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ベルゼブブ

掲載日:2026/08/02

 ベルゼブブ。

 蝿の王として、あまりにも有名なキリスト教においての悪魔。

 元々は天候神バアル・ゼブルであるとされ、これが悪魔として扱われるようになったのは、キリスト教による異教へのネガティブキャンペーンに過ぎず、蝿の王とされたのも、単なる言葉遊び的な蔑称であって、本来は蝿とは何の関係もなかった。が、腐食や死体、疫病などを連想させる蝿の負のイメージがあまりに強い為か、その特性は物語の中などでよく強調されている。そして、反対に蝿からベルゼブブが連想されるようにもなり、キリスト教とは何の関連もない蝿のキャラクターにまでベルゼブブという名が付けられる事もある。

 ――多分、僕が住む街で噂になったUMA的な巨大な蝿が、“ベルゼブブ”と名付けられたのも、その所為だと思う。キリスト教の悪魔とは何の関係もないのだ。ただし……、

 

 「沙世ちゃん。今日、一緒に帰ろうよ」

 

 高校の休み時間、教室でそう僕は長谷川沙世ちゃんに話しかけた。それを聞くなり沙世ちゃんは顔を大きく歪め、“お前は馬鹿か?”とでも言いたげな口調でこう返した。

 「は? なんでよ? アキ君。わたし、今日は買い物して帰るから遅くなるって言ったでしょ?」

 「だからだよ」と、それに僕。因みにアキは僕の名前だ。フルネームは、村上アキ。

 「だからって?」

 「ベルゼブブの噂は知っているでしょ? 夜に一人で歩くのは危険だって。僕がボディーガードになってあげる」

 その僕の言葉に沙世ちゃんは「はあ?」と攻撃的な疑問符の声をぶつけて来た。

 「ベルゼブブなんて噂を信じているの? あんなのデマに決まっているじゃないの! 映像だって生成AIだったんだし」

 今、僕らの住む街では、ベルゼブブと呼ばれている巨大な蝿の目撃例が相次いでいる。ただ、鮮明に撮られたものは全て生成AIの偽物だと判明していて、それ以外の動画や画像は夜中にしか出没しないという事もあってか、はっきりとは映っていない。撮影した人の証言によると、素早く変則的な動きをするものだから、巧くカメラに捉えられなかったのだそうだ。

 「……でも、僕も聞いたんだよ。羽音を」

 「ああ、前にそれで目が覚めたって言っていたやつ? でも、羽音だけでしょう? 絶対に何かの勘違いだって」

 数日前、ブーンという低周波の音で僕は夜中に目が覚めたのだ。その時、気の所為かもしれないけど、窓の外に何か黒い影が飛び去って行ったようにも思えた。もしも、あれが蝿なのだとすれば、通常の体長の100倍はある。巨大蝿。明らかに異常だ。

 「けど、用心に越したことはないよ。被害者もいる…… のかもしれないのだし」

 「そんな事を言って、本当はわたしと帰りたいだけなんでしょう?」

 「それもあるけれども」

 多分、6割くらいは。

 沙世ちゃんは大きく溜息を漏らした。そこでチャイムが鳴る。

 「ほら、授業が始まるわよ。くだらない事を言っていないで、自分の席に戻りなさい」

 彼女は“シッシ”と僕を追い払う仕草をした。

 どうも真面目には取り合ってもらえないようだ。本当に心配もしているのに……。僕は憮然と自分の席に戻っていく。

 「フラれたみたいだね」

 その途中で声をかけられた。杉平という男子生徒だった。嬉しそうに笑っているその顔は、冗談半分でからかっているのか、それとも本気で馬鹿にしているのか分からなかった。僕は不快感を覚える。

 彼は平気で悪意を他人にぶつけるようなところがある。その所為で昔からトラブルをよく起こしていると聞いている。

 正直、僕は彼がちょっと苦手だった。暗い性格にも色々とあるけれど、彼は陰湿で嫌なタイプのような気がする。

 「幼馴染だからって、女の子をあまり気楽に誘うもんじゃないよ」

 ニヤニヤしながらそう続ける。僕が彼女から拒絶されて、彼は喜んでいるように思えた。

 「別に気楽にって訳じゃないよ。実際に突然死も起こっているのだし」

 ベルゼブブが目撃されるようになった少し後くらいから、この辺りで突然死が発生しているらしい。

 ――原因不明で、突然人間が死んでしまうのだ。外傷なし、持病もなし、大怪我をした過去もなし。でも、死んでしまう。そして、それがベルゼブブの仕業じゃないかと一部で噂になっているのだった。

 もっとも、話題になっていないだけで、実はそれくらいの突然死は頻繁に起きていて、それがベルゼブブの噂話の所為で印象深く関連付けられて語られているだけだという話もあるから真相は分からないのだけど。でも、それでも無視はできない。何故なら、つい最近、この学校の生徒も亡くなっているからだ。しかも二人も。クラスは違うけど、僕らと同じ二年生だ。いずれも男子生徒。

