『僕の姫君』
僕の姫君
きれいな桜の花びらがコンクリートの道路に舞い、まだ慣れていない新しい制服に身を包んだ学生達がはしゃぎながらそれぞれの学び舎へと向かう。
四月中旬。春、というには随分と高い気温。そんな中を多くの学生や新社会人が新しい生活に心躍らせ、各々の思いを胸に暑さなんか知らないとでも言うように、街を歩いていく。しかし、それとは対照的に男はその大きな身体をくの字に曲げながら、ぼんやりと歩いていた。男は道行く彼らと同様、スーツを着こなし身なりこそきちんとしているのだが、纏った陰気な雰囲気のせいで二十代半ばだというのに、傍から見れば十も二十も老いて見える。
彼、タケヤは現在危機的状況に陥っていた。
タケヤは去年大学を卒業したばかりだったが、本人のやる気のなさとあまりにも遅すぎた就職活動のせいで結局、就職先が決まらずフリーターになってしまった。
特にやりたいこともなく、彼自身、無趣味でそれほど金を浪費するようなこともなかったために生活にも困らず、そのフリーター生活をだらだらと十ヶ月近く続けていたのだが。つい二ヶ月程前に職場のチーフと些細なことで口論になり、否応なくフリーターからニートへと進化する破目になったのだ。
挙句、まだ貯金があるから大丈夫、などと高を括っていたらいつの間にやら、預金残高は底を尽き、財布の中身も空っぽ同然。携帯まで止められ、明日の行く末もわからぬ状態になってしまった。
「はぁ……」
本日何度目の溜息だろうか。タケヤは一休みしようと古びた公園に立ち寄り、塗装の剥げたこれまた古臭いベンチへと腰を下ろす。
いい加減に危機感を持ち、今日こそは仕事を見つけようと、家から出て駅のほうまで来たのはよかった。しかし、なかなかいい職場が見つからない。本当ならなりふりかまっていられるような状況ではないので、片っ端から履歴書を送るくらいのことをしなければならないのだが。
タケヤは着ていた背広を脱ぎ、ベンチに掛けるとネクタイを緩めた。そして、ぼんやりと空を仰いで一言。
「やっぱやる気起きねぇな」
これである。餓死あるいは衰弱死という命の危険があったために、やっと重い腰を上げて就職活動を始めたが、実際、タケヤという人間はいつだって無気力なのだ。本人にも自覚はあるし、まずいなぁとは思っているものの、どうしても積極的に動くことができないうえ、やる気というものがまったく起きない。
「まったく、我ながら本当に腐ってんな」
と、タケヤはぼんやりと自嘲的に呟いた。
随分前までの彼は今からは想像つかないほど活発で何にでも積極的だった。小学校のときは当然の様に何にでも真剣に打ち込んでいたし何をやっていても楽しかった。中学、高校に上がってもそれはあまり変わらず、小学校から続けていたバスケットではインターハイにもレギュラーで出場した。あの頃は将来にだって希望を持っていたはずだ。しかし、高校三年の頭くらいだったからか、何時の間にかバスケット部には顔を出さなくなり、その頃には既に何をやっても楽しくなく何事にも熱中できなくなっていた。
「そういやアレ以来か……」
記憶を巡り、そう口に出した直後、まるでその言葉を遮るかのごとく、ぐーっという情けない声で腹の虫が鳴いた。
「……腹減った」
そういうと、また一つ、大きな溜息を空に放った。もう最後にまともに食事を摂ったのも思い出せない。タケヤはズボンのポケットから黒い長財布をとりだし、手の平の上で逆さにして振ってみた。
数枚のコインが手の上に落ちる音。はなっから札が入っていないことは知っている。タケヤは落ちてきたコインを大事そうに一枚一枚丁寧に数えた。十円玉が四枚と五円玉が一枚、それと一円玉が三枚で占めて、四十八円。
駄菓子でも買えってか。
タケヤは何かを諦めたように小銭を財布の中に戻しそれをポケットに入れた。
「腹減った。これしかなくて、これからどうすりゃいいんだ。」
囈言のように呟き雲をみる。
「―――美味そう」
その空腹感からか雲すらも美味しそうに見えてきた。
「ん?」
と、不意に視界の隅に何かが映り、タケヤは気になって視線を落とした。
