第十五話 デス=ヴェイン
ローデン城の最上階へ続く螺旋階段は、まるで空気そのものが淀んでいるかのように重かった。
壁には亀裂が走り、どこからか焦げた匂いが漂っている。
カナタ、銀、マルタの三人が最上階へ踏み入れると――
空気が変わった。
広い執務室の中央。
禍々しい黒紋が床に刻まれ、腐った心臓のように脈動している。
その前で、領主ローデンは震えながら両手をこすり合わせていた。
白髪は乱れ、頬はこけ、目は血走っている。
まるで何日も眠れぬ獣のような呼吸。
カナタが部屋に足を踏み入れただけで、領主は肩を跳ね上げた。
「ひ……ひぃ……!
来たのか……! あれほど七騎士を向かわせたというのに……!」
銀が鋭い視線で室内を確認しながら答える。
「七騎士は全員、戦闘不能だ。あなたの支配は終わりだよ。」
領主は床を這うように後ずさり、黒紋の前へ追い込まれていく。
「ち、違う……私は……私は悪くない……!
あの方が…デスヴェイン様が…欲しがるのだ……供物を……!
従わねば、ローデンが飲まれる……!」
カナタが一歩進む。
「供物って……人だろ。」
領主は一瞬だけ、目を泳がせて黙った。
その沈黙こそが答えだった。
銀が静かに言う。
「ザルドの息子も……その犠牲になるはずだったんだね。」
領主の顔が崩れる。
恐怖、後悔、焦り、みっともない自己保身が混ざり合う。
「ち、違う……!
あれは仕方なかったのだ……!
デスヴェイン様の怒りを鎮めるには……生きた供物が必要なのだ……!
私は……私は……!」
マルタが小声で言う。
「この人……もう正気じゃない……」
カナタは静かに領主に歩み寄る。
「領主。お前が何を選んだか……全部見たよ。
民を捧げて、自分だけ助かろうとしてた。」
領主は怯えた目でカナタを見上げる。
「ち、違う……!
私はローデンを守るために……!」
ーバンッ!!
その声を遮るように、執務室の扉が乱暴に開いた。
「父上ぇ!!」
荒い息を吐きながら、領主の息子、ラフィークが姿を現した。
食堂で銀とカナタを襲った時と同じ、
血気と虚勢だけで形作られた無謀な瞳。
だが今は、その奥に“恐怖をごまかすための怒り”が混じっている。
ラフィークは剣を抜き、三人を睨めつけた。
「こんなクズ共にビビる必要なんてねぇよ!!」
マルタがひそかに息をのむ。
「あ……食堂で……」
銀は冷静に言う。
「やめろ。今は状況が違う」
だがラフィークは聞かない。
自分が強者だと思い込みたい。
父を守る自分が正義だと信じたい。
その未熟さと恐怖が、視界を曇らせていた。
「死ねぇッ!!!」
叫びとともに、カナタへ切りかかる。
カナタは動かない。
避ける必要がない速度だった。
その瞬間——
黒紋が脈動した。
ズ……ズズズ……ッ。
まるで床の下から“何か”が呼吸した。
黒紋の中心から、
人型とも獣ともつかぬ、輪郭の崩れた影が立ち上がった。
その存在を目にした瞬間――
精神の奥底を、冷たい刃物でなぞられたような感覚が走る。
領主は影を見た瞬間、顔をゆがめて崩れ落ちた。
「ひ……ひいいぃぃい……!!
ど、どうか……どうかお怒りを鎮め……!」
黒い靄がラフィークの足首に絡みつく。
「なっ……なんだよこれ……!離せッ!!」
ラフィークは必死に剣を振り下ろすが、靄は斬れない。
代わりに、影の中心がゆっくりと形を取り始めた。
マルタが震える声で呟く。
「異次元人だ……!」
床から立ち上がる災厄。
三つの裂け口が開き、底知れない闇を覗かせる。
ラフィークは恐怖で顔をゆがめた。
「父上っ!!助けて!!
俺を……俺を見捨てるなよ!!」
だが領主は壁際に崩れ、うわごとのように呟くだけだった。
「ひ……ひぃっ……来るな……来るなぁ……!」
デスヴェインの影が、ラフィークへ手のようなものを伸ばした。
触れた瞬間——
生命が剥ぎ取られた。
ラフィークの悲鳴は出ない。
声を上げる前に、喉の奥から生命の音そのものが吸い出される。
皮膚は灰色へ、
筋肉は干からび、
瞳の光はその場で消える。
まるで人を構成する情報が消されたように、
ラフィークはわずか一秒で骸となった。
乾いた布のように崩れ落ちる。
マルタが息を飲む。
「……生きてた痕跡すら感じない……」
領主はその亡骸を見た瞬間、喉を震わせた。
「お、お助けください…」
黒紋が、低い脈動音を放った。
ズズ……ズズズ……ッ。
黒い靄が吹き上がり、部屋の温度が一気に下がる。
影の形をした異次元存在は、
ゆらりと領主へ手を伸ばしたように見えた。
「ち……違う……違うんだ……!