 「心配し過ぎだって。人なんて、案外、簡単に死ぬものなんだよ」

 軽い感じで杉平君はそう言った。僕はちょっと嫌な気分になる。死んでしまった二人は、一年の頃、彼と同じクラスだったはずなのだ。

 「随分と淡白なんだね。君は同じクラスだったんだろう?」

 思わずそう言ってしまう。

 すると彼は肩を竦めて、「そんなに仲は良くなかったし、同じクラスだったのは去年だから、正直、実感が沸かないんだ」などと応えて来た。

 まるで、“どうでもいい”とでも言いたげだった。もしかしたら、不器用でそういう風に見えてしまうだけなのかもしれないけど、それでも普通ならクラスメートの死にショックを受けている振りくらいはするだろう。

 僕は彼の無神経な態度に腹が立った。

 だから、何も返さずに、そのまま自分の席に戻ったのだ。ただ、席に戻って冷静になってからふとこう思った。

 ……彼はもしかしたら、沙世ちゃんが好きなのかもしれない。それで僕に対して嫌味っぽい感じの態度を執ってしまったって可能性もあるか。

 ……まぁ、仮にそうであったとしても、彼の印象はそんなに変わらないけれども。

 

 放課後になった。帰宅の準備をしていると、「おい、村上。ベルゼブブ探しに行かないか?」と同じクラスの友達連中から誘われた。

 「え? 本気?」と、それに僕。

 「本気だよ。もし捕まえたら、賞金100万円なんだぜ?」

 と、一人が真剣そのものな口調で返して来る。どこかは知らないけど、ベルゼブブに賞金をかけた企業があるらしい。多分、本気で見つけるつもりはなくて、話題集めに利用しているだけだと思うのだけど。

 他の一人がこう続けた。

 「お前、ベルゼブブを見たって言っていたじゃないか。協力してくれよ」

 「いや、見たんじゃなくて、聞いたんだよ。羽音を」

 黒い影を見た気もしたけど、気の所為かもしれない。

 「それでも俺らよりはマシだって。俺らは噂でしか聞いてないんだから」

 正直、僕はあまり気乗りがしなかった。どうせ捕まえられないし、もし本当に突然死がベルゼブブの仕業なら探すだけで危険かもしれない。そんな事の為に、貴重な時間を使うのは嫌だった。それで僕が困っていると、

 「何で断らないのよ」

 と、声がした。沙世ちゃんの声だ。

 「一緒に帰ろうって誘ったのは、アキ君の方じゃない。約束をすっぽかす気?」

 見ると、彼女は既に帰る準備を済ませていて、鞄を前に持って僕を軽く睨みつけるようにしている。

 僕はちょっと驚いてしまう。

 「いや、だって……」

 さっきは明らかに僕の誘いを断っていたように思う。が、それから冷静に彼女の発言を思い返して、はっきりとは断られていない事に気が付いた。

 「……ああ、なら、うん。帰ろうか」と僕は変な返事をしてしまう。嬉しいはずなのだけど、予想外だったから、感情がまだ追い付いて来てくれていなかったのだ。

 僕は直ぐに席を立った。友達連中には、「悪い。先約があったんだった」とだけ言って別れの挨拶をした。

 少しだけ、僕が困っているのを見て沙世ちゃんは助け舟を出してくれたのかと思ったけど、きっと考え過ぎだと思う。

 「ほら、行くわよ」

 という彼女の声に促されて、それから僕は教室を出ようとした。そこで杉平君が目に入った。彼は信じられないといった表情で僕を見ていた。その視線には、嫉みも伴っていたかもしれない。悪いとは思ったのだけど、それで僕は思わず笑いを浮かべてしまった。

 “幼馴染だからね。気軽に誘っても許されるんだよ”

 と、心の中で返したけど、もちろん、彼には届いていないだろう。

 

 「僕、そんなに幼く見えるかなぁ?」

 

 と、僕は溜息混じりにそう漏らした。

 沙世ちゃんの買い物が終わって、時刻は既に夕刻を回っていた。暗い道には僕ら以外には誰もいなかった。僕をからかうような感じで沙世ちゃんが言う。

 「わたしが、大人っぽく見えたってだけじゃないの?」

 「いや、それはないって」

 沙世ちゃんは年相応に見える。背だって、僕と同じくらいだ。

 実は買い物途中で店員に僕が彼女の弟だと勘違いされてしまったのだ。それで少しばかりショックを受けた。

 ……確かに、僕の背は低めだけれども。それに少し童顔だけれども。

 沙世ちゃんはミディアムボブの髪型が、やや気の強そうな顔立ちによく似合っていて、人に依るとは思うけど、少なくとも僕は可愛いと思っている。だからこそ余計に年下に見られたのが悲しかったのだ。

 つまりは、カップルには見えなかったという事だから。

 もしかしたら、幼馴染特有の雰囲気が僕らを姉弟に思わせたのかもしれない。

 「そんなに気にするような事じゃないわよ、アキ君。若く見られたんだから」

 「若くじゃなくて、子供っぽいと思われたんだよ!」

 一応、彼女は慰めようとしくれているようだけど、親身な感じはしない。むしろ楽しんでいるように思える。「あははは」と、実際に可笑しそうに彼女は笑った。

 もっとも、その笑いに悪意のようなものは感じられなかった。彼女はカラッとした気持ちの良い性格をしている。陰湿に誰かに嫌がらせをしたりはしない。

 夕闇の所為で表情は見えなかったけれど、きっと悪戯っぽい笑顔を僕に向けているのだと思う。

 “アキ君と一緒にいるのが楽しい”

 まるでそう言われているような気がした。

 僕は彼女の顔がはっきりと見られなくて、少しだけ残念に思った。その顔が見られれば、さっきのショックも一瞬で癒せるだろうに。

 “一歩、近付けば、彼女の顔がもっとよく見られるかな?”