タケヤの頭にいくつものハテナマーク。さっきまでには見覚えのないものがそこにいた。というよりも、先ほどまで居なかったのだから現れたというほうがただしいのか。
それは一人の可愛らしい少女だった。小学校一年生か二年生程度、黒く長い髪に白のノースリーブのワンピース。その手には何が入っているのか、めいっぱい膨らんだ小さな手提げのバックを持っている。そして、そのくりくりとした瞳は何故かタケヤの方をじっと見つめていた。
どうしたんだろう、と思い辺りに少女の両親ないしは友達の姿を捜す。が、それらしき人物は見当たらない。それどころか公園にはタケヤとその少女の二人しかいなかった。
とりあえず下手に関わってロリコンの不審者扱いされたら嫌だなぁと日和見根性全開で目線を逸らしたり口笛を吹いたりしてみるが、少女はただずっとタケヤの方を見据えている。
結局先に耐えられなくなったのはタケヤのほうで、少女と目を合わせて、
「どうしたの?」
と、少し引きつった声で訊ねた。子供になれていないために微妙にどう対応したらいいのかわからからず内心で悩みつつも、どんな答えが返ってくるのか、それとも返ってこないのか、と少しビクつきながら返答を待つ。
どれ程度時間だったか、少女がふと口を開き舌っ足らずに言った。
「おじさん、お腹がすいてるの?」
その言葉に一瞬タケヤはきょとんとしてしまう。別に二十五歳なのにおじさんと呼ばれたからとか、そういうチャチな理由じゃない。小学生だろうお子様に突然お腹の心配をされるとは思ってもみなかったからだ。まぁ、確かに空腹の絶頂ではあったが。
「私のお願い聞いてくれたら、これあげるよ?」
あまつさえ菓子パンまで差し出されてしまった。流石の俺でもまさか、小学生から食べ物を恵んで貰う訳にはいかない。と、今をときめくニートのタケヤにだってそれくらいのプライドはあった。
タケヤはどうにか菓子パンの誘惑に耐えながらそれを振り切ると、ふと、今、彼女の言ったことに対する疑問について尋ねた。
「確かにお腹はすいているけど、さすがに君からから食べ物を貰うわけにいかないよ。それよりもお願いって何?」
多少は慣れたらしい。今度は声が引きつっていなかった。
女の子は返されたパンを見て少しの間考えていたが、
「パン食べたら教えてあげる」
と、もう一度パンを差し出してきた。
何を考えているんだこの子は? そんなにも俺がパンを食べることが重要なんだろうか。そんなことを考えつつも、自分の中で何時の間にやら妙な葛藤がうまれていることに気がつく。頭の中で悪魔と天使が囁いているのだ。さっさとパンを貰ってとトンズラこいちゃえよ、いえいえ、パンを貰ってきちんと彼女のお願いを聞いてあげるのですよ、と。
天使と悪魔対タケヤのプライドの葛藤。
―――つか、どっちも貰うの前提かよ。
⇔
どれほどの時間タケヤの安っぽい葛藤が続いたか、気付けば女の子の手に握られていたパンはタケヤの口の中に入っていた。天使、悪魔同盟の圧勝。見事、タケヤは菓子パン一つでこの目の前の少女に買収されたのだ。
「あ、このあんぱんうめぇ」
言うが否や、パンを一気に口に頬張り、幸せそうにそれを噛み締めるタケヤの姿を少女は嬉しそうに眺めていた。
そして、タケヤが食べ終わるのを待ち、彼女は楽しそうに口を開く。
「おいしかった?」
まぁ、極々普通の質問。タケヤは、口の周りについた餡を指先で拭いながら、
「すごくうまかった。今までで、食ったあんぱんでは間違いなく一番だな」
と、優しく答える。確かに、そのあんぱんは、彼が今まで食べた中では確実に一番と呼べるほどおいしいあんぱんだった。焼き上げてからどれくらい経ったかはわからないが、生地の表面は香ばしく、中はふんわりとしている。そのうえ餡は丁度良いい甘さ。こしあんなのもタケヤの好みで、その辺のコンビニで売っているのとは比べ物にならないほどに美味しい。
彼女はその、タケヤの言葉を聞き、一層、嬉しそうに表情を輝かせると、ににこにことしながら次の言葉を紡いだ。
「じゃぁ、カナミのお願い聞いてくれる?」
当然、タケヤも二つ返事。
「あぁ、いいよ」
もうあんぱん貰っちゃったし、どうせ、子供のお願いなんかたいしたことないだろうと。それにこの時点ではこのお願いっていうものよりも、むしろ、この子がカナミという名前だということの方に関心がいっていた。
