第10話「定時の幸福」
朝の光が書斎の窓から差し込み、二つの椅子を照らしている。
カティアは自分の机に座っていた。帳簿を開いている。隣の机ではグレンが書類に目を通している。ペンが紙を走る音が、二つ重なっている。
あの夜から数日が経っていた。書斎の距離は変わっていない。机の配置も、椅子の位置も同じだ。けれど、隣の机に目を向けることを自分に禁じなくなった。それだけで、朝の光の色が違って見えた。
グレンが茶を淹れている。書斎の隅の卓上炉で湯を沸かし、杯に注ぐ。カティアの机の端に置かれた。
「ありがとうございます、グレン様」
「ああ」
短い返事。いつもと同じだ。けれど杯を置く手が、ほんの一瞬だけ机の上に留まった。それから離れた。
茶を一口飲んだ。いつもの甘い香りがした。
廊下を早足で近づく足音が聞こえた。オットーだった。
書斎の扉を叩き、「失礼いたします」と入ってきた。手に封書を持っている。封蝋に、王家の監査局の紋章が押されていた。
「閣下、王都からの早馬です。国王陛下名義の監査結果通知です」
グレンが封書を受け取り、封を切った。中の書類に目を通す。表情は変わらない。読み終えてから、カティアに差し出した。
「読め」
受け取った。
国王名義の公文書だった。年次監査の結果に基づく通達。
一行ずつ読む。
聖女慈善基金に関する監査の結果、資金の使途に重大な不透明性が認められた。基金への拠出を要請した王太子殿下の名義の書簡が、国王の承認を経ていない不正規な手続きであったことが確認された。
宮廷財務官ヴィクトール・ローゼンタールは、経費処理における職務怠慢および報告書の虚偽記載により、即日解任とする。
王太子エドヴァルトに委任されていた政務の一部が撤回される。撤回の範囲は、財務に関する承認権限および各領地への書簡発出権限。
カティアは書類を机の上に置いた。
指先が冷たかった。王都が動いた。辺境から送った帳簿が、監査局の手に届き、照合され、結果が出た。
「オットーさん」
「はい」
「この通達の内容を、どうお読みになりますか」
オットーが眼鏡の位置を直した。書類をもう一度確認してから、口を開いた。
「あちらはもう持ちません」
静かな断言だった。
「財務官の解任は当然として、王太子殿下の権限縮小は、国王陛下が宮廷の実務崩壊を認識されたということです。聖女慈善基金の全容解明には時間がかかるでしょうが、資金の流れが監査局の手に渡った以上、蓋はできません」
カティアは窓の外を見た。辺境の空が広がっている。雪を被った山の稜線が、朝の光に白く輝いている。
「……大変そうですね」
それだけ呟いた。
王都のことは、王都の人間が処理する。私の帳簿はここにある。ここにしかない。
グレンがこちらを見た。何か言おうとして、やめた。代わりに、自分の杯を持ち上げて一口飲んだ。
オットーが頭を下げて書斎を出ていった。扉が閉まった後、書斎に静けさが戻った。
昼過ぎに、ミーナが書斎に駆け込んできた。
「奥方様、旦那様、ちょっと来てくださいませんか。玄関に領民の方々が」
書斎を出て玄関に向かうと、広場の方から数人の領民が歩いてくるのが見えた。先頭を歩いているのは倉庫番のハインツだった。両手に何かを抱えている。
近づいてきたハインツが、カティアの前で立ち止まった。日に焼けた顔が、照れくさそうに笑っている。
「奥方様、これ、市場の皆から」
差し出されたのは、花束だった。辺境の野花を束ねたもの。冬の終わりに咲く、小さな白と紫の花が混じっている。花屋で買ったものではない。誰かが野原で摘んできたのだろう。茎の長さがばらばらで、麻紐で不格好に束ねてある。
「あの、これは」
「奥方様のおかげで、今年の冬は食糧が足りました。パンも安くなったし、塩漬け肉も行き渡ったし。市場のおかみさんたちが、お礼がしたいって」
ハインツの後ろに立つ領民たちが、口々に頷いている。
「商人の間でも噂になってるんですよ。『辺境伯領は定時で帰れる』って。夜遅くまで荷を待たされることがなくなったから、商人が寄りやすくなったんだそうで」
定時で帰れる。
その言葉に、カティアは息を詰めた。
「ハインツさん、ありがとうございます。皆さんにもお礼をお伝えください」
花束を受け取った。軽い。けれど、手のひらの中でしっかりと重さがあった。
ハインツたちが帰っていくのを見送りながら、隣に立つグレンが腕を組んでいた。