 足に力を込めて踏み出そうとする。しかし、そこで不意に彼女が言った。

 「ねえ? 何か聞こえない?」

 「え?」

 ……彼女の言う通りだった。夕闇はさっきよりも更に濃くなっていて、既に遠くを視認するのは困難になっている。視覚では捉えられない向こう、建物と木々の間の奥辺りから、低周波の不気味な重い音が聞こえて来ていたのである。

 それほど目立つ音ではないけれど、意識を集中させると確かに聞こえる。

 ブーン

 巨大な蝿の音に思えた。

 そう。それは僕が夜中に聞いたベルゼブブの羽音とそっくりだったのだ。

 僕が何か言う前に、沙世ちゃんは駆け出していた。スマートフォンを取り出している。きっと画像を撮るつもりだ。「危ないよ」と僕は声をかけたけど、彼女は止まらなかった。何かあったら護らなくちゃと、僕はバックを盾のように構えながら彼女の後を追った。もしベルゼブブが襲いかかって来たら、それで叩き落すつもりだった。

 音の近くまでに来る。

 木々の隙間、そこを縫うように黒い影が飛んでいた。手の平より少し大きいくらいのサイズ。だけど、シルエットは小鳥のそれではなく、信じられなくらい大型の昆虫に思え、一番近いのは間違いなく蝿だった。

 “ベルゼブブだ”

 沙世ちゃんははスマートフォンを向けた。すると、それに敏感に反応してベルゼブブは、進行方向を変えて躱してしまう。まるでUFOのような動きだった。小さな蝿なら、それくらいの飛行能力はあるだろうけど、このサイズになるとまるで超常現象でも見ているかのようだ。ベルゼブブは、直ぐに木陰に逃げ込んだ。彼女はそれでも諦めず、木々の中に入っていく。僕は「止めた方が良いって」と言ったけど、彼女には聞こえていないようだった。駆けていく。そして、ベルゼブブが逃げ込んだ辺りにスマートフォンを向ける。そこで彼女は固まってしまった。

 追いついてその理由が僕にも分かった。何処にもベルゼブブの姿がなかったのだ。「消えた?」と、沙世ちゃんが呟くのが聞こえた。それから僕らは顔を見合わせると、異口同音にこう言った。

 「ベルゼブブ。マジでいたんだ(わ)!」

 

 次の日、沙世ちゃんは高校の教室で友達と大盛り上がりだった。

 「本当だって! わたし、ベルゼブブを見たんだから」

 信じる人もいれば、疑う人もいる。

 「本当よ。わたしだけじゃなくて、アキ君だって一緒に見たのよ?」

 疑う人には、彼女はそう言って説得していた。

 興奮していたから、僕は彼女がそのまま「ベルゼブブを捕まえる」とでも言い出すのじゃないかと心配していたのだけど、意外にも彼女は「絶対に嫌よ」と断言していた。彼女はクラスの男子生徒達からベルゼブブ探しに誘われたのだけど、その時に。

 「何でだよ? 百万円だぜ?」

 と、一人がそう尋ねると、「でも、皆で協力するんだから、一人当たりにしたら、15万くらいでしょう?」と彼女は冷静な口調で淡々と返す。

 「貰えるかどうかも分からない15万円に労力を割くくらいだったら、確実に稼げるアルバイトをした方が良いじゃない」

 ごもっともな意見だと僕は思った。

 「それに……、」と彼女は続ける。「巨大な蝿なんて気持ちの悪いもんを捕まえたくないわよ。しかも、毒があるかもなのだし」

 ちゃんと現実を見ている。

 沙世ちゃんにロマンを打ち砕かれた男子生徒達は、「なんで、そんな夢がない事を言うんだよぉ?」と抗議をしていた。ちょっと泣きそうだった。

 沙世ちゃんはベルゼブブと衝撃的な遭遇をして大いに盛り上がっていた訳だけど、それでもあまり影響は受けていないようだった。ただ、まったく影響を受けていないかと言うと、どうもそうでもないようで……

 「――帰るわよ、アキ君」

 放課後、そう彼女から言われた。まるで世界の法則で予めそう定めらているかのように。約束も何もしていないのだけど。

 「え? 一緒に帰る約束なんてしていたっけ?」

 夜遅くなる訳じゃないから、ボディーガードも必要ないと僕は思っていたのだ。あっさりとした口調で彼女は返す。

 「なに言ってるのよ? アキ君は、あんな不気味なもんが出る危ない道を、わたし一人で帰らせるつもり?」

 ベルゼブブが出るのは夜中らしいから、今の時間帯なら大丈夫だと僕は思ったのだけど、口には出さなかった。“夜中にしか出ない”というのが間違いかもしれないし、それに彼女と一緒に帰れるのは嬉しいし。