しかし、それから彼女が続けた、その台詞に一瞬、タケヤは言葉を失ってしまう。
「今日一日……、カナミのドレイになって?」
沈黙。そりゃぁもう長い沈黙が二人の間に流れる。
少女、カナミが何を言ったかを理解するのに少々の時間を要した。そして、理解した後も、その言葉の意味を理解するのに更に時間を要した。あげく、やっとこそ言葉の意味を思い出した後も長い間、タケヤの頭の上には疑問符が浮き続けていた。 なんで、こんな十歳そこらの女の子が奴隷なんて言葉知ってるんだ? つか、そもそも、意味わかって使っているのか? と。
「…………は?」
沈黙を破り、どうにかタケヤが搾り出すように発した言葉はその一言だった。
しかし、その言葉を聞いたカナミは、「だーかーらー」とタケヤの内心を知ってか知らずか、不服そうに口を尖らせ、もう一度、
「おじちゃんはカナミのドレイになるのっ!!」
と、語気を強めて繰り返した。
「えーと……」
これにはタケヤも困惑する。どうしたものかと。タケヤだって、別に目の前の女の子がどんなお願いをしてくるのかを予想していたワケではない。はっきり言って考えなしにあんぱんを口の中に放り込んだのだ。まさか、こんなぶっ飛んだお願いをされるなんて思いもせず。
まぁ、これくらいの子供が大人には理解しがたい考えや行動をとるのは当たり前と言えば当たり前なのでタケヤにも非があるのだが。
タケヤは少し考えて、先ほども頭を過ぎった疑問をカナミにぶつけてみた。
「カナミちゃんは奴隷って言葉の意味って、ちゃんとわかって言ってるのか?」
すると、彼女は一瞬考え込むように「んーと」とを表情を曇らせると、また、すぐにぱっと明るくなって、
「ゴシュジンサマの言うことを何でも聞くのっ!」
と元気いっぱいに答えた。
あぁーこれぐらいの子って表情がころころ変って可愛いよなぁ、なんていう現実逃避。
「ぇぇと、ちゃんとわかってるのな」
はは、と苦笑いをしながらタケヤはこれからどうしようかと悩んだ。
まさか一日とはいえ、こんなちっこい女の子に奴隷扱いはなぁ……
「ごめん、俺用事あるんだったわ」
結論。逃げてしまおう。どうせ、ダッシュで逃げちまえばわかんねぇし、顔なんて覚えてられないだろう。それに仮に覚えていたとしても二度と会うことなんてないだろうから。
そう思い、ベンチからゆっくりと腰を持ち上げる。そして、いっきに走りだそうと片足を前に踏み出した直後、突然軸足を引っ張られ盛大に顔面から地面へとダイブした。公園の妙に粒子の粗い砂への熱い口付け。
痛みを堪えながら、ぶつけた顔を押さえ、タケヤは何事かと後ろを振り向いた。
すると、そこにはそのくりくりとした大きな瞳いっぱいに涙を溜めながらタケヤのズボンの裾をしっかりと掴んでいるカナミの姿が。
「お願い聞いてくれるって言った……っ!」
今にも泣き出しそうな声。
「あの、いや……、ほら、冗談、冗談だからな? 大丈夫だ、ちゃんと約束はまもるから。な、だから泣かないでくれ」
そのカナミの表情を見て慌ててタケヤはその場を取り繕うとする。
間もなく、カナミはタケヤがちゃんと自分との約束を守ると思ったのか、涙を拭いてタケヤに向かってにっこりと笑った。それはとても愛らしい表情で、
「仕方ないよな……」
やむなくタケヤは今日一日カナミちゃん専属の奴隷になることとなった。
⇔
あれからすぐカナミは思い立ったようにタケヤの手を引いて歩き出し、二人は一時間近く街をさ迷い歩いていた。その間、カナミはタケヤの右手人差指を決して離そうとはせず、いい加減タケヤの指も妙な痺れを覚え始めていた。
「んー…………」
何か悩んでいるのかカナミは歩きながらうなっている。
タケヤが彼女のいう《ドレイ》になってから二人はいくつかの会話を交わした。その中でお互いの簡単な自己紹介をして、タケヤは彼女の本名が《しのかなみ》であること、彼女の年齢が7つで小学校一年生であること、その他にも、彼女には歳の離れた兄がいて現在はその兄と父親と母親と四人暮らしであることなどを知った。
