初出勤
新人研修が終わり、綾は配属先の京浜区役所にやって来た。
京浜区役所は小学校の社会で習った「京浜工業地帯」の中心地の区役所で、研修所のあった港区よりもさらに「悪い空気」の土地だった。
綾は日本有数の大都会「横山市」に来てはみたが、もともと田舎娘。 故郷の福島県南相馬市は山と海に囲まれた自然豊かな土地だった。
海沿いには火力発電所や工場などもあるにはあったが、空はいつも真っ青だった。
大学4年間を過ごした仙台も大都会だったが、空も空気もきれいだった。
ところが、この横山市は工業地帯の大都会。海のにおいも福島とはちがう。
空気もいやな臭いの空気だった。初出勤の不安な気持ちに、不快な憂鬱さがプラスされた。
でも、それ以上に彼女のこころは新しい挑戦に向かっていた。
一着しかない黒のスーツも自分としては似合ってきたように感じた。
それにしても人・人・人。綾は横山市の中心地から私鉄で10分くらいのところにアパートを借りたのだが(とりあえず、アパマンで検索した一番安くて、中心地から
近いという理由で借りたアパートだった。)
横山駅の朝のラッシュは「恐怖体験」だった。
私鉄線の駅と電車も仙台のラッシュ並みだったがJRはもう何がなにやら。
「く、苦しい。」と思う間もなく目的地の京浜駅に着いた。ここも横山駅ほどではないが、人・人・人。
やっとの思いで京浜区役所に着いた。時間は8時。始業は8時30分だったので早
く来すぎたかなと思いながら職員通路に入ると、
「ちょっと、職員証は?」
と、守衛のおじさんに言われてしまった。
「すみません。今、出します。」
「いいよ、いい。新人さんだろ。毎年この日にこれを言うのを楽しんでるのさ。」
「はあ。」
へんなおじさん。
とりあえず、3階の生活保護課に向かった。するとすでに何人かの職員が薄暗い中にいた。綾はおそるおそる、一番近くにいる男性職員に近づいた。
猫背でパソコンに向かっていたその男性は、おもむろに振り向いて綾の顔を見た。
その男性は「かっこいい」顔をしていた。
「新人?」
「はい。今日からこちらにお世話になる中嶋 綾といいます。」
「そう。僕は小森。」
「よろしくお願いします。」
「ああ。。。早いね。。そうだ、なかじ、、ま、さん?君の席はっと。」
「かっこいい」小森はA4版の紙を見て
「ああ。そこ。僕のとなりのとなり。嶋本のとなりだ。そこにとりあえず座ってて。」
「はい。」
「きっと、8時半に大会議室で辞令交付だね。それまで座ってて。」
「はい」
綾は自分の席に座った。小森さんの席にはパソコンや電話の子機、それに何冊かの
薄緑色のファイルが置いてあったが、綾の席は何も無い広く平らなスチール事務机だった。
引き出しを開けると、若干の事務用品(文房具)が入っていたが、あとは何も入っていなかった。
おもむろに研修でもらった資料を見ていると、後ろに誰かの気配を感じた。
「おはよう。早いね。中嶋さん?」
「はい。」
「よろしく。係長の西山です。」
西山係長。薄毛の長髪のおじさんだった。
「これね、あとでやろうと思っていた新人さん用の研修資料。やることなかったら見てて。」
「はい。」
研修のときもそうだったが、さすがにお役所。資料は見る見る増えていった。
「区役所の窓口ガイド」「電話ガイド」「地域福祉計画」「横山市福祉のごあんな
い」・・・
「これ、みんな読むのかな。」
と思っていると、となりの席に人影がした。
「おはよう。」
「おはようございます。」
色白のすっきりした顔立ちのきれいな女性。
「わたし嶋本 明香中嶋 綾ちゃん?」
「はい」
「綾ちゃんね」
「はい。」
「綾、のど渇かない?」
3回目で「ちゃん」がとれていた。
「3階にはおいしい自販機があるんだ。飲みに行こ。」
明香は綾を執務室の外のロビーにある自販機に案内した。自分はホットレモンを買い、綾にはホットココアを買った。
「はい。もうすぐだよ。これ飲んだら5階の大会議室に行っておいで。」
大会議室に行くと、案内の職員が前に立って手を上げながら
「それでは、所属と名前を呼ぶので順番に並んでください。」
と、言った。
辞令交付式が終わり、生活保護課の岡田課長に連れられて綾たちは3階の執務室に戻った。
異動(お役所言葉で転勤のこと)してきた職員が6名。新人は4名。そのうち綾の
よう
な新卒は3名。1名は社会人からの転職者で、10名がこのときの新しい京浜区役所
生活保護課のメンバーだった。
岡田課長は執務室の前の方に10名を並べた。それにあわせ、何人かの職員が並んだ。
「みなさん。このたび10名の方がうちに来ました。えーと、手前から中央区から、
いらした三川 強さん。」
三川は会釈した。
「中央区から来た上山 美奈さん。北区から谷口 正さん、西児相から小山 守さん。」
それぞれ、会釈した。
「杉の木学園の大山 果穂さん、で、福祉局の、えーっ」
岡田課長はなにやらメモを確認した。
「高齢障害施設運営課の、森野 めぐみさん。」
「で、ここから新人。社会人採用の植田 輝明さん。」
植田は「はい。」と返事をして深々とお辞儀をした。
「で、新卒の中嶋 綾さんと佐藤 亜希子さんと、斉藤 真美子さん」 岡田課長は
メモを見ながら紹介したが、並んだ順番は逆で、斉藤→佐藤→中嶋だったので、それぞれ名前が呼ばれて「はっ」と、といまどいながらも前へ一歩でて、名乗ってお辞儀をした。既存の職員の一部から、失笑にも似たざわめきが聞こえた。
課長は立っている職員の中ではじの方にいる方を指し、
「それで、えーっと。こちらから森本係長、西山係長、佐山係長、会田係長。それと
庶務係長の村上さん。」
と、管理職の紹介を異動者にした。なぜか村上係長だけ「さん」づけの紹介だった。
それぞれ、担当の係長が自分の担当する異動職員と新人に声をかけた。
綾は女性の会田係長の担当だった。会田係長は40歳くらいの小柄な可愛らしい女
性だった。
「えーっとそれでは案内しますね。会田でぇーす。」
会田班は綾のほかに、三川と大山だった。席まで案内されると、明香がにこにこっとして綾の顔を見た。小森はひたすらファイルを読んでいた。
会田から異動者・新人への説明が打ち合わせスペースであり、そのあと会田係長は
綾を手招きし、小森の前に連れていった。
「こちらが小森さん。中嶋さんのトレーナーをお願いしています。」
綾は「えっ」という顔をしていた。かっこいいけど、ぶっきらぼうな小森さんが自分のトレーナーなんだ。
小森は背中越しに綾の顔をちらっと見て。またファイルに向かい
「よろしくね。」
とぼそっと言った。