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第8話 ふたりの影が触れた瞬間

 世界が戻り始めた海辺。

 風は柔らかく、波は静かに寄せる。


 ユナは、まるで何度も抱きしめられることを待っていたように

 リオの腕の中で、そっと目を閉じた。


 「リオ……」

 「ユナ……」


 触れた額。

 触れそうで触れない唇。

 百年分の渇望が、胸の奥で震えていた。


 しかし――


 “ピシッ”


 リオの胸の中で、かすかな音がした。


 ユナがはっと顔を上げる。


「いま……なに?」


 リオは答えない。

 答えられない。


 胸の中心に、氷の針のような痛み。


 そしてその痛みは“金色の光”として滲み出し、

 胸元の皮膚の下で細い亀裂となって走った。


「っ……!」


 リオは無意識に胸を押さえる。


 亀裂――

 それは、ユナを取り戻すために“支払われた代償”だった。


 ユナが恐る恐る近づき、


 「リオ……その光……どうして?」


 震える手を伸ばす。


 触れた刹那。


 リオの身体が一瞬透明になった。


「――!!」


 ユナは凍りつく。


 リオの足元の影が、風で薄く剥がされるように揺れた。




 背後で波が逆流するように崩れた。

 海が、空へ逆巻いていく。


 世界が震える。


 “ユナが戻ったこと”で、何かが壊れはじめた。


 ユナは涙のにじむ目で、リオを必死に見つめた。


「なんで……なんでリオが消えそうなの……?

 戻ったのは……私じゃないの……?」


 リオは唇を噛み、ゆっくり首を振る。


 「ユナを……戻す代わりに……

  俺の“存在の糸”が……削られたらしい……」


 波が空へ吸い込まれる。

 空は海の深みを映し無音で回転する。


 ユナの瞳が大きく揺れた。


「……そんなのいや……!! 

 私のせいで……リオが……消えるなんて……!」


 ユナが抱きつこうとした。


 その瞬間。


 リオの影が風に裂かれ、

 海辺に“半分だけの影”が残った。


「リオ!!」


 ユナは崩れ落ちた。


 リオは震える手で彼女に触れようとする。

 だが──


 ふたりの指先が触れ合う直前に、

 ユナの涙が一粒、宙に浮いた。


 その涙は光に変わり、ゆっくりリオの胸へ落ちていく。


 “じりり……”


 涙の光はリオの胸の亀裂に吸い込まれ、

 そこから黒い影の煙が溶け出していった。


 ユナの表情が恐怖で歪む。


「リオの……記憶が……消えてる……」


 その言葉に、リオの目が大きく揺れた。




 頭の奥が、白く染まっていく。


 ユナと波打ち際で笑った日。

 一緒に走った海辺の夕日。

 泣きながら交わした約束。


 ひとつ、またひとつ――

 白いノイズの中へ溶けていく。


 ユナが泣き叫ぶ。


「だめ!!

 リオ!! 思い出して!!

 私だよ!! ユナだよ!!

 なんで……なんで忘れちゃうの……!!」


 リオの視界の端が砂のように崩れ、

 ユナの泣き顔も輪郭を失っていく。


 それでも。


 リオは、最後の力でユナの頬に触れた。


 指先はふるえ、透明になりかけている。


「ユナ……泣くな……

 ……笑って……ほしい……」


 ユナの心臓が裂ける。


「笑えないよ!!

 リオがいなくなるのに……

 笑えるわけない……!!」


 世界が悲鳴をあげるように揺れた。


 ユナがリオの胸に飛び込む。


「お願い……お願いだから……

 行かないで……!!

 私をまたひとりにしないで……!!」


 リオの影が、砂浜にふっと消える。


 ユナの手の中から、

 リオの体温が抜け落ちていく。


 リオの声が、ユナの耳の奥で小さく囁いた。


『ユナ……

 好きだったよ……ずっと……』


 そして──


 “ぱん”と軽い音を残して、

 リオはユナの腕の中から消えた。


 海辺には、

 ユナひとりだけが残された。


 砂浜に落ちた“金色の亀裂の欠片”だけが、

 かすかに光っていた。




 ユナは砂浜に倒れ込んだ。


 胸の奥から、嗚咽が漏れる。

 押し殺しても、抑えても止まらない。


 「リオ……

  いやだ……戻ってきてよ……

  また一緒に……

  海を……」


 波がそっとユナの指先を濡らした。

 まるで、リオの指が届かない場所から

 “触れようとしている”みたいに。


 ユナは、海に顔を伏せて泣き続けた。

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