またその会話で、タケヤが「これからどうするの?」と尋ねると、カナミは一切の間もおかずに「アルを探すのっ!!」と元気いっぱいに答えてくれた。これには、先ほどカナミの発した奴隷になってくれ発言の時同様、タケヤの頭の上は大量の疑問符でいっぱいにさせられた。
犬か猫かなんかか?そう思いながら素直にカナミに疑問をぶつけてみる。
「アルって?」
シンプルな質問。
すると、それを聞いたカナミは不機嫌そうに口を尖らせた。
「アルはアルだよっ!」
ほぼノーヒントじゃねぇか。タケヤはそう心の中で毒つく。
「えぇっとそうじゃなくてさ」
「アルはアルなのっ!」
取り付く島もない。
結局タケヤは「仕方ねぇ……」と呟き、その疑問の答えをカナミに求めるのを諦めた。
それからタケヤは、公園とかを回っているんだからきっとアルは猫かなんかなんだろう。で、わざわざ奴隷を手に入れて一緒に探させようと思ったのか。と充分な推測を交えつつ自分なりに結論付けた。それで現在も奴隷なりにそのアル探しに同行し、というか同行させられ街中を歩いているのだ。
連れられている間タケヤはなんとなく手綱を持たれている馬のような気持ちになった。実際に処遇としては似たようなものなのだが。
カナミの方はと言うとあいかわらず「んー」と考え込みながら、時折、思い立ったようにタケヤの指を引っ張っていろんな方向へと歩を進める。たまに猫の姿を見かけるとそっちの方へと走り出すところを見るとタケヤの考えもあながち的外れではなさそうだ。
だが、ふと、タケヤは疑問に思った。先ほどから公園などを回ってはいるが猫の集まりそうなところにはほとんど行ってないし、猫だって行き当たりばったり的にしか接触していない。まぁ、猫というのはタケヤの勝手な考えで猫じゃないのかも知れない可能性も未だ無きにしも非ずだが。それにしたって回っているところに規則性が見つけられない。公園だったり商店街はまぁいい。百貨店とかコンビニとかはたまたゲームセンターとか、かけらも猫のいそうな雰囲気のする場所ではない。
「カナミちゃんはどこに向かっているの?」
一生懸命何かを考えながら歩いているカナミ。その思考を遮って質問してもいいものだろうかと一瞬タケヤは躊躇った。が、一応確認しておかなきゃ、と思いタケヤはカナに尋ねた。無駄足はこれ以上しんどいしと。
「ん?」
それを聞き、うなるをやめてカナミはタケヤの方に向き直った。
「えっとね」
彼女にはどのような考えがあるのか。いろいろ予測しながらタケヤはカナの次の言葉を待つ。それから、彼女はまた考え込むように口を閉じてしまったが間もなく
「わかんないっ」
と、タケヤがその場にずっこけそうになるような答えを返してくれた。
そして、結局、タケヤがカナミの手を引いて街を捜索することにする。
もし早くアルがみつかったら、すぐにでも解放されたかもしれないのに。と一時間も無駄足をしてしまったことにタケヤはその場で頭を抱えたいような気持ちになる。
タケヤ自身、元々ふらふらしていただけだったので予定などべつにない。しかし、自分にまったく関係のないことのために時間を割くのはあまり乗り気のするものではなかった。とにかく、タケヤは早く彼女から解放されたかった。まさか、パンを貰ったときはこんなに長い時間拘束されるとは思わなかったし。何よりもこんな姿を知り合いにでもみられたりして要らぬ誤解を招くのは避けたかった。そもそも知り合いに会って今の自分のニートという現状を知られるのはもっと避けたいのだが。
とりあえず、しっかりと指を掴むカナミの手を引いて一番近い猫の集まりそうな公園へと向う。その途中何度か路地裏を覗いたりもした。その内数回は猫の餌場になっているのか数匹の猫が集まっている場所にも出くわし、
「あの中にアルはいる?」
とその度にタケヤはカナミに尋ねたのだが、その都度カナミはその猫の群れを見つめ、少ししてから
「……いない」
と、寂しげに首を振るばかりだった。
結局、公園についてもその状況は変ることがなく、いろんな場所を巡り何度も何度も、数え切れないほどにそのやり取りを繰り返すうち気がついたらもう、夕暮れも沈みかけ辺りは綺麗なオレンジ色に染まっていた。
⇔