 「分かったよ。帰ろう」

 そう言って僕は席を立った。その時、杉平君が物凄い顔で僕を見ているのに気が付いた。どうも、やっぱり、彼は沙世ちゃんが好きらしい。物凄く嫉妬している……

 

 次の日だった。

 休み時間に自分の席でボーっとしていると、僕はいきなり杉平君から話しかけられた。

 「ベルゼブブのいる場所を知りたくはないかい?」

 ちょっと驚いてしまう。

 因みに、昨日の帰り道はベルゼブブとは遭遇しなかった。まだ明るかったし、そんなに頻繁に遭遇するもんでもないだろうから、そりゃそうだろうって話ではあるのだけど。

 僕が何も返さないでいると、杉平君は薄っすらと笑って、「教えてあげようか?」と続けた。

 もし彼が本当にベルゼブブのいる場所(巣なのだろうか?)を知っているのなら、そりゃ、教えてほしい。でも、その前に疑問がいくつも沸いた。

 「なんでベルゼブブの巣の場所を知っているの?」

 「偶然に見かけたんだよ。巨大な蝿が、戻っていくのを」

 どうして、戻っていくところだと分かったのだろう? とは思ったけれど、敢えてツッコミは入れずに僕は続けた。

 「どうして、僕に教えてくれるの?」

 「なに。君はこの前、このクラスの男達から誘われていただろう? ベルゼブブ探しに行こうって。知りたいのじゃないかと思って」

 「いや、杉平君が彼らに直接教えれば良いじゃないか。それに自分一人で捕まえたら、百万円を独り占めだよ?」

 「僕は彼らとはあまり仲が良くないもの。お金にだってあまり興味はない」

 「へえ」と僕は応える。

 そこで少し考えた。彼は僕が沙世ちゃんと一緒に帰っているのに嫉妬しているようだった。だから、邪魔する為に、ベルゼブブのいる場所を僕に教えようとしているのじゃないだろうか? 僕がベルゼブブ探しに行けば、彼女とは帰らなくなるはずだと考えて。だとすれば、かなりの浅知恵だとけど。

 「じゃ、一応聞いておこうかな。ベルゼブブの巣の場所を」

 と、僕はそれから言った。杉平君の圧が強かったから、断るのも面倒そうだと判断したんだ。どうせ嘘だと思うけど、それから彼はその場所を説明した。なんでかベルゼブブは、ボロアパートの一室に巣くっているらしい。

 「アパート? 人家にいるの? どうして?」

 “嘘を言うにしても、もっとマシな嘘を言えば良いのに”と思いつつ僕はそう返した。すると彼は「知らないよ。実際に、そこにいるのだから仕方ないじゃないか」などと応えて来た。

 どうにも怪しい。

 「ベルゼブブは暗くなってからしか行動しないみたいだから、きっとそれで見つかっていないんだよ」

 杉平君は続けてそう説明して来た。僕が疑っているのを察したのかもしれない。

 「うん。まぁ、分かったよ。覚えておく」

 面倒くさくなったので僕がそう返すと、彼は嬉しそうな顔を見せ、

 「君の友達の男子生徒達と一緒に行きなよ。きっと喜ぶぜ」

 などと言って来た。

 人家の中に探しに入ったりすれば、下手すれば不法侵入で捕まってしまうだろう。例え空室だったとしても。それで嘘だったなら、目も当てられない。

 僕は「ああ、」と曖昧に返事をしたけれど、友達に伝える気はなかった。もちろん、僕も行く気はない。時間の無駄だ。

 

 それから数日が過ぎた。

 毎日僕は沙世ちゃんと一緒に帰っているけど、一度もベルゼブブに遭遇したりはしなかった。やっぱり夜中にしかベルゼブブは出ないのかもしれない。クラスの男子生徒達はベルゼブブを捜索し続けているようだけど、やっぱり見つけられないみたいだった。少しだけ、杉平君から聞いたベルゼブブの巣の場所を彼らに教えようかと思ったけれど、不法侵入で逮捕されたりしたら可哀想だと思って止めておいた。

 「どうしてベルゼブブを捕まえにいかないんだよ?」

 ある日、一向にベルゼブブを探そうとはせず、沙世ちゃんと毎日帰っている僕に痺れを切らせたのか、杉平君がそう訊いて来た。

 「しょうがないじゃん。他に用事があるんだから」

 と、僕は返す。

 沙世ちゃんとの約束(約束はしていないけど)がなくても、きっと行かないけど。

 「他に用事って百万円だぞ?」

 「いや、だから、それなら君がベルゼブブを捕まえれば良いじゃないか」

 「自分の友達が探しているのに、手助けもしないのか? 酷い奴だな」

 「うん。そう思うのなら、君が伝えれば良いだけの話だよね?」

 それだけ言えば、流石に彼も僕が“ベルゼブブの巣の場所”の話を信じていないと悟ったようだった。「もう、いい」とだけ言うと何処かに行ってしまう。逆恨みされそうで嫌だったけれど、これで大人しくなってくれるかもしれない、と僕は思っていた。思っていたのだけれど……

