あるガヴァネスの苦悩。
中世ビクトリアン風モノ・ダークインモラル?・R15
あるガヴァネスの苦悩。SS。
モリーネ=ガーナードは人目につかないように、住んでいる教区とは離れた教会にひっそりと訪れた。
見慣れない教会……の奥にある懺悔室の告解室に入る。
暗闇の中、しばらくするとあちらからも人が入ってきた音がして、モリーネは緊張した。
「どうされました、迷える子羊よ」
くぐもったような、抑揚の無い、低い男の声が聞こえてくる。
「聞いてくださいませ、牧師様……私は私、取り返しの付かない過ちを犯してしまいました」
「どういった過ち、と?」
「そ、それはっ……」
この場所に入ってもなお、モリーネはその過ちを告白することをためらう。
その罪は……とて許されざるものだから。
「ここの中は俗世とは切り離された世界。貴女の罪も許される場所です」
ぼそぼそと、感情の見えない声でそういわれるとモリーネの心は軽くなる。
そう、ここはどんな罪でも赦される――――
自分の心の中に留めて置くにはあまりにも重過ぎる「それ」は、誰にも言えず。
しかしその重みで何処へもいけない。
自分勝手な事にこの場所を訪れるしかなかった。
「き、聞いていただけますか? 牧師様」
「ええ、その為に私はここに居るのです」
モリーネは胸の中にある、重荷を下ろすように、ぽつりぽつりと語り始めた。
モリーネはある貴族の家の家庭教師だ。
中流階級の家に育ち、幼い頃から見目もそんなに麗しくなかったモリーネは勉強だけは良くでき、そして兄弟達に勉強を教えることが楽しくて、その影響でこの職を選んだのだ。
その貴族には、8歳になるお坊ちゃまと4歳になるお嬢様。
そして生まれたばかりの赤ん坊がいて、長い間、モリーネはそのお子様達の家庭教師をした。
幸せだった。
よく、家庭教師に生徒を教える以外の仕事を割り振る家もあったが、この家の旦那様と奥様はお優しく、裕福であったために、それぞれの仕事の領分を侵すような割り振りはされていない。
三人の子供達も、子供らしい我侭はあれど、優しく賢いいい生徒で。
家庭教師は家庭教師としての仕事だけに集中する、充実とした毎日だった。
しかし、そんな幸せは、翳りを見せる。
今から考えれば、これが発端だったのだろう。
「ミス、モリーネ」
坊ちゃまが12歳の誕生日を迎えた頃だったろうか。
いつもは「先生」と呼ぶのに違和感を覚えて返事をすると、彼は幼げな顔を真剣な表情にして、こういった。
「お願いです、私が大きくなったら結婚してください!」
「だめぇ、先生はアンネリーのなのぉ!」
ほほえましいプロポーズに頬を緩めると、お嬢様が坊ちゃまとモリーネの間にわって入ってくる。
彼との年の差は、8歳程度……といえどこの年頃には年上の女性にあこがれるものだ。
大きくなれば、こんなことも言ったよな、とからかわれて頬を赤らめる程度の思い出になるのだろう。と、モリーネは深刻には受け取らず、坊ちゃまにこう返事をする。
「そうですね、坊ちゃまが私の年を追い越したら、考えさせていただきます」
「ほ、本当に? 本当?」
「ええ、約束です」
そして、モリーネはその約束を、すっかり忘れ去っていた。
いや、時折、アンネリーお嬢様の冗談のようにからかわれていたので、完全には忘れていなかったのだが。時と共に自然と忘れ去られる約束だと思っていた。
時は過ぎ、坊ちゃまは旦那様の代から通われている寄宿学校に通うことになり、モリーネの生徒は二人になった。
年に数回ある帰省時期になると、坊ちゃまは一目散に屋敷へと帰ってくる。
季節が変わるごとに大きくなっていく坊ちゃま。
しかし、相変わらずモリーネを敬い、なんて立派な生徒になったのだろう。
自分に子供が居たのならこういう感動を味わうのだろうと感慨にふけっていた。段々と大人になっていく成長を喜べるのは嬉しくもあるのだが、少しおいていかれたような寂しいという気持ちもあった。
これから坊ちゃまの世界は段々と広がってくるのだろう。
初めての生徒だからこそ、こんなにさびしく思うのだろうか。