もうどれくらいの距離をあるいたか。時計を持っていないので厳密な時間はわからないが、タケヤがカナと会ったのが正午前、だいたい今の季節で日が暮れ始めるのが六時過ぎくらいだから、単純計算で六時間は歩きっぱなしの計算。まだ春も中頃とはいえ、充分に暖かいために全身は汗でびっしょり濡れている。それに、高校時代はバスケット部のエースだったが、現役を退いて久しく、挙句、最近は家でごろごろするばかりの生活だったので、タケヤの足はすでに棒のようになっていた。
もう、何件ぐらいの公園をはしごしただろう、今まで見た中ではひときわ小さな公園に入り、偶然猫の集団を見つけ、それでも、アルを見つけられなかった時にタケヤはカナに向かって、もう諦めないか? と、提案していた。
それを聞いてカナミはキョトンとするも、すぐに表情を元に戻し
「やだっ」
と短く言って、またタケヤの指を掴んで歩き出そうとした。
しかし、今度はタケヤもその場に踏みとどまる。カナミはそのおかげで一瞬バランスを崩しかけるがすぐに持ち直した。そして、すぐにタケヤの方をきっと睨むと、早く行くよと言わんばかりに何度もタケヤの指を引く。
けれど、それでもタケヤは動かない。
「もう、いいかげん時間も遅い。そろそろお家に帰らなきゃ父さんと母さんが心配するんじゃないのか?」
両手を膝に付き、前かがみになって彼女の目線に合わせて、しっかりと彼女の目を見つめる。
「やだ」
そんなタケヤから目線を外しながらさっきよりも弱々しくカナミは言った。
「これだけ捜していないってことはもう、もっとどこか遠くに行っちゃったんだよ。あるいは、別に拾われちゃったとか、もしかしたら……」
もうどこかで事故にあって死んじゃっているのかもしれない。別に、帰るための口実とかではなく、一つの可能性としてタケヤはこのことを考えていた。
猫という動物は犬と違い、車などが急に迫ってくると前後に避けようとせずに、その場ですくんでしまう習性がある。その為に様々なところで猫の事故死が相次いでいるのだ。それに、猫というのは人前では死なないらしく、自分の死を悟った猫というのは飼い主の許から姿を消すらしい。故に、そのアルがすでに死んでいるということは大いに考えられることだった。
「やだっ! まだ捜すのっ! 見つかるまで帰らないのっ!!」
タケヤのさっきの言葉の先を幼いながらに予測したのだろう。もしかしたら、彼女の頭の中にもその《死》という言葉が薄々過ぎっていたのかもしれない。カナミは瞳にいっぱいの涙を溜めながら声を荒げる。その言葉の最後の方では泣きそうなためか泣いているのか完璧に声が震えていた。
そのカナミの様子にタケヤは少々弱ってしまう。こんなところで泣かれたらたまったものではない。世間体云々ではなく、素直にタケヤ自身の良心においてだ。
「もしかしたら、今日じゃ見つからないかもしれないよ」
タケヤはあやす様に優しい言葉を選びながら丁寧に声にだした。
「いや……みつけてあげるの。」
それでも彼女の答えは変らない。
「どうしてそんなに意地になるの?」
先ほどと同じ口調。それを聞いてカナミはまた、黙り込んでしまった。
セミの声だけが騒々しく辺りに響いている。
どれほど、そんな時間が続いたか。
搾り出すような小さな声でカナは言った。
「諦めちゃだめなのっ! 仕方ないとかもう駄目だとかヒテイテキな言葉で逃げちゃ駄目だから。セッキョクテキに諦めずに努力していれば、絶対にムクワレルんだがらっ!!」
十歳そこらの少女の口から発せられたとは思えないような言葉。
『馬鹿野郎、諦めんなよ。仕方ねぇとかもう駄目だとか、無理なんだとかやっても意味ねぇとか、んな否定的な言葉ばっか並べて逃げてんじゃねぇよ。どんなことだって諦めずに努力してりゃぁ遅かれ早かれ必ず報われんだ。壁だって超えられるだろ。だから、否定的な言葉が頭を過ぎってもよ、逃げんなよ。一度逃げたらこの先だって絶対どこかで同じように逃げるんだぞ。』
タケヤは不意にその少女の姿に自分の姿を重ねてしまった。
高校時代、タケヤはそんなことを後輩に言っていた。そして、それを自分にも言い聞かせて、キツイ部活の練習もこなしてきたし人一倍何事にも努力もしてきた。
