理に任命する。

補足:この人事は、現城東店長が復帰しだい解除されるが、少なくとも十二月三十一日までは継続されるものと決定する。



 越後谷翔は、従業員入口近くに停めておいた愛車のそばに立っていた。

 すっかり冷え込みが厳しくなった。天気のよい午前中であっても、屋外では厚めの外套が必要になっていた。車の後部座席に荷物を詰め込むと、彼は腕時計を見ながらつぶやいた。

「そろそろ時間だ」

 越後谷の隣にいるのは、二階堂麻衣だ。従業員入口のほうを何度も振り返って見ているが、彼女が待つ男は、いっこうに姿を現さなかった。

「龍くん、遅いわね」

 すぐに店内に戻るつもりだったのだろうか、麻衣は店内の作業着のままで外に出てきており、越後谷にはその姿が寒そうに映った。無理せず戻るように勧めても、麻衣はどうしても越後谷を見送るのだと言って、その場を動かなかった。

「もう行くよ」

 越後谷は出発を決めた。

 実際には、もう少し待っていても良かったのだ。

 しかし、自分がここにとどまっている間は、麻衣に寒い思いをさせてしまうし、お別れの挨拶などという、センチメンタルなイベントは好きではなかった。運転席に乗り込み、エンジンをかける。パワーウインドウを開けて、寂しそうな表情をしている麻衣に言葉をかける。

「そうだ、龍さんに伝言を頼むよ。僕はあっちに行っても目標達成を祈ってるけど、手加減するつもりはない、って。毎日、売上高を競争するつもりだから。あと、それからもうひとつ……」

 麻衣はうなずきながら、越後谷の言葉を胸に刻み込んでいた。


 息を切らして、従業員通用口から飛び出してきた男は、走り去っていく車を見ながら、がっくりと肩を落とした。

「ああ、間に合わなかったか……」

 麻衣は、その男――サンシャインマート茅場町店の店長である、広瀬龍二のもとへ歩み寄った。

「もう行ったわ」

「……そうか」

 お客からの電話応対が、思いのほか長引いてしまったために、龍二は一番の戦友を見送ることができなかった。寂しかったが、あきらめはついていた。龍二もまた、湿っぽい別れの挨拶などというものは、苦手だったのだ。

 何も今生の別れというわけではない。おそらく年明けには戻ってくるのだろうし、配属店舗が変わったとはいっても、同じ市内にいるのだ。その気になれば数十分で顔を見に行くことはできるだろう。

 しかし――龍二は改めて、越後谷の存在の大きさを感じていた。

 彼は、十月からの大混乱に陥った茅場町店を、一番支えてくれていた男だった。そして、一番追いつきたい男であり、羨ましい男でもあり、誰よりも一緒に祝杯をあげたい男だった。


 麻衣は、越後谷の車が消えた道をいつまでも眺めている龍二の後ろ姿を見ながら、声をかけることができずにいた。彼はきっと悔しくてたまらないのだろう。――わたしでさえも、こんな気持ちなのに。

 龍二を残し、麻衣はひとり先に店内へ戻っていった。

 晴れた屋外に出ていたせいか、やけに通路が薄暗く感じた。バックヤードでは、きのうまでと同じように、パート職員たちが忙しく動き回っている。

 越後谷翔は、仕事ができる上に男前だったので、パートの奥さまたちに特に人気があった。彼を喜ばせるためにひと頑張りしている、と言っている者もいて、半分は冗談かもしれないが、半分はほんとうかもしれなかった。

 越後谷の突然の出向が発表され、彼と一緒に年末を戦えずに残念がる声を、麻衣はあちこちからたくさん聞いた。しかし実際には、バックヤードでは何の支障もなく仕事が進められている。誰か一人がいなくなったところで、組織というのは自己修復して、不具合なく回っていくものだ。そういうものなのだ。

 麻衣は思っていた。

 この仕事は好きだし、責任ある立場を任されて、やりがいもある。でも、本当は、自分がいなくなっても、この店はきっと滞りなく動き続けるだろう。自分にしかできないことなんて、決してありはしないのだ。