 「――お前、ベルゼブブの巣の場所を知っているんだって?」

 次の休み時間、クラスの友達からいきなり話しかけられた。僕は目が点になってしまった。

 「誰から聞いたの、その話?」

 半ば分かっていたけれど。すると、案の定、彼は「杉平から聞いたんだよ」と答えて来た。

 僕は頭を抱える。

 どうやら杉平君は、是が非でも僕にベルゼブブを探させたいらしい。そんなに沙世ちゃんと僕が一緒に帰るのが嫌なのだろうか? その情熱を沙世ちゃんに気に入られる方に向けた方がまだ可能性はありそうなのに。

 「確かに知っているけど、僕はそのベルゼブブの巣の場所を、杉平君から聞いたんだよ?」

 「は? なんだそれ?」と、それを聞いて彼は困惑した顔を浮かべる。

 「変だろう? もし、それが本当なら、杉平君が自分で言えば良いだけの話なんだよ。つまり、眉唾。教えても良いけど、下手したら不法侵入で捕まるよ」

 僕の説明に彼は肩を竦めた。

 「なるほどね。お前が隠すはずがないとは思っていたんだよ。了解した」

 そして、自分の席に戻っていった。きっと他の友達にも伝えてくれるだろう。杉平君の方を見ると、彼はどうも今のやり取りを聞いていたらしく、苛立った表情で僕を見ていた。順当に逆恨みをされているみたいだけど、無駄だとは悟ってくただろう。きっと。

 “これで諦めてくれれば良いのになぁ”と、僕は願ったのだけど、彼はそれでもまだ僕がベルゼブブの巣の場所を知っているという噂を流し続けていたようだった。多分、何の意味もないと思うのだけど。

 ……一体、何がしたいのだか。

 

 夜中だった。

 ちょっとコンビニに用事があって出かけた帰りで、僕は一人で夜道を歩いていた。以前、沙世ちゃんと一緒にベルゼブブを見たのと同じ道だった。

 “ベルゼブブに遭遇したりして”

 と、ちょっと思ったりしたけど、そんなに頻繁に遭遇するようなもんでもないだろう。真っ暗で人気がなくて暇だったからか、思わず僕はリアルで巨大な蝿の姿を想像してしまった。

 小鳥ほどの大きさの蝿……

 グロテスクな目玉。忙しなく動く針金のような足。ブヨブヨとした気持ちの悪いお腹。それが高速で空を飛んで迫って来る……

 正直、夜道に一人でいる時には遭遇したくはない。沙世ちゃんが、毎日僕にボディーガードを頼む気持ちも少し分かってしまった。

 歩き続ける内に、ちょうど沙世ちゃんと一緒にベルゼブブを見た位置にまで来た。小さな雑木林のはずなのに、夜の闇の所為で妖物が住まう深い魔の森に思えた。心地の良い虫の美しい鳴き声が、まるで何かの皮肉ようだ。

 “何もいないよな?”

 見えるはずもないのに、思わず僕は木々の奥に目をやる。そこで気が付いた。耳の奥底が違和感を嗅ぎ分けたのだ。

 この雑木林には、絶対に響かないはずの音が混ざっている。

 ブーン。

 低周波。蝿の羽音。でも、蝿にしては、大き過ぎるし重過ぎる。

 僕は本能的に恐怖を感じ、逃げ出していた。

 “ベルゼブブだ!”

 音は静かだ。ただ、それでも、羽音が物凄い速度で迫って来ているのが分かった。懸命に走ったけれど、恐らく100メートルも進んでいない。僕は背中に迫って来る巨大な蝿の存在を感じていた。

 “まずい! ベルゼブブが、噂の通りに毒を使うのなら殺される!”

 僕は咄嗟にバックの中に手を入れた。折りたたみ傘を入れてあるのだ。仮にベルゼブブが毒を出すのなら液体だろう。だからそれで防げると思ったのだ。

 追いつかれそうな刹那、僕は必死に折りたたみ傘を広げた。霧状の毒が吹きかけられるのを想像したのだけど、何もなかった。代わりに、プスッと傘に何かが刺さる。暗闇の中でも微かに見えた。とても小さな棘が傘に刺さっている。ただ、それは僕が見た瞬間には直ぐにボロボロと崩れていってしまったのだけど。

 空気に触れると、崩壊する物質で作られているのだろうか? そんな棘を飛ばす動物なんて聞いた事がないけれど……。

 僕は次のベルゼブブの攻撃に備えようと気配を探した。するとそこで誰かの話し声が聞こえて来る。どうやら運良く誰かが通りかかってくれたらしい。「助けて……」と僕は言いかけて気が付いた。既にベルゼブブの気配は消えていたのだ。人の気配を察知して逃げてしまったのかもしれない。

 僕は安心すると、腰砕けになって、その場にへたり込んだ。

 「……助かった」

 と、大きな息を吐き出すと伴に呟いた。

 近くを通りかかった人達が、そんな僕を変な目で見ていた。

 

 家に帰ってから考えた。

 色々と不可解だ。

 どうしてベルゼブブは僕を狙ったのだろう? あの人達が来て逃げ出したのだから、人間を恐れるはずだ。だけど、僕には迫って来た。

 どうしてだ?