私は……私はローデンを守るために……!」
だが、誰の耳にもその言葉は届かない。
自己保身で曇った男の最期の弁明は、
息子の死よりも軽い音だった。
触れた刹那。
領主の体が、しおれるように沈む。
皮膚が灰色に変色し、
目が窪み――
まるで数十年分の老化を一秒で迎えたかのように、
生命エネルギーが吸い尽くされていく。
カナタ以外の二人は息を飲んだ。
銀が呟く。
「……吸われた?
何かを……一瞬で。」
領主は最後に、
声にならない息だけを漏らし、
灰のように崩れ落ちた。
もはや形も残っていない。
異次元の影が、
ゆっくりとカナタたちへ顔らしきものを向けた。
正体不明の歪んだ圧が広がる。
マルタは背筋を凍らせながら言う。
「これ……さっきまでの騎士と違う……
ヤバい……!」
銀が短く答える。
「滅級だな。」
カナタは静かに言う。
「……領主のツケは、俺が払う。」
黒紋から立ち上がった異形は、
空気そのものをざらつかせるような音を撒き散らしていた。
近い。
のに、遠い。
現実の線がぐにゃりと歪む。
身長は2.5mほど。
黒曜石のような皮膚に、赤い脈光がくねる。
胸にぽっかり空いた穴は、
見ていると吸い込まれそうになるほど深かった。
縦に裂けた三つの口だけが、
生命の存在を嘲笑うように震えている。
背中の束状触手がゆらりと広がり、
部屋の温度がさらに落ちた。
カナタが一歩、前に出た。
銀とマルタは自然と後退する。
マルタが震え声で言う。
「これ……大丈夫なの……?
僕、ちょっと見るだけで……脳がざわざわする……」
異次元人『デス=ヴェイン』が三つの裂け口を開き、
空気を吸い込むように声を放つ。
カッ……カッ……カッ……
意味をなさない音なのに、
全身の毛穴が逆立つ。
直後——
床が消えた。
何も触れていないのに、
黒紋から外側へ向けて、
石床が粉のように吸い上げられていく。
銀が即座に判断した。
「外へ出る!
城の中でやったら……全部崩れる!!」
カナタは頷き、窓を蹴破った。
三人と巨大な影は、
そのまま城の外へ飛び出す。
外へ出た瞬間、
朝霧の中で、町が震えているのが分かった。
高速であちこちへ伸びる触手は、町の方へ向かい、触れた人間の生命エネルギーを吸収した。
デス=ヴェインの足が地面に触れるたび、
石畳が砂へと還り、粉塵の渦が上がる。
背中の束状触手が広がると——
その影から、異獣が次々に湧き出した。
人型でも獣型でもない、
骨と肉と影が混ざったような生物。
銀が青ざめた。
「まずい……
これは防がないと、町ごと潰される……!」
マルタは叫ぶ。
「僕は、住民の避難を……!!」
銀は頷き、鉄球を散開させる。
「異獣は俺達が引き受ける。
カナタは……あれを頼む。」
カナタは力強く言い切った。
「ああ。あいつは俺が倒す。」
ー異獣が町へ雪崩れ込む。
その瞬間、銀の鉄球が軌道を歪ませながら飛ぶ。
石壁を砕かず、住民を避けて、異獣だけを撃ち抜く。
だが異獣は普通ではない。
鉄球に潰されても、影のように形を変えて再生する。
銀が舌打ちした。
「厄介だな……!」
そこへ、マルタのコピーが次々に分裂しながら飛び込む。
「住民は僕が避難させる!
こいつらの相手は任せて!」
マルタのコピーが異獣に襲われ、
腕や足を食われても——
倒れた場所から新たなマルタが生え、また走り出す。
銀が少しだけ感心したように呟く。
「お前のDP……町を守るには最適だな。」
マルタは必死に笑う。
「僕、痛いけど……平気だから……!」
二人が町を全面で支え、
決戦の場は自然と城前の広場へ隔離されていった。
城前の広場で対峙した瞬間、
デス=ヴェインの背中の束状触手が大きく広がった。
その動きは風でも重力でも説明できない。
まるで空間そのもののが揺れているようだった。
次の瞬間、
胸の穴がかすかに脈打つ。
ズ……ッ。
空気が沈黙し——
轟音が世界を裂いた。
ドゴオオオォォォンッ!!!
