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婚約破棄された悪役令嬢が契約婚の領地を定時で帰れる国に変えてしまいました  作者: 月雅


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第5話「顧問の椅子」

「閣下、奥方様を正式にお迎えすべきかと」


書斎の扉越しに、オットーの声が聞こえた。


カティアは廊下で足を止めた。書斎に向かう途中だった。朝一番でグレンに報告したい数字があったのだが、先客がいたらしい。


立ち聞きするつもりはなかった。けれど、自分の名前が出た以上、足が動かなかった。


「奥方様がこの一月で整理された帳簿と改善案は、私が十五年かけても手をつけられなかった領域です。倉庫の入出庫管理も軌道に乗り、北方との直接取引の試算も実用段階に入っています」


オットーの声は、いつもの淡々とした調子だった。けれど言葉の密度が、普段の業務報告とは違う。


「現状、奥方様は閣下の口頭承認のみで動いておられます。しかし対外交渉が本格化すれば、書面による正式な権限の委任がなければ、相手方が応じません。辺境伯夫人の立場だけでは、取引条件の交渉に限界があります」


沈黙が続いた。


「分かっている」


グレンの声だった。短く、低い。


「委任状を用意する。領地財務顧問としての正式な委任だ。ブラント、書式を整えてくれ」


「かしこまりました」


カティアは音を立てないように一歩下がった。胸が速く打っている。


正式な委任。領地財務顧問。


それは「好きに過ごしてくれ」とも「続けてくれ」とも違う。公的な権限の付与だ。辺境伯領の財務に関して、カティアの名前で指示を出し、対外交渉の席に座れるということだ。


扉が開いて、オットーが出てきた。カティアと目が合う。


「奥方様」


「聞こえていました。すみません」


「いえ。閣下にお聞きになるとよろしいかと」


オットーは眼鏡の位置を直し、軽く頭を下げて去っていった。


書斎に入ると、いつもと違うものが目に入った。


グレンの机の隣に、もう一つ机が置かれている。椅子も一脚。机の上にはインク壺と羽根ペン、白紙の帳簿が一冊。


「グレン様、これは」


「お前の席だ」


グレンは自分の机に向かったまま、書類に目を落としている。


「財務顧問として正式に委任する。書面は今日中にブラントが仕上げる。顧問報酬も別途つく。契約婚の手当とは別枠だ」


淡々とした声だった。業務連絡と同じ口調。けれどカティアの目は、椅子に釘付けになっていた。


木製の、飾り気のない椅子だ。書斎の他の家具と同じ質素な造り。けれど座面に薄い座布団が敷いてある。新しい布地だった。


「座ってみろ。高さが合わなければ調整させる」


言われるまま、椅子に腰を下ろした。机の高さは書き物にちょうどいい。インク壺の位置も、右利きの人間が使いやすい配置になっている。


「……ありがとうございます」


声がかすれた。


前世で六年間、総務部の片隅にいた。机は共用のもので、私物を置くスペースはなかった。異動のたびに段ボール一つで移動した。「お前の席」と言われたことは、一度もなかった。


今、この人は私に席をくれた。名前のついた席を。


グレンはこちらを見ていなかった。自分の書類に視線を戻している。けれど、その横顔に不機嫌さはなかった。


午後、カティアは新しい机の上で帳簿を広げていた。


正式に委任されたことで、これまで見られなかった帳簿にもアクセスできるようになった。オットーが「閣下の承認が出ましたので」と、奥の棚から数冊を運んできてくれた。


領地全体の歳入と歳出の総括帳簿。個別の取引帳簿ではなく、年単位で収支を俯瞰できる記録だ。


頁をめくりながら、数字を追う。


領地の赤字は、ここ数年で急速に悪化していた。カティアがこれまで見ていた物資配送の価格上昇は、赤字の一因ではある。けれど総括帳簿を見ると、それだけでは説明がつかない支出の膨張がある。


支出の内訳を洗う。


軍備費。これは辺境防衛のために一定額が必要だ。変動は小さい。


人件費。領内の使用人と騎士団の給与。これも安定している。


問題は「王都への上納金」の項目だった。


年次監査に伴う通常の上納金は、領地の歳入に対して一定の比率で計算される。この比率自体は変わっていない。しかし数年前から、通常の上納金とは別に「特別拠出金」という項目が加わっている。


その送金先は、「聖女慈善基金」。


カティアの手が止まった。


聖女。王都にいる、あの聖女だ。殿下が心酔している、召喚された聖女。


帳簿を遡る。聖女慈善基金への特別拠出金は、三年前から始まっていた。初年度は小額だったが、年を追うごとに増えている。直近の年度では、通常の上納金の二割に相当する額にまで膨らんでいた。


