第9話「灯りの告白」
「知っていた」——その一言で、世界の色が変わった。
暖炉の前だった。夕食の後、グレンに促されて書斎ではなく居間に来ていた。普段は使わない部屋だ。暖炉の火が大きく燃えていて、二脚の椅子が向かい合わせに置かれている。
グレンが先に座っていた。カティアが椅子に腰を下ろすと、グレンは暖炉の火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
炎が薪を舐める音だけが部屋に満ちていた。
「カティア殿」
グレンが口を開いた。声が低い。いつもの業務の声ではなかった。
「お前の婚約破棄のことを、俺は事前に知っていた」
カティアの手が、膝の上で止まった。
「王太子殿下が公の場で婚約破棄を宣言する前に、俺のもとに情報が届いていた。国王陛下からの密書だ」
グレンの灰色の瞳が、暖炉の火に照らされている。その目はカティアを見ていなかった。炎を見つめたまま、言葉を一つずつ押し出すように続けた。
「密書の内容は、王太子が近日中に婚約破棄を行うこと、それに伴い公爵令嬢の処遇が問題になること。国王陛下が辺境伯に契約婚の検討を求める、という趣旨だった」
カティアは動けなかった。
知っていた。この人は、知っていた。
防寒外套。寸法を指定して取り寄せたという外套。契約がまとまる前から準備されていた部屋。家具の配置を自分で確認していたという二週間。
全部、つながった。
「契約婚を申し出た動機は、純粋ではなかった」
グレンの声がさらに低くなった。
「国王陛下の要請に応じた形だ。辺境伯として、王家との関係を維持する政治的な判断があった。王太子殿下への——」
言葉が途切れた。グレンが顎を引き、一度口を閉じた。
「……政治的な打算が、含まれていた」
カティアの胸の奥で、何かが冷たく固まった。
知っていた。事前に知っていて、準備をして、契約婚を申し出た。それは親切ではなかった。政治だった。
「私は」
声が出た。自分でも驚くほど平坦な声だった。
「私は、同情で迎えられたのですか」
グレンが初めてこちらを見た。灰色の瞳がまっすぐカティアに向けられた。
「最初は、そうだったかもしれない」
正直な答えだった。飾らない、嘘のない答え。
カティアは椅子から立ち上がった。膝が震えていた。
「ミーナさんに聞いた時から、おかしいとは思っていました。契約がまとまる前に外套を注文していた。部屋を整えていた。なぜそこまで準備ができていたのかと」
声が震え始めた。抑えようとしたが、抑えられなかった。
「知っていたんですね。婚約破棄の場で、殿下が何を言ったか。貴族たちがどんな顔をしていたか。私がどうなるか。全部知っていて、黙って——」
「黙っていた」
グレンが遮った。立ち上がってはいなかった。椅子に座ったまま、カティアを見上げている。
「密書が届いた時点で、俺には婚約破棄を止める権限がなかった。王太子殿下の決定に辺境伯が介入する法的根拠がない。できたのは、破棄の後にお前の行き先を用意することだけだった」
「それが契約婚ですか」
「そうだ」
カティアの目の奥が熱くなった。怒りだ。悲しみではなく、怒りだ。
誰も味方がいなかった。婚約破棄の場で、公爵家の父は黙っていた。宮廷の誰も異議を唱えなかった。私は一人で門をくぐって、一人で馬車に乗って、一人で辺境に来た。
この人は知っていた。知っていて、何も言わなかった。
「座ってくれ」
グレンの声は静かだった。命令ではなかった。
カティアは座らなかった。立ったまま、暖炉の火を睨んでいた。涙がこぼれそうだったが、こぼすものかと思った。
「お前に話さなかったのは、俺の判断だ。契約婚の相手に、事前に知っていたと告げれば、お前は最初から俺を信用しなかっただろう」
「信用」
「政治的な打算で契約を結んだ相手を、お前は信用できたか」
答えられなかった。できなかっただろう。打算で差し出された手を、素直に取ることはできなかったはずだ。
グレンが立ち上がった。暖炉の火が、長身の影を壁に伸ばしている。
「だが、隠し続けるべきではなかった。報告書を王都に送る前に、お前に話す義務があった」
グレンがカティアの正面に立った。一歩分の距離を置いて。
「動機は政治だった。それは事実だ。しかし——」
グレンの言葉が、また途切れた。沈黙が挟まる。暖炉の火が爆ぜた。
カティアは口を開いた。
「ではなぜ、茶の銘柄を毎日変えたのですか」
グレンの肩が、わずかに揺れた。
「棚の奥にノートがありました。私が何を飲んだか、どう反応したか、全部書いてありました。あれは政治ですか。打算ですか」
グレンが目を逸らした。初めて見る動揺だった。この人が目を逸らすところを、カティアは一度も見たことがなかった。
「……違う」
「では何ですか」
「お前がいることが必要だ」
グレンの声が、低く、掠れた。
「仕事としてではなく」
カティアの呼吸が止まった。
「帳簿を正してくれたことには感謝している。領地が救われた。だが、そうではない。そういう話ではない」
グレンが視線を戻した。灰色の瞳が、暖炉の灯りの中で揺れている。
「お前がいない書斎は静かだった。視察の間、早馬を出したのは業務連絡のためだけではなかった。茶の場所を書いたのは——」
言葉が切れた。グレンの手が、所在なく自分の髪を掻いた。不器用な仕草だった。
「……引き継ぎ資料を受け取る気はない」
カティアの鞄の中に、あの資料がある。私室の引き出しに入れてきた。指の第一関節ほどの厚さになった、去る準備の証。
「受け取らない」
グレンの声は短かった。いつもの寡黙な口調だった。けれど、その短い言葉の裏側に、ここ数ヶ月で積み重なった沈黙の全部が詰まっていた。
カティアの目から涙がこぼれた。
怒っている。知っていたのに黙っていたことに。政治だったことに。同情だったかもしれないことに。
けれど同時に、分かってしまった。この人は、動けない立場の中で、できることをした。密書を受け取り、部屋を整え、外套を用意し、門の前に立って待っていた。法的に介入できないなら、せめて行き先を作る。それが、この人のやり方だった。
涙が止まらなかった。怒りと、理解と、それから名前のつけられない温度が、全部一緒になって溢れていた。
「ここにいても、いいですか」
声が震えた。丁寧語が崩れかけて、けれど最後まで崩れなかった。
グレンの手が伸びて、カティアの頭に触れた。指先が、髪の上にそっと置かれただけの、不器用な接触だった。
「最初から、そう言いたかった」
グレンの声は低くて、短くて、いつもと同じだった。けれど、その声が震えていることに、カティアは気づいていた。
暖炉の火が、二人の影を壁に映している。影は近い。椅子の距離よりも、ずっと近い。
「カティア」
呼ばれた。「殿」がなかった。
名前だけ。呼び捨て。この人にとってそれがどういう意味を持つのか、カティアには分かった。
返事はできなかった。ただ、涙の中で小さく頷いた。
暖炉の薪が崩れて、火の粉が舞い上がった。灯りが少しだけ明るくなって、二人の顔を照らした。
カティアの手の中にはペンも帳簿もなかった。数字では読み取れないものが、ここにあった。




