第3話「数字の穴」
「奥方様、この帳簿のこの項目なのですが」
オットーの声に顔を上げると、彼が一冊の帳簿を開いてこちらに差し出していた。指先が示しているのは、王都からの物資配送記録の一頁だ。
帳簿室に朝の光が差し込んでいる。この一週間で埃はだいぶ減った。棚の帳簿は費目別に並び直され、年号の札が貼られている。二人で手を動かした成果だった。
「この年の秋口から翌年の春先まで、配送記録に空白があります。私も以前から気にはなっていたのですが、王都側の記録と照合する手段がなく、そのままにしておりました」
オットーが眼鏡越しにこちらを見る。その目は、試すような色ではなく、純粋に答えを求めている色だった。
カティアは帳簿を受け取り、頁をめくった。
空白の前後を比較する。空白期間の直前まで、王都からの物資は月に一度、定期的に届いていた。穀物、塩、布地、金属器具。量も安定している。
空白期間の後、配送は再開されている。ただし量が減っている。そして単価が上がっている。
「オットーさん、この空白期間の前と後で、同じ品目の単価を比較してもらえますか」
「すでに抜き出してあります」
オットーが別の紙を差し出した。几帳面な字で数字が並んでいる。
空白前の塩の単価。空白後の塩の単価。差は約三割。穀物は二割五分。布地に至っては四割近く跳ね上がっている。
「配送が止まった間に、仕入れ先が変わったのでしょうか」
「いえ。帳簿上、取引先の商会名は同じです。同じ商会から、同じ品物を、高い値段で買わされている形になります」
カティアは紙の上の数字を指でなぞった。
前世で何度も見た構造だ。取引先が一度納品を止め、代替がない状態を作ってから価格を釣り上げる。あるいは、間に別の業者が入り込んで中間マージンを抜く。どちらにしても、帳簿だけでは確定できない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
「この価格差は、辺境伯領の赤字の主要因のひとつですね」
「左様です」
オットーの声が低く、硬かった。十五年間この帳簿を見続けてきた人間の声だ。気づいていた。気づいていたが、一人では動かせなかった。
「改善案を作ります。グレン様にお見せしたいのですが、オットーさんにも確認していただけますか」
「無論です」
オットーは即答した。
書斎の扉を叩くと、「入れ」という短い声が返ってきた。
グレンは机に向かって書類を読んでいた。カティアが入ると、羽根ペンを置いてこちらを見た。
「失礼します、グレン様。お時間をいただけますか」
「ああ」
カティアは手元の紙束を机の上に広げた。オットーと二人でまとめた資料だ。
「辺境伯領の収支記録を精査しました。赤字の主な原因は、王都からの物資配送における価格の不当な上昇です」
グレンの灰色の瞳が、紙の上の数字に向けられた。
「数年前の空白期間を境に、同じ商会からの仕入れ単価が二割から四割上がっています。品質や数量に変化はありません。中間で誰かが搾取しているか、商会側が辺境の足元を見て価格を操作しているか、そのどちらかだと考えます」
カティアは次の紙を出した。
「改善案です。まず、辺境伯領内で自給できる品目を洗い出しました。塩と金属器具は外部依存を続けざるを得ませんが、穀物と布地の一部は領内生産に切り替えられます。次に、王都経由ではなく、隣接する北方の町と直接取引するルートの可能性です。距離的には王都より近く、輸送費が下がります」
「三つ目に、倉庫の入出庫記録を日次に変えることを提案します。現在は月末の一括報告ですが、これでは在庫の実数と帳簿の数字にずれが出ます。日次で記録すれば、損耗や流出があった場合にすぐ気づけます」
グレンは黙って聞いていた。紙の上の数字を一つ一つ目で追っている。
沈黙が続いた。
カティアの胸の奥で、小さな不安がよぎる。出過ぎただろうか。契約婚の妻が、到着して一週間で領地の財務に口を出すのは、さすがに分を超えているのではないか。
