第九話 森
三人は再び歩き出す。
夜の風が肌を刺し、木々の間を低く這うような“気配”が、背後からまとわりつく。
木の幹は呼吸するように膨張と収縮を繰り返し、
地面の苔は触れた瞬間に弱い電気のような刺激を走らせた。
そして——最初の危険が現れた。
地面の亀裂から、細長い根が鞭のように飛び出す。
しなやかな動きでマルタのコピーの足を絡め取り、そのまま引きずり込もうとした。
「う、わっ……!?」
マルタがそのまま地面へ引き倒される——
が、その前に銀の銀球が音もなく動いた。
シュッ。
銀球が根を輪切りにし、無造作に落とす。
切られた根は痙攣しながら地面へ消えていった。
「大丈夫か?」
銀はこともなげに尋ねる。
マルタは服についた土を払いながら苦笑する。
「うん。これ、前の僕なら一発アウトだね……。」
森の奥へ進むほど、霧が濃くなっていく。
薄紫色の霧は粘ついた光を放ち、吸えば確実に命を落とす毒性があった。
銀が短く言う。
「……毒霧地帯だ。」
マルタが慌てる。
「え、これ……吸ったら危ないんじゃ……!」
だがカナタは淡々と歩く。
霧に触れても、吸い込んでも、まったく表情が変わらない。
「俺は平気だ。」
銀が視線で理由を問うと、カナタは当たり前のように言った。
「プラズマホールに身体を補正された。
有機的な細胞は残っていない。
毒は効かないし、酸素は……必要ないみたいだ。」
マルタが呆れたような目でカナタを見た。
「……カナタ、人間やめてない?」
「弱点が減るのは好都合だよ。」
毒霧はカナタの周囲だけ、熱の乱流のように押しのけられ、
その後を銀とマルタが歩いてついていった。
毒霧地帯を抜けると、
森の影がざわりと波打った。
次の瞬間、黒い影が木々の間から一斉に飛び出してきた。
形は狼に近いはずなのに、輪郭が定まらず、
煙と肉体のあいだを揺らぐように形を変えている。
頭部には上下に二つの口。
開いたその裂け目は、
肉ではなく空間そのものが千切れているようだった。
その口が触れるだけで、肉体が削り取られる——
そんな嫌な直感が、背筋を冷たく撫でる。
影を纏った異獣の一体がマルタのコピーへ躍りかかる。
速い。視線が追いつく前に、肩へ噛みついた。
ズボッ。
噛むというより、
肩そのものが“装飾品を外すように”なくなった。
「うわあっっ!!」
マルタは尻もちをつき、
肩のあった部分から血も出ず、ただ“ぽっかりと穴”が空いていた。
しかし——
消えた部分の縁が、
じわり、と粘膜のように盛り上がる。
細胞が蠢き、肉が編まれ、骨格の影が浮かび上がり、
みるみるうちに肩の形を取り戻していく。
「危な……!」
完全に元通りになるまでの数秒間、
マルタの顔は真っ青だった。
狼のような異獣たちは息を潜めるように周囲を囲み、
その裂けた口から低い唸り音を響かせていた。
カナタは怯む様子もなく、静かに前へ進んだ。
そして——一歩。
ズン。
踏み込みの瞬間、地面がたわみ、周囲の異獣が全て衝撃波で吹き飛ぶ。
触れる前に圧で粉砕された個体もいる。
銀が短く呟く。
「……やるな。」
カナタは表情を変えず、そのまま足についた黒い残骸を振り落とした。
やがて、ねじれた木々が少しずつ減り、
異界の霧も薄まり始めた。
三人が森を抜けると、夜の中にぼんやりと灯りが見えてきた。
古い石造りの壁が、月明かりを浴びて鈍く光っていた。
表面には積み上げた年代の刻みが深く残り、
外敵を拒むようにどっしりと立っている。
その中央に構えられた木製の門は、
太い鉄の補強材で固められ、古いのに力強い存在感を放っていた。
見上げれば、門の奥にそびえる塔の上で
カスターナの国旗と、領主のエンブレムが二本の槍のように翻っている。
銀が静かに言った。
「……カスターナ地方都市、“ローデン”だ。」
マルタのコピーはほっと息をつく。
「やっと……普通の場所に出たね……!
やっぱり、ガリアとは全然違う街並みだ。」
カナタは遠くの城館を見つめながら言った。
「ここから先は……人間の領地だ。
交渉も、警戒も必要になる。」
森での危険などなかったかのように、三人は歩き続ける。
人類連合への旅は、確実に前へ進んでいた。




