第1話「天国の定時」
北の辺境伯領の門を、カティアはひとりでくぐった。
馬車を降りた瞬間、冷たい風が頬を打つ。王都とは空気の質がまるで違う。土と針葉樹の匂い。遠くに雪を被った山が見える。
門の前に、三人の人間が立っていた。
中央に立つ長身の男が、わずかに顎を引いた。黒い髪に灰色の瞳。表情はほとんどない。軍人のように背筋が伸びている。
「アシュフォード辺境伯、グレンフェルトだ。長旅だったろう」
短い。それだけだった。
隣に立つ女性が、ぱっと顔を輝かせて一歩前に出る。
「奥方様、ようこそいらっしゃいました! 筆頭侍女のミーナと申します。お荷物、お持ちしますね」
カティアの手から旅行鞄をひょいと取り上げながら、ミーナは「寒かったでしょう」と矢継ぎ早に話しかけてくる。三十代ほどの、よく通る声の女性だった。
もう一人、眼鏡をかけた痩身の中年男性が、静かに頭を下げた。
「経理担当のブラントと申します。奥方様のご到着を、閣下ともどもお待ちしておりました」
「カティア・レーヴェンシュタインです。……アシュフォードです」
自分の新しい姓を口にするのは、まだ慣れない。
グレンがこちらを見た。一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされる。
「中に入れ。冷える」
踵を返して歩き出す背中を、カティアは黙って追いかけた。
屋敷の入口を抜けると、暖炉の熱が全身を包んだ。
石造りの廊下は質素だが、掃除が行き届いている。壁に飾りはない。調度品も最低限。王都の公爵邸とは正反対の簡素さだった。
ミーナが先導して、二階の奥まった部屋の前で立ち止まる。
「こちらが奥方様のお部屋になります」
扉を開けた瞬間、カティアは足を止めた。
広い。
天蓋つきの寝台。書き物机。暖炉には既に火が入っている。窓辺には読書用の椅子。そして衣装棚の上に、新品の防寒外套、手袋、厚手の靴下が畳んで置いてある。
「……これは」
「旦那様がご用意されたものですよ。辺境は冷えますからって」
カティアは防寒外套に手を伸ばした。厚手の布地。裏地に毛皮が縫い込まれている。安物ではない。
おかしい、と思った。
契約結婚だ。政略上の必要に基づく、三年間の期限付き婚姻。恋愛感情を前提としない。契約書にそう書いてある。カティア自身が署名した。
なのに、この部屋は「人を迎える準備」がされている。
「辺境伯様は、いつからこの部屋を用意されていたのですか」
「んー、二週間くらい前からですかね。自分で家具の配置を確認してましたよ」
二週間。
婚約破棄が確定してから、契約婚の話がまとまるまで、そんなに日数はなかったはずだ。つまりこの人は、契約が成立するかどうかも分からない段階から準備を始めていた。
なぜ。
疑問を飲み込んだ。考えても仕方がない。ここは三年間の仮住まいだ。余計なことを考える暇があったら、自分の仕事を見つけるべきだ。
仕事。
前世でも今世でも、それだけが私の存在理由だった。
食堂に通されたのは、日が傾き始めた頃だった。
長いテーブルの端と端。グレンが奥の席に座り、カティアが反対側に案内される。距離がある。会話をするには遠い。
運ばれてきたのは、根菜のスープ、焼きたてのパン、塩漬け肉の煮込み。
王都の晩餐会と比べれば素朴だ。品数も少ない。銀の食器ではなく、木と陶器の皿。
カティアはスプーンを手に取り、スープを一口すすった。
温かい。
野菜の甘みが舌に広がる。パンを千切ると、中からほわりと湯気が立つ。焼きたてだ。カティアが到着する時間に合わせて焼いてくれたのだろう。
その瞬間、不意に視界がぼやけた。
前世。終電を逃した夜のオフィス。机の上のコンビニおにぎり。冷たいお茶。蛍光灯の下で一人、翌月の勤怠表を睨んでいた。誰もいない。温かい食事を待っていてくれる場所など、どこにもなかった。
