第7話「去る準備」
前世で退職届を出したのは、一度だけだった。
入社四年目の冬。限界が来て、便箋に「一身上の都合により」と書いた。書いたところで力が尽きて、そのまま机に突っ伏した。翌朝、先輩に見つかって「寝るなら家帰れ」と言われて、退職届は引き出しの奥にしまった。結局、出さないまま死んだ。
今世では、ちゃんと出せる。
書斎の自分の机に向かい、カティアは白紙の帳簿を開いた。帳簿の間に挟んだ付箋と手紙が目に入る。グレンの角張った筆跡。「無理はするな」。「茶は右の棚の上段」。
目を逸らして、羽根ペンを取った。
引き継ぎ資料の作成を始める。
契約婚の残り期間は、あと二年と少し。けれど、いつ契約が終わっても領地の仕事が止まらないようにしておくべきだ。それが、ここに置いてもらった人間の責任だ。
帳簿の管理手順。入出庫記録の日次運用マニュアル。北方との取引ルートの連絡先と交渉経緯。物流改善の進捗と残課題。聖女慈善基金の拠出金に関する分析資料の所在。
一つずつ、紙に書き出していく。私がいなくなっても、オットーさんがこれを読めば続けられるように。
グレンが視察から戻ったのは、昼過ぎだった。
書斎に入ってきた足音で分かった。外套を脱ぐ衣擦れの音。椅子を引く音。
「戻った」
「お帰りなさいませ、グレン様。お疲れではないですか」
「問題ない」
グレンが自分の机に座った。カティアはペンを動かし続けた。
しばらく、二人とも無言で仕事をしていた。書斎に紙をめくる音と、ペンが走る音だけが響く。
ふとグレンの手が止まった気配があった。
「何を書いている」
「引き継ぎ資料です」
言葉が、思ったより淡白に出た。
「引き継ぎ」
グレンが言葉を繰り返した。カティアはペンを止めず、答えた。
「はい。私がこの領地で行った業務の内容と手順を、文書にまとめています。オットーさんが引き継げるようにしておけば、私がいなくなっても仕事は回ります」
沈黙が落ちた。
ペンの音が止まっていることに気づいた。グレンの方を見ると、灰色の瞳がこちらをまっすぐ見ていた。
「いなくなる、とは」
「契約には期限がありますから」
カティアは視線を紙に戻した。
「期限が来ればこの契約は終わります。その時に業務が滞らないよう、早めに準備しておくのが筋だと思いました」
グレンは何も言わなかった。
カティアは書き続けた。字が少し乱れていることに気づいたが、直さなかった。直す余裕がなかった。
ここにいたい。
その気持ちが、ペンを握る手から滲み出そうになるのを、必死で抑えていた。
茶の記録ノート。視察先からの手紙。付箋の言葉。あの全部が、義務ではないと気づいてしまった。気づいてしまったから、もう以前のようにこの席に座り続けることができない。
契約書には「恋愛感情を前提としない」と書いてある。この気持ちは、契約違反だ。
だから、去る準備をする。自分がいなくても回る仕組みを完成させて、きれいに引き継いで、出ていく。前世で出せなかった退職届を、今世ではちゃんと出す。
グレンの椅子がかすかに軋んだ。立ち上がった気配。書斎を出ていく足音。
振り返らなかった。振り返ったら、顔に出る。
夕刻、廊下でミーナと出くわした。
ミーナは洗い立ての布を抱えて歩いていたが、カティアの顔を見て足を止めた。
「奥方様、お顔の色が良くないですよ。お夕食の前に少し休まれては」
「大丈夫です。少し仕事が立て込んでいて」
ミーナが首をかしげた。それからカティアの隣に並んで歩き始めた。布を抱えたまま、しばらく黙っていた。
廊下の窓から、夕焼けが差し込んでいる。辺境の空は広い。王都では建物に遮られて見えなかった空の色が、ここでは端から端まで見える。
「奥方様」
ミーナが立ち止まった。カティアも足を止めた。
「あたし、余計なことかもしれないんですけど」
ミーナが布を胸の前で抱え直した。目がまっすぐこちらを向いている。
「奥方様は、ここにいたくないんですか」
空気が止まった。
「旦那様がお戻りになってから、奥方様、少しよそよそしいというか。書斎でもあんまりお話しされてないって、オットーさんが言ってて」
ミーナの声は、いつものよく通る声だった。けれど詰問ではなかった。心配の声だった。
「旦那様も、さっき厨房にいらして。いつもは来ない方なのに、ぼんやり茶を飲んでらして。あたしが何か聞いても『なんでもない』って」
カティアの喉が詰まった。
ここにいたくない。その言葉は、正確ではない。
ここにいたい。いたいから、苦しいのだ。いたいのに、いてはいけないと思うから、距離を置こうとしている。それがグレンにも伝わっているのだろう。けれどグレンは理由が分からない。カティアが急によそよそしくなった理由が分からないまま、黙って耐えている。
「ミーナさん」
「はい」
「私は——」
言葉が出なかった。
ここにいたいです、とは言えない。言えば、契約の枠を超える。感情条項に反する。三年で出ていくと決めた前提が崩れる。
けれど「いたくない」とも言えない。嘘だから。
「……ここのスープはおいしいです」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
ミーナがきょとんとした。それから、少し笑った。
「そうですか。厨房のおばちゃんに伝えておきますね」
それ以上は聞かなかった。ミーナは布を抱え直して、「じゃあ、お夕食の支度をしてきます」と歩いていった。
カティアは廊下に一人残された。
夕焼けの光が足元まで伸びている。この廊下を何度も歩いた。帳簿室へ。書斎へ。食堂へ。倉庫へ。市場へ。この領地の隅々を歩いて、数字を拾って、仕組みを作って、人の顔を覚えた。
ここは、仮住まいのはずだった。三年の契約が終わるまでの一時的な場所。それなのに、いつの間にか私の足はこの石畳の冷たさを覚えていて、窓から見える山の稜線を見なくても頭に描けるようになっていた。
答えが出ないまま、食堂に向かった。
長いテーブルの端と端。グレンが奥の席に座っている。いつも通り、表情のない顔。けれど今日は、こちらを見る灰色の瞳に、かすかな問いかけのような色が混じっていた。
カティアはスープを飲んだ。パンを千切った。味は分かった。おいしかった。この食卓が、温かかった。
何も言えないまま、夕食が終わった。
グレンが席を立った。すれ違いざまに、ほんの一瞬、こちらを見た。何か言おうとして、やめた。口が開きかけて、閉じた。
その沈黙が、胸に刺さった。
私室に戻り、机の引き出しを開けた。引き継ぎ資料の束。今日書いた分を加えると、厚さは指の第一関節ほどになった。
前世では退職届を出す前に死んだ。今世では、ちゃんと出せる。出していい。出すべきだ。
本当にそれでいいのか。
引き出しを閉めた。答えは出ない。
廊下の向こうから、オットーの声が聞こえた。
「奥方様、王都から監査資料が届きました」