グレンが顔を上げた。
「この数字は、ブラントと確認したのか」
「はい。オットーさんと一緒に帳簿を突合しました」
「ブラントが認めたのなら、数字は正しい」
グレンは紙束を手に取り、もう一度目を通した。それから、カティアの顔を見た。
「続けてくれ」
一言だった。
「……よろしいのですか」
「俺が帳簿を読めないわけではない。だが、ここまで整理して改善案を出せる人間はいなかった。ブラントは数字に強いが、交渉や仕組みの設計は畑が違う」
グレンの声は平坦だった。感情を込めない言い方。けれど、その言葉の一つ一つが、カティアの仕事を正確に見て、正確に評価していた。
「改善案の実行には、領主としての正式な承認が要る。物流ルートの変更は対外交渉に関わるからな。必要な書類を整えてくれ。俺が目を通して判を押す」
「はい。ありがとうございます」
頭を下げた。深く、丁寧に。
グレンは視線を書類に戻し、「それだけか」と言った。
「はい、それだけです」
書斎を出た。廊下で足を止めて、息を吐いた。
「続けてくれ」。
前世で、それに近い言葉をもらったことがあっただろうか。
総務部で六年間働いた。業務改善の提案書を何度も書いた。大半は上司の机の上で埋もれた。「検討する」と言われて、そのまま返事がなかったものがほとんどだ。
グレン様は、数字を見て、内容を理解して、一言で承認した。
それだけのことなのに、胸の奥がじんと熱い。
厨房から食堂へ向かう廊下で、ミーナと行き合った。
「奥方様、今日はずっと帳簿室にこもっていらしたんですってね。お昼もろくに召し上がらなかったとオットーさんが心配してましたよ」
「あ、すみません。つい夢中になって」
「旦那様もそうなんですよ。お仕事が始まると食事を忘れるんです。似た者夫婦ですねえ」
ミーナがにこにこしながら、カティアの隣を歩く。
「あ、そうだ。奥方様、ご存じですか。旦那様、奥方様がいらっしゃる前から客室のお部屋を整えてたんですよ」
「ええ。到着の日にミーナさんから聞きました。二週間前から準備していたと」
「いえいえ、二週間どころじゃないんです。家具の配置を決めたのが二週間前ってだけで、お部屋の大掃除を指示されたのはその前ですよ。あの防寒外套だって、旦那様が商人にわざわざ寸法を指定して取り寄せたものですから」
カティアの足が止まった。
「寸法を、指定した?」
「ええ。奥方様の体格に合うようにって。契約のお話がまとまる前に、もう注文されてたみたいで。あたし、届いた荷を開けた時びっくりしましたよ」
契約がまとまる前に。
つまりグレン様は、婚約破棄の話が出た時点で——いや、もしかしたらそれより前から——カティアが辺境に来ることを想定していたのだろうか。
なぜ。
どうして、この人は私が来ることを知っていたかのように準備ができていたのだろう。
「ミーナさん」
「はい?」
「グレン様は、私の婚約破棄のことを、いつ知ったのですか」
ミーナが首をかしげた。
「さあ……。あたしが聞いたのは、旦那様から『客人が来る。部屋を整えろ』と言われた時が最初で。正式に契約婚のお話を聞いたのは、その後ですねえ」
それ以上は、ミーナも知らないようだった。
疑問が残った。
グレン様が私の到着を事前に知っていたのは確かだ。防寒外套の発注時期が、それを証明している。けれど、なぜ知っていたのか。王都と辺境の情報の行き来には時間がかかる。公式の通達が届くより前に動いていたとすれば、別の情報源があることになる。
考えても、今の私にはそれ以上たどり着けなかった。
食堂に向かいながら、カティアは胸の中の疑問を一旦しまい込んだ。今は帳簿の仕事がある。グレン様が承認してくれた改善案を、具体的な手順に落とし込まなければならない。
なぜこの人は、私が来る前から準備をしていたのだろう。
その答えは、まだ分からない。