 思い上がってはいけないのだ。もっと謙虚にならなくては。これから、越後谷に代わって、龍二を支えていくのは、きっと自分なのだから。



「あーあ、お代官さまがいなくなって、本当がっかり。もう、仕事にくる楽しみの半分くらい、なくなっちゃった感じー」

 女子休憩室にて、弁当のウインナーを箸で突き刺しながら、白衣姿の星野彩はつぶやいた。

 お代官というのは、越後谷のニックネームだ。男性社員同士でそう呼び合っているのをパート職員たちは知っていて、本人の前ではさすがに使わないが、陰では皆、そう呼んでいるようだった。

「もしかして星野さんって、越後谷フロア長のファンだったんですか?」

 筒井優花ゆうかは、星野と向かい合うように座って、今まさに弁当を広げようとしていたところだった。星野の、思ったことをすぐ口に出すところが、優花にとっては新鮮で面白かった。

「そりゃ、お代官さまはこの店のアイドルだったんだもん。ウチの惣菜部門は、全員ファンクラブみたいなもんよ。――そうそう、一人抜け駆けして、仲良さそうに長話でもしてようもんなら、あとで身内の嫉妬でひどいことになるけどね」

 星野は、声をひそめて、幽霊話でもするような硬い表情になったと思うと、次の瞬間には、ぱっと表情が変わって、けたけたと明るく笑っていた。

「あはははは。女同士って怖いよねぇー。優花ちゃんも気をつけなよぉ」

「は、はあ……」

 怖いのか楽しいのか、一体どっちなんだろうと、優花には不思議でたまらなかった。

 それにしても、さっきから話をしているのは八割がた星野のほうで、優花はほとんど聞き役だ。それでいて、弁当を食うスピードは、圧倒的に星野のほうが速い。優花が彼女の弁当箱を覗きこむと、既に平らげて容器は空になっており、店内で買い足した大きなプリンをスプーンで崩しにかかっていた。

 星野は、優花の視線に気づいて言った。

「食後のスイーツがないと、午後の仕事を頑張れないのよー。ああ、さっき言った楽しみの残り半分は、スイーツかもしんない。……優花ちゃんのお弁当は、小さくて可愛らしいね。あたしもそのくらいにしとけば、太らないんだろうけどねぇ」

 星野はそう言って笑っていたが、優花の見る限り、彼女はべつに太ってはいない。これだけ食べないともたないのだとしたら、バックヤードは相当な体力仕事なのだろう、と優花は思った。

 二人は、おなじ二十代ということもあって、最近では決まって一緒に昼を過ごすようになっていた。

 しかし、専門学校を出たばかりで独身の優花に対し、三十路手前の星野彩のほうは結婚していて子供もいるので、境遇はかなり違うともいえる。優花にしてみれば、欲しかった姉ができたような気がして、なんだか少し嬉しかった。

 しかし、社会経験の少ない優花でさえも感じていた。この茅場町店に、ぽっかりと見えない穴が開いたということを。

 それは、パラレルワールドにつながる穴とはもっと別のものだ。そして、店の一番中心にあいた風穴から吹き込む冷気に、そこはかとない心細さに、皆が気づかないふりをして、きのうと同じように仕事を進めているのだということを。



「だけどね、あまり皆が露骨に落ち込むのも、どうかなと思うんだけど」

 店内フロアのサービスカウンターに、釣り銭の補給のため訪れていた後藤香織は、ふとしたことから盛田真由美と話し込んでいた。

「露骨……ですか。確かに、誰かひとりが異動になったからといって、士気が下がるのは良くないかもしれませんね」

 後藤は事務員であるため、基本的に従業員と接する機会は少ない。さきほど通路ですれ違った二階堂麻衣は、不自然なほど明るく振る舞っていて違和感をおぼえたくらいで、それほど従業員が落胆しているとは感じていなかった。

「まあ、みんなの気持ちはわかるわよ。広瀬店長には悪いけど、実質的な店長が突然いなくなったようなもんだからね。わたし、ここの店で二十年やってるけど、あれほど頼りになるリーダーは記憶にないわね」

