第4話「休めの一言」
夜更けの帳簿室に、薪が爆ぜる音だけが響いている。
羽根ペンを走らせる手が止まらない。改善案の承認をもらってから二週間、カティアは倉庫の入出庫記録の日次管理への移行手順書を作り、北方の町との直接取引ルートの試算を並行して進めていた。
オットーが帰ったのは、二刻ほど前だ。「奥方様、本日はこのあたりで」と声をかけてくれたが、「もう少しだけ」と答えた。あの時点で、もう少しではなかった。分かっていたのに止められなかった。
倉庫番のハインツへの説明用に、入出庫の記録用紙を設計していた。日付、品目、数量、入庫元、出庫先、確認者の署名欄。前世なら表計算ソフトで五分の作業だ。手書きで一枚ずつ罫線を引くと、途方もなく時間がかかる。
目が霞む。
こめかみの奥がずきずきする。首を回すと、関節が鳴った。背中が板のように硬い。
あと少し。この用紙の雛形さえ仕上がれば、明日からハインツに試してもらえる。あと少し。あと少しだけ。
前世でも、同じことを言い続けていた。あと少し。あと一件。あと一枚。そうやって朝を迎えて、始発で帰って、二時間寝て、また出社した。
羽根ペンを握る指先が震えている。
インク壺に先端を浸そうとして、手が滑った。ペンが机の上を転がり、紙の端に黒い筋をつけた。
「……あ」
慌てて拾い上げる。インクの染みが、仕上げかけた用紙の右端に広がっている。書き直しだ。
書き直さなければ。
けれど新しい紙を取ろうとした手が、うまく動かなかった。指先が冷たい。暖炉の火が小さくなっている。いつの間にか薪が燃え尽きかけていた。
立ち上がって薪を足さなければ。そう思うのに、椅子から腰が浮かない。
疲れている。
認めたくない。認めたら、止まってしまう。止まったら、ここにいる理由がなくなる。
帳簿室の扉が開いた。
振り返ると、グレンが立っていた。
片手に燭台を持っている。上着は脱いで、シャツの上に薄い室内着を羽織っただけの姿だった。こんな時間に何をしているのだろう。
グレンは何も言わず、帳簿室に入ってきた。
燭台を棚の上に置く。それから暖炉の前にしゃがみ、くべ木を足した。火が勢いを取り戻し、部屋が明るくなる。
カティアは羽根ペンを握ったまま、グレンの背中を見ていた。
グレンが立ち上がり、こちらに歩いてきた。机の上の紙を一瞥する。インクの染みのついた用紙。書きかけの試算表。積み上がった帳簿。
それから彼は、自分の室内着を脱いで、カティアの肩にかけた。
「冷えている」
それだけ言って、手を離した。
室内着はグレンの体温で温かかった。肩から背中を覆う布の温もりに、凝り固まった筋肉がわずかに緩む。
「グレン様、あの、これは——」
「明日にしろ」
短い声だった。命令ではない。けれど有無を言わせない重さがあった。
「まだ、この用紙の雛形が——」
「インクが滲んでいる。指が震えている。その状態で書いたものは使い物にならない」
反論できなかった。事実だった。
グレンは机の端に視線を落とした。カティアが飲み残した茶の杯。中身はとうに冷め切っている。
「ミーナが心配していた。夕食をほとんど食べなかったと」
「食べました。半分くらいは」
「半分は食べなかったということだ」
言い返す言葉がない。グレンは表情を変えずにカティアを見下ろしている。
「お前の仕事は助かっている。だが、倒れられると困る」
「倒れません。この程度は——」
「この程度、と言う人間が一番危ない」
カティアの口が閉じた。
前世の上司は「この程度」を歓迎した。残業を厭わない部下は便利だからだ。体調を崩しても、代わりの人間を探す手間と天秤にかけて「もう少し頑張れ」と言った。
グレンは違うことを言っている。
「無理はするな。明日も帳簿は逃げない」
灰色の瞳が、燭台の灯りに照らされて少しだけ柔らかく見えた。気のせいかもしれない。けれど、声の低さの中に、硬さとは違う何かが混じっていた。
「……はい」
頷くと、グレンは小さく顎を引いて、帳簿室を出ていった。
足音が廊下の奥に消える。
カティアは肩にかけられた室内着の襟を、無意識に引き寄せた。温かい。さっきまで凍えていたことに、今になって気づいた。
翌朝、帳簿室の机の上に付箋が貼られていた。
グレンの字だった。角張った、無駄のない筆跡。
「無理はするな」
それだけだった。昨夜と同じ言葉。けれど、紙に書かれて残っているものは、声と違って消えない。
付箋を剥がして、しばらく手の中で見つめた。それから、帳簿の間に挟んだ。捨てる気にはなれなかった。
ミーナが朝食を運んできた。
「奥方様、おはようございます。今朝はちゃんと食べてくださいね。旦那様から『朝食を見届けてから帳簿室に案内しろ』って言われてますので」