 ……それに、あの棘はなんだ? 直ぐに崩れていってしまった。もしあれが毒で、あれの所為で人が毒殺されているのなら、気付かれるはずがない。少なくとも僕はあんな物質はまったく知らない。警察だって知らないだろう。それで毒殺の可能性は捨てられてしまったのじゃないだろうか? 多分検査すらされていない。

 杉平君が僕がベルゼブブの巣の場所を知っているという噂を流し続けたのは何故なのだろう? 彼は僕が騙されないと分かっていただろうに……

 

 次の日、相変わらずに杉平君は僕がベルゼブブの巣の場所を知っているという噂を流し続けていた。昨晩の事もあるから、僕は彼に「止めてくれ」と訴えた。すると彼は理不尽なクレームを言われたみたいな顔で、

 「なんでだよ?」

 と、凄むように言う。

 勝手に他人の個人情報を流しておいて、“なんで”はないと思う。当たり前の話だ。だた、そう文句を言っても効果がなさそうだと思った僕は、

 「昨日の夜、歩いていたらベルゼブブに襲われたんだよ。あれはきっと危険な生き物だ。僕はベルゼブブには関わりたくない」

 そう説明をした。自分から探しに行くなんて考えられない。すると彼は、それを聞くなり何故かニタァとした嫌な笑いを浮かべたのだった。

 僕の不幸を喜んでいる?

 怒りが込み上げてくる前に、僕は背筋が凍りつくような不気味な悪寒を覚えた。

 「……それは不幸な目に遭ったね」

 杉平君のそのセリフは、表情と口調とまるで合っていなかった。僕を心配しているようには思えない。

 ……何か変だ。

 違和感を覚えた僕は、彼と一年の頃に同じクラスだった奴を見つけて質問をした。

 「つい最近、男子生徒が二人死んじゃったろう? 一年の頃は杉平君も同じクラスだったと思うんだけど、彼との関係はどうだった?」

 質問をされた彼は奇妙な表情を浮かべ、「なんでそんな事を訊くんだ?」と尋ねて来た。

 「いや、ちょっとね……」

 不思議そうにしてはいたけれど、“まあ、いいか”といった様子で彼は僕に教えてくれた。

 「杉平とは仲が悪かったと思うよ。具体的には忘れたけど、色々とトラブルを起こしていたのは覚えている」

 「へえ……」と、それを聞いて僕は固まってしまった。

 つまり、死んでしまった二人は杉平君に嫌われていたのだ。そして、僕も嫌われている。もしかしたら、杉平君は死んでしまった二人にもベルゼブブの巣の場所を教えていたのかもしれない。芯からその情報を信じなくても、知ってしまったなら興味は沸くだろう。もしかしたら、二人とも、本当にベルゼブブがいるかどうか確かめに行ってしまったのじゃないか? きっと、その時はベルゼブブは見つからなかったのだろう。でも、ベルゼブブはそれで二人が自分の居場所に勘付いていると知ってしまった。そして……

 

 夜中だった。

 僕の家庭は共働きだ。いつも夜遅くに両親は帰って来る。だから、今、家には僕の他は誰もいない。僕は掃き出し窓の近くで耳をそばだてた。

 何も聞こえない。

 羽音も何も。

 ――でも。

 僕は覚悟を決めて窓を開けてみた。意識を外の闇の中に集中する。僕の部屋は二階にある。隣には一軒家があって、その所為で窓の景色の見晴らしはよくない。ほとんど壁しか見えない。隣の家には今は誰も暮らしていないから驚くほどシンとしているし、灯りだって点いていない。

 暗闇。

 その暗闇に意識を向ける。すると、低周波の音が近付いて来るのが分かった。ブーン。虫の羽音に聞こえるけど、やっぱり虫にしては重過ぎる。

 “いる。ベルゼブブだ!”

 僕は慌てて窓を閉めた。ベルゼブブの羽音も聞こえなくなったけど、きっと近くにいるのだろう。それで確信を持った。僕はベルゼブブに監視されているのだ。下手に外に出たら、毒殺されてしまうかもしれない。

 “落ち着け。家の中にまでは入って来られないはずだ。家の中にいれば大丈夫だ”

 僕は自身を落ち着かせようとそう言い聞かせた。そして、それから考えていた策を実行する決心を固めたのだった。

 ベルゼブブが僕を監視している、裏を返せばそれは連絡手段があるという事だ。こっちのメッセージを向こう側に伝えられる。

 僕はスマートフォンをタップすると、予め用意しておいた文章を送信した。学校内で共有されているグループチャット。不特定多数の人達がそれを見ているはずだった。

 “きっと一晩経てばベルゼブブはこのメッセージに気が付くだろう。今晩を凌げれば、もう僕を狙って来る事はないはずだ”

 そう心の中で呟くと、僕は祈るように画面を見つめた。色々な人が、僕のメッセージにコメントをしてくれている。狙い通りだ。

 後はこのまま家から出ずに大人しくしていれば……

 僕は部屋の灯りを消して光の反射をなくし、掃き出し窓からの外の様子を見易くしてから、ベッドで横になった。ベルゼブブの黒い影は見当たらない。でも、きっと近くで監視しているのだと思う。窓にはもう近づかない方が良い。

 そう思ったタイミングで、家のチャイムが鳴る音が聞こえた。

 “こんな時に!”