「オットーさん」


「はい」


「この聖女慈善基金への拠出金ですが、これは王家からの正式な要請に基づくものですか」


オットーが帳簿を覗き込んだ。眼鏡の奥の目が細くなる。


「王太子殿下の名義で書簡が届き、各領地に拠出を求めるものでした。国王陛下の勅令ではなく、王太子殿下の要請という形式です」


「つまり、法的な強制力はない」


「形式上はありません。しかし王太子殿下からの要請を拒否すれば、年次監査で不利な扱いを受ける可能性がある、というのが各領地の判断かと」


カティアは帳簿のその項目に、薄く印をつけた。


辺境の赤字は、物資の価格操作と、この不自然な特別拠出金の二重の圧迫で生じていた。しかもこの拠出金は年々増えている。放置すれば、あと二年で辺境伯領の財務は決定的に破綻する。


問題は、これが辺境だけの話なのかどうかだ。


王太子殿下の名義で各領地に拠出を求めているなら、他の領地も同じ負担を強いられているはずだ。しかし辺境は王都から遠く、情報が遅い。他の領地がどう対応しているかは分からない。


今の段階では、この帳簿の数字だけが手がかりだ。


日が傾き始めた頃、グレンが書斎に戻ってきた。


午後は領内の巡回に出ていたらしい。外套の肩に、うっすらと雪が残っている。


カティアは机に向かったまま、顔を上げた。


「グレン様、一つ報告があります」


「聞く」


グレンが自分の椅子に座り、外套を椅子の背にかけた。


「領地の赤字の根本原因を特定しました。物資配送の価格上昇に加えて、聖女慈善基金への特別拠出金が年々増加しています。この二つの合計が、赤字の約七割を占めています」


グレンの表情は変わらなかった。けれど、視線がわずかに鋭くなった。


「拠出金の金額推移と、通常上納金との比率をまとめました。こちらです」


紙を差し出す。グレンが受け取り、数字に目を通す。


「……王都との取引構造か」


「はい。辺境だけで解決できる範囲を超えています。物流の改善で支出を削減することはできますが、拠出金の問題は王都側の構造に起因しています」


グレンは紙を机に置いた。


「王都の帳簿がどうなっているか、辺境からは見えないな」


「見えません。ただ、この拠出金の増加ペースが続けば、辺境伯領だけでなく、拠出を求められている他の領地も苦しくなっているはずです。年次監査の際に、王家の監査局がこの数字をどう見るかが鍵になります」


グレンは黙って頷いた。


カティアは報告を終え、自分の机に向き直った。


背後で、かすかに音がした。振り返ると、グレンが席を立って書斎の棚に向かっている。小さな木箱を取り出し、中から茶葉の入った袋を出した。


書斎の隅に置かれた小さな卓上炉で、グレンが湯を沸かし始めた。


「……グレン様、お茶は私が淹れます」


「座っていろ」


短い声で制される。


湯が沸き、茶が杯に注がれた。グレンがカティアの机の端に杯を置いた。


湯気が立っている。香りを嗅いで、カティアは目を瞬いた。


昨日、夕食の後にミーナが出してくれた茶と同じ香りだ。あの時、「この茶葉、おいしいですね」と何気なく言った。それだけだ。一度だけ、食卓で口にしただけだ。


なのにグレンの書斎の棚に、同じ茶葉がある。


「グレン様、この茶葉——」


「辺境では手に入りにくい。北方の商人に頼んで取り寄せた」


取り寄せた。


私が「おいしい」と一言言った茶葉を、わざわざ取り寄せた。


「お口に合えばいいが」


グレンはそれだけ言って、自分の机に戻った。もう、こちらを見ていない。


カティアは茶を一口飲んだ。温かくて、甘い香りが鼻を抜ける。


これは契約上の配慮なのだろうか。夫婦としての体面を保つための、合理的な判断なのだろうか。


茶葉一つ取り寄せることが、契約の義務の範囲内だとは思えない。


けれど、それ以上のことを考えるのは、今はやめておいた。考えてしまったら、この席に座り続けることが難しくなる。


書斎に二つの机が並んでいる。窓から差し込む夕日が、二つの椅子を照らしている。


ここに、自分の席がある。


名前がついた席。仕事ができる場所。認めてくれた人がいる場所。


帳簿に向き直った。聖女慈善基金の送金記録に、もう一度目を通す。金額が年々増えている。初年度、二年目、三年目。数字は正直だ。


この先に、何がある。


カティアは羽根ペンを取り、新しい紙に数字を書き写し始めた。

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