6.命がけの操舵
1年なんてあっとゆう間です。
この物語ももうすぐ終わりです。
スポーツカー、スポーツカー…ってもっと表現を区別出来なかったんですかね
「ああああああっ!」
叫び声とともにアクセルを踏み抜く。
黒いスポーツカーの強大なトルクが、素人のおれの首を後ろへ激しく叩きつける。タイヤが悲鳴を上げ、白煙を撒き散らしながら本線へ合流した。
本線の先で、軍人たちがこちらに気づくのが見えた。
「来るな!」と叫んでいるような冴木の顔が、炎に照らされて一瞬だけ過った。
パパパンッ! という乾いた音が車体に響く。
「撃たれてる、本当に撃たれてる!」
ハンドルを握る手が、これまでにないほど冷たくなっていた。
おれはプロじゃない。ただの大学生だ。教習所で習った「急」のつく操作を避けろなんて教えは、脳内の火災で焼き切れていた。
おれは遮二無二ハンドルを切り、燃え盛る青いスポーツカーの真横に、半ばぶつけるようにして車を停めた。急ブレーキでタイヤがロックし、車体が激しくスピンしかける。
「冴木、乗れ! 早く!」
助手席のドアを蹴り開ける。冴木はよろめきながら、銀色のアタッシュケースを抱えて車内へ転がり込んできた。
その瞬間、フロントガラスにひびが入り、火花が散った。
「陽介、出せ! 止まるな、踏み抜け!」
冴木の声が、苦痛で歪んでいる。
おれはギアを叩き込み、再びアクセルを床まで踏みつけた。車列の残骸をすり抜け、猛然と加速する。だが、バックミラーには、こちらを追跡してくる軍用トラックの巨大なライトが映っていた。
「冴木、あんた……血が!」
ふと隣を見ると、冴木の脇腹からどす黒い鮮血が溢れ出し、バケットシートを汚していた。防弾チョッキなど着ていなかったのだ。一弾が、彼の腹部を無慈悲に掠めていた。
「気にするな……死にはせん。おい、陽介。死にたくなければ俺の言う通りにしろ」
冴木は顔面を蒼白にしながらも、鋭い眼光でおれを見た。
「あのトラックは重量がある。カーブの出口、三車線の真ん中から一気に左へ寄れ。……いいか、今だ! 切れ!」
「わ、わかった!」
おれは冴木の指示通り、全身の筋力を振り絞ってハンドルを左に切る。軍用トラックは今にも追いつきそうな距離にいたが、重い車体は慣性を制御できず、大きく車体を揺らしながらおれの右側を虚しく通り過ぎていった。
「次はシフトダウンだ。エンジンの回転数を上げろ。……そのまま第3トンネルで側道へ逃げ込む。手前の分岐で右を見せてから、直前で左へ滑り込め!」
おれは自分の意志を捨て、冴木の脳と直結したパーツになったつもりで手足を動かした。
プロの戦術が、おれの拙い運転を補完していく。
時速百六十キロを超える世界で、景色は溶けて流れる光の帯となり、耳元では風切り音と心臓の音が爆音で鳴り響いていた。
トンネル内の分岐点。おれは冴木の指示通りにフェイントをかけ、急減速とともに側道へと滑り込んだ。追撃してきていたトラックのライトが、トンネルの奥へと遠ざかっていく。
数分後。
おれたちは高速を離れ、街灯もない暗い林道の脇に車を滑り込ませた。
エンジンを止めると、急激な静寂が襲ってきた。耳の奥で、まだ銃声が鳴っているような気がする。
「……うまく巻いたか」
冴木が力なく呟き、手にしたアタッシュケースを足元に落とした。彼の呼吸は荒く、額には脂汗が浮いている。
「冴木、しっかりしろ。今、救急車を……」
「馬鹿か。警察を呼ぶ気か」
冴木は力なく笑い、血に濡れた手でおれの肩を叩いた。
「よくやった、陽介。やっぱりお前……最高の『共犯者』だ」
おれはハンドルを握ったまま、動けずにいた。
掌には、ステアリングの冷たい感触と、震えが残っている。
腹部から血を流すプロの犯罪者と、盗み出した国家機密。そして、血の匂いが充満する黒いスポーツカー。
もう、何一つ言い逃れはできない。
おれは今日、本物の地獄を潜り抜け、二度と戻れない場所へ辿り着いたのだ。
深い闇が広がる林道。
エンジンの熱気が冷めやらぬ車内に、突如として「コン、コン、コン」と乾いた音が響いた。
心臓が文字通り、口から飛び出しそうなほど跳ね上がった。
「追手か? それとも警察か?」
恐怖で固まるおれに対し、隣の冴木は、出血で顔を青白くしながらも、驚くほど落ち着いた様子で視線を窓へ向けた。
「……どちらでもない。開けろ」
震える手でロックを解除し、重いドアを開けると、そこには街灯のわずかな光に照らされた「コル・ド・ラ・リベルテ」のマスターが立っていた。その背後にはアメリカ製の軍用四輪駆動車を思わせるトラックがあった。
「ひどい有様じゃないか、冴木くん」
マスターの声は、山奥の喫茶店で聞いた時と同じ、静かで落ち着いたものだった。
ここは、もともと冴木が公団の車に乗っていた仲間と合流し、機密物資を受け渡すはずの最終地点だったのだ。
「ああ……想定外の連中が混ざりやがった。それに……銃弾が、腹に」
「あまり動かない方がいい。……仲間は、逃げたようだね」
マスターの言葉に揶揄は感じられなかった。冴木は血の混じった笑みをこぼす。
「『いざとなったら、迷わず逃げろ』。それが俺たちの世界の、鉄の原則だ。あいつらは、正しく動いた……それだけだ」
冴木は、自分の命を危険にさらしてまで救いに来た「甘い」おれとは違う、非情なプロの世界の理を口にした。
マスターがアタッシュケースと、息も絶え絶えの冴木を乗ってきたトラックへと運び込む。冴木はもはや、自力で立つことさえも出来なくなっていた。
さらに、手際よく弾痕だらけでボロボロになった黒いスポーツカーのナンバープレートを外し、偽装用のカバーをかけると、ギリギリの幅でトラックの荷台に収めた。
無駄のない動きだ。ここまでを数分でし終えると、マスターはおれの前に立ち、そっと手のひらを差し出した。
「陽介くん、君の仕事はここまでだ」
その大きな掌の上には、カフェで冴木がマスターに渡したセダンのキーが乗っていた。
「君の車は、ふもとのコンビニの裏に停めてある。この車は私が処分しておこう。冴木くんを助けてくれたことには感謝しているが……君は今日、ここで何も見なかった。いいね?」
おれは、冷たい金属のキーを受け取った。
つい数時間前まで、あれほど退屈の象徴だと思っていた古びたキーが、今は日常へと戻るための唯一の「命綱」に見えた。
まだ指先が小刻みに震えている。その震えは、握りしめたキーを伝っておれの全身に、そして心臓の奥深くまで入り込んでいた。
「マスター……」
消え入りそうな声で、おれは口を開いた。
言わなければならない、重苦しい塊が胸の奥に詰まっていた。『何も見なかった』なんて、どう足掻いても言えない。
「おれは……とんでもない『悪』に足を踏み入れてしまったんですよね。もう、真っ当な人間には戻れない。国を裏切って、犯罪者になってしまったんだ」
吐露した言葉は、夜の冷気の中で白く濁って消えた。マスターは、トラックのハッチを閉める手をふと止め、穏やかな、しかし感情を一切排した瞳でおれを見つめた。
「世の中は複雑ですよ、陽介くん。正しいことは、決して一つではない。それを『悪』だと決めつけているのは、一体誰なのでしょうね?」
「え……?」
「あなたが奪還を手助けしたその『機密』が、何人の命を救い、あるいは奪うために作られたものか、考えたことはありますか? 国家という巨大な偶像を相手に、あなたは少しばかり気負いすぎているのかもしれません」
マスターはゆっくりと歩み寄り、おれの肩に大きな手を置いた。その手のひらは、驚くほど温かかった。
「覚えておきなさい。我々の背後にいるのもまた、国なのですから」
「どういう……意味ですか」
おれの問いに、マスターは答えなかった。ただ、古くからの知人に教えを説くような、慈悲深い笑みを浮かべただけだった。
「さて、そろそろ冴木くんを連れて行かねば。彼には時間があまりない。手遅れになってしまっては困りますからね」
トラックに運び込まれた冴木を振り返ると、彼は意識を失いかけながらも、最後に一度だけ陽介を見た。
「陽介……。約束の……金は、……間違いなく、……」
それが、おれが聞いた冴木の最後の言葉だった。
重厚なエンジン音が響いた。
マスターは運転席に乗り込み、最後に一度だけ窓からおれを見た。
「またコーヒーが恋しくなったら、いつでもお越しください」
マスターの車が静かに、滑るように闇の中へと消えていった。
おれは林道に一人取り残された。
手の中にあるセダンのキーを強く握りしめる。
体中から力が抜け、おれはその場に崩れ落ちた。
耳の奥でまだ鳴り止まない銃声と、鼻を突く血の匂い。
明日からはまた、退屈な講義とバイトの日々が始まる。
しかし、おれは知っていた。
古いセダンを走らせて街へ戻ったとしても、あの「戦場」を知る前の自分には、もう二度と戻れないということを。
お読みいただきありがとうございます。
これを書いている今、2025年が終わりそうです。
いかがお過ごしでしょうか。今はとにかく眠いです。
新年も皆様にとって良い年でありますように。
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スポーツカーはスポーツカーなんだもの




