新米ワーカー
綾が明香の「シメ」の仕事を手伝っていると、周りの職員はいぶかしげに綾を見て。声をかけたり、かけなかったりしていた。
会田係長もその様子は遠目で見ていたが、特に指示はしなかった。
綾がやっていたのは、明香がパソコンから出力した書類を組んで、はんこ を押してバインダーにはさむ作業だった。
「これはシメなんですか?」
「そお。綾も来月からこれを自分でやるのよ。」
「そおなんですか。」
「そおなんですよ。」
「いいね。いいね。じゃあこれも。」
と言って小森が「シメ」の書類の束と自分のはんこを明香の机に片手で置いた。
そこへ、髪の毛の薄い西山係長が寄ってきて
「おーっ。さっそくやってるのか。小森流OJTだね。」
と、言った。明香が
「オージェーティー。オヤジ冗談ティーチングの略ですね。」
と言うので、背中越しに小森が
「オッサン上等とんでもないの略だ。オヤジじゃねえ。」
と、訂正した。オヤジというワードが気に入らないのか。
「あはは。オンザ・ジョブ・トレーニングの略だよ。OJTは。」
普通に、教える西山係長だった。
「OJT第2段!」
と、いきなり小森が言った。このセリフはちょっと大きめの声で、「段を、だーん」って伸ばして言った。
「明香、なかじにそのまんまの客の世帯票と記事と請求明細を生保システムで打ち出す事を教えてくれ。」
「なかじ」を自分の事だと気づいた綾は
「周先生。すみません。なかじはちょっと。呼ばれ方としては許せないんですけど。」
「せんせい?周さんでいいよ。そっか。でもなかじってかわいくない?」
「。。。かわいくありません。せめてなかじまって呼んでください。」
「そうだな。じゃあ、綾でいこう。」
「よかったね。綾。私なんか去年入ったとき、一月くらいお前って呼ばれていたんだもんね。」
「そんで、嶋本になって、あきかになって、今年に入ってからさやかって呼ばれているんだよな。じゃあ頼む。」
「はーい。」
来た日に周トレーナーに綾って呼ばれることは、大変な事らしい。
この後、綾は「周トレーナー」「明香せんぱい」と2人を呼ぶことになった。
「しかし、たくさん書類があるんですね。シメは大変ですね。明香せんぱい。」
「ここの仕事は追われる仕事なの。シメだのシキュウだの。」
「もうすぐお昼ですね。」
そんなやりとりをしている二人の前に、目の大きなかわいい女性が寄ってきた。
「ごくろうさま。」
「。。妙。あんた、担当替え初日からトラブル対応って。」
この女性が「たえ」だった。
「トラブルメーカーのさやにはかないましぇ~ん。」
「余計な仕事メーカーの江川 妙さんにもかないましぇ~ん。」
横で端末に入力していた小森の額にしわが寄った。
「二人とも後輩が入ったんだから、メーカーは卒業して、頼むからワーカーになってちょ~だいね。」
「ちょ~だいね。」の声が妙に高いので、綾はちょっとがっかりした気持ちになった。財津一郎じゃねえし。
「中嶋さん?あたし、妙先輩って呼んで。江川 妙。西山班なんだ。」
「よろしくお願いします。たえ先輩。中嶋 綾です。」
「綾はバスケやる?」
いきなり「綾」だった。さらにこの質問は?明香の細い目がおおきくなった。小森は何となく笑いをこらえているように見えた。
「え~っ。たえ先輩、バスケやるんですか。あたしもバスケやります。」
「やーっぱりぃ。やると思っていました。」
この人は会話が飛ぶんだと、綾はちょっと思ったが、そんなことより「バスケ」の
話が綾の心を支配した。
「ここにいる周さんもバスケ。すごいんだよ。」
「えっ。そうなんですか?」
「さらに、さや。この子も。」
このセリフをさえぎるように明香が言った。
「今はやっていません。バ・ス・ケ」
周も明香もバスケをやるんだって綾は思ったが、笑っているような周に比べて明香
は顔から表情が消えたように感じた。
「さやもきっと、やるよね。い・つ・か。あーっよかった。」
何がよかったのかはわからないが、妙のうれしそうな表情は明香とは対照的だっ
た。
「もうお昼だから3人でロイヤルホストにランチ行こう。」
妙がそう言うと、一瞬「えっ」という表情をした綾を見て、明香が
「そだね。でもとりあえず、ローソンで何か買って、中でお昼にしよう。」
と、言ってくれた。
「おれも弁当だからな。」
小森もそう言うので、中でお昼をとることにした。
綾は初日だけ、京浜区役所生活保護課に来たが、二日目、三日目は福祉局の研修のため、また本庁(市役所本体のこと)のある港町に来た。
ここで専門的な知識を得て、あらためて配属先に戻る予定だった。
港町駅を降りて野球場の横のビルで、福祉局が実施する生活保護事務初任研修は行われた。
あいかわらずの朝の通勤ラッシュ。みんな怒った顔で満員電車から降りてきた。自分もほかの人から見たら怒って見えるのかなって、綾は思った。
