7.新たな日常
新年、明けましておめでとうございます。
ついに完結です。今までのような日々にはもう戻れません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
それでは、よろしくお願いします。
完結……できるの?
翌日、おれは大学を休んだ。
泥のように眠り続け、目が覚めてもなお、網膜にはオレンジ色の炎と、鼻腔には錆のような血の匂いがこびりついていた。
だが、翌々日には無理やり自分を奮い立たせ、講義に出席した。
欠席を続ければ、あの日おれが何をしていたか、誰かに勘繰られる気がしたからだ。
大学の廊下ですれ違う警備員や、街で見かけるパトカーを見るたびに心臓が跳ねたが、世界は何事もなかったかのように回っていた。
ニュースでは、中央高速での「車両火災を伴う衝突事故」が短く報じられただけだった。軍用トラックの存在も、銃撃戦の事実も、すべては深い闇の中に葬られていた。
『我々の背後にいるのもまた、国なのですから』
マスターの言葉が頭を過る。その真意を考えれば考えるほど、おれの足元は泥濘のように沈んでいった。
国家という巨大な岩盤を相手に大罪を犯したと思っていた。だが、もしその背後に、この国自体の別の顔が控えているのだとしたら?
冴木は知っているのだろうか?
彼に尋ねたら、何か教えてくれるのだろうか。
しかし、それから一週間。冴木からは、何の音沙汰もなかった。
あの夜の出来事は、すべておれの脳が見せた悪夢だったのではないか。
そんな疑念が頭をよぎり始めた矢先のことだった。
午後、大学からアパートに帰り着くと、郵便受けがカタンと音を立てた。
恐る恐る確認すると、そこには宛名のない、ずっしりと重い茶封筒が放り込まれていた。
部屋に鍵をかけ、震える手で封を切る。中には帯のついた五百万円。冴木が「信用の証」として渡した前金とは別の、正真正銘の報酬だ。前金の百万を加えると、手元には合計六百万もの大金がある。当初の約束からは百万円多い。
そして、スマホに一通の通知が届く。
『生きてるか。遅くなったが、約束のもんだ。俺からの臨時ボーナスも含んでる。とっておけ』
息を吐く。『生きてるか』はこっちの台詞だ。
おれはスマホの画面を見つめ、指を動かした。
あの生死の境を彷徨った夜の、冴木の蒼白な横顔を思い出しながら。
『あんたの命は、たったの百万か? 随分と安いもんだな』
精一杯の皮肉を打ち込む。数分後、短く返信が来た。
『ハッ。学生風情がプロの相場に口を出すな。……まあ、お前の「下手くそな運転」に支払った保険料だと思えば、妥当な額だよ』
相変わらずの皮肉屋だ。あの銃弾を受けてなお、死の淵から這い上がってきたらしい。
その言葉の裏に、生きて地獄を抜けた者同士の奇妙な連帯感を感じてしまった自分が、たまらなく嫌で、同時に誇らしくもあった。
さらに数日が過ぎ、おれは完全に大学の日常へと復帰していた。
友人たちは相変わらず「単位が危ない」だの「合宿の女子のメンツ」だのと騒ぎ、講義は吐き気がするほど退屈で、バイト先では店長が小銭の誤差に血眼になっている。
だが、おれの中では何かが決定的に壊れ、あるいは作り替えられていた。
この平凡な日常が、以前ほど苦痛ではない。
なぜなら、おれはもう知ってしまったからだ。
この薄っぺらな日常という皮一枚の下に、銃弾とガソリンの匂いが立ち込める、剥き出しの「本物の世界」があることを。
そして、おれはその世界の住人に「最高だ」と認められたのだ。
ある夜、おれは吸い寄せられるように、あの峠のカフェ「コル・ド・ラ・リベルテ」を訪れた。
おれにはまだ、確かめなきゃいけないことがある。
マスターは相変わらず無口で、店内にはレコードが刻む静かなジャズが流れている。
あの日と同じ、平和で静謐な箱庭のような空間。
窓際の席に座り、苦いコーヒーを注文する。
「よう」
不意に背後からかけられた声に、肩が跳ねた。
振り返ると、脇腹を庇うようにぎこちない動作で、冴木が立っていた。ラフなジャケットの下には、まだ包帯が巻かれているのだろう。
「……生きてたのか」
「ああ。お前のあの、ひどい運転のおかげでな。それに、弾は掠めただけで助かったぜ」
悪運の強いやつだ。
冴木は当然のように隣の席に座った。
「次の仕事、興味あるか?」
「……内容による」
「慎重になったな。まあ、死線を越えた証拠だ」
冴木は唇の端を吊り上げ、獲物を見つけた猛獣のような目で、おれの目を覗き込んできた。
「今度は、もうちょっと複雑だ。だが、報酬の桁が一つ変わる。お前の『情報工学』とやらの知識、今度はもっと実戦で使ってもらうことになるぜ」
「聞くだけなら、タダだ」
おれは冷めたコーヒーを一口飲んだ。
あんなに恐ろしかったはずの男の誘いが、今は甘い毒のように全身に回っていく。
「来月、港に一隻の貨物船が入ってくる。その船のコンテナには、表の帳簿には決して載らない『ある重金属』が積まれている──」
冴木の囁きを聞きながら、おれは窓の外に広がる深い闇を見つめた。
もう、日常を愛する自分には戻れない。
おれの指先は、まだあの黒いスポーツカーの、血と汗に塗れたステアリングの感触を鮮明に覚えている。
次は、どんな夜が来る?
おれは心の中で静かに笑い、深く、深淵へと足を踏み出した。
(完)
自己満足の物語にお付き合いいただきありがとうございました。
短かったですが、いかがでしたでしょうか。楽しんでいただけたら嬉しいです。
気が向いたら続きを考えようと思います。
また我々のコーヒーが恋しくなったら、いつでもお越しください。
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めでたしめでたし!




