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婚約破棄された悪役令嬢が契約婚の領地を定時で帰れる国に変えてしまいました  作者: 月雅


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第6話「不在の重さ」

なぜ、あの人がいないだけでこんなに静かなのだろう。


グレンが領境の視察に出てから三日が経っていた。辺境騎士団の巡回に同行する形で、北の山間部を回っているらしい。数日で戻るとだけ告げて、朝早くに馬で発っていった。


書斎に入ると、グレンの机の上は整頓されたまま動いていない。インク壺の蓋が閉じられ、羽根ペンが立てに収まっている。カティアの机には昨日の続きの帳簿が積まれている。


二つの机が並んでいるのに、片方だけが空いている。それだけのことが、妙に気にかかった。


椅子に座り、帳簿を開いた。北方の町との直接取引の最終試算だ。数字に集中すればいい。グレンがいない間も、仕事は止められない。むしろ、いない間にこそ成果を出すべきだ。


羽根ペンを走らせる。数字を追う。計算を重ねる。


けれど、ふとした瞬間に顔を上げてしまう。隣の机を見てしまう。誰もいない椅子を確認して、またペンに目を戻す。


その繰り返しが、三日間続いていた。


昼過ぎに、ミーナが書斎に昼食を運んできた。


「奥方様、今日もこちらでお召し上がりですか?」


「はい。すみません、食堂まで行く時間がもったいなくて」


「旦那様がいらっしゃらないと、食堂が寂しいですもんね」


ミーナがパンとスープの盆を机の端に置きながら、何気なく言った。


「寂しいというか、一人であの長いテーブルに座るのは——」


「寂しいんですよ、それは」


ミーナがにこにこしている。カティアは口をつぐんだ。


スープを飲みながら、ミーナが書斎の棚を拭き始めた。棚の奥の方まで手を伸ばし、布で埃を払っている。


「あ、奥方様。これ、ご覧になったことあります?」


ミーナが棚の奥から、小さな革張りのノートを引っ張り出した。手のひらに収まるほどの大きさだ。表紙に何も書かれていない。


「いいえ。何ですか、それ」


「旦那様のノートですよ。いつからあったかなあ。あたし、お掃除の時に何度か見かけてたんですけど」


ミーナがぱらぱらと頁をめくった。その手が止まる。


「あら」


「ミーナさん?」


「これ……奥方様のお茶の記録ですよ」


カティアの手からスプーンが落ちかけた。


「見せてください」


ミーナからノートを受け取った。


頁を開く。グレンの角張った筆跡で、日付と茶葉の名前が記されている。その横に短い言葉が添えてある。


一行目。カティアが辺境に到着した日の日付。「到着日。ミーナに聞く。温かいものを」


二行目。翌日の日付。茶葉の名前。「反応なし」


三行目。さらに翌日。別の茶葉の名前。「少し飲んだ」


四行目。また別の日付。また別の茶葉。「おいしいと言った」——この行だけ、下線が引かれていた。


頁をめくる。それ以降も記録は続いている。日付と茶葉の名前、そしてカティアの反応。「二杯飲んだ」「香りを嗅いでから飲んだ」「飲み切った」。


書斎に取り寄せた茶葉。あれは、私が「おいしい」と言った一言を覚えていたからではなかった。一言ではなかった。この人は、最初から記録していた。毎日、何を出して、カティアがどう反応したかを、一つ一つ書き留めていた。


ミーナが覗き込んでくる。


「旦那様って、こういう方なんですよね。口では何もおっしゃらないけど、全部見てるんです。グレン坊ちゃんの頃から——」


ミーナが口を押さえた。


「あ、いえ、旦那様の、です。旦那様の」


カティアはノートを閉じた。指先が震えている。


これは義務ではない。


契約書に「配偶者の嗜好を記録すること」とは書かれていない。感情条項には「恋愛感情を前提としない」とある。このノートは、その条項の範囲を明らかに超えている。


けれど、そう認めてしまったら——。


「ミーナさん、このノートは元の場所に戻してください」


「え、でも——」


「お願いします」


ミーナが黙ってノートを受け取り、棚の奥に戻した。


カティアはスープの残りを飲み干した。味が分からなかった。


夕方、オットーが書斎を訪れた。


「奥方様、王都方面から来た商人に話を聞きました」


「何かありましたか」


「宮廷の財務官——ローゼンタールという人物ですが——経費処理で相当混乱しているそうです。領地への配分計算が滞っていると」


カティアの手が止まった。ローゼンタール。その名前には覚えがある。王太子の側近で、宮廷の経費管理を担当している財務官だ。


「どの程度の混乱ですか」


「商人の言葉を借りれば、『以前はもっとましだった。誰かがやっていたことを、今の担当者がまるでこなせていない』と」


誰かがやっていたこと。


カティアは王太子の婚約者だった時期、宮廷の行事運営にかかる経費の整理を任されていた。任されていた、というより、誰もやらないから自分でやっていた。経費の項目を整理し、無駄を省き、支出の承認手続きを簡略化した。殿下はそれに気づいていなかった。ローゼンタール財務官が上に報告する時には、改善の成果は彼自身の手柄になっていた。


今、その仕事をこなせる人間が王都にいない。


「それと、もう一つ」


オットーが声を落とした。


「聖女の慈善事業に疑問の声が出始めているそうです。集めた寄付金の使途が不透明だと、商人の間で噂になっていると」


カティアの脳裏に、帳簿の中の数字がよぎった。聖女慈善基金への送金額。年々増加する金額。


「商人の噂ですから、正確さは保証できません。ただ、複数の商人が同じことを言っていたそうですので、火のないところの煙ではないかと」


「分かりました。ありがとうございます、オットーさん」


オットーが頭を下げて去った後、カティアは椅子の背にもたれた。


王都が揺らいでいる。私がいなくなったから、ではない。いや、そう思いたくないだけかもしれない。帳簿を正しくつける人間がいなくなれば、数字はすぐに狂い始める。それは仕組みの問題であって、個人の問題ではない。


けれど今の私にとって、王都は遠い場所だ。あの帳簿も、あの経費も、もう私の仕事ではない。


私の帳簿は、ここにある。


夕食後、私室で髪を解いていると、廊下からミーナの声がした。


「奥方様、早馬が来ましたよ。旦那様からのお手紙です」


扉を開けると、ミーナが封書を差し出した。グレンの封蝋が押されている。


「ありがとうございます」


部屋に戻り、封を開けた。


中には一枚の紙。グレンの角張った筆跡で、業務連絡が簡潔に記されていた。北方の巡回は予定通り進んでいること。領境の防備に問題はないこと。帰還は明後日の予定であること。


最後の一行だけ、業務とは関係のない言葉が添えてあった。


「茶は右の棚の上段」


カティアは手紙を膝の上に置いた。


書斎の棚の配置を指示している。右の棚の上段に、茶葉が置いてあると。書斎で仕事をする私のために、茶の場所を教えている。


視察先から早馬を出して、業務連絡の末尾に、茶の場所を一行書き添える人。


これは義務ではない。配慮の範囲を超えている。分かっている。もう分かっている。


けれど、そう認めることは、契約の枠の外に出ることだ。感情条項に「恋愛感情を前提としない」と書いた、あの契約の。


手紙を折り直し、帳簿の間に挟んだ。あの付箋の隣に。


窓の外で風が鳴っている。辺境の夜は暗くて、静かで、冷たい。


けれど、この手紙があるだけで、部屋の温度が少し上がった気がした。


義務じゃない。でも、そう思ったら、私はどうすればいいのだろう。


答えは出なかった。出さないまま、灯りを消した。

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