会場のビルの6階の会議室に着くと、まだドアが開いていなかった。
まだ早いのかなって思ったが、ドアの前に何人かの人がいた。そのうちの一人が見覚えのある女の子だった。
「綾ちゃ~ん。」
細かく手を振る笑顔のこの子は、同期でともに京浜区役所生活保護課に配属になった佐藤 亜希子だった。
「亜希ちゃん。」
「早いね綾っぺ。」
「亜希ちゃんも早っ。」
昨日、二人は話さなかったように見えたが、いきなりの仲良しモード。さらに「明希ちゃん」はまだしも「綾っぺ」とは。
「綾っぺ。昨日すごいよね。もう事務の実務をやってるんだから。」
「きあんってやつ。シメなんだって。」
「パソコンもやってたよね。」
「せいほシステムだって。あと、あの後「ろくほうシステム」もちょっとやった。」
「すごいね。できる女ね。綾っぺ。」
「される女のような気がする。」
「あたし、西山班でしょ。トレーナーの福岡さんが小森さんが大変だって言ってた。」
「えっ?」
「会田係長は4月からの新任で、生保事務は初めてなんだって。ここの前は高齢施設のワーカーだったから。」
いきなり、初めて話すような子から濃い話をされて、綾は驚いた。
「でね、会田班は一人休んでる職員さんがいて、それを小森さんがフォローしてるって。」
さらに、驚きの事実。
「でね、そんなのに今回新人を受け入れるのに、トレーナーを買って出たのは小森さ
んなんだって。」
自分のトレーナーの話。それを他の班の新人が自分に教えているようなこの場面。
綾はちょっと心を「整理」したかった。
「まだ、研修担当の人、来ないのかな。下にお茶を買いに行こうかな。」
「もうすぐ、来るんじゃない?でもお茶を買う時間はあるよ。」
「ちょっと、行くね。」
「一年で一番大変な時期。」綾は昨日の明香の言葉を思い出した。
二日間の研修が終わった。それなりに実のあるものだったが、綾は周や明香の所へ
早く行きたい気持ちを心に抱えた研修になった。
「おはようございます。」
朝、まだ7時50分だったが、綾が出勤すると、小森は自席で例のファイルを読ん
でいた。
「おはようございます。周トレーナー」
前回は背中越しに返事をした小森だが、今回は振り向いてさらにやさしい表情をした。
「研修、お疲れ。理解できた?」
「はい。理解できていない自分を理解しました。」
小森は「くっくっ」という、独特の含み笑いをした。
「そのセリフ。想定内だぜ。」
綾は一瞬「はっ」としたが笑顔で
「何か手伝えること、ありますか?」
と、聞いた。
「シメの書類はオーケーだ。システムも8時半まで動かないからな。そうだな。お前の担当地区の地図でも見ようか。」
「お願いしま~す。」
早いけどいいかって思いながら、小森は京浜区の地図を広げた。
「お前の担当は海側にあるこの団地。「汐見団地」ここだ。」
「汐見団地ですか。ここですか。」
「全部じゃねえ。半分のまた半分の半分。6棟だ。」
「えっ。」
「ここに62世帯の保護ケースがある。」
「私、担当、団地6棟ですか?」
「広さは関係ない。新人で62ケース。結構大変だな。」
「周トレーナーは?」
「俺は約120ケース。汐見団地13棟分。」
「普通、ワーカー一人で80くらいって。」
「まあな。しょうがない。」
「生活保護事務。甘くないんですよね。」
「甘くも辛くもない。これからじょじょに覚えればいい。」
自分に向かってしゃべってくれる周トレーナー。まじめな話だけにかっこいい印象
がまたもどった。(財津一郎のときにちょっとダウンしたけど。)
「ところで。」
「なんだ。」
「バスケは。」
「やるよ。市のバスケ部。区でも職員大会には出る。」
「周トレーナーは市のバスケ部員。なんですか?」
「わりい。女子は無い。」
無いのか。と先手を打たれるように小森に言われ、綾はちょっとがっかりした表情をした。
「だけど、心配はいらない。いずれ嫌ってほどバスケが出きる。」
「妙先輩ですか?」
「まあ。そうだな。」
「同期の男の子で加藤 尊って子がバスケやります。」
「そいつ、来てるよ。もう。」
配属になって4日目で、タケルは市のバスケ部に行ってるんだ。と思うと綾は驚かずにはいられなかった。
「おい。明香に客が来てるから、相談に同席しろ。」
綾が「六法システム」をいじっていると、横から小森が言った。
「明香。ちょっとこいつを同席させて。」
「はい。」
「何か持ってきますか。」
「いや、なんも。」
二人で相談コーナーに行くと、若いのか年なのかわからない、顔色の悪い男性が座っていた。
「こんにちは。はじめまして。わたし嶋本 明香。明るく香るって書いてさやかっていいます。」
メモにボールペンで自分の名前を書きながら明香は自己紹介した。」
「藤田さん。前任の山田からと、自立支援員の児嶋から聞いてます。」
「あれっ」っと綾は思った。明香は何も資料を見ていないのに話をしているからだった。
「今日は?」