 歯軋りをした。ただ、それほど心配もしていなかった。昨晩の事を考えるのなら、誰かがいる状況で僕を襲ったりはしないだろう。ベルゼブブは自分の正体がバレないように細心の注意を払っているはずだから。

 僕は慎重に階段を降りると、ドアホンで誰が訪ねて来たのかを確認してみた。すると、そこには杉平君の姿があったのだった。

 「やあ、今晩は」と、彼は言った。妙に嬉しそうな笑顔だった。

 「ちょっと話をしないか? 顔を見せてくれよ」

 そう言われて、僕は怖気立った。彼は僕がベルゼブブに狙われている事を知っているはずだ。なのに、夜中に外に連れ出そうとしているのか?

 ――否、

 “なのに”じゃない、“だから”なのか?

 僕は彼を無視をしようかと考えた。そもそも話くらいならスマートフォンですれば良いんだから直接話す必要なんてない。

 が、そこで僕は自分の致命的なミスに気が付いてしまったのだった。

 “しまった! さっきのメッセージに杉平君の名前も出してしまっている!”

 もし仮に、ベルゼブブがあのメッセージを既に読んでしまっていたら、彼が狙われてしまう危険がある。

 僕は考える前に走り出していた。彼が毒殺されてしまうかもしれない。早く忠告をして、家の中に逃げるように言わなくちゃいけない。僕は玄関で傘を見つけると、一応それを手に取った。防御の手段として傘が有効なのは昨晩に証明済みだ。そして、玄関のドアを開けた。

 「杉平君! 家の中に避難してくれ! 外は危ない!」

 開けるなり僕はそう訴えた。が、杉平君は僕の言葉をまるで聞いていないようで、僕の腕を掴むと「さあ、外で話そうぜ!」と強引に引っ張って来る。

 “な?!”

 彼の意図は明らかだった。僕を外に出して、ベルゼブブに殺させるつもりなのだろう。僕は怒鳴った。

 「こんな事をやっている場合じゃない! ベルゼブブに君も殺されるぞ! 羽音を聞いたんだ。近くにいる!」

 が、彼は聞く耳を持たなかった。

 「何の事か、分からないなぁ!」

 彼は僕の腕を引っ張り続ける。そこで不意に異質な音が聞こえた。低周波。ベルゼブブの飛行音。ブーン。

 近付いて来ている!

 僕は慌てて傘を開こうとして、踏ん張る力を弱めてしまった。それで杉平君の引っ張る力に負けて家の外に大きく転倒してしまう。転がった僕はパニックに陥り、前も後ろも空も地面も分からなくなって、ベルゼブブの毒の棘を防ごうと慌ててただ傘を広げた。お願いだから、毒の棘を防いでくれ! と祈りながら。

 ……我ながら、かなり無様な姿だったと思う。

 震えながら、僕は傘の陰に隠れていた。低周波の飛行音が聞こえる。小さな音のはずなのに、反響したそれは僕の聴覚を埋め尽くしていた。

 ブーン。

 夜の闇は、傘の所為で更に濃くなり、視覚のない世界にただただベルゼブブの飛行音だけが響いていた。

 ――比較的大きな傘だけど、それでも毒の棘を完全に防げるとは思えない。僕は棘を防ぐ為に音のする方に傘を向け続けた。ベルゼブブに高速で回り込まれて、棘を撃たれたら、多分、僕は死んでしまう。

 どれくらいの時間が経ったのか分からない。1分だったのか、2分だったのか、それとももっと長かったのか。僕にはとても長く感じられたけど、きっとわずかな時間だったのだろう。やがて、ベルゼブブの飛行音が遠ざかっていった。

 “助かった…… のか?”

 何故、ベルゼブブが僕を殺さずに去って行くのかは分からなかった。あのメッセージが届いているのなら、そもそもここにはやって来ないはずだし。傘から出て、僕はゆっくりと立ち上がった。まだベルゼブブが近くにいるのじゃないかと警戒したけど、ベルゼブブの姿は何処にもなかった。

 そして、その代わり、僕は暗闇の中に誰かが倒れているのを見つけたのだ。

 忘れていた。

 杉平君だ。

 “まさか……”

 近付いて彼の肩を揺すってみたけど、何の反応もなかった。口の近くに掌をあててみたけど、息をまるで感じなかった。冷たくなっている。

 僕は愕然となった。

 間違いない。死んでいる。多分……、否、確実にベルゼブブに毒の棘を撃ち込まれたのだ。

 

 『先日から噂になっている、僕がベルゼブブの居場所をしているという話は本当です。ですが、僕はベルゼブブの居場所を杉平君から聞いたのであって、何か特別な情報網があるとか、自分の力で探り当てた訳でもありません。

 ところが、その所為なのか、先日僕はベルゼブブに襲われてしまいました。殺されそうになったのです。これは予想に過ぎませんが、ベルゼブブは巨大な蝿によく似たドローンで、実は暗殺兵器なのではないでしょうか? 