今世も同じだった。公爵邸の食事は豪華だったが、父は無言で、母は形式的な会話しかしなかった。婚約者の王太子は晩餐に遅刻するのが常で、来たとしても聖女の話ばかりしていた。
カティアの食事はいつも冷めていた。
それが当たり前だと思っていた。
「奥方様? 大丈夫ですか?」
ミーナの声で我に返る。頬に涙が伝っていた。
「あ——すみません。何でもないです。スープが、美味しくて」
慌てて袖で拭う。泣くような場面ではない。温かいスープを飲んだだけだ。それだけのことで泣くなんて、おかしい。
テーブルの向こうで、グレンが無言でこちらを見ていた。
何か言うかと思ったが、彼は視線を皿に戻し、黙って食事を続けた。
ミーナが「お代わり、ありますからね」と小声で言って、カティアの横に温かいパンをもう一切れ置いた。
食事の後、カティアは立ち上がった。
「辺境伯様」
「グレンでいい。堅苦しいのは慣れていない」
「……では、グレン様。一つ、お願いしたいことがあります」
グレンが椅子に座ったまま、こちらを見上げる。灰色の瞳に感情は読めない。
「この領地の帳簿を見せていただけますか」
沈黙が落ちた。ミーナが目を丸くしている。
「帳簿」
グレンが言葉を繰り返した。
「はい。収支の記録、物資の管理台帳、領民への配給記録。あるものすべてを拝見したいのですが」
到着初日に帳簿を要求する妻は、おそらく前例がない。分かっている。けれど黙って花を飾るだけの生活を三年も続ける気はなかった。
前世で叩き込まれた唯一の技能。帳簿を読み、数字を整え、仕組みを直す。それしかできない。それだけが、ここにいる理由を作れる。
グレンはしばらくカティアの顔を見ていた。
「……好きに過ごしてくれ」
それは許可だった。
「帳簿室は一階の東棟の奥だ。ブラントに鍵を開けさせる」
「ありがとうございます」
深く頭を下げると、グレンは小さく頷いて食堂を出ていった。
残されたミーナが、ぽかんとした顔でカティアを見る。
「奥方様って、変わった方ですね」
「よく言われます」
嘘だ。前世では「地味」と言われ、今世では「退屈」と言われた。変わっている、なんて褒め言葉は初めてだった。
一階の東棟。
ブラントに案内された帳簿室の扉を開けた瞬間、カティアは立ち尽くした。
埃が舞った。
棚に帳簿が積み上がっている。背表紙が色褪せたもの、綴じ紐が切れかけたもの。数年分の記録が、整理されないまま放置されている。
ブラントが気まずそうに眼鏡を直した。
「私一人で管理しておりますので、分類が追いつかず……」
カティアは一冊を手に取り、表紙を開いた。
数字が目に飛び込んでくる。
収入の項目。支出の項目。差し引きの合計。一ページ目で、もう違和感があった。
「……これは」
物資の配送記録。王都からの搬入量と、実際の領内配布量。数字が合わない。搬入されたはずの量より、配布量が明らかに少ない。差分が消えている。
一年分ではない。何年も続いている。
カティアは帳簿を胸に抱え直した。
前世で何千回と繰り返した動作だ。棚卸し。突合。差異の追跡。理由の特定。数字を正しく並べ直すこと。
誰に褒められなくても、誰に気づかれなくても。数字は嘘をつかない。
「ブラントさん。明日から、この帳簿室を使わせてください」
ブラントは一瞬、目を見開いた。そしてゆっくりと頭を下げた。
「……よろしくお願いいたします、奥方様」
カティアは埃まみれの帳簿をもう一冊抜き取った。
背表紙に書かれた年号。その下に、インクの滲んだ数字。
王都からの物資配送記録、三年分。空白の期間がある。
記録されるべき数字が、ない。
カティアの指が、その空白の上で止まった。