「ちょっと、体調が悪いのと、紹介された倉庫には行きたくないなって。」
「ああ。そおなんですか。そお。体調が。」
「担当も変わったって。」
「それで。来たんですか。」
的を得ない話が続いたあと、調子が良くなったらまた来てくださいと明香が話を切り上げた。
二人で自席に戻り綾は明香が今のケースの説明をするのかなって思っていたら、明香は神妙な表情で「記録」を「生保システム」で入力していた。
「あの藤田さん。がいる地区の担当なんだよね。」
明香は独り言のようにつぶやいた。しかしすぐに綾の方に笑顔(のような表情)を向けて
「いろんな人が来るよ。この仕事。いろーんな人が。」
綾は仙台のグループホームで4年間バイトしていたが、生活保護はさっきの藤田さんのような年代の人も来る事を理解した。
「今日は訪問だ。昨日申し送りしたよな。」
「はい。大丈夫、だ、と、思います。」
「かくにーん。資料は?それに持ち出し資料等の確認簿に記載したか?」
「資料は、あります。すみません。確認簿。やります。」
「じゃ、一緒にやろう。バッグは?」
「わたしのトートで。」
「荷物になるけど、別にしよう。」
小森は用意したビジネス用のショルダーバッグを綾に渡した。
「お前は免許、無いよな。」
「いえ。持ってます。」
「おっ。」っという顔を小森はした。
「よーし。じゃあお前、運転しろ。人材だよ。免許保持者は。軽のオートマだからだ
いじょうぶ。行き先は海側だから坂は無いし。」
「わかりました。」
「じゃあ、鍵と運転日報。9時10分に出よう。」
配属6日目。月曜の朝の小森と綾のやりとりだった。目的地の「汐見団地」は京浜区役所から車で10分かからない所にあった。
「訪問。実際は自転車で行くんだが、今日は二人だし。車が空いていたからな。」
「生活保護課の車、なんですか?」
「これは健康保険課の車。生活保護課に車は無い。」
「みんな自転車だと、雨の日は大変ですね。」
「京浜区は都会だからほとんどの町や地域にバスがあるし、JRは京浜駅だけしかないけど、私鉄の臨海急行の駅が3つある。山側は一旦横山駅に出るけど東京急行の池端駅に行けばそこから歩いたり、バスで行ったり。」
小森は土地勘のまるでない綾に、京浜区の地理や交通の説明を細かくした。
汐見団地の来客用駐車場に車を停めて、二人は綾の担当する団地内の棟に向かった。
「1ケースに年2回の訪問が基本だが、まあ、ここは団地で回りやすいから2回以上は行けるかな。」
「階段の外にエレベーターが付いていますね。」
「こおゆうの、見たこと無い?」
「ええ。初めてです。」
「ここは古い団地で、単身者が多く住んでる。みんな年寄りでエレベーターが無いときついんだな。」
「資料を見て、ほとんど高齢の単身者ですね。」
「ああ。地区の民生委員の方も高齢者だから。とりあえず、そこから。」
「長嶋さんですね。」
二人は民生委員の長嶋の家を訪れた。
「こんにちは。区役所の福祉事務所の小森です。」
「はーい。今行きます。」
ドアが開いて、小太りの年輩の男性が出てきた。
「こんにちは。今日は担当が新しくなったので来ました。僕もまた出戻りですね。」
「そうか。小森さんはだれの後任?」
「1棟から9棟の嶋田と、10から13棟の荒井の後任です。」
「そう。で、こちらは?」
「はじめまして。中嶋です。荒井さんの後任で14棟から20棟の担当になりまし
た。」
「そうか。じゃあ21から30まではそのまま、えーっと」
「ああ、鎌田から鈴木っていう女性にかわりました。今日は新人ってことで2人で来ました。」
「そう。ところで。」
「何か?」
「2棟の松木さんが猫を飼ってるって、会長さんから苦情がね。」
「またですか。嶋田さんも本人に注意してるって言ってましたがね。」
「あんたからも言ってくれよ。」
「わかりました。」
二人はこの後、午前中、綾が担当するケースを4軒訪問した。そして汐見地域ケアハウスにあいさつし、お昼になった。
「そこのコンビニでお前、お昼を買いな。時間が押してるから海っぺりでお昼にしよう。」
「はい。」
団地から車で2分くらいで海沿いに出た。横山市の汚水処理場のうらでお昼にした。
「おおきな橋。二つも吊り橋があるんですね。」
「ゲートブリッジ。あっちがかもめ橋。」
「あのおおきな煙突は?」
「ああ。火力発電所。」
「ふるさとの南相馬の海に発電所があるんです。橋は相馬の港に大きい橋があるんで
す。でもあんなに大きい橋じゃないけど。」
「そこってどこ?」
「福島です。」
「お前。福島の子なんだ。」
「そうです。私が住んでいたのは南相馬のほうで。友達が相馬の漁師で。そこの方が
好きなんだけど。そこに橋と漁港と発電所があって。南相馬にも発電所はあるけど、橋はなくて。」
「京浜工業地帯の東京湾は福島とはちがうよな。」
「でも、きれい。」
綾は久しぶりに海を見た気がした。