 最近、この街で突然死が頻発しているとよく聞きますが、もしかしたらその真相は、何処かの国が開発したその暗殺兵器の実験なのかもしれません。その国の工作員達は、暗殺が上手くいくか、日本警察がそれに気付くかどうかを確かめる為にそんな事をやっているのです。

 もちろんこれは大雑把な予想に過ぎません。ですが、小鳥サイズの巨大な蝿よりも、小型の暗殺用ドローンの方がまだ現実味がありますし、その蝿は棘を撃って来たのです。その棘は、空気に触れると簡単に崩れてしまいました。僕にはそんなものを撃てる生物がいるとは思えないのです。

 ――もし、僕が殺されたら、僕の予想通りだと思ってください。

 ベルゼブブの居場所は、ボロアパートの一室で……』

 

 「このメッセージが原因で杉平君が死んじゃったって、どうして?」

 と、沙世ちゃんが尋ねて来た。手には僕のメッセージが映っているスマートフォンを持っていて僕に見せている。朝のホームルーム前、教室の話題は昨晩死んだ杉平君の話題一色だった。もう何人にも僕は事情を説明していた。当然、彼女にも既に説明しているのだけど、どうも彼女は僕を心配してくれているようで、まだ話は続いていた。

 「そのメッセージで、僕は杉平君の名前を出しちゃったろう? しかも、情報源として。それでベルゼブブは、杉平君が自分達の秘密を何か知っていると考えて、彼を殺してしまったのじゃないかと思うんだ……」

 暗殺を行う工作員。

 まるで陰謀論のように聞こえるかもしれないけど、実際に世界で暗殺事件は多数起こっている。有名なのはロシアだけど、それ以外の国の機関が犯人である場合もあるらしい。

 もし仮に、自由自在に暗殺が行える兵器があったなら、間違いなく外交上の強力な脅しになる。自分達の暗殺兵器だと公言しなくても、その実在性をにおわせるだけで、相手国にとってみれば相当なプレッシャーになるはずだ。だから日本で何処かの国が実験をしていたとしても、それほど驚く話ではないのかもしれない。過去には北朝鮮による日本人の拉致事件なんてものも起こっているし。

 事実は小説より奇なり。

 何が起こるか分からない。非人道的行為でも、他の国の他の常識と正義の中じゃ、容易にそれは翻ってしまうんだ。

 かつては有色人種を動物園に入れていたなんて社会もあった。同化政策で、その土地の民族を全て滅ぼそうとしている国だってある。

 だから、他所の国の人が簡単に日本人を殺せてしまえるのだとしても、それは異常な事ではないのだろう。この世界では。残念ながら。暗殺兵器を介してなら、なお楽だと思う。

 因みに、杉平君が言っていた“ベルゼブブの居場所のアパート”は、今は既にもぬけの殻になっているらしい。何者かが住んでいた痕跡はあった。けれど、それが何処の何者なのかは分からないらしい。きっと、杉平君を殺した後で逃げ去ったのだろう。証拠を消してから。

 「……自分が悪いと思っているの?」

 不意に沙世ちゃんがそう訊いて来た。少し迷ったけれど、僕は「うん」と答えた。すると沙世ちゃんはそれから僕をそっと抱きしめてくれた。

 「大丈夫。アキ君は何にも悪くないよ」

 柔らかい身体と、温もり。とても良い匂いがした。

 優しい。

 「うん。ありがとう」

 僕はそうお礼を言ったけど、正直には言えなかった事がある。本当は“罪悪感を感じるべきだ”と僕は思っていたのだ。だから、それが本質的に罪悪感と呼べるものなのかどうかは分からなかった。

 ――杉平君は僕を殺そうとしていた。それだけじゃなく、かつてのクラスメートもきっと殺している。しかも二人も。ベルゼブブの隠れ家を探せば、殺されると分かっていて教えたのだろうから、これは間違いなく殺人だろう。それに僕の忠告も聞かずに、彼は僕を殺す事を優先していた。

 自業自得だ。

 僕が罪悪感を覚えるような事じゃない。彼が悪いんだ。

 でも、それは人間である彼をモンスター化してしまう行為であるように僕には思えた。

 キリスト教が、天候神バアル・ゼブルを悪魔ベルゼブブにしてしまったように。

 果たして、それは“正しい事”なのだろうか?

 

 「今日も一緒に帰ろう。何か奢ってあげるから」

 

 僕が悩んでいると、沙世ちゃんが僕を心配してそう言ってくれた。

 “ああ、美しいな……”

 その彼女の姿に、僕は感動して思わず涙がこぼれそうになってしまった。

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