「定時で帰れる領地、か」
「……変な評判ですね」
「悪くない」
グレンの声に、微かな温度があった。カティアは花束を胸の前で抱え直した。花弁から、冷たい風と土の匂いがした。
夕方、書斎に戻った。
花束は私室の窓辺に飾った。水を入れた陶器の杯に差してある。明日には萎れるだろう。けれど、今は咲いている。
書斎の自分の机に座り、帳簿を開いた。グレンも隣の机に座っている。いつもの配置だ。二つの机、二つの椅子、二つのインク壺。
帳簿の数字を確認する。北方の町との直接取引は順調に進んでいる。倉庫の入出庫記録は日次で回っている。聖女慈善基金への拠出金は、監査結果を受けて今年度分の支払いが凍結された。
赤字は解消に向かっている。
ペンを置いて、指を伸ばした。背中を椅子に預ける。
グレンが卓上炉で湯を沸かしている。茶の支度だ。杯を二つ出して、茶葉を量る。その手つきを、カティアは横目で見ていた。
「グレン様」
「ん」
「お茶、私が淹れましょうか」
「座っていろ」
いつもと同じやりとりだった。けれど、グレンの口元がわずかに緩んでいるのが見えた。
杯が机の端に置かれた。湯気が立ち上る。甘い香り。
カティアは茶を一口飲んで、帳簿に目を戻した。
数字を追いながら、心の中で、誰にも聞こえない声で語りかけた。
片桐架月。二十九年間生きて、過労で死んだ、前の私。
ちゃんと休めてるよ。
温かい食事がある。座っていい椅子がある。仕事を認めてくれる人がいる。無理をするなと言ってくれる人がいる。茶を淹れてくれる人がいる。
それだけで、充分だった。
グレンが自分の杯を持ち上げて、一口飲んだ。それから書類に視線を戻す。ペンを取り、何かを書き始める。
カティアも帳簿に向き直った。数字を追う。ペンを走らせる。二人分のペンの音が、書斎に静かに重なる。
窓の外で、夕日が山の稜線に沈みかけている。辺境の空が、橙から紫に変わっていく。
夜、グレンが机の引き出しを開けた。
中から封書が一通出てきた。封蝋の紋章は、昼に届いた監査局のものとは違う。王家の紋章だが、公文書の形式ではなかった。もっと小さい封筒で、私的な書簡の体裁だった。
グレンはそれを手に取り、しばらく見つめていた。
カティアは気づいていた。その封筒が、通常の公文書とは異なることに。王家の紋章が押された私信。国王からグレン宛の、個人的な手紙。
「グレン様、それは」
グレンが封筒をカティアに見せた。表書きには「アシュフォード辺境伯閣下」とだけ記されている。筆跡は公文書の書記官のものではなかった。
「国王陛下からだ。監査結果の通達とは別に届いた」
グレンは封筒を机の上に置いた。封を切らなかった。
「明日でいい」
そう言って、カティアに微笑んだ。
微笑み、と呼んでいいのかは分からなかった。口元がほんのわずかに動いただけだ。目元は変わらない。けれど、灰色の瞳の奥の光が、昼間より少しだけ柔らかかった。
「今日はもう遅い。帳簿を閉じろ」
「はい」
カティアは帳簿を閉じた。ペンを置いて、インク壺の蓋を締めた。
書斎の暖炉で、薪が静かに燃えている。窓の外は暗い。辺境の夜は静かだ。
二つの椅子が、暖炉の灯りに照らされている。
封を切られていない手紙が、机の上に残されている。王家の紋章。中身は分からない。明日になれば分かる。けれど今夜は、このままでいい。
カティアは立ち上がり、書斎の扉に向かった。振り返ると、グレンがまだ椅子に座っていた。封書を見つめている。
「おやすみなさい、グレン様」
「ああ。おやすみ」
扉を閉めた。
廊下を歩きながら、私室に向かう。石畳の冷たさが足の裏に伝わる。この冷たさを、もう覚えていた。窓から見える山の稜線も、暖炉の薪が爆ぜる音も、厨房から漂うスープの残り香も。
全部、知っている。
ここが、私の場所だ。
私室の扉を開けた。窓辺の花が、月明かりの中で白く浮かんでいた。明日には萎れるかもしれない。けれど、また誰かが摘んできてくれるだろう。この領地には、花を摘んで届けてくれる人がいる。
布団に入った。シーツはもう冷たくなかった。毎晩、寝る少し前にミーナが湯たんぽを入れてくれるようになっていた。
目を閉じる。
定時に帰れる場所がある。帰りを待っている人がいる。
それだけで、充分だった。
(完)
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