第8話「帳簿の答え」
カティアが封筒を開き、資料を机に広げた。
王家の監査局の紋章が押された封蝋を剥がすと、中から数枚の書類が出てきた。年次監査の事前照会資料。各領地に送付される定型の書式だが、今年度分には追加の別紙が添えられていた。
書斎の窓から朝の光が差し込んでいる。グレンの机にはすでに同じ封筒が開封された状態で置かれていた。グレン本人は席を外している。
カティアは自分の机に資料を並べた。監査局から届いた数字と、この数ヶ月で自分が整理した辺境伯領の帳簿。二つを並べて見比べる。
最初に目についたのは、王都側の記録に残る辺境伯領への物資配送量だった。
「……合わない」
声に出していた。
王都側の記録では、辺境伯領に配送した物資の総量が記載されている。しかしその数字は、カティアが帳簿から算出した実際の受領量より明らかに多い。差分は小さくない。数年分を累計すれば、穀物だけで辺境の半年分の備蓄に相当する量が消えている計算になる。
帳簿を開き、該当する年度のページを確認する。オットーと二人で再分類した帳簿は、すぐに必要な数字を引き出せる状態になっていた。
数字を突合していく。配送記録の空白期間。その前後の単価の変動。そして聖女慈善基金への特別拠出金。
一つずつ見れば、個別の異常に過ぎない。けれど全体を並べると、輪郭が浮かび上がる。
物資配送の差分。価格の不当な上昇。使途の不透明な拠出金。これらが同じ時期に、同じ方向に動いている。偶然ではない。
扉が開いて、オットーが入ってきた。手に自分の帳簿を抱えている。
「奥方様、監査資料を拝見しました」
「オットーさんも気づきましたか」
「はい。王都側の配送記録と、こちらの受領記録の差異です。私も過去の帳簿と照合しましたが、差異は少なくとも五年前から存在しています」
オットーがカティアの机の横に立ち、自分の帳簿を開いた。几帳面な字で書かれた数字の列が並んでいる。
「この差異は、単純な記録ミスでは説明がつきません」
オットーの声は、いつもの淡々とした調子だった。けれど、次の言葉には重さがあった。
「この数字は意図的な操作です。一人の手ではこうなりません」
カティアはペンを置いた。
一人の手ではこうならない。つまり、王都側で複数の人間が関与している。配送量を水増しして記録し、差分を抜く人間。価格を操作する人間。そして、慈善基金という名目で各領地から資金を集める人間。
「聖女慈善基金の拠出金ですが、監査資料の別紙に、各領地への拠出要請額の一覧が添付されていました」
オットーが別紙を示した。カティアはそれを受け取り、目を通した。
辺境伯領だけではなかった。王国内の主要な領地すべてに、同様の拠出が要請されている。金額は領地の規模に応じて異なるが、比率はほぼ一定だった。そして総額を足し合わせると、王都の年間歳入の相当な割合に匹敵する。
「この総額に見合う慈善事業が、実際に行われている形跡はありますか」
「私の知る限り、辺境に慈善基金の恩恵が届いたことはありません。他の領地についても、商人の話を聞く限り同様です」
カティアは椅子の背にもたれた。
数字は揃った。辺境の帳簿と、王都の監査資料。二つを突き合わせれば、不整合は誰の目にも明らかだ。
問題は、これをどうするか。
前世の自分なら、上司に報告書を出して終わりだった。判断は上の仕事で、数字を揃えるのが自分の仕事だった。
今世も同じだ。私は告発者ではない。辺境伯夫人であり、領地財務顧問だ。王都の不正を暴く権限も、立場も持っていない。
けれど、帳簿は正しく残さなければならない。
数字を改竄して監査局に提出すれば、辺境伯領が不正に加担したことになる。かといって、不整合をそのまま記載すれば、王都側の数字との食い違いが公式記録に残る。
「オットーさん」
「はい」
「辺境伯領の帳簿は、このまま正確な数字で提出します。王都側の記録との差異は、差異として記載します。事実をそのまま記録に残します」
オットーが眼鏡の奥でこちらを見た。
「奥方様、それは監査局に対して、王都側の記録に誤りがあると指摘するのと同義です」