これからアンネリーお嬢様も、そしてその弟君もその日を迎えるのに。
彼らが大人になり、モリーネが次のお屋敷へと赴く頃にはこんな感情にも慣れっこになっているのだろうか。
代わり映えしない日々の中で、モリーネは奥様と旦那様の紹介で、教区の新任の牧師様にお会いすることになった。
彼は優しく、慎み深く……深い青の瞳で静かに人を見つめる人だった。
彼の側にいると落ち着かない。
それは、モリーネの全てを見透かされているかのようで……。
いい友人でありましょう。
お互いにそういい、モリーネは日々の変化を探すように、教会に事あるごとに訪れた。
季節の祭りごとや慈善事業、バザーの全てに出席した。
モリーネが若くてハンサムな牧師狙いで浅ましい、と噂をするものが居たけれど、当の牧師本人は、モリーネの気持ちを見透かしているので、何も恥じる事は無い。
牧師様は、モリーネの焦燥感を見抜いていたのだ。
仕事にも、何も不満は勿論無いのに。
全てが移り変わり、おいていかれていくような焦燥感。
しかし、自分だけが変われない。
何も変化することの無い、日常から……抜け出したいと思っているモリーネの本音を。
いくつかの季節を越え。
ある天気のいい日に、牧師様が屋敷を訪れた。
庭で子供達が遊ぶ様子を見ながら、東屋で一緒に午後のお茶を飲む。
それは、モリーネにとって緩やかな時間だった。
しかし、その時間はあっさりと崩される。
誰の注意も払われていない。
ある意味、二人っきりになった隙をついて、牧師様は言った。
旦那様と奥様にはお許しをいただいたのですが……と一言。
その出だしだけで、モリーネは彼が何を言おうとしているのかピンと来る。
でも今更、なぜ? という気持ちも強い。
初めて紹介されたとき友人で居ようと言ったのに。
それにモリーネは、自分の魅力を痛いほど分かっていて、目の前の牧師様が自分を好きになる理由が思い当たらない。
魅力的な牧師様に、教会を訪れる若い娘はいくらでも居たはずだ。
それなになぜ、こんなに魅力の無い自分に――――
モリーネは「考えさせてください」といい、牧師様を残すと東屋を後にして子供達と屋敷に戻る。その日の午後は、坊ちゃまが帰省する予定が入っていた。
変わりたい、と思っていた。
それはこういうことを望んでいたのだろうか。
モリーネは子供達を見ながら、考えること、数日。
全てを見透かすようでいて、見守ってくれる瞳を思い浮かべ、その求婚を受けた。
その返事を聞いた途端。彼の瞳が喜色に染まる。
思いがけない彼の変化に、初めて彼を男性として意識した。
今までは「牧師様」としての尊敬する「人」としてしか意識していなかったのに。
いつも穏やかなその目に火がともったように、求められると動悸が早くなる。
それは不快なものではなくて――――
その途端、彼からつかまれる手が、接吻を落とされる手のひらが……全く違うものに感じた。
彼と居れば自分も変われるような気がする。
モリーネは心が震えていた。
「先生、お話があるのですが」
その日の夜。
突然坊ちゃまはモリーネの部屋を訪れた。
小さい頃、分からない問題があるとよく質問に来ていた事を思い出して懐かしくなるが。しかし、今や坊ちゃんは立派な大人だ、子供のときとは違う。扉を開けずに、身支度をしてからいつも子供達の勉強を教えている部屋に行きますと答えると、坊ちゃまは驚いたことに強引に部屋に入ってきた。
身支度もしていないモリーネはナイトドレス姿にガウンを羽織るだけの姿で。
こんな姿で、妙齢の男性の前には一度も出た事はないので、いくら昔から知っている坊ちゃまといえど羞恥で赤くなり、非難の言葉を浴びせる。坊ちゃまは悪びれた様子もなく、どちらかというとこちらを責めるように、見つめていた。
「……牧師様に求婚されたようですね」
その言葉にモリーネははっとして振り向くと、坊ちゃまは触れるほど近く……いや、もうモリーネの腕をつかみ、顔も近い。
坊ちゃまが子供の頃は……額で熱を測ったりしたけれど。