 ため息をつきながら盛田が話すのを聞き、後藤も不安になった。

「盛田さん、売り上げ目標の件、どうなっちゃうんでしょう。パラレルワールド相手の商売も、せっかく軌道に乗り始めて、このままいけば達成できたかもしれないのに」

 POSシステムによる、十一月の前年同日比の月間累積売り上げは、越後谷が御の字だと言っていた96%をとうに越え、98%近くにまで達していた。つい一昨日も、越後谷を含めて、もう一息だから頑張ろうと気合を入れなおしていたばかりだったというのに。

 弱気になりかけている後藤に、盛田が言った。

「さっき水産の柿崎くんにも話したけど……広瀬店長を支えていくしかないでしょう。厳しいようだけれど、元々は店長が抱えたノルマなんだから、ご本人に責任感を持っていただかなくてはね。そのためには、あまり落ち込んでいる素振りを見せてはいけないと思うのだけど。とくに、広瀬店長の目の前ではね」

 確かに、あまり悲しんでいると、店長である広瀬の立場がないだろう。

「そうですね。わたしは、いつも通りに店長に接することにします。それに、二階堂さんにも」

 お客の目があるカウンターの前で長話をするわけにもいかないので、後藤は一礼をして、サービスカウンターを後にした。

「誰がいなくなったところで、わたしたち女はいつも見送る側でしかないわ」

 立ち去り際に、盛田が小声でそうつぶやいたように聞こえた。

 後藤は、二、三歩進んでから振り返ると、もうお客がやってきていて、盛田はいつも通りの丁寧な態度と笑顔で接客をしていた。ふと覗いたと思った寂しさの気配は、もはや面影もなくなっていた。



 茅場町店の敷地の一角に建つプレハブ小屋の中で、柿崎淳は両腕を上げて伸びをした。

「うーん。そろそろ腹が減ったッスね……」

 時計を見ると十三時になるところであった。

 柿崎の目の前には旧式のレジスターがある。プレハブ小屋の中には、おもに特売商品と、需要の高い日用品が中心に陳列されていて、小ぢんまりとした仮設店舗となっていた。

 プレハブは、宇宙人エルフィンのフリュカという女性がリース契約をしてくれたものだ。最初は完全に野ざらしの露店を出していたと知り、不憫と感じて手配してくれたらしい。おかげで、冬がそこまで迫っているこの季節でも、足元の暖房で寒さをしのぎながら、地元客に品物を販売することができていた。

 ふと客足が途切れて、退屈になった柿崎は、ぼんやりと考え事をしていた。


(盛田さんに言われたけど……越後谷フロア長が異動になって落ち込んでる感じは、あまり出さないほうがいいんッスね。確かに、自分たちが今でもお代官さまを頼りにしている雰囲気だと、広瀬店長に悪いし、男同士の嫉妬もなかなか怖いし……)


 そんなことを思っていると、誰かがプレハブに入ってきた。お客かと思ったら、事務員の後藤香織だ。最近は接客をすることが多いためか、以前より華やかな恰好をしているのが好印象だ。

「柿崎さん、つり銭の補給がてら、交代にきました」

「あっ、お願いします」

 簡単な引き継ぎを終えると、柿崎は後藤に場所をゆずり、プレハブ小屋を後にした。

 空は晴れていたが、風は冷たかった。昼食をとるため店舗建物に向かう途中、腰のまがった老夫婦が、手押し車をころがしながらプレハブへ向かっているのとすれ違った。

 来店者用の駐車場はがら空きだ。茅場町店の異変を知っている地域住民たちは、別のどこかの店で買い物をしていることが予想された。車で来店するお客にとってはそれでも良いのだろうが、徒歩しか異動手段がない人々にとっては、たとえプレハブのささやかな店舗であっても、生命線であるかもしれないのだ。

 POSシステムの速報データに反映しないプレハブの売り上げは、目標達成の数値に含めないとされている。それでも、儲けや数字だけでは計れない、大切なものなのだ、と、柿崎は思った。