だけど―――最終的にタケヤはそれが間違いだと嫌と言うほどに思い知らされた。
「そんなことないよ。やっても無意味なことだってあるし、どうしようもないことだっていくらでもある。時には諦めなきゃいけない時だってあるんだよ」
カナミの肩を両手でつかみ。言う。重く静かに。まるで自分に言い聞かせるように。
すると、カナミはその小さな両手を震わせると、肩に乗せられていたタケヤの両手を振り払い走り出した。そして、ある程度距離を置いて、カナミはまたタケヤの方へ振り向く。
「じゃぁ、もう一人で捜すからいいよっ! タケヤなんかもう知らないっ!」
それだけ言うとカナミはまた、踵を返し公園から走り去ってしまった。
その姿を見送って、タケヤは溜息をつくと、ゆっくりと立ち上がり。そして同じような動作で古びたベンチへと腰を下ろす。
「ガキ相手に何言ってんだ俺は」
自己嫌悪。タケヤはポケットに入っていたタバコの箱を取り出す。中にはたった一本残っていたタバコ。それを口に銜え火をつけようとするが、中々火がつかない。そして、その火のつかなさに苛立ったのか、それとも、別のことに苛立っていたのか。そのタバコを思い切り地面に吐き捨てた。そして頭を抱える。
「何やってんだ俺は」
高校時代の記憶。
どうしようもなくキツかった練習。
減っていく仲間。たった一人、足に爆弾を抱えながらも必死に練習についてきた後輩。
そして、インターハイ予選で、ついに立ち上がれなくなった後輩。
「本当に……何やってんだ俺はっ」
関係ないだろ、今は昔のことなんて!
気がつけばタケヤは公園を飛び出していた。
子供の足だ、そんなに遠くには行っていないはずだ。
もう、足は疲れ果てている。現役の頃に程遠い、全力になんて届かない速度ではあったが、それでもカナミを必死で探した。ふくらはぎが悲鳴をあげてる。だけど、そんなのはお構いなし。ひたすらに、彼女の姿を捜した。
と、どれだけ走ったか。不意に、建物の塀越しに見えた木の上に白い影を見つけた。
「あんなとこに」
空き地の高い木の上どうやって登ったのか、地上から5メートルくらいのところに彼女はいた。太い枝の上で四つん這いになってバランスをとりながら枝の先の方を目指している。そして、彼女の視線の先には一匹の黒い猫の姿があった。
彼女はゆっくりとしたペースで猫の方へ向かう。
タケヤは下手に気を散らして、彼女がバランスを崩さないように黙って、その様子を見ていた。
ゆっくり、ゆっくり。慎重に、慎重に、彼女は猫に近づいていく。
そして間もなくカナミが「アル」と呼んで小さく手を叩くと猫はカナミの胸の中へと飛び込んできた。
カナミは満面の笑みで猫を抱きかかえる。そして、不意にタケヤに気がついたのか「捕まえたー」と、さっきのタケヤとの口論が嘘のように嬉しそうに大きく手を振った。
「馬鹿、やめろっ!」
直後、カナミの体はバランスを崩し、大きく右側に傾いた。
「へ?」
刹那、カナの身体は枝から離れて宙に舞う。
すぐにタケヤは気の下へと駆け出していた。現役時代でも間に合うかわからない距離。
無理だ間に合わない。そんな言葉が一瞬、頭を過ぎった。しかし、すぐに、そんな考えを頭の外へと追い出す。
間に合わないじゃない、間に合わせる。
無我夢中でタケヤは走り、気がつけばカナの落下くる地点へとタケヤは飛び込んでいた。
⇔
もう日が完全に沈みきっている中、タケヤはのんびりと歩いていた。
その上にはカナミが肩車されており、さらにその肩の上にはアルが暢気に喉を鳴らしてへばりついていた。
タケヤの着ていたYシャツの前の部分は砂で茶色くなり、その両肘には可愛い花柄のバンドエイドが貼られている。このバンドエイドはカナが持っていたトートバックから取り出して丁寧にタケヤの血が出ている部分に貼り付けたものだ。
「カナちゃんの家はこの辺?」
「うん、そうだよ。そこの角曲がったところ」
さすがに時間も時間で一人で帰すわけにはいかなかったのでタケヤはカナのことを家まで送ることにした。それでも、当然両親に顔を見せるつもりはない。