「グレン様が?」
「ええ。今朝、あたしに直接おっしゃったんですよ。いつもは何も言わない方なのに、珍しいこともあるもんです」
ミーナがパンと温かいスープを並べながら、不思議そうに首をかしげている。
カティアは椅子に座り、スープを口に運んだ。温かい。昨夜から何も温かいものを口にしていなかったと、胃が思い出したように動き出す。
パンを千切りながら、考える。
グレン様は「倒れられると困る」と言った。困る。業務上の支障として困る、という意味だと解釈するのが妥当だ。契約婚の妻が体調を崩せば、領主としての体面にも関わる。そういう合理的な判断だろう。
そうに決まっている。
契約書には「恋愛感情を前提としない」と書いてある。だから、あの人の親切は義務の範囲だ。温かい室内着も、付箋の言葉も、朝食の指示も、契約上の配慮だ。
そう思うのに、胸の奥に残る温度が消えない。
スープを飲み干して、皿を重ねた。ミーナが「よく食べましたね」と笑う。
午後、オットーが帳簿室に来た。
「奥方様、倉庫番のハインツから報告がありました。日次記録の試行を始めたところ、昨日の入庫分と帳簿上の数字が一致したそうです」
「本当ですか」
「はい。ハインツ本人が驚いておりました。今まで月末にまとめて計算すると必ず誤差が出ていたのが、日次でつけると合うのだと」
当然だ。記憶に頼れば誤差が出る。記録に残せば合う。仕組みの問題であって、ハインツの能力の問題ではない。
「ハインツさんに伝えてください。合っているのは、ハインツさんがきちんと記録してくれているからです」
オットーが眼鏡の奥で目を細めた。
「お伝えします。それから——領民の間で、食糧の配分が改善されたと話題になっているようです。先日の物流経路見直しで、穀物の到着が三日早まった件です」
三日。たった三日の短縮だ。けれど辺境の冬は長い。穀物の到着が三日遅れれば、その三日間、誰かの食卓が空になる。
「ミーナさんが言っておりました。市場で、領民が『奥方様のおかげで今月はパンが安い』と話していたと」
カティアは手を止めた。
パンが安い。
自分がやったのは、物流経路を見直して中間の無駄を省いただけだ。帳簿を正しくつけて、在庫を数えて、仕入れ先を比較しただけだ。前世の総務部でもやっていたことと、本質は同じだ。
けれど前世では、経費削減の成果が誰かの食卓を潤すことはなかった。上司の報告書の数字が変わるだけだった。
ここでは、帳簿の数字の向こうに、人の暮らしがある。
オットーが口を開いた。
「奥方様、閣下が先ほど帳簿室にいらしていました。奥方様が領内を回っている間に」
「グレン様が?」
「机の上の資料をご覧になって、そのままお帰りになりました。何もおっしゃいませんでしたが——」
オットーは言葉を切った。それから、珍しく口元を緩めた。
「帳簿の積み方が変わっておりませんでしたので、何も動かしてはいらっしゃらないと思います。ただ、お茶が新しくなっておりました」
机の端を見た。確かに、出かける前に置いていた冷めた茶の杯が、温かいものに替わっている。
グレン様が、茶を淹れ替えた。
いや、厨房に指示を出しただけかもしれない。本人が淹れたかどうかは分からない。分からないが、不在の間に机を確認して、茶を替える指示を出した。それは事実だ。
「……ありがとうございます、オットーさん」
「私は何もしておりません」
オットーは淡々とそう言って、帳簿に視線を戻した。
カティアは温かい茶を一口飲んだ。
休め、と言ってくれた人がいる。仕事を認めて、でも無理はするなと言ってくれた人がいる。それは前世でも今世でも、初めてのことだった。
窓の外から、商人の荷馬車が広場に到着する音が聞こえた。ミーナが廊下を早足で通り過ぎていく。
「奥方様、王都方面からの商人が来ましたよ。何か面白い話でも聞けるかもしれませんね」
しばらくして、ミーナが戻ってきた。その顔が、少し曇っている。
「奥方様、商人が言ってたんですけど、王都で宮廷の行事が立て続けに延期されてるらしいですよ」
「行事の延期?」
「ええ。秋の収穫祭も、聖女様の祝福式も、全部先送りになってるとか。商人も詳しいことは知らないみたいですけど、『宮廷の中がごたごたしてる』って噂だそうです」
カティアは一瞬、王都の宮廷の広間を思い出した。殿下が玉座の隣に聖女を立たせ、貴族たちが薄ら笑いを浮かべていた、あの場所。
今の私には関係のない場所だ。
「そうですか。教えてくださってありがとうございます」
それ以上は聞かなかった。王都のことは、王都の人間が処理すればいい。私の帳簿はここにある。
机の上の茶が、まだ温かかった。