久しぶりに近くで見る彼の顔は、知らない男のようだった。
昼間牧師様に触られたときとは、また違った、胸の奥がちりちりとする感覚。
「どう……答えるんですか?」
「お、お受けしよう――っ!!?」
その返事は聞きたくないとばかりに、坊ちゃまの唇でモリーネの口はふさがれる。
唇を、舌でなぞられるような感覚に、反射的にモリーネはつかまれていない手で彼の頬を打った。
彼の頬が赤くなるのをみて、はっと叩いたことを後悔するが、その瞳を見て面食らう。
その瞳は、感情を抑え切れない……紙一重の狂気をはらんでいた。
「約束したはずです、私があのときの貴女の年を越したとき、私の求婚を考えると」
「そ、それは……」
すっかり忘れていた、遠い日の約束。
「子供の見本となるべき先生が、約束を違えていいとお思いですか、モリーネ?」
モリーネは愕然とした。
そこにはもう、教え子の姿は無い。
一人の男が立っていた。
「私はずっと、その約束の日が来るのを待っていた、のに」
彼を見ているようで……見ていなかった。
彼の向けてくれる分不相応な愛情を敬意に履き違えていた、自分。
もしかしたら、こうなってしまうサインを無意識に避けていたのかもしれない。
自分のことで、精一杯で、彼の心が暗く澱んでしまった事に、彼が切羽詰った今更ながらに気がついた。
坊ちゃまのことを拒否できない。
これは自分の引き起こした、過ちだ。
「なぜ、その日を待たずに、あの男とっ……」
苦しげに言い捨てられる言葉。
彼は呆然とするモリーネの両腕をつかむ。
それは、強い力で……。
この拘束を拒否しないのは、牧師様に対する裏切り行為だ。
でも、振りほどけない。
振りほどくのは、彼にしてしまった自分の罪から無責任に逃げること。
知らずの内に、モリーネは静かに涙を流していた。
目の前の変貌してしまった、「男性」に自分の犯してしまった過ちをどう償えばいいのか分からない。
その涙をみて、しばらく、彼は動きを止めた。
そしてそらさなかった……瞳がそらされる。
「…………すみません、先生」
その一言で、彼はいつもの坊ちゃまに戻ると、静かに部屋から出て行った。
モリーネの心に、二人の男性への罪を残して。
これで、モリーネの懺悔は終わる。
全て告白したモリーネは、すがる様な目で、告解室の窓を見つめる。
そこに居るはずの牧師様に、恥知らずにも助けをすがった。
求婚を受け入れた身でありながら、坊ちゃまの気持ちを拒否できなかった罪。
坊ちゃまの気持ちを気付くことが出来たはずにも関わらず、踏みにじった罪。
だからといって、責任をとって受け入れることもできなかった、罪。
こんなことになって初めて気がついた自分の正直な気持ちを言えなかった罪。
「貴女は誰を愛してるのです?」
「私は……」
モリーネはその名を、恐る恐る口にする。
こんな罪深い自分が求めていい名前ではない……けれど、この場所は全てが赦される場所。
「――――を、愛しています」
愛しくてたまらない、そう感情の篭ったその声。
その名をいい終わり、しばらくした後、この場所で聞こえるはずも無い声が聞こえる。
「私も、君を愛している」
「!!」
「君の罪は……私が赦すから、だから」
「ぼ、牧師様は!?」
「初めから、私だよ、モリーネ。君をつけていた」
「騙すなんて!」
「でも、もう君の気持ちは聞いてしまった、その事実はもう消せない」
「だめです、私は……」
そう言って、モリーネは罪の意識から愛しい人から逃げ出そうと、あわてて告解室を出る。が、すでに遅く。出た先には、愛しい人が逃がさないようにと、モリーネを待ち構えていた。
「それは自分で自分を縛っているだけなんだよモリーネ。私はとっくに許している」
抱きしめられるだけで力が抜けた。
その言葉が、最大の赦しだ。
額にキスをされると、この場所がどこだかモリーネはあわてて思い出し、彼の胸からあわてて逃げようとする。
「神様もこれぐらいならお許しになるさ」
彼のこの言葉で、ぞくりとしてしまう私は変わってしまったのだろうか。
モリーネは彼の服の裾を握り返した。