カナミがなんて言って家を出てきたかは知らないがこんな小学生をこんな時間まで一人で外出させるつもりはなかっただろう。下手にカナミをつれて両親に顔を出しては児童誘拐犯宜しく、警察に通報されてもおかしくない。だから、家が見える位置までという条件をつけて送り届けているのだ。
「じゃぁ、その角曲がったらお別れしよっか」
「……うん」
さっきまでの元気が嘘のようにカナは小さく頷く。
寂しいと思ってくれてるのかな? タケヤ自身もそのカナミの反応に嬉しかったり、寂しかったりと複雑な心境ではあったものの、角を曲がった直後にそんな気持ちとかそういうものは吹っ飛んでいった。
「加奈美っ!」
角を曲がった瞬間に男と目が会った。
タケヤと同じくらいの年齢に見える男。父親にしては若いから、年の離れた兄妹といったところか。彼女はカナミの名前を呼ぶとゆっくりとこっちに近づいてきた。
タケヤの全身に冷たい汗が噴出す。
咄嗟にタケヤはカナミを肩から降すと、踵を返して走り出そうとした。
が、直後、男から思いがけない言葉を耳にする。
「一ノ瀬先輩ですか?」
一ノ瀬武也は男の口から自分の苗字を聞き、ゆっくりと振り返った。
「やっぱり、一ノ瀬先輩じゃないですか! 覚えていないですか? 俺ですよ、宮商バスケ部の後輩の志野、志野和輝です!」
あぁ、忘れてないさ。はっきりと顔を見て、声を聞き、しっかりと思い出した。バスケ部で膝に爆弾を抱えていた後輩。にも関わらず自分がしょうもない精神論で追い詰めて、散々自分達と同じメニューで練習させたあげくインターハイ予選で歩けなくさせた後輩。
そうだった。俺は、こいつをそんなになるまで追い詰めて自分が責任を追及されるのが嫌で、そんな空気にいるのが嫌で部活にいかなくなったんだ。俺のせいで怪我をさせたのに。頑張ればなんでもできる、なんて無責任なこといって。かっこつけて調子にのって、挙句に、謝ろうともせずに逃げ出して。あぁ、言い忘れてたよ。
「悪かった。俺のせいで大怪我させて。俺のせいで大変な思いをさせて」
道のど真ん中で膝をついて武也は謝った。今にも土下座しそうな勢いで。
今更過ぎるということは武也自身も重々承知のこと。それでも謝らなければという気持ちがあった。
しかし、それをみて志野和輝は慌てて「へっ!? いや、違いますって! とりあえず頭上げてください!」と、無理やり武也を起き上がらせた。
「全然、先輩のせいじゃないですって!」
「でも、俺があんな無茶ばかり言って、それでお前あんな怪我を」
「そんなの当たり前じゃないですか。先輩当時、3年生いなくて最年長でしたし、他の2年生とか顧問もやる気なかったから先輩がああでもしなきゃマトモなチームとして成立してませんでしたよ。」
和輝は涙を浮かべて謝罪をしている武也に向かって笑いながらいった。
「それにね、感謝しているんですよ先輩には。先輩がああでも言ってなかったらバスケットなんて諦めていましたから。先輩のおかげでこんな爆弾抱えた身体でもレギュラーとることができたんですもん。確かに最終的には膝壊しちゃって部の皆には迷惑掛けちゃいましたけど、キツイ練習にも耐えてインターハイに行ったときは本当に嬉しかったです。今でも忘れてませんよ先輩の口癖。仕方ないとかもう駄目だとか、無理なんだとか意味がないとか、否定的な言葉を使って逃げようとするな」
「諦めずに積極的に努力を続けていればに必ずいつかは報われる」
和輝の言葉に武也が引き継ぐように言う。それを聞いて和輝は嬉しそうだった。
「覚えていたんですか」
「いいや。カナミが言っていたから。それで思い出した。我ながら本当に臭すぎることを言ってたよ」
「まったくですね。それでも俺の中でも今でも大切な言葉ですよ。だから加奈美にも教えて……」
ふと、思い出したように和輝の視線が武也にピッタリとくっついているカナミの方へと移った。
「そういえば、なんで二人で一緒にいるんですか?」
「え……あぁ、それは」
「あ、ちょっと」
二人でいた経緯について話そうと武也が口を開こうとした直後、不意に和輝の声がそれを遮った。
「立ち話もなんですし、うちにあがって行ったらどうですか?」
その言葉を聞きカナミが嬉しそうに「そうしなよ」とズボンひっぱる。
「あ、いや、俺は別に……」
そう武也は断ろうとしたのだが―――
