第2話「埃の帳簿」
この数字、全然合ってない。
帳簿室の埃っぽい空気の中で、カティアは朝から棚と格闘していた。昨夜見つけた違和感が気になって、夜明け前に目が覚めてしまったのだ。
棚の上段から帳簿を一冊ずつ引き出し、背表紙の年号を確認する。並び順がばらばらだ。三年前の記録の隣に七年前のものが挟まり、その下に去年のものが埋もれている。
扉が開く音がした。
「……早いですな」
オットーが眼鏡の位置を直しながら入ってきた。手に湯気の立つ茶の杯を二つ持っている。一つをカティアの前に置いた。
「おはようございます、オットーさん。すみません、勝手に始めてしまって」
「閣下から鍵の件は伺っております。ただ——」
オットーの視線が、カティアが棚から引き抜いた帳簿の山に向けられた。
「その棚は私の分類がありますので、元の位置に戻していただけると」
声は丁寧だが、語尾に硬さがある。カティアは手を止めた。
十五年。この人は十五年間、一人でこの帳簿室を守ってきた。自分なりの秩序がある。そこに昨日来たばかりの人間が手を入れるのは、前世でいえば「新入りが既存の管理台帳を勝手にいじる」のと同じだ。
あの感覚を、カティアはよく知っていた。総務部に配属された最初の週、先輩の机の書類を良かれと思って並べ替えて、三十分説教されたことがある。
「おっしゃる通りです。まず、オットーさんの分類方法を教えていただけますか。それを理解した上で、私にできることがあればお手伝いしたいのですが」
オットーの眉がわずかに動いた。
「……分類、ですか」
「はい。年号順なのか、費目別なのか、取引先別なのか。オットーさんがどういう基準で管理されているのかを知りたいのです」
沈黙が数秒。オットーが眼鏡を外し、布で拭いた。
「費目別です。ただし三年前の領境拡張の際に棚が足りなくなり、それ以降は——正直に申しますと、積んだままになっております」
その声には、十五年間の矜持と、それでも追いつかなかった現実への苦さが混じっていた。
カティアは頷いた。
「では、まず私にオットーさんの費目分類を教えてください。それに沿って、積まれている分を棚に戻す作業を一緒にやらせていただけませんか」
オットーは眼鏡をかけ直した。
「……よろしいのですか。奥方様のなさるようなことでは」
「帳簿を正しく並べるのに身分は関係ありません」
言ってから、少し強い言い方だったかと思った。けれどオットーは目を細め、ほんのわずかに口元を緩めた。
「では、こちらの棚からお願いいたします」
午前中いっぱいかけて、二人で帳簿の再分類を進めた。オットーの費目体系は明快だった。収入・支出・物流・人件・雑費の五分類。一人で管理するには合理的な構造だ。ただ、量が一人の処理能力を超えていた。
作業の合間に、カティアは気になっていたことを切り出した。
「オットーさん、少しお時間をいただけますか。領内の物流を実際に見てみたいのですが」
「物流、ですか」
「帳簿の数字と、現場の動きを照らし合わせたいのです」
オットーは一瞬、不思議そうな顔をした。しかし「かしこまりました」とだけ言って、外套を手に取った。
辺境伯領の中心部は、想像していたより小さかった。
石畳の広場を中心に、市場、倉庫、鍛冶場、宿屋が並ぶ。人口は多くない。すれ違う領民たちがオットーに会釈し、その隣を歩くカティアを物珍しそうに見る。
「あちらが領内唯一の共同倉庫です」
オットーが指した先に、木造の大きな建物があった。扉が開いていて、中で数人の男たちが樽を運んでいるのが見える。
カティアは倉庫の前に立ち、中を覗いた。
穀物の袋が積まれている。その隣に塩漬け肉の樽。奥に木材。配置に規則性がない。入荷順にとりあえず置いているだけだ。
「入荷と出荷の記録は、誰が管理していますか」
「倉庫番のハインツです。ただし——」
オットーの声がわずかに低くなった。
「記録は月末にまとめて報告を受ける形です。日々の動きは、ハインツの記憶頼りかと」
カティアの中で、前世の記憶が重なった。棚卸し。入出庫管理。リアルタイムの在庫把握。それがなければ、帳簿の数字は常に「過去の近似値」でしかない。
倉庫から広場に戻る道すがら、市場を通り抜けた。野菜、干し魚、粗末な布地。品数は少ない。値段の札がないものが多い。
「市場への物資は、どこから仕入れていますか」
「大半は王都経由の商人です。辺境は生産力が限られますので、王都からの配送に依存している品目が多いのが実情です」
王都からの配送。
昨夜、帳簿で見つけた不自然な空白。王都からの物資配送記録に、記録されるべき数字が欠落していた期間。あの空白と、この市場の品薄は、つながっているのだろうか。
まだ分からない。数字が足りない。
夜。私室の机に向かい、カティアは羽根ペンを走らせていた。
暖炉の火が揺れている。窓の外は真っ暗だ。辺境の夜は早い。
前世なら、この時間はまだオフィスにいた。蛍光灯の白い光の下、パソコンの画面を睨みながらスプレッドシートの数式を組んでいた。
今は羽根ペンと紙だ。パソコンはない。表計算ソフトもない。けれど、やることの本質は変わらない。
紙の上に、今日確認した情報を書き出していく。
倉庫の在庫管理体制。入出庫記録の不備。市場の品目と価格帯。王都からの配送ルート。オットーから聞いた費目分類の構造。
そして、帳簿に残る空白期間。
数字を並べていくと、輪郭が見えてくる。この領地の赤字は、単純な収入不足ではない。支出の構造に問題がある。王都からの物資を高値で買わされている可能性。中間で誰かが抜いている可能性。
まだ推測だ。証拠は足りない。
けれど、数字の流れを追えば、必ずどこかで辻褄が合わなくなる場所が見つかる。それが前世で学んだことだった。
羽根ペンを置いて、指を伸ばす。
ふと、机の端に置かれた茶の杯が目に入った。冷めている。夕食の後にミーナが「夜のお供にどうぞ」と持ってきてくれたものだ。
一口飲んだ。冷めていても、甘い香りがした。
明日、オットーさんに頼んで、過去五年分の王都との取引記録を出してもらおう。帳簿の空白期間と照合すれば、何が消えているのかが分かるはずだ。
紙の束を整え、引き出しにしまった。
立ち上がって窓辺に寄る。外は闇と静寂だけだ。星が見える。王都では見えなかった星だ。
前世でも今世でも、信じられるのは数字だけだった。人の言葉は変わる。約束は破られる。けれど帳簿に刻まれた数字は、消さない限りそこに残る。
そしてその数字の中に、必ず答えがある。
カティアは机に戻り、最後にもう一度、今日書いた紙を広げた。
一番上に、赤い線を引いた項目がある。
王都からの物資配送記録。空白期間。三年分。
この空白の向こうに、何がある。
明日、オットーさんと一緒にそれを確かめる。
机の上の羽根ペンを、元の位置に戻した。インク壺の蓋を閉める。紙の束を揃え、重しを載せた。
暖炉の火が小さくなっている。薪を一本足そうかと思ったが、やめた。もう遅い。明日は早い。
前世なら、ここからあと三時間は働いていた。
今は——寝ていいのだ。誰にも怒られない。
布団に入ると、シーツが冷たかった。けれど数分で体温で温まっていく。
前世の自分に教えてやりたい。温かい布団で寝ていい夜があるということを。
目を閉じる。
帳簿の数字が、まぶたの裏にちらつく。明日が来るのが、少しだけ楽しみだった。