「指摘ではありません。辺境の帳簿を正確に提出するだけです。差異があるなら、それは監査局が確認すべきことです」
カティアの声は平坦だった。感情を込めないように努めた。
これは告発ではない。正しい数字を、正しく提出するだけだ。それ以上のことは、帳簿を受け取った側が判断すればいい。
オットーはしばらく黙っていた。それから、静かに頭を下げた。
「かしこまりました。提出用の帳簿の最終確認を行います」
「お願いします」
オットーが帳簿を抱えて出ていった後、カティアは机の上の数字をもう一度見下ろした。
数字は正しく並んでいる。空白も、差異も、すべてそのままに。消さない。隠さない。ただ、あるものをあるがままに記録する。
それが、自分にできることのすべてだった。
昼を過ぎた頃、グレンが書斎に戻った。
カティアは提出用の帳簿の清書を進めていた。顔を上げると、グレンが自分の机に座り、監査資料を手に取るのが見えた。
「グレン様、監査資料と辺境の帳簿の突合結果をまとめました。ご確認いただけますか」
「ああ」
グレンが紙を受け取り、数字に目を通す。長い沈黙が続いた。ページをめくる音だけが書斎に響く。
グレンが紙を机に置いた。
「これを、そのまま出すのか」
「はい。辺境の数字は正確です。差異は事実として記載しています」
「監査局に届けば、王都側の帳簿との照合が行われる。差異の原因を追及する動きが出るだろう」
「承知しています」
グレンの灰色の瞳が、カティアを見た。
「お前に累が及ぶ可能性がある」
「帳簿を正しく提出することは、領地の義務です。それ以上の意図はありません」
グレンは黙ってカティアの顔を見ていた。それから、視線を資料に戻した。
「監査局への正式報告書は俺が作成する。領主名義で提出する。お前の帳簿を、証拠資料として添付する」
「グレン様が報告書を」
「領主の責任だ。財務顧問の仕事は帳簿を正しく整えることであって、王都との政治的なやりとりは俺の領分だ」
グレンが引き出しから便箋を取り出し、ペンを手に取った。
「お前の帳簿が証拠になる。数字が正確であることは、ブラントが保証している。それで充分だ」
カティアは頷いた。
グレンが報告書を書き始めた。ペンの走る音が書斎に満ちる。カティアも自分の清書に戻った。
二つの机で、二人が並んで書いている。同じ数字を、それぞれの立場で、それぞれの書類に落とし込んでいる。
私がしたのは、正しく数えただけだ。
帳簿の数字を一つずつ確認しながら、カティアはペンを走らせた。
日が傾き始めた頃、グレンが報告書を封筒に入れ、封蝋で封じた。
カティアは清書を終えた帳簿の写しを閉じ、背表紙を整えた。
グレンが封筒を机の上に置いた。それから、椅子ごとこちらに向き直った。
「カティア殿」
声の調子が変わった。業務の声ではなかった。
カティアは顔を上げた。グレンの灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「一つ、話しておかなければならないことがある」
書斎の空気が変わった。窓の外で風が鳴っている。封じたばかりの報告書が、机の上で微かに影を落としていた。
グレンの口が開きかけて、一度閉じた。それからもう一度、低い声で言った。
「今日ではなくてもいい。だが、この報告書を出す前に、お前に話すべきことがある」
カティアはペンを置いた。
グレンの目が、今まで見たことのない色をしていた。灰色の瞳の奥に、何かを決めた人間の光があった。
「……お聞きします」
返事をしたが、グレンは首を振った。
「今夜、食事の後に。書斎ではなく、暖炉の前で」
それだけ言って、グレンは立ち上がった。報告書の封筒を手に取り、書斎を出ていった。
カティアは一人残された机の上を見下ろした。
帳簿の数字は、すべて正しく並んでいる。差異も、空白も、そのままに。
けれど、グレンの目の奥にあったものは、数字では読み取れなかった。
話しておかなければならないこと。報告書を出す前に。
胸の奥で、小さな不安と、それよりも少しだけ大きな別の何かが、静かにぶつかっていた。