 店舗バックヤードに入り、事務室の扉を開けた途端、視界の隅にどす黒い塊があった。

「うわッ」

 柿崎は思わず後ずさりをした。

 それはまがまがしい気配を放つ、まるで闇から生まれ絶望を食って育った魔物だった。その足元には、地獄の井戸のような漆黒の穴が口を開けている。一歩でも踏み出したらその深淵に引き込まれ、二度と娑婆に戻れないのではないか、そう思わせるだけのものだった。

 今度は、暗黒星雲からのエイリアンでもやってきたのか、もしくは、超小型ブラックホールでも誕生したのか――と思ったら、よくよく見ればそれは我らの店長、広瀬龍二だった。

 そういえば、感情視覚化アイフィルターを装着していたままだった。フリュカにしつこくおねだりして、個人的にレンタルしてもらったのだ。

 柿崎は、メガネによく似たその小型装置おもちゃを外し、折りたたんでから、あらためて龍二を見た。目は落ちくぼみ、ひどく落胆した表情をしていた。人間の姿をしているが、さっきの暗黒エイリアンと、受ける印象はたいして変わらない。

 あまりの悲愴感に、柿崎はうっかりいたわりの言葉をかけそうになってしまったが、それでは店長である龍二のためにならないと踏みとどまった。あくまでも、普段通りに、何事もないように振る舞わなくては。

「お、お疲れさまです。広瀬店長は、お昼済ませたッスか?」

 ぎこちなくそう声をかけてみたが、龍二はため息をつくばかりで、意味のある言葉を発しなかった。この様子では、何も喉を通らなかったというところだろう。

(こ、こんなものの相手、自分には無理っス)


 見なかったことにして、そそくさと立ち去ろうとしたその時、柿崎の背後から二階堂麻衣がやってきた。麻衣は、尋常ならざる様子の龍二と、それを目の前にしてたじろぐ柿崎を見ると、澄んだ声で毅然と言い放った。

「柿崎くん! 龍くんを後ろから押さえて!」

「え……はいッス!」

 手に持っていたアイフィルターを潰すわけにはいかないので、柿崎はとっさにそのメガネ型玩具を耳にかけ、装着してしまった。龍二の背後に回り込むと、羽交い絞めの要領で腕を取り抱え込んだ。

 麻衣は、龍二の中年太りでたるんだ腹をくすぐり始めた。

「こ……こら、やめてくれ! くすぐったい、そして痛い!」

 龍二は、柿崎の腕をほどくこともできず悶絶していた。

 感情視覚化アイフィルターを装着した柿崎には、自分が押さえつけているものが、闇に堕ちた邪悪な魔物に見えていた。そこへ、翼の折れた大天使の姿をした麻衣がやってきて、魔物の腹部を目がけ、光り輝く鉄拳を続けざまに叩きこんでいる。

「もう、龍くんがしっかりきゃだめじゃない! お代官、言ってたわよ! これから毎日、龍くんと売上高を競争するんだって! それが楽しみだって! 嘘だと思うなら、電話して直接聞いてみなさいよ!」

 自分のすぐ目前で繰り広げられる、天使と魔物の凄まじい闘いに魅せられ、柿崎はすっかり興奮していた。彼は心の中で、手負いの大天使に声援を送っていた。

 やがて、天使が身にまとう輝くオーラを使い尽くしたころ、黒い魔物は浄化され、その淀んでいた瞳には正気の光りがともっていた。

「ああ……さっきから見えていた光は、二階堂さんだったのか。おれをこっちに戻してくれて、ありがとう……」

 悪魔は、穏やかな微笑みを浮かべながら、静かな眠りについた。すべてのエネルギーを使い果たした天使は、力尽きその場に倒れこんだ。

 その一部始終を真後ろから見ていた柿崎の目から、熱い涙があふれ出した。

(ああ、天使はこれで良かったんッスかね……世界の平和を想っての戦いだったのか、それとも……)


 水産部門チーフの柿崎は後に語った。どこからどこまでが、フィルターを通したイメージ映像であったかは定かではないが、おそらく、自分の見たものは、ほぼ現実の出来事であったのだ、と。


――こうして、サンシャインマート茅場町店の年末商戦は幕を開けたのである。

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