カナミの言葉と表情に断りきることができず、志野家にあがることとなった。
そして、カナミが風呂に入っている間、武也は今日一日あったことを簡単に話した。
⇔
「そりゃぁ災難でしたねぇ」
楽しそうに笑いながらそう言った。
結局、なんだかんだで夕食までご馳走になり、現在は和輝と二人、今で酒を呷っている。
カナミはというと、余程今日一日で疲れたんだろう。風呂からあがった途端に糸が切れたようにリビングの絨毯の上で眠りこけてしまったために、先ほど和輝が抱きかかえて彼女の部屋まで連れて行ったのだ。今頃はベッドの上で気持ちよさそうに寝息をたてているだろう。
「笑い事じゃねぇよ……。奴隷なんて言葉どこで覚えさせたんだよ。今時の小学校ってのは低学年で南北戦争を教えるのか?」
そう溜息をついて、つまみでおいてあった柿の種を口に運んだ。
「さぁ……。最近の子供はませてますからね。僕も時々驚きますよ。そんな言葉どこで覚えてきたんだよって」
相変わらず和輝は楽しそうに言うと持っていた残り少ない缶ビールを喉をならして飲み干す。そして、武也にとってはかなりキツイ質問を浴びせた。
「そういえば、先輩今何してるんですか?」
と。沈黙が降りる。武也はどう返したものかと考えるが、もう考え込んでしまった時点でもはやダウト。武也の笑いが苦笑いに変り、和輝の表情も徐々に曇っていった。
「いや、なんか、すみません」
申し訳なさそうに和輝が先に口を開く。
「別に気にするな。もう、言い訳のしようがないくらい完璧にニートだから。それで今日も一応、就活のつもりでスーツ着てんだよ。今日も結局駄目っつぅか、まぁ駄目だったんだけどな。面接とかじゃなくて、まず就職先探しからな。」
諦めたようにそう言うと武也も和輝と同じようにビールを飲み干した。
空気が一層沈み込んだことに気付き、どうにかフォローしようと続ける。
「まぁ、やる気自体も微妙だったし、明日からこそ頑張ろうとな! カナミにもなんかやる気貰ったし、昔の後輩にも会ったしな」
武也はどんどんと墓穴を掘り挙句埋まっていくような錯覚を覚えた。
結局また無言の空間。
しかし、和輝の表情は先ほどとは一転して曇ったものではなく何か考え込むようなものになっていた。
「あの、先輩?」
「ん?」
どれだけお互い喋らなかったか。またも先に口を開いたのは和輝気だった。
「よければうちの会社で働きませんか?」
「へ?」
武也は和輝の言葉に情けない声をあげてしまった。
「いやぁ、うちベンチャー企業なんですけどね、本当に人手不足で……。先輩確か高校でエクセルとかワードとか地味に得意だったじゃないですか、それに一応は大学にも行ってますし。それで、もし僕のとこでよければと思ったんですけど……」
それは武也にとっては願ってもない申し出だった。
「あ……あぁ! 俺なんかでよければ是非!!」
当然の返事。昨日の武也ならともかく今日はいろいろあって、それでいて妙な重荷が外れた武也が断る訳もなかった。
⇔
「じゃぁ、仕事の話はまた明後日ということで」
「いや、本当に悪かったな何から何まで」
武也は靴を履きながら見送りに着てくれた和也にそう答えた。あれから少し飲んで、もういいかげんいい時間だからとお暇することにしたのだ。武也は靴べらを借りてボロボロで土にまみれた革靴を履く。まったく、こんなになるまでよく歩いたもんだ、と武也は妙に嬉しくなる感覚を覚え、ガキっぽいなと苦笑した。
そして、つま先で地面を叩く。と、不意に奥の扉が開き、
「もう帰っちゃうの?」
と、愛らしい淡いピンク色のパジャマにナイトキャップを被り、小脇にアルを抱えたカナミが入ってきた。さっきまで眠っていたのだろう、目はとろんとして、さっきから眠そうに目をこすっている。アルはアルで小脇に抱えられるという無茶な体勢にも関わらず、目を瞑って喉を鳴らしている。
「時間も遅いからね。そろそろ帰らないと。」
靴を履き終えてカナミの方へ向き直ると中腰になって言った。
「……うんわかった。じゃぁ、また今度遊んでくれる?」
あぁあれは遊びだったのか。武也はカナの言葉に再び苦笑する。
そして、微笑んだ。
「当然ですよ、お姫様」