広場を中心に、
見えない衝撃波が円状に炸裂する。
石畳は砕け、
建物の壁が音もなく横方向へ吹き飛んだ。
町の中心部まで届く凄まじい爆風。
近くの家屋が根こそぎ地面から剥がれ、空へ吸い上げられる。
遠方の住民が吹き飛ばされかけた瞬間——
銀の鉄球が高速で地面に突き刺さり、
足場を強制的に固定する。
銀が叫ぶ。
「衝撃波……この範囲……町全体が消えるぞ!」
マルタコピーが十体、二十体と生まれ、
住民を抱え、押し倒し、覆いかぶさり、
衝撃から庇う。
数秒後、
町の一角に砂埃の雲が巻き上がり、
地響きが遅れて届いた。
デス=ヴェインが、
まるで町の悲鳴に興味を示したかのように、
三つの裂口をゆっくりと開いた。
そして次の行動は……早かった。
束状触手が高く持ち上がり、
そこから無数の影の骨格が落ちてきた。
全身が黒い脈で貼り合わさった異獣が、
十体、二十体と連続して地面へ叩きつけられる。
落ちた瞬間、町の地震のような振動が走る。
銀が焦りを隠せず呟く。
「デスヴェイン本体の攻撃だけでも町が崩れるのに……
異獣まで同時に放つ気か……?」
その直後、
異獣たちの赤い目が一斉に開いた。
マルタが目を見開く。
「……全部、町の方を向いてる……!」
銀は即座に鉄球を飛ばし、
最も近い異獣を粉砕する。
銀の鉄球が連続して急所を突くが、
数が多く、全ての異獣を倒すことはできていない。
「銀、大丈夫……!?」
マルタコピーが肉体で異獣に衝突し、
粉々にされながらも次々と足止めに入る。
「町に被害を出すわけにはいかない……!」
銀は歯を食いしばって叫んだ。
その時だった。
デスヴェインが——
広場にいるカナタへ向けて、胸の穴を大きく開いた。
広場がえぐられ、
地面と瓦礫と空気が渦状に捻じれて吸い上げられた。
町の遠くで建物が傾き、
荷馬車が宙に浮き、
地を走る馬が悲鳴を上げながら浮き上がる。
マルタが絶叫する。
「カナタが吸い込まれる!!」
銀が声を張る。
「カナタ!! 早く逃げろ!!」
しかし。
広場の中心、
吸い上げられる空間の縁に立ちながら——
カナタは、逃げなかった。
静かに拳を握りしめた。
白と黒の混ざる髪が、
逆流する風にまっすぐなびく。
カナタは、胸の消失孔の正面へ踏み込む。
空間がひび割れ始める。
世界が吸い込まれる音がする。
しかし、カナタは止まらない。
「俺は、もう普通じゃないんだよ。」
次の瞬間——
カナタは拳で吸引の中心を殴った。
ズバァァアアンッ!!
空間の皺が逆流し、
音も光も一瞬止まったような衝撃。
デスヴェインの身体が大きく仰け反り、
赤い脈光が胸から背まで奔る。
触手が痙攣するように波打ち、
町に溢れる異獣達の動きが一瞬止まった。
銀が驚愕する。
「ここまで強くなっているのか…!」
マルタは息を呑んだ。
「カナタ……身体能力だけで……?」
カナタは姿勢を正し、
ゆっくりとデスヴェインに向き直る。
デスヴェインが再び三つの裂け口を大きく広げた。
その中心から赤黒い脈光が激しく明滅し、
世界の外側から風が流れ込むような音が響く。
触手の束が逆立ち、
空間そのものが悲鳴を上げているかのようだった。
だが——
カナタはすでに動いていた。
足元の石畳が爆ぜる。
残像を残したまま一直線に加速し、
デスヴェインの懐へ踏み込む。
デスヴェインが反応し、胸の穴をさらに開く。
吸引が強まり、カナタの体がブレるほどの歪みが発生する。
空気が裂けた。
それでもカナタは前へ進んだ。
銀が叫ぶ。
「カナタ! 吸われるぞ!!」
マルタのコピーたちも震えながら叫ぶ。
「カナタ、危ない!!」
しかしカナタは迷わない。
その眼はただ前だけを見ていた。
「終わりだ。」
地面を蹴った瞬間、
カナタの身体が光のように跳ぶ。
次の瞬間——
ドゴオオオオオッッ!!!
カナタの蹴りが、
デスヴェインの胸の穴の縁を捉えた。
命の脈動を吸い込む一点。
そこへ純粋な物理と膨大なエネルギーを叩き込む。
衝撃が世界を割った。
爆風が周囲を吹き抜け、煙が舞い散る。
異次元人の裂け口がひしゃげ、
黒曜石の皮膚に巨大な亀裂が走る。
背中の触手が爆ぜるように千切れ飛び、
異獣たちが霧散する。
デスヴェインが歪んだ音を漏らした瞬間——
胸の穴が内側から破裂した。
空気と光が逆流し、
黒い身体が砂のように崩れていき、
赤い脈光がふっと消えた。
最後に残ったのは黒い灰の束だけ。
それすら風に流されて消えた。
銀が呟く。
「…消滅したな。」
マルタがへたり込んで笑う。
「カナタ……倒したんだ……」
カナタは肩で息をしながら、
消えゆく灰の跡を見つめた。
「……異次元のやつらに、人類を好きなようにはさせない。」
町にはまだ煙と砂埃が舞っていたが、
人々の悲鳴はもう聞こえなかった。
銀とマルタが近づき、
三人はしばらく黙って崩壊した町を